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『囚われの山』|第一章(五)

『囚われの山』|プロローグ(一)はこちらから

それは、軍の人体実験だったのかー。

世界登山史上最大級、百九十九人の犠牲者を出した

八甲田雪中行軍遭難事件。

百二十年前の痛ましき大事件に、歴史雑誌編集者の男が疑問を抱いた。

すべての鍵を握るのは、白い闇に消えた、もうひとりの兵士。

男は取り憑かれたように、八甲田へ向かうー。

歴史作家・伊東潤が未曾有の大惨事を題材に挑んだ渾身の長編ミステリー『囚われの山』の試し読みをnoteにて限定集中連載します。

第一章 あてどなき行軍

 ──ディアトロフ峠事件か。
 行きつけのバーでしたたか飲んでからアパートの部屋に帰った菅原は、数年前に読んだ『死に山』を本棚から引っ張り出した。
 ──ここに何かのヒントがあるかもしれない。
 何日もシーツを取り替えていないベッドに横たわると、菅原はページをめくり始めた。
 ディアトロフ峠事件とは一九五九年の二月、旧ソ連のウラル山脈北部をトレッキングしていた大学生と卒業生の計九人が、不可解な遭難死を遂げた事件として世界的に有名なものだ。

『死に山』は、極めて真摯な姿勢でこの事件を追った一流のノンフィクション・ノベルで、欧米でもベストセラーとなった。

 この事件が単なる遭難事件でないのは、そこに矛盾に満ちた謎がいくつも横たわり、生存者がいないことから、それらの謎の解明が全く進んでいないことに起因する。
 まず何が起こったかだが、それは突然やってきた。

 ウラル山脈の北方にそびえるオトルテン山登頂前夜の二月一日、一行九人はオトルテン山の支脈にあたるホラチャフリ(「死の山」)と呼ばれる山の東斜面にキャンプを設営した。
 ところがその夜、予期せぬ出来事が起こり、九人全員が厳寒の暗闇の中へ飛び出していった。しかもよほど慌てていたのか、テントは内側からナイフで切り裂かれ、そこから七人が逃げ出していた。三重に閉じられたテントの出入口からは、チャックを開けて二人が飛び出していった。

 ──そして九人全員が死んだ。
 後に現場に向かった捜索隊により、遺骸はテントから一キロ半ほど離れた場所で見つかった。
 不思議なのは、氷点下三十度以下の場所にもかかわらず、遺骸のどれもが、ろくに防寒着を着けていなかったことだ。しかもほぼ全員が靴を履いておらず、靴下のまま岩石の露出する一キロ半の下り坂を走り抜けたのだ。

 九人中六人の死因は低体温症だったが、残る三人は、頭蓋骨やあばら骨が折れていた。また女性メンバー一人の舌や眼球がなくなっており、二人の衣服からは高濃度の放射能が検出された。
 謎は山積していたが、『死に山』の著者は、丹念にこれらの謎を解明していった。
 まず怪我をした者たちは崖下で発見されており、転落により岩に当たって重傷を負ったと考えられた。また舌や眼球の喪失については、その遺骸が春になってから発見されたことから、腐敗による自然現象だと推定できる。放射能に関しても、最新研究によって高濃度ではなかったことが明らかにされた。
 謎は、テントの中で何が起こったかに集約された。

 旧ソ連当局は、ホラチャフリ山を三年間にわたって入山禁止として綿密な調査を行ったが、最終報告書では「未知の不可抗力により死亡」と結論付けるしかなかった。つまり「原因不明」ということだ。それから六十年余が経っても、謎はいっこうに解明されていない。
 世界の識者たちは「未知の不可抗力」とは何かを推測し、侃々諤々の議論を続けてきた。
 まず考えられるのは雪崩だが、ホラチャフリ山は傾斜が十五度の緩斜面で、過去に雪崩が起こった痕跡はない。当時の調査官たちも現場に雪崩の痕跡を認めていない。しかもテントは、立ったままの状態で発見されているのだ。

 風の音を雪崩と勘違いしたとも考えられるが、トレッキングのエキスパートの彼らは、雪崩の絶対にない場所にテントを張っており、たとえ誰かが雪崩だと勘違いしてパニックを起こしても、それが瞬時に全員に伝染するとは考え難い。
 また、近くに住む先住民のマンシ族による襲撃も可能性として考えられたが、その証拠は皆無な上、内側からテントが破られている事実がある限り、襲撃はあり得ない。
 また、現場近くで光の玉が目撃されたことから、兵器実験の犠牲になったという説や、エイリアンや怪物による襲撃説など様々な珍説も出てきたが、それらには何の根拠もないことから、取るに足りないものとされてきた。

 何か奇妙なもの、例えば幽霊でも何でもいいが、それがテント内を飛び回っていたとしても、仲間を起こせば事足りるわけで、命綱に等しいテントを切り裂いてまで酷寒の中を軽装で飛び出すわけがない。
 さらに最近、地形と風が作り出す自然現象として、ヘアピン渦が生み出した超低周波音によるパニック説が唱えられた。この時の風速は十五メートル程度だったが、ホラチャフリ山のなだらかな山容によってヘアピン渦というものが生み出され、それが推定四十五メートルの強風、轟音、地鳴り、超低周波音などを生み出し、それがパニックを誘発したというのだ。

 しかしヘアピン渦は、理論的に起こり得るという机上の現象であり、それが実際に起こった事例はないという。しかもホラチャフリ山がそれを生み出す理想的な地形であったとしても、観測も検証もなされていない。
 仮にそれが起こったとしても、超低周波音によって引き起こされる耳鳴りや悪寒には個人差があり、またそうした感覚器系の障害は徐々にやってくるので、九人全員が突如としてパニックに陥るようなものではない。
 結論として、彼らが何に襲われたかは謎としか言えないのだ。

 とにかく何らかの恐ろしい事態がテント内で起こり、九人全員がパニックを起こし、靴も履かず軽装のまま氷点下三十度の酷寒の中に飛び出し、暗闇の中、一キロ半も疾走したことになる。
 しかも漆黒の闇の中、懐中電灯も持たずに飛び出したので、テントに戻ることは困難を通り越して不可能となった。
 それでも途中で冷静さを取り戻したのか、九人のうち三人はテントを探して元来た道を引き返そうとしたが、途中で力尽きて凍死していた。

 経験の少ない素人ならともかく、彼らはトレッキングのエキスパートであり、この状態で外に飛び出せば死が待っていることくらい、十分に分かっていたはずだ。
 ──やはり雪崩か。ないしは雪崩の予兆におびえたのか。
 だとしても、靴も履かずに飛び出すのはおかしい。しかも一キロ半ほど走っても、まだ走り続けようとして、崖下に転落した者が三人もいたのだ。
 ──いったいテントの中で、何が起こったんだ。
 菅原は『死に山』を閉じ、ため息をついた。
 六十年以上、これだけ多くの人が謎の究明に挑んでも、解明の糸口さえ見つからない。
 ──それにひきかえ、八甲田山には謎がない。

 ディアトロフ峠事件の犠牲者は九人、八甲田山は百九十九人だが、全く謎のない遭難事件に、世間の関心は向けられない。しかもその後、日本は日露戦争、そして太平洋戦争へと突入し、想像を絶するほどの犠牲者を出してきた。八甲田山遭難事件も一九七七年に映画化されて大ヒットしなければ、歴史の中に埋もれてしまう事件の一つとなっただろう。

(明日に続く)

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