「山猫の死」の考察と感想(ゴールデンカムイ考察)
はじめに
2022年に連載が終了した「ゴールデンカムイ」に登場する「山猫の死」まわりのことについて、最終回の全話無料期間でこの作品を知り、特にスナイパー2人のそれぞれの生き方に惹かれ、資料に埋もれつつ1年くらいあれこれ考察したものの一部です。
熱量が半端ない漫画で、ここまで沼った漫画は過去にないかもしれません。エンタメとしてサラッとも楽しめるし、深く読もうとすればいくらでも読めてしまう漫画だと思います。
原作や、みなさまの解釈とは一切関係なく、こんな見方をする奴もいるんだなとゆるーく読んでもらえると嬉しいです!
さて前提として、ヴァシリを他の登場人物と同様に、自らの生を全うしたという見方で考えていきました。
尾形の印象が強すぎるせいか、一流の狙撃手から一流の画家への転身を成し遂げたという、かなり格好いい設定を持ったキャラクターであることが埋もれている気がしたので、彼に着目して進めていきます。
作中の二人は対等であると読み取っていて、尾形ありき、尾形の弔いのための舞台装置、としてしまうのは残念なので書き残すことにしました。
この考察を書くにあたり、原作90話の贋作師熊岸のセリフ「観たものの人生をガラッと変えてしまうような本物の作品を作りたかった」と原作に見られたキリスト教的思想を土台にしました。
狙撃手ふたりと芸術
狙撃手のふたりですが、最後まで距離を保ち、言葉を交わすことすらないまま狙撃手同士として純粋に向きあい、結果ヴァシリはその後の人生を大きく変えてしまいます。
先の熊岸の台詞でいうところの本物の芸術と出会いのようです。
偶然、心を奪われるような芸術品に出会ってしまったような、そんな距離感にも見えます。そこに言葉はないのに、出会う前後で何かが変わってしまうもの。
尾形は「一流の狙撃手である尾形百之助」を見事に演じ切ったと個人的に思っています。
原作中では役者が役作りをするかのように、一流の狙撃手ならどうするのかを常に考えて行動を選んでいたようにも見え、彼の人生そのものが彼の表現であり、生涯をかけて作り上げた作品のようなものともいえるかもしれないと思いました。
彼は自分を銃を撃つための道具とみている節があったので、狙撃手の命でもある目を撃ち抜いていったのは、アイヌ民族の方々が人が亡くなった時に、その愛用品に傷をつけて一緒に送る風習に重なってもみえました。
銃にもカムイがあるのならば、尾形は好かれて連れて行かれたのかもしれないですね。
彼は最後まで、自分は祝福された存在であるのか?という答えを探し求め続けながら、狙撃手として生ききったのだと思っています。
罪悪感によってあそこまで自分を追い込み、走り続けられたと思うので、祝福に気付いた後では、彼は狙撃手ではいれなくなってしまうような気がしました。
尾形はあの自問自答のとき、自分が欠けた人間であるという前提ですべての出来事を解釈していたