『囚われの山』|プロローグ(二)
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それは、軍の人体実験だったのかー。
世界登山史上最大級、百九十九人の犠牲者を出した
八甲田雪中行軍遭難事件。
百二十年前の痛ましき大事件に、歴史雑誌編集者の男が疑問を抱いた。
すべての鍵を握るのは、白い闇に消えた、もうひとりの兵士。
男は取り憑かれたように、八甲田へ向かうー。
歴史作家・伊東潤が未曾有の大惨事を題材に挑んだ渾身の長編ミステリー『囚われの山』の試し読みをnoteにて限定集中連載します。
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プロローグ(二)
稲田の本籍は岩手県だったが、青森県の法量で育ったので、冬の八甲田の怖さは嫌になるほど聞かされて育った。それゆえ仲間に口を酸っぱくして「八甲田を馬鹿にすんな」と言ってきたが、皆は話半分で聞いていた。
その時、手足が熱くなってきていることに気づいた。
──ありゃ、こりゃいぐね。
少し前まで冷たくて仕方のなかった手足は、指先に火がついたように火照ってきている。
かつて爺様から、凍え死に(低体温症)の末期には、手足が先端部から熱くなってくると聞いたことがある。体温が変調を来し、冷たいという感覚が熱いに変わってしまうのだ。
──それでも我慢しねば。煮だった湯さ手ば突っ込むよに熱くても、手袋さ取れば終いだ。
──ありゃ、どやすたんだべ。
続いて純白のはずの雪の色が砂の色に見えてきた。
──眼さおがしぐなっだが。
視覚が色彩感覚を失い始めるのも凍え死にの症状の一つだと、爺様から聞いたことがある。
──化物見えだら、お陀仏だ。庸三、すっかりすろ!
石のような手で己の頬を殴ったが、頬の感覚さえなくなってきている。
──爺様、まだ化物見えでねすけだいじょぶだ。
木々が人に見えたり、何かが語り掛けたりは、まだしてこない。こうした幻覚が表れてきたら、凍え死には間近になる。
稲田は左手にあるはずの駒込川の水音に耳を澄ませた。積雪が凄まじくて川面は全く見えないが、川音だけはまだしている。
──田代の湯は駒込川の上流だ。
稲田はそれ以外のことを知らなかった。法量は八甲田山南麓の村で、ちょうど今いる反対側にあたる八甲田山の南側になる。今年二十になる稲田は入営して二年に満たず、八甲田山に北側から踏み入ったのは、今回が初めてだった。
幼い頃、爺様か村の誰かが「北から八甲田さ入ったら、駒込川の上流さ行げ。へば田代の湯さ着げる」と言っていたのを小耳に挟んだことがあった。今では、それだけが命綱だ。
──腹へったな。
懐に餅はあるが、それを食べるには手袋を外さねばならない。それはあまりに危険だ。しかも肌衣が凍ってきている状態では、体温で温めているはずの餅も、カチンカチンになっているに違いない
──も少すけっぱるべ。
稲田はそう自分に言い聞かせて歩き出したが、視界が一段と悪くなったような気がする。
──ありゃ、日が暮れできた。
周囲が少し暗くなったように感じられる。単に視覚機能が衰えてきただけかもしれないが、記憶をさかのぼると、午後四時を過ぎているのかもしれない。
──ちゃっちゃど(さっさと)行がねば。
その時、突風が吹いてきた。ちょうど雪が浅い場所にいたため、稲田は吹き飛ばされた。
「うわー」
何回転かしてようやく止まったが、吹き溜まりに落ち込んだのか、雪が深くて起き上がれない。
──死にたぐね!
焦れば焦るほど吹き溜まりにはまっていく。
──誰か助けでけろ。
その時、脳裏で爺様の声がした。
「庸三、せぐな(焦るな)」
──んだ。せげば終いだ。
稲田は呼吸を整えると、銃を支えにしてゆっくりと立ち上がり、もがくようにして吹き溜まりを脱した。
──あと、どんぐらい歩けるべが。
もはや足は棒のように固くなり、先ほどまで振り回せた腕の可動範囲も狭くなっている。
転倒したことで、急速に体力を失ったのだ。
ふらつく体を支えきれず、稲田は膝をついた。このまま立てなければ、それで終わりだ。
──こごで終いにするわげにはいがね!
全力で立ち上がった稲田は、怒ったように左右の腕を振り回し、雪をかき分けた。
命の灯が消えかかっているのに抗うように、稲田は遮二無二前進した。その時、足が空をかいた。
「あっ」と思った次の瞬間、稲田は転げ落ちた。
気づくと、稲田は小さな谷に落ちていた。
どうやら小川が駒込川に流れ込んでいる場所らしい。
全身はずぶ濡れになり、忘れていた寒気が押し寄せてきた。
──ああ、すばれるな。
故郷の母の顔が目に浮かぶ。母は「庸三、寒ぐねが」と言いながら、自分の布団を掛けてくれた。「へば、母っちゃが寒くなるべ」と言うと、「母っちゃはでえじょぶだ。庸三がぬぐいば、かっちゃもぬぐい」と言って笑っていた。
──かっちゃさ会いでな。
山一つ向こうの故郷にいる父も母も、稲田が生きるか死ぬかの瀬戸際にいるなどとは思いもしないだろう。
──おら、法量さけえる!
そのためには、この苦境を何とか脱せねばならない。
「よし」と気合を入れて立ち上がろうとした時だった。
──すまった。鉄砲なぐすた。
その時、手に銃がないのに気づいた。兵卒にとって天皇陛下からの預かり物の銃は、命よりも大切なものだ。
慌てて左右を探したが、すでに周囲は暗くなってきており、見つからない。
──ああ、大変なごどばやってすまった。
稲田は天を仰いだ。
──死んでお詫びするすかねえ。
絶望感が込み上げてくる。これまで銃は邪魔なだけの存在だったが、なくしたことで逆に闘志が失われてしまった。
死を覚悟した稲田は、何となく前方を眺めた。
その時だった。視線の端に雪以外の何かが捉えられた。稲田はぼやけた視点を合わせるようにして、それが何かを突き止めようとした。
──あ、ありゃ、もすかすて!
ぼやけた視線の先に、暖かそうな灯りが見えた。
稲田はもう一度凝視したが、それは間違いなく灯りだった。
──一つ、二つ、三つ、
しかもそれは一つではなく、いくつにも分かれているのだ。
──田代だ。田代さ着いだ! 父っちゃ、母っちゃ、庸三は助かりました。皆のどごさ帰えります!
胸底から歓喜の波が押し寄せてきた。
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(明日に続く)