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『囚われの山』|第一章(三)

『囚われの山』|プロローグ(一)はこちらから

それは、軍の人体実験だったのかー。

世界登山史上最大級、百九十九人の犠牲者を出した

八甲田雪中行軍遭難事件。

百二十年前の痛ましき大事件に、歴史雑誌編集者の男が疑問を抱いた。

すべての鍵を握るのは、白い闇に消えた、もうひとりの兵士。

男は取り憑かれたように、八甲田へ向かうー。

歴史作家・伊東潤が未曾有の大惨事を題材に挑んだ渾身の長編ミステリー『囚われの山』の試し読みをnoteにて限定集中連載します。

第一章 あてどなき行軍

 一

 会議室は沈滞したムードに包まれていた。
「誰か、何かいいアイデアはないの」
 編集長の桐野弥生が長い足を組み直す。それが机の下から見えるのを計算しているかのような仕草だ。
 ──そんなもの、誰が見たい。
 編集部員の一人、菅原誠一は視線を上に向けた。
「あなたたちには一週間の猶予を与えたはずよ。今すぐに来年の企画を立てておかないと『歴史サーチ』は廃刊になるわ」
 桐野が他人事のように言う。
 ──そういうあんたはノーアイデアかい。いや、後出しじゃんけんを狙っているんだろう。
 こうした仕事に慣れていない桐野でも、さすがに腹案はあるはずだ。だが皆にアイデアを出させた後、自分の素晴らしいアイデアを語り、それで決定するつもりでいるのだ。

 今年になって出版不況は深刻度を増し、菅原のいる「歴史サーチ」編集部も販売部数減に歯止めが掛からなくなってきた。それを立て直すべく、二〇二一年の四月から、自社で刊行するファッション誌「サンノゼ」にいた桐野弥生が抜擢されて編集長の座に就いた。しかしいかにやり手の桐野でも、衰勢に傾く雑誌を立て直すのは容易でない。
 ──「サンノゼ」だって販売部数は落ち込んでいたのに、なんで奴が編集長なんだ。
 菅原にも、人事では言いたいことが山ほどある。だがそれを言ったところで、どうなるものでもない。菅原のいる会社は独立系で、人事権は社長一人にあるからだ。

 「『歴史サーチ』がなくなれば、あたしだって切られるかもしれないのよ。そしたら、あなたたちはどうするの」
 桐野や菅原は正社員なので、雇用は守られるはずだが、この会議には契約社員の編集部員もいる。彼らにとっては雑誌の存続は死活問題だ。
「編集長」と言って副編集長の佐藤慎吾が立ち上がる。佐藤は二十九歳にもかかわらず、桐野の引きで副編に指名されていた。

 ──けっ、ろくなことを言えないんだからやめておけ。
 こうした会議では、安易にアイデアを出しても渋い顔をされるのが常だ。自分のアイデアを実現させたいなら、編集長自身がそれに気づいたかのように徐々に持っていくテクニックが要る。
「このところ新選組の人気にも陰りが見られてきたと言われていますが、さらに深く知りたがっているファンもいるはずです。そこで無名の隊士を取り上げてはいかがでしょう」

 ──そいつは駄目だな。
 佐藤はまあまあイケメンで人当たりもよいので、桐野の覚えがめでたく、ファッション部門から連れてこられた。しかも「歴史サーチ」創刊時からいる菅原を差し置いて、副編に抜擢されたのだ。だが歴史にさして関心があるわけではなく、奇抜な発想の持ち主でもない。

「無名の隊士ね。例えば誰がいるの」
「えっ」と言って佐藤が戸惑う。
「アイデアといったって思い付きじゃダメでしょ。アイデアの裏付けを取るとか、何かのデータを出すとか、しっかり補強してこなかったら意味がないじゃない」
 桐野がうんざりしたように言う。
「すいません。これから調べようと思っていました」
 ──馬鹿め。
 雑誌編集は無駄な仕事の方が多い。無駄な仕事ばかりだと言ってもいい。それをこつこつやれなければ向いていないことになる。

「誰か、ほかに何かないの」
 致し方なく何人かがアイデアを出し合うが、「刀剣」だの「家紋」だの、さして目新しいものはない。
 そこにノックの音が聞こえた。
「同席させてもらってもいいかい」
 ドアが開くと、オーナー社長の薄井健介が立っていた。
「あっ、社長」
 これみよがしに組まれていた長い足を下ろし、桐野が立ち上がる。
「みんなの邪魔はしたくなかったんだが、来年の企画会議だというので、何かバックアップできることはないかと思ってね」

「そうでしたか。どうぞこちらへ」
 桐野が空席になっている自らの隣の席を示したが、薄井は首を左右に振ると言った。
「私はオブザーバーだからね。後ろで構わない」
 薄井は会議室の奥まで行くと、壁際の椅子に腰掛けた。
「続けてくれ」
「は、はい」
 桐野は明らかに動揺している。
 ──女のくせに、みっともない。

 桐野は、男性社員にはできないようなあからさまなおべっかを社長や役員に使う。三十四歳にもかかわらずスカートの丈を短めにし、その美脚を見せびらかすようにしている。彼らの目がそこに行くのを知っているからだ。
「今のところ『新選組の無名隊士』『刀剣』『家紋』といったところが、来年の企画候補に挙がりましたが、ほかにありませんか」
 桐野の底意地の悪そうな視線が菅原に据えられる。

「菅原さん、何かありますか」
 ──そうか。社長の前で恥をかかせようという魂胆だな。
 曲がりなりにも創刊時からの編集部員として、何も用意してこなかったわけではない。
 ──まずは露払いからだ。

(明日に続く)

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