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私が小説家になった理由 -【歴史奉行通信】第一号-


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さて、エッセイの第一回は、「私が小説家になった理由」です。お楽しみいただければ幸いです。

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「私が小説家になった理由」

私が作家になったのは、たまたま訪れた中世古城がきっかけだった。
その城の名は山中城。箱根山の西麓にある小田原北条氏の城だ。

この城で北条氏は豊臣秀吉の大軍を迎え撃つものの、半日で落城し、そのまま一気に滅亡へとひた走る。

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2002年5月、たまたま家族旅行で通りかかった山中城に足を踏み入れ、その異形の堀を見て、私は衝撃を受けた。それは芸術作品のように美しかったからだ。
その幾重にも格子が連なったような堀が、北条氏の得意とする「畝堀」や「障子堀」という遺構だと知るのは、後になってからだが、この時は、ただその美しさに魅せられた。

【山中城】(写真:伊東潤撮影)
http://u0u1.net/FBqO
静岡県三島市にある山中城の障子堀。敵の攻撃経路を制限すると同時に、落ちた敵が堀の中を移動できないようにしている。一度落ちたら、ぬるぬるの関東ローム層なので、手掛かりなしには這い上がれない。

山中城のことをもっと知りたくなり、研究本などを調べていると、戦国時代には「城取り(築城家)」という職業があることを知った。しかも山中城の縄張りを描いたのは、前述の山中城攻防戦において、最初に討ち死にした武将・間宮康俊だという。
「城取りこそ、自らの作品の中で死ねる唯一の芸術家」というフレーズが脳裏に浮かんだ。


その時、突然、小説脳が動き出した。
これまでの生涯で、小説家になりたいと思ったことなど一度としてなく、気まぐれに何かを書いたことさえなかった私が、最初の一行を書いた途端、堰を切るように言葉が溢れてきた。

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