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『威風堂々』特集3「大隈重信の生涯から学ぶ」 【人間発電所日誌】第一〇九号

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〓〓今週の人間発電所日誌目次〓〓〓〓〓〓〓
1.はじめに

2. 大隈重信の生涯から学ぶ
①今だからこそ評価される合理精神
②適性よりも志を重視した人生
③実務家からビジョナリストへ
④国民第一を唱えて支持を獲得
⑤大隈が人気である3つの理由

3. おわりに

4. お知らせ奉行通信
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1.はじめに
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 冬季オリンピックも終わりました。歓喜に咽んだ選手、無念の涙をのんだ選手、悲喜こもごもですが、何事も人生の一つの過程です。何があっても人生は続いていくのです。私は残念なことがあっても、「これも天の与えてくれたもの」と割り切り、次の目標に向かって邁進することにしています。

 こんな仕事をしていると、歴史上の様々な人物から学ぶことも多く、最近は嫌なことも、すぐ忘れるようになってきました。そうした自浄機能が付いてきたことで、日々を快適に過ごすことができるようになりました。

 最近、何から学んだかと言えば、私の場合、『威風堂々(上) 幕末佐賀風雲録』『威風堂々(下) 明治佐賀風雲録』を書いたことで、大隈重信の生き方から学ぶことが多かったですね。

 今回は大隈の生涯をトレースしながら、そこから何を学ぶべきかを示唆していきたいと思います。メルマガ読者の皆さんだけの特典です(笑)。

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2. 大隈重信の生涯から学ぶ
①今だからこそ評価される合理精神
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 大隈重信は1838(天保9)年、比較的裕福な武士の家に生まれました。その所属する佐賀藩は、当時の日本の表玄関だった長崎の警備を担当しており、海外の文物に触れる機会も他藩に比べて多くありました。それゆえ開明的な藩主の鍋島閑叟によって、独自に反射炉を建造して鉄製大砲を量産するなど、欧米の技術を積極的に取り入れるようになります。

 その一方、藩校の「弘道館」では、朱子学や武士の心構えを唱えた『葉隠』を基軸とする保守的な教育が行われており、多くの若者が矛盾を感じていました。

 学業でも同期の中で一番になるほど優秀な大隈は、合理精神の塊で、無駄な努力を嫌うことから、徐々に弘道館の守旧的な学問に嫌気が差すようになっていきます。

 佐賀藩の教育制度や弘道館の教育改革を訴える大隈は、寮生と論戦を交わします。ある時、それが弘道館を二分する殴り合いの大げんかに発展し、首謀者として退学処分となります。ところが退学が災い転じて福となり、大隈は「蘭学寮」に入って洋学を修得していくことになります。

 大隈の伝記や自叙伝を読むと、彼の合理精神は若い頃から培われていたと分かります。無駄なことをしたくない。ゴールや答えに最短距離でたどり着きたいという考え方は、今だからこそ評価されるものですが、昭和の頃までは、「そんな考えではだめだ」といった努力重視の圧力に押しつぶされたものでした。私もそんな世代で少年時代を過ごしたので、それが嫌で外資系企業に入りました。今となっては、その時の判断は大正解でした。

 青年時代の大隈は、枝吉神陽が主宰する「義祭同盟」という尊王論者の集まりに加盟し、副島種臣や江藤新平らと議論する毎日を送っていました。大隈の人生に大きな影響を与えたのが、義祭同盟とその仲間たちでした。彼らは日本の将来を終日議論します(主に大隈邸の屋根裏部屋で)。常に「日本のためにどうしたらよいか」という視点を失わない彼らの議論は、それからの彼らの人生にも大きな影響を及ぼし、自身の栄達や利己主義からはほど遠い人格を形成していきます。

 薩長土からは、政商という政府に癒着する商人が生まれていきますが、佐賀藩からそうした人材が生まれなかったのは偶然ではありません。弘道館の倫理教育が徹底していたのと、佐賀藩の尊王思想をリードする私学、いわゆる義祭同盟での教育と議論の賜物だったと思います。

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