信長の家臣団統制 【歴史奉行通信】第八十四号

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こんばんは。伊東潤です。

今夜も、歴史奉行通信 第八十四号をお届けします。


〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1. はじめに

2. 「信長の家臣団統制」ー
勃興期の信長家臣団

3. 「信長の家臣団統制」ー
最盛期の信長家臣団

4. 「信長の家臣団統制」ー
信長という男

5. おわりに / Q&Aコーナー / 感想のお願い

6. お知らせ奉行通信
新刊情報 / 読書会情報 / ラジオ出演情報


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1. はじめに

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コロナ禍はまだ続いていますが、伊豆や房総半島南端部からは春の息吹が伝えられ始めました。
私の場合、筋金入りの花粉症患者なので春は怖いのですが、それでも春の息吹を感じると、無性に旅に出たくなりますね。

さて今回は、大河ドラマ『麒麟がくる』も終わったばかりということで、
皆さんの関心も高いと思われる織田信長と家臣団について語っていきたいと思っています。

信長と光秀については
「信長の見た夢と光秀の見ていた現実」と題して2020年1月15日発行の第58回で、
「明智光秀と山崎の戦い」は同年6月3日発行の第67回で、すでに書いていますので、
ご興味のある方はバックナンバーをお読み下さい。 

第58回「信長の見た夢と光秀の見ていた現実」
http://fcew36.asp.cuenote.jp/c/czuJaaxjn23J4DbE

第67回「明智光秀と山崎の戦い」
http://fcew36.asp.cuenote.jp/c/czuJaaxjn23J4DbF


それでは本編に入りたいと思います。
なお本論考は2018年に某雑誌の依頼によって書いたものです。

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2. 「信長の家臣団統制」ー
勃興期の信長家臣団

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■勃興期の信長家臣団

室町時代、越前国の守護職を務めていた斯波氏が尾張・遠江両国の守護も任されることになり、
家臣の織田氏も守護代に任命され、尾張国に移ってくる。
これが、織田一族が尾張国に根を張っていく端緒となる。

ちなみに織田という姓は本拠だった越前国織田荘に由来する。

やがてその勢力は、尾張国上四郡を治めた岩倉織田氏と下四郡を治めた清須織田氏に二分されていった。
その清須織田氏の三奉行のうちの一つが、信長の祖父にあたる信定の系統、いわゆる弾正忠家になる。
そして信長の父信秀の時代に伊勢湾交易網を掌握することで、弾正忠家の台頭が始まる。

しかし信秀時代の家臣団や家中統制に関する史料はほとんど残っておらず、
わずかに林・平手・青山・内藤の四人が、宿老として信秀を支えていたことが分かるくらいだ。

信秀は清須織田氏の軍事部門を担っていたようで、
清須織田氏傘下の国衆を率い、本拠の古渡城から30km以上も離れた三河国の安城城や、さらに離れた美濃国の大垣城で戦っている。
こうした遠征を通じて、信秀は共に戦う国人たちを非公式な「一揆(国人連合)」としてまとめ、彼らとの間に人格的主従関係を築いていったらしい。
共に戦った者たちの結束が強いのは、昔も今も変わらない。

ところが天文二十一年(1552)、信秀は戦国大名化の途次で亡くなり(享年四十二)、弾正忠家は信長の代になる。

信秀の死が周辺諸国に伝わると、早速、国境の国人が寝返り、長年の宿敵である今川勢が侵攻してきた。
これに敢然と立ち向かった信長は、今川勢の尾張侵攻を押しとどめた(赤塚の戦い)。

こうした代替わりの緒戦は大切で、新たな領主や一揆の盟主が「頼うだる人(頼み甲斐のある人)」かどうかが試される。
つまり信長は、この戦いを通じて家臣団や尾張国人たちの信頼を勝ち取ることに成功した。

天文二十三年(1554)の村木砦の戦いでは、信長股肱の若武者たちが次々と城に取り付き、死人や手負い数知れずという状況に陥った。
この時、信長は陣頭で指揮を執り、自ら鉄砲を撃ち続け、最終的には砦の奪取に成功した。

こうした力攻めは犠牲者の数が多くなるので、家臣たちからは嫌がられる。
それでも信長は無類のリーダーシップを発揮し、家臣たちを死地へと駆り立てていった。

ここから分かることは、信長の周辺には死をも厭わぬ若者たちが数多くいたことだ。
これは信長が、早くから子飼いの家臣(大半は国人の次三男)を養成していたことの証しになる。

また信長は陣頭指揮を執っただけでなく自ら鉄砲を撃つまでした上、
戦後、殊勲を挙げた者たちの名を皆の前で読み上げ、その武勲を称揚している。
むろん討ち死にした者の縁者には、相応の恩賞が下されたのだろう。
どうすれば家臣の心を摑み、士気を高めていけるかを、信長はよく知っていた。


弘治二年(1556)、同盟していた斎藤道三が息子の義龍に殺されることで、信長は同盟関係にあった美濃国の斎藤氏を敵に回すことになった。
すでに今川氏と敵対していた信長は、これで二つの大国を敵に回すことになる。
しかしこの頃の織田家には、二面作戦を取れるほどの余力はなく、この方針に反対する家臣もいた。

とくに弟の信行(信勝)を担いだ林秀貞や柴田勝家らは、信長に敢然と反旗を翻した。
だが信長はこれを実力で鎮圧する(稲生の戦い)。
この戦いで、信長は一千七百対七百という劣勢にありながら、親衛隊(馬廻衆)が突撃を繰り返して一気に勝敗を決した。

この時、信長自ら林秀貞の弟の林美作を組み伏せて首を取ったと伝わるが、あながち偽りとは思えない。
また戦後、下人でも顕著な活躍を示した者は士分に取り立てている。
ここでも信長は率先垂範と分け隔てない褒賞を怠らなかった。

これを境に家中の反乱はなくなり、信長が領土拡張戦に突き進む土壌は整った。


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3. 「信長の家臣団統制」ー
最盛期の信長家臣団

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■最盛期の信長家臣団

永禄三年(1560)、遂に信長は桶狭間で今川方に大勝する。
この戦いの勝因は、信長の馬廻衆の士気の高さと機動力に尽きるだろう。

この時、信長は清須城から自ら先頭を切って駆け出したとされるが、
永禄十二年(1569)の将軍義昭救援、天正元年(1573)の浅井攻め、同四年(1576)の摂津天王寺救援でも、信長は先頭で駆け出している。
むろん短慮からではなく、そこには自らが率先垂範することで、家臣たちを奮起させようという狙いがある。

その後、斎藤義龍を破って美濃国を掌握した信長は、南近江の六角承禎を蹴散らし、足利義昭を奉じて上洛を果たす。

すでにこの頃から、信長は明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益といった外様家臣でも、実力次第で重用する抜擢人事を始めていた。
この時代、大名が世襲制なのと同じく、宿老たちも当然のように世襲されていた。
だが信長だけは実力主義を貫き、それが後年の織田家の躍進につながっていく。

永禄十一年(1568)の上洛後も、信長には、敦賀攻め、姉川の戦い、小谷城攻め、三好三人衆との戦い、石山本願寺攻めと合戦が続いた。
この頃の信長に最も衝撃を与えたのは、妹を嫁がせて義弟にした浅井長政の離反だろう。
その理由は様々に論じられているが、少なくとも長政が、信長に対して何らかの不満や不安を抱いていたのは間違いない。

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