「毛利元就と厳島の戦い」第七十五号【歴史奉行通信】
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こんばんは。伊東潤です。
たいへん過ごしやすい季節になってきました。
皆さん、いかがお過ごしですか。
私は自宅で仕事をして、午後からジムに水泳に行くというパターンの日々が続いています。
それで楽しくないかというと、
決してそんなことはなく、
コロナ禍によって変わった日常に適応して、快適な日々を過ごしています。
9月のトピックとしては、9/20~21に行われた「出張お城EXPO」に行ってきたことですね。
このイベントは琵琶湖畔の大津で行われたのですが、私は「賤ケ岳合戦と玄蕃尾城」という講演をしてきました。
その時に琵琶湖畔を歩いたのですが、
天気もよくて、実に気持ちがよかったです。
さて今回は、『合戦で読む戦国史 野戦十二番勝負』の第4弾として、
「毛利元就と厳島の戦い」(短縮版)
をお届けしましょう。
風光明媚な広島湾に浮かぶ厳島(現・宮島)で戦われた凄惨な殲滅戦の有様を再現しました。
〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓
1. 【毛利元就と厳島の戦い】
奇襲戦の要諦 / 厳島とは / 元就の布石
2. 【毛利元就と厳島の戦い】
厳島の戦い / 勝因と敗因
3. おわりに / Q&Aコーナー / 感想のお願い
4. お知らせ奉行通信
新刊情報 / オンラインイベント情報 / その他
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1. 【毛利元就と厳島の戦い】
奇襲戦の要諦 / 厳島とは / 元就の布石
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■奇襲戦の要諦
江戸時代の歴史家・頼山陽の『日本外史』によると、戦国時代の三大奇襲戦は、
天文十五年(一五四六)四月の「河越城の戦い」、
弘治元年(一五五五)十月の「厳島の戦い」、
そして永禄三年(一五六〇)五月の「桶狭間の戦い」だという。
しかし最近の定説では、
「河越城の戦い」は何回かの戦いの集積とされ、
「桶狭間の戦い」は奇襲ではなく強襲とされる。
つまり正真正銘の奇襲戦は、
「厳島の戦い」だけというのだ。
そもそも奇襲戦とは、
「敵の予期しない時期・場所・方法により、
組織的な攻撃を加えることにより、
敵を混乱させ、
反撃の猶予を与えないこと」だ。
その点から考えても、敵に存在を知られている
「河越城の戦い」は奇襲とは言い難く、
また正面強襲説が定説化しつつある
「桶狭間の戦い」も同様だろう。
それにひきかえ「厳島の戦い」だけは、
奇襲の定義が見事に当てはまる。
しかも敵将(陶晴賢を討ち取る)という大金星を挙げているので、
この戦いの価値は、なおさら高まる。
今回は勝者である毛利元就の作戦計画から、
奇襲戦を成功させる要素はどこにあるかを探っていきたいと思う。
■厳島とは
宮城県の松島や京都府の天橋立と共に
「日本三景」の一つに数えられる厳島は、
広島湾の西部に位置し、
本州からわずか一・八キロメートルの沖合に浮かぶ南北十キロメートル、
東西四キロメートル、全周三十・九キロメートルの小島である。
厳島には原生林が群生する標高五百三十五メートルの弥山(みせん)があり、
古代から海上交通を鎮護する「伊都岐嶋神(いつきしまがみ)」が祀られ、
聖地として崇められてきた。
その信仰の中心が島の西北部にある厳島神社で、
創建は推古天皇の治世の五九三年と伝えられる。
その後、平家一門の最盛期に社殿などが整えられ、西国有数の神社へと変貌を遂げた。
また厳島には京都や堺の商船が寄港するほど良港が多く、
経済的にも極めて高い価値を有していた。
さらに厳島は大野瀬戸や宮島瀬戸といった瀬戸内海水運を押さえる軍事的要衝でもあった。
■元就の布石
弘治元年(一五五五)、
元就は厳島神社の北方七百メートルの有ノ浦南端の岬に、囮城の宮尾城(宮ノ尾城)を築き、
五百の兵を入れた。
この城は大野瀬戸に面する海岸沿いの小丘上に築かれた水軍用の城で、三方が海上に突出し、
東側だけが弥山の支脈の要害山とつながっていた。
一方、海側は小浦と池の浦という二つの水軍出撃拠点を抱くように造られ、
陸側には堀を備えた土塁が築かれ、
要害山へとつながる尾根上には、
幾重にも堀切が入っていた。
つまり囮城といっても、ある程度の期間は籠城に堪えられるように造られていた。
有ノ浦と厳島神社の間には、五重塔が立つ塔ノ岡という小丘がある。
この塔ノ岡は宮尾城を攻めるための拠点を置くには絶好の位置で、
元就は晴賢がここに本陣を置くとにらんでいた。
この塔ノ岡を尾根伝いに東に行くと、
弥山の支尾根の一つ博奕尾(ばくちお)の峰に着く。
ここからは厳島神社から塔ノ岡や宮尾城まで見渡せる。
博奕尾の峰を北に下りていくと、
聖崎(ひじりざき)の東にある杉の浦という入江に出る。
さらにその南の入江が、
元就が上陸地点として考えている包ヶ浦になる。
ここで疑問なのは、毛利氏を殲滅するために、
なぜ晴賢は厳島を攻略しようとしたかという点だ。
陶方には二万の動員兵力があり、
毛利方は四千にすぎない。
となれば晴賢は手堅い戦法を取るべきだろう。
つまり山陽道沿いに安芸国に進軍すればよい。
途次にある毛利方の城といっても、
大要害があるわけではなく、
大軍で囲めば降伏させることも可能だ。
そこで後詰決戦になるのは、晴賢の望むところだろう。
陶方には毛利氏に与同する水軍をはるかに上回る水軍力があり、船を使った補給にも不安はない。
つまり厳島にこだわる必要は全くないのだ。
しかし晴賢はそうしなかった。
その裏には、毛利氏の宿老の一人・桂元澄の存在があった。
元澄は長らく陶方に偽装内通しており、
陶勢が厳島に渡って宮尾城を攻めれば、
元就は自ら後詰勢を率いて救援に赴くので、
その間隙を突き、毛利氏の本拠の郡山城を奪取するという筋書きを提案していたのだ。
かつて元澄の父の広澄は元就に攻められて自害しており、
「その恨みを忘れていない」という元澄の言葉を、晴賢は信じていた。
こうした周到な手を打ったことで、
晴賢は物の見事に元就の謀略に引っ掛かった。
九月二十日、元就の予想に違わず、
晴賢は岩国から船団を連ねて厳島を目指した。
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2. 【毛利元就と厳島の戦い】
厳島の戦い / 勝因と敗因
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■厳島の戦い
九月二十二日、
晴賢率いる二万の大軍は厳島に上陸し
(最新の説では八千ほどだったと言われる)、
案に相違せず塔ノ岡に本陣を置いた。
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