新作歴史小説『茶聖』|プロローグ
真の芸術家か、
戦国最大のフィクサーか――
安土桃山時代に「茶の湯」という一大文化を完成させ、
天下人・豊臣秀吉の側近くに仕えるも、
非業の最期を遂げた千利休の生涯を、歴史作家・伊東潤が描く!
新作歴史小説・『茶聖』。
戦場はたった二畳の茶室――。
そこで繰り広げられる秀吉との緊迫の心理戦。
門弟となった武将たちとの熱き人間ドラマ。
愛妻、二人の息子たちとの胸に迫る家族愛。
発売直後から話題を集め、早くも二度の重版がかかるヒットとなっている本作の試し読みを、noteにて集中連載いたします。
プロローグ
──何もかも空しきことでございましたな。
今生最後の点前の支度を始めながら、利休は心中で秀吉に語りかけた。
──私は殿下をお恨みするつもりはありません。逆に私の命を奪っていただけることに感謝したいぐらいです。その謂が殿下にお分かりいただけますか。
外では雷鳴が轟き、稲妻が茶室の障子越しに光る。雨の音に混じって霰が降っているのか、松籟が常にない不穏な音を奏でていた。旅立ちの日にふさわしい室礼に、利休は満足した。
──殿下は力によって、この世に静謐をもたらそうとしました。しかし殿下は、欲には勝てませんでした。こうして殿下と共に断崖から身を投げることは、私にとってこの上ない喜びです。
これまで感じたことのないほどの歓喜が、胸底から突き上げてきた。その心地よい感覚に浸りながら、利休は点前を始めた。
天正十九年(一五九一)二月二十八日、利休の聚楽屋敷にある不審庵では、検使役の蒔田淡路守、尼子三郎左衛門、安威摂津守の三人が、殊勝な面持ちで利休の点前を見つめていた。
荒々しく仕上げられた尻張釜から沸き立つ湯の音が、いつになく耳に心地よい。
すでに身に染み込んだ手順で、流れるような点前を披露した利休は、茶筅の起こした渦がいまだ残る茶碗を蒔田の前に置いた。
利休が最後の茶会に使ったのは、この頃、最も気に入っている黒楽の「禿」だった。馥郁たる濃茶の香りが、四畳半の間に漂う。
「お先に頂戴いたします」
尼子と安威に軽く会釈した蒔田は、震える手で茶碗を持ち、神妙な面持ちのまま茶を喫した。
蒔田が茶碗を置くと、利休が問うた。
「お服加減はいかがですか」
「常と変わらず結構なお味でした」
二千石という中堅家臣ながら、蒔田は利休の高弟の一人で、秀吉と利休の間の取次役を務めていた。
利休が尼子と安威にも茶を振る舞うと、二人の緊張も幾分か解れたようだ。
──茶によって荒ぶる心を鎮める、か。
かつて信長の言っていた言葉が、脳裏に浮かぶ。
──殿下、茶の湯によって心は鎮まりましたか。
利休は心中で秀吉に問うた。だが利休はその答えを知っていた。
「わしの欲心を鎮めれば、豊臣家の天下は失われる」
秀吉は己の欲を止められなかった。否、止めなかった。それこそが天下制覇の原動力だと思い込んでいたからだ。
──だが殿下は、己以外の者に野心や欲心を抱かせまいとした。それゆえ武士たちの荒ぶる心を鎮める何かが必要になった。しかし仏神にその力はない。だからこそ「別の何か」が必要だった。
当初、信長はその役割を耶蘇教に負わそうとした。だがその背後に潜む野心を知り、距離を置いた。
秀吉もそれを踏襲した。
──そして殿下は茶の湯とわしを見つけた。いや、わしが示したのだ。爾来、殿下とわしは一心同体となった。
秀吉と利休は光と影だった。その両面がうまく機能したからこそ、天下を制すことができた。そしてその天下を維持するために、茶の湯はずっと必要だと思われた。
──だが光と影が互いの領域を侵そうとすれば、待っているのは破綻だけ。それが分かっていても、殿下とわしは破綻へと突き進まねばならなかった。
それでも利休の死によって、茶の湯は永劫の命を約束される。それとは逆に、豊臣政権は滅びへの一歩を踏み出すことになる。
「では、そろそろ旅立つといたしましょう」
「尊師──」
蒔田が感極まったように言う。
「これが最後になりますが、殿下に詫びを入れるおつもりはありませんか」
利休が無言のままうなずく。
われら弟子一同の思いは一つ。何卒、ご翻意願えませんか」
「蒔田殿、お気遣いは心から感謝しております。ただ私は、死すべき時は今と心得ております」
無念そうに眉根を寄せると、蒔田が口を閉ざす。
利休は身をねじって床の間に手を伸ばすと、脇差の載せられた三方を自らの前に置いた。
「見苦しきものが飛ぶかもしれませんので、少しお下がり下さい」
四畳半の茶室では下がりようもないので、三人は形ばかりに身を引いた。
「尊師、書置(遺言書)などありましたら、ぜひお渡し下さい」
「書置はありませんが、遺偈を書きました。お目障りかと思いますが、どうかお収め下さい」
懐に手を入れた利休は、遺偈の書かれた折り紙を渡した。
人世七十 力囲希咄
吾這寶剣 祖佛共殺
提る我得具足の一太刀
今此時ぞ天に抛つ
「人生七十年。それは力漲る一喝にすぎず。わが手にあるこの宝剣で、祖仏(祖先)と共に殺そう。私の傍らにあり続けた具足と太刀一本を提げ、今この時こそ、(わが身を)天になげうつ」
──どのような道を歩んでこようと、人の足跡など一喝の下に消え去るほど空しいものだ。だからこそ、この身を天になげうってみせる。
利休は爽快な気分に包まれていた。
「しかと承りました」
折り紙を捧げ持って一礼した蒔田は、それを懐に収めた。
上掛けを脱いで白装束になった利休は脇差を持つと、しばしその刃の輝きに見入った。
一礼した蒔田が、ゆっくりと利休の背後に回る。
尼子と安威の緊張が空気を通して伝わってくる。
背後で蒔田が小太刀を構える気配がする。不審庵は四畳半なので、空間は狭く天井も低い。それゆえ蒔田は、小太刀を使うと決めていたようだ。
利休は首をひねると、蒔田に軽く一礼した。
「お役目ご苦労様です。では、そろそろお暇させていただきます」
利休は脇差を構えると、目を閉じた。
──わしは茶の湯と共に永劫の命を得るのだ。
様々な思いが脳裏を駆けめぐる。
──いざ、行かん。天の彼方に。
「咄!」
次の瞬間、腹に激痛が走った。
(続く)
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