紀尾井坂事件の謎を探る 【歴史奉行通信】第四号
いよいよ秋も深まってきました。この季節になると、ネット上では翌年の大河ドラマの話題が頻繁に出てくるようになりますね。
2018年の大河ドラマは「明治維新150周年」ということもあり、『西郷どん』に決まりました。原作は林真理子氏の同名小説で、11月頃に刊行されます。
私も西郷隆盛やその周辺については以前から取り組んできており、『武士の碑』『走狗』『西郷の首』の三作品を「西郷と幕末維新三部作」と位置付け、発表してきました。
さて今回は、9/29に発売された『西郷の首』の補足資料として、メルマガ会員様だけに大久保利通が殺された「紀尾井坂事件」の概要(史実)について紹介したいと思います。
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「紀尾井坂事件の謎を探る」
西郷の死から約半年後の明治十一年(1878)五月十四日、大久保利通が暗殺された。
この事件は、島田一郎、長連豪(ちょう・つらひで)、杉本乙菊(おとぎく)、脇田巧一(こういち)、杉村文一(ぶんいち)の石川県士族五人に、島根県士族の浅井寿篤(あざい・じゅとく)が加わり、六人によって行われた。
石川県士族といってもピンと来ないかもしれないが、要は旧加賀藩士である。加賀藩といえば百万石の大藩で、磯田道史氏の『武士の家計簿』にもある通り、多くの優秀な人材を輩出し、しかもいち早く新政府方となり、東北戊辰戦争で百名余の犠牲者も出した。
しかし新政府の顕官の座は薩長土肥の四藩に独占され、旧加賀藩士の入り込む余地はなかった。これは薩長土肥以外の不平士族に共通した認識で、彼らが持っていたのは、変わりゆく時代に取り残されていく焦燥感だった。
維新後、政治結社を結成して反政府活動に奔走していた島田に、長というブレーンが合流したのは、ちょうど西郷が下野した明治六年(1873)頃のことだった。彼らは金沢に本拠を置いて活動していたが、明治九年(1876)の熊本の神風連(じんぷうれん)の乱に端を発した各地の不平士族の反乱に刺激を受け、武装蜂起を画策し始める。
明治十年(1877)に西南戦争が勃発すると、島田らは旧加賀藩の不平士族に決起を呼び掛けるが、賛同者は少なく、募兵に走り回っている間に西郷たちは潰えてしまった。
西南戦争が終結したことで、島田と長は、挙兵から暗殺に方向転換し、政府の要人を狙い始める。
大久保利通にターゲットを絞った島田たちは、大久保の人相や姿形、馬車の特徴、太政官への出勤日、その通り道などを調べた。すると四と九の付く日の朝、参議たちは定例会議で太政官に出仕することを突き止めた。
これで襲撃予定日は想定できるようになったが、問題は襲撃場所である。
当時の太政官は、赤坂仮御所(現・迎賓館)に置かれており、大久保邸から行くとすると、赤坂御門を直進し、紀ノ国坂を上っていく経路を取るのが普通だ。この経路なら、通りを隔ててはいるものの、警視庁分署(警視庁第三方面二分署)の目の前を行くことになるので安全は確保されている。
ところが大久保だけは、別の経路を取っていた。
(ここで図をご覧いただきたい。)
https://goo.gl/pcuXJZ
三年町三番地の大久保邸を出発点とすると、大木喬任邸のところで右折し、右手に西郷従道邸を見ながら進み、ドイツ公使館に突き当たったところで左折してダラダラ坂を下り、三平坂(さんべざか)を上る。三平坂を登りきったところで突き当たる赤坂喰違坂を左折すると、赤坂御門に至る。常であれば赤坂御門をくぐって紀ノ国坂を上っていくのだが、どういうわけか大久保は赤坂御門をくぐらずに右折し、すぐ左折して紀尾井町(清水谷)を突き抜けて紀尾井坂を通り、仮御所の東門に至るという経路なのだ。
また赤坂御門から仮御所の東門に至るまでの距離も、紀ノ国坂を通る本道に比べて近道というわけでもない。
現在、紀尾井町から紀尾井坂にかけては、ホテルオークラやオフィスビルが立ち並ぶ賑やかな一帯になっているが、当時は人気がなく昼でも寂しい道だった。
しかもこの脇道は、刺客に襲われたら逃げ場のない道でもあった。すなわち左手(東)に北白川宮能久(よしひさ)親王邸、右手(西)に公家の壬生基修(みぶ・もとおさ)邸があり、双方共に一段高い場所にあり、下から見上げると小高い土手の上にあるように見える。
なぜ大久保は、こんな刺客に襲って下さいと言わんばかりの道を使っていたのか。研究者の間でも、それは大きな謎とされている。
ただし、大久保がこの道を通っていた理由として考えられる唯一の証言がある。
それは、江藤新平のご子孫である鈴木鶴子氏の著作『江藤新平と明治維新』(朝日新聞社)に書かれている挿話だ。
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