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『囚われの山』|第一章(六)

『囚われの山』|プロローグ(一)はこちらから

それは、軍の人体実験だったのかー。

世界登山史上最大級、百九十九人の犠牲者を出した

八甲田雪中行軍遭難事件。

百二十年前の痛ましき大事件に、歴史雑誌編集者の男が疑問を抱いた。

すべての鍵を握るのは、白い闇に消えた、もうひとりの兵士。

男は取り憑かれたように、八甲田へ向かうー。

歴史作家・伊東潤が未曾有の大惨事を題材に挑んだ渾身の長編ミステリー『囚われの山』の試し読みをnoteにて限定集中連載します。

第一章 あてどなき行軍



 ──この事件の謎を、どうやって見つけたらいいんだ。
『死に山』を読んでいて気づいたのだが、多くの謎はじっくり検討していけば、すべて解明できる。だが「なぜ九人全員がテント内でパニックを起こし、命綱に等しいテントを破って外に飛び出し、軽装で一キロ半も走ったのか」という謎だけが解明できないのだ。
 菅原は八甲田山遭難事件について書かれた手持ちの本をひっくり返し、ネットも検索した。しかし謎らしい謎は出てこない。どの資料も「遭難の原因は、冬の八甲田山を侮っていた」ことに尽きるという。
 ──やはり俺には無理だ。
 菅原は、なぜこんな話を引き受けてしまったのか後悔した。結局、取るに足りない謎を、さも大きな謎のように取り上げることになるのだ。
 桐野の蔑むような視線と、薄井の落胆ぶりが目に浮かぶ。

 ──会社を辞めるか。
 一瞬、そんな考えが脳裏をよぎる。
 ──そもそも俺はこんな仕事をしたくて、今の会社に入ったわけじゃない。
 菅原は、一流と呼んでもいい私立大学を出て新聞記者を目指した。だが入社試験を受けた全国紙は軒並み不合格となり、唯一合格した「北洋出版」に入社せざるを得なかった。
 ──最初の挫折はそこからだ。
 五大紙の一つで華々しく政治経済分野の記者となるはずだった菅原の夢は挫かれ、業界三位の夕刊紙で芸能ネタや風俗ネタを拾うことから始めねばならなかった。

 それでも最初の配属が「夕刊太陽」だったのは幸いだった。先輩記者から怒鳴られながらも、記者としての仕事を覚えることができたからだ。ところが折からの歴史ブームもあり、社長の発案で歴史雑誌を創刊することになった。それが「歴史サーチ」である。その創刊メンバーに菅原も選ばれたのだ。
 歴史は嫌いではない菅原だが、司馬遼太郎の歴史小説を読むくらいが関の山で、趣味でも歴史を深く勉強したことはない。
 それでも菅原は懸命に働いた。その点で悔いはないが、売り上げ部数がついてこない。結局、一年で編集長は更迭され、菅原は罰を受けるかのように編集部員の座にとどめ置かれた。
 ──やはり、素志を貫徹すべきだったのか。

 茨城県の水戸が故郷の菅原は、幕末に全滅した尊皇攘夷志士たちの軍団・水戸天狗党が旗印に掲げた「素志貫徹」という言葉が好きだった。
 ──それとも、もう手遅れなのか。
 三十七歳の菅原にとって、キャリアチェンジを図るなら早いに越したことはない。政治経済分野の記者は、コネクション作りに時間が掛かる。今から将来性のありそうな若手議員、政治経済学者、評論家たちと懇意にしておかないと、先に行ってから苦しくなる。
 ──だが、会社を辞めたところで行き場はない。

 どうしても政治経済専門の記者になりたければ、その手の専門誌の記者や編集者という道もある。しかしどこも経営は厳しく、今いる会社の三分の二から半分の給与に甘んじねばならない。
 ──だが、会社にしがみついて一生を棒に振ってしまってもいいのか。
 菅原は妻と別居生活を始めたばかりで、このまま行けば離婚という流れになる。
 ──そうなれば、好き勝手なことをして生きられる身分だが、その先に待っているのは、孤独な老後かもしれない。

