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新作歴史小説『茶聖』|第一章(六)
真の芸術家か、
戦国最大のフィクサーか――
安土桃山時代に「茶の湯」という一大文化を完成させ、
天下人・豊臣秀吉の側近くに仕えるも、
非業の最期を遂げた千利休の生涯を、歴史作家・伊東潤が描く!
新作歴史小説『茶聖』。
戦場はたった二畳の茶室――。
そこで繰り広げられる秀吉との緊迫の心理戦。
門弟となった武将たちとの熱き人間ドラマ。
愛妻、二人の息子たちとの胸に迫る家族愛。
発売直後から話題を集め、早くも二度の重版がかかるヒットとなっている本作の試し読みを、noteにて集中連載いたします。
第一章(六)
天正十一年(一五八三)二月、清須会議の国分けで、柴田勝家方の城となっていた近江長浜城を降伏開城させた秀吉は、方向を転じて伊勢の滝川一益を攻めた。
滝川一益は柴田勝家と信長三男の織田信孝と組んで秀吉に敵対しており、勝家の本拠の越前北庄が深い雪に閉ざされているうちに、秀吉は降伏に追い込もうとしたのだ。
これに対して勝家は無理を承知で南下を開始し、三月には琵琶湖北東端近くの余呉湖畔まで進出した。ところが、すでに羽柴方の陣城が数多く造られており、そこから先に進むことはできなかった。
一方、秀吉も余呉湖から約一里南の木之本まで進出し、勝家と対峙したが、背後の岐阜で信孝が挙兵したため、いったん大垣まで戻ることにする。
ところが四月二十日、柴田方の佐久間盛政が、賤ケ岳にある秀吉方の陣城に攻撃を掛けてきた。
その一報を聞いた秀吉は急遽、道を引き返した。
翌二十一日、余呉湖畔で秀吉と盛政の間で激戦が展開され、秀吉が勝利を収めた。これにより柴田勢は瓦解し、勝家は敗走を余儀なくされる。
逃げる勝家を追った秀吉は勝家の本拠の越前北庄城に迫り、二十四日にこれを落とした。落城間近となった時、勝家は夫人のお市の方と共に自害して果てた。勝家に呼応して挙兵した信孝も降伏し、自刃に追い込まれる。
かくして秀吉の最大の敵と目されてきた勝家とその与同勢力は、呆気なく潰え去った。
「これで戦はなくなるのでしょうか」
初夏の木漏れ日の下、りき(後の宗恩)が枯れ落ちた紫陽花の花を掃きながら問う。
「そうさな。何事も羽柴様の胸先三寸だが、羽柴様を天下人として認めたくない御仁も多いだろう。それを思えば、まだまだ戦は続く」
堺にある屋敷の縁に腰を下ろした宗易が、茶杓を削りながら答える。
「殿御は、どうして戦うことがお好きなんですか」
「武士という生き物は、何かと戦っていないと不安なのだろう」
男には、常に自分が何者であるかを確かめたいという欲求がある。武士は戦いに勝つことによって、商人は富の大きさによって、それを確かめる。
──だがいつか、そんなことは空しいと気づく。
人を殺すことが嫌になった武士は出家し、飽くことなく富を集めた商人は、草生した草庵に籠もる。宗易は、そうした者たちを何人も見てきた。
「これを見て下さい」
りきが何かを示して笑みを浮かべた。ようやく焦点が合い、それが何か分かった時、宗易の頬も緩んだ。
「もう朝顔の季節なのだな」
「はい。こんなに蕾が膨らんでいます。これなら三日と待たずに花を付けます」
りきが、その細く長い指先で朝顔の蕾に触れている。
それを眺めながら、宗易は心からよき妻を得たと思った。
宗易は二十三歳の時に最初の妻を娶った。稲という名の心優しい女で、宗易との間に一男三女をもうけた。だが天正五年(一五七七)、流行病にやられて他界した。
その後、宗易はりきを後妻として迎え入れた。りきは観世流小鼓師の宮王三入の妻だったが、その死去に伴い未亡人となっていた。りきには少庵という連れ子がおり、宗易は少庵を養子にした上、稲とは別に囲っていた側室に産ませた亀と娶せ、千家(田中家)の跡継ぎとした。少庵と亀の間には、すでに息子(後の宗旦)がいる。
「これはどうだ」
削り上がった茶杓をりきに示すと、りきは縁まで来てそれを手に取った。
「常のものより、櫂先の折撓が深い気がします」
「ああ、そうしたのだ」
「その一方、節の削りが浅いため、さほど蟻腰とはなっていません」
櫂先とは茶杓の茶をすくう部分、蟻腰とは茶杓にある竹の節の裏を削り、屈曲を生み出したもので、それが蟻の腰のように見えることから付けられた茶の湯用語だ。つまり、その角度によって茶杓の均整は変わり、美醜が決まる。
「かように些細なことに、よく気づいたな」
「あなた様の妻ですから」
りきが恥ずかしげに微笑む。
「そなたも削ってみるか」
りきが首を左右に振る。
「茶杓は誰でも削れるものではありません。その心のありようを茶杓に託せるほどの境地に達していない者が削ったとて、ただ茶をすくう道具にしかならないでしょう」
宗易は薄く笑うと、中ほどで茶杓を折った。
ぽきっという音と同時に、りきの「あっ」という声が聞こえた。
「なぜ、それほど丹精込めて削ったものを──」
「わしの心のありようを託せなかったからだ」
「それは、どのようなもので──」
「分からぬが、期待と不安の交じったものかもしれない」
りきが口をつぐむ。それが何かを問うたところで、宗易が答えないのを知っているからだ。
「そろそろ風が冷たくなってきました」
「そうだな。中に入るか」
宗易が立ち上がろうとした時だった。中木戸が開く音がすると、一人の男が姿を現した。
その旅姿の男は、ずかずかと庭に入ってくると、縁に座る二人の前に拝跪した。
「父上、義母上、たった今、戻りました」
一礼した男が日焼けした顔を上げる。宗易の長男の紹安(後の道安)である。
「紹安、そなたはいくつになっても礼をわきまえぬな」
紹安は先妻の稲の子で、今年三十八歳になるが、妻も娶らず放浪の旅を続けていた。
「ははは、父上は変わりませんな」
「紹安殿」と、りきが声を掛ける。
「見たところ、旅塵にまみれ、お疲れのようです。風呂にでも入ってから父上とお話しなさったらいかがでしょう」
「ありがとうございます。では、そうさせていただきます」
一礼した紹安は、入ってきたばかりの中木戸をくぐって表口に向かった。
(続く)
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