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武士の府を開いた男・源頼朝 【歴史奉行通信】第五十四号

こんばんは。伊東潤です。


今年の冬も寒そうですね。
私は寒さに強い方でしたが、寄る年波か、
最近は弱くなってきました。


昔は寒さに耐えきれなくなるまで
コートなど着なかったのですが、
最近はよく着るようになりました。


でもここ数年、
最新の科学技術で生み出されたインナーを
利用するようになってから、
コートを着る機会も減りました。
科学の進歩はありがたいものです。


それでは今夜も「歴史奉行通信」第五十四号を
お届けいたします。

〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1. はじめにー武家政権を作り上げた
  頼朝と政子

2. 「源頼朝 ――恐妻家の墓穴――」
(『敗者烈伝』収録「勝者烈伝」より)

3. おわりにー『修羅の都』のご紹介 /
  歴史MIND鎌倉オフ会に参加して

4. 伊東潤Q&Aコーナー / 感想のお願い

5. お知らせ奉行通信
  新刊情報 / 読書会 / その他


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1. はじめにー武家政権を作り上げた
  頼朝と政子

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ということで、
今回は鎌倉幕府特集の第二弾として
「鎌倉府と頼朝公」をお送りします。


さて、今年の7月22日(再放送は8月26日)、
テレビ朝日で「歴論」という番組が
放送されました。


私も出演させていただいたのですが、
この番組は歴史上の重要なテーマを取り上げ、
それを識者たちが政治討論番組のように
討論していくというものです。


とくに定説と言われてきたものや、
教科書に書かれてきた
従来の史実を覆す新説を提示し、
その妥当性を論議するという
趣旨の番組です。


その第一回のテーマは
「鎖国はあったのか」と
「鎌倉幕府はいつ成立したのか」でした。


この番組の中でも、鎌倉府の創設時期について
活発な議論が交わされました。
それだけ武家政権の成立は
重大なテーマだったわけです。


その武家政権を作り上げたのが
頼朝と政子でした。
二人は表裏のような存在で、
この二人だったからこそ、
鎌倉府は成立したと言ってもいいでしょう。


というわけで前回の政子に続いて、
今回は頼朝について概観していきたいと思います。


まずは『敗者烈伝』の中に掲載されたコラム
「勝者烈伝」の頼朝の章を掲載します。

『敗者烈伝』の詳細はこちら

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2. 「源頼朝 ――恐妻家の墓穴――」
(『敗者烈伝』収録「勝者烈伝」より)

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「極めて慎重で冷酷非情な男」という
一般的な源頼朝のイメージは、
京都神護寺に伝わる「伝源頼朝像」に
拠るところが大きい。


昨今は諸説あるものの、
ある程度の年齢以上の方々にとって、
頼朝といえばこの像を想起することが多く、
そこからイメージが固定化されていった気がする。


むろん平家を滅亡に追い込み、
義経や範頼といった弟たちを殺し、
反逆していない佐竹秀義、
上総介広常、藤原泰衡といった勢力を
滅亡に追いやった事実からも、
頼朝は「極めて慎重で冷酷非情な男」と
呼ばれるに値するだけのことはしてきた。


徳川幕府や明治政府もそうだが、
政権初期においては、いかに理不尽だろうが
反逆の芽を摘み取っておかないと、
その政権は長続きしない。
それを成し得たのが、
頼朝、徳川家康・秀忠・家光の三代、
そして大久保利通であり、
その結果、それぞれの政権は
長期的安定を見た(頼朝の鎌倉幕府は執権北条氏に、大久保の政府は伊藤博文に乗っ取られたが)。


いずれにせよ、頼朝が政治家として
優れていたのは間違いない。
何と言っても公家に同化した平家と
同じ轍を踏まず、鎌倉に武家政権の本拠を置き、
後白河院に惣追捕使(守護)・地頭の設置を
承認させるなどして、
朝廷を追い込んでいった手腕は実に巧妙だった。


頼朝は先を急がず、
既得権を持つ公家社会に対して強硬な手段に出なかったので、
朝廷や公家たちは「ゆで蛙」のようになり、
権力と財源(荘園)を徐々に奪われていったのだ。


それが白日の下に晒されるのは、
頼朝の死後に勃発した承久の乱に
おいてだった。
鎌倉幕府は朝敵とされたにもかかわらず、
結果的に圧勝した事実を見れば、
政治家としての頼朝の手腕が、
並みでなかったのは明らかだろう。
ちなみに承久の乱は歴史上、
朝敵とされた側が勝った唯一の戦いである。


それでは頼朝は、
軍事指揮官としてどうだったのだろうか。
頼朝は自ら槍を取ることはもとより、
陣頭に立って戦闘を指揮したり、
また作戦を立てたりもしなかった。
このことから、「武」については不得手
という評価が定着している。
とくに平家討伐戦において、
弟たちに指揮を任せきりで、
自らは鎌倉を動かなかったことが、
それを如実に表している。

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