 菅原とて、新しいパートナーを見つけて人並みに幸せな生活を送りたいと思っている。そのためには、名の通った会社で恥ずかしくない年収を得ている方が有利だ。
 ──このまま、どっちつかずの人生を続けるしかないのか。
 社会に出てから十五年、知らずしらず身動きの取れない状態に陥ってしまっていたことを、菅原は認めざるを得なかった。
 ──シャワーでも浴びるか。
 そう思ってタオルを出そうとタンスを探ると、引き出しの中がスカスカになっているのに気づいた。
 ──まさか、来たのか! 
 菅原は衝動的に携帯電話を手にすると、妻に電話した。

「ああ、あなたね。何の用」
「こんな遅くにすまないね」
 菅原は皮肉を言ったつもりだったが、妻は疲れたような声で問うてきた。
「用件は何なの」
「今日、こっちに来たのか」
 一瞬、沈黙した後、妻が答えた。
「行ったわ」
「何のために」
「分かっているでしょう。先週慌てて飛び出したから、あまり荷物を持ち出せなかったのよ」

「それなら、まず俺に電話すべきだろう」
「そんなことしたら、あなたは忙しいから、立ち会うのがいつになるか分からないでしょう」
 そんな電話が掛かってきたら、「必要なものがあったら、取りに来ないで買え!」と怒鳴りつけるに違いない。
「不便を承知で実家に帰ったんだろう」
「持ってきたのは、すべて私のものだけよ」
「そういうことを言ってるんじゃない。俺のいない間にここに来て、タンスを探られるのが嫌なんだ」
「どうしてよ。私の所有物もあるのよ」
 相変わらず妻との会話は噛み合わない。

「君は、もう出ていったんだろう」
「じゃ、離婚してもいいの。『やり直すために冷却期間を置こう』と言ったのは、あなたの方でしょう」
 唐突に別居を言い出された菅原は、こうした場合の常套句を言っただけだ。
 ──俺に未練があるっていうのか。
 それが全くないのは、菅原自身がよく知っている。
「じゃ、離婚するか」
「本気なの」
「ああ、本気だ。だからもう、ここには来ないでくれ」
 そこまで言ったところで、電話は切れた。

 ──これでおしまいか。
 妻とは学生時代に知り合って付き合いが始まり、五年ほど前に結婚した。当初は気心が知れているので、うまくやっていけると思った。
 ところが妻には浪費癖があり、そのことで何度もぶつかった。妻は実家が裕福だったことから、専業主婦にもかかわらず、金があれば使った。貯金などは一切考えない。金は常にあるものと思っているのだ。
 それを知ったのは、結婚して半年ほど過ぎた頃だった。それを菅原が指摘しても、妻は「分かったわ」と言いながら、いっこうに生活態度を変えなかった。

 それだけならまだしも、妻は家事が嫌いで料理を作ることもない。スーパーで買った総菜を並べるならましな方で、店屋物やピザを取ることを好んだ。
 そうしたことが重なり、何度もぶつかった。
 そこから分かったのは、妻の常識は菅原にとって非常識ということだ。こればかりは子どもの頃から染み付いているので、折り合いをつけていくのは難しい。

 それでも菅原は堪えていたが、二カ月ほど前、結婚した時に始めた菅原名義の定期預金を、妻が菅原に無断で解約していたことを知った。それを問い詰めると、「生活費が足りない」と返してきた。それでつい手が出た。それがきっかけとなって妻は実家に帰っていった。
 ──もはや関係の修復などあり得ない。
 妻が去ってから、菅原は離婚に傾斜していく自分を感じていた。
 ──とにかく俺は、この状況から抜け出したいんだ。
 大学を卒業してから十五年が経ち、あらゆるものをリセットして再出発を図りたいという強い思いに、菅原は囚われていた。
 その時、携帯が鳴った。

(続きは本編でお楽しみください)

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