龍造寺隆信と沖田畷の戦い 【歴史奉行通信】第七十号
こんばんは。伊東潤です。
『歴史奉行通信』
第七十号をお届けします。
〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓
1. はじめに
2. 龍造寺隆信と沖田畷の戦い
【龍造寺隆信という男】
3. 龍造寺隆信と沖田畷の戦い
【沖田畷の戦いまでの経緯】
4. 龍造寺隆信と沖田畷の戦い
【定説と疑義】
5. 龍造寺隆信と沖田畷の戦い
【沖田畷の戦い】
【勝機はどこにあったのか】
6. おわりに / Q&Aコーナー / 感想のお願い
7. お知らせ奉行通信
新刊情報 / ブックカバー演出写真大賞 /
その他
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1. はじめに
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コロナ禍で散々だった
2020年の上半期でしたが、
ようやく梅雨も終わって初夏の涼風が吹き始め、町にも活気が戻りました。
しかし、まだまだ油断はできません。
外に出る時は万全の態勢で臨みましょう。
さて今回は自衛隊の隊内誌
「修親」連載中の
「合戦で読む戦国史」シリーズの第2弾として、
「龍造寺隆信と沖田畷の戦い」の
短縮版をお送りします。
九州の方以外はあまりなじみのない名かもしれませんが、
龍造寺隆信は短いながらも島津・大友両氏と共に九州を三分する勢力を誇っていた梟雄で、
沖田畷の戦いで命を落とさなければ、
肥前国は龍造寺氏が明治維新まで
支配していた可能性が高いのです。
今回は、この戦いについて考えていきたいと思います。
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2. 龍造寺隆信と沖田畷の戦い
【龍造寺隆信という男】
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【龍造寺隆信という男】
「肥前の熊」と呼ばれた男がいる。
大兵肥満で「容貌雄偉、眼光炯々」、
まさに一代の梟雄と呼ぶにふさわしい男だ。
その名を龍造寺隆信という。
隆信は享禄二年(一五二九)、
龍造寺家の分家の水ケ江龍造寺家の長男として生まれた。
七歳の時に出家させられ、
禅僧としての修行を始めるが、
一族が没落の危機に陥ったことで曾祖父により還俗(げんぞく)させられ、
天文十七年(一五四八)に龍造寺本家の惣領となる。
その後、周辺勢力との一進一退の攻防、
北部九州の名族少弐(しょうに)氏や肥前北部の国人神代(くましろ)氏との抗争、
さらに隣国の大国・大友氏の侵攻を弾き返しながら着々と力を付け、
戦国九州を代表する大名となっていく。
『歴代鎮西要略』によると、
龍造寺隆信は「(隆信の)旗下に属し、
其の指揮に従う兵馬二十万騎に及ぶ」とされ、
また「島津・大友・龍造寺、鎮西を三分する」とまで謳われるほどの勢力を誇っていた。
その絶え間ない勢力拡張意欲と
悪辣と呼べるほどの謀略の数々は周囲を威服させ、
北九州を席巻していたキリシタン勢力の防波堤となっていた。
隆信はキリスト教を嫌悪し、
大友・大村・有馬氏らキリシタン大名とことごとく敵対した。
そんな「肥前の熊」も五十二歳になった天正八年(一五八〇)、
家督を息子の政家に譲って隠居する。
というのも天正六年(一五七八)に、
島津義久が大友宗麟の軍勢を
「耳川の戦い」で破り、
それまで脅威だった大友氏の圧力が
弱まったからだ。だが隠居した後も、
隆信は軍事指揮権を握り続けた。
隠居の翌年にあたる天正九年(一五八一)には肥後国北部の経略を成し遂げ、
隆信は「五州二島の太守」と呼ばれるまでになる。
五州は肥前・筑前・筑後・豊前・肥後の五国のことで、二島は壱岐・対馬のことだ。
むろん筑前国は南部のみ、
肥後国は北部のみなので、
五州丸ごとではないが、
隆信一代でこれだけの版図を築いたのは驚異的だ。
しかし、この時が隆信の最盛期だった。
軍記物によると、隠居によって隆信は太り始めただけでなく、
詩歌管弦や猿楽に興じたとされ、
次第に傲慢になってきたという。
その頃、大友氏を日向国から駆逐した島津氏は、肥後方面への浸透を始めた。
こうした最中の天正十年(一五八二)、
龍造寺傘下に入っていた島原半島南部の国人・有馬晴信が、
島津氏に通じて反旗を翻した。
これに怒った隆信は有馬氏討伐を宣言する。
ここに沖田畷の戦いが勃発する。
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3. 龍造寺隆信と沖田畷の戦い
【沖田畷の戦いまでの経緯】
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【沖田畷の戦いまでの経緯】
島原半島というのは、北・東・南の三面が有明湾に接し、
西側で肥前国の高来郡と陸続きになっている。
また地形的特徴として中央部に雲仙岳が鎮座しているため、
平野部が半島の周囲を取り巻く形になる。
とりわけ宇土半島に近い東側は平野部が広く、大軍の進退にも不自由しない
(逆に西側は狭い)。
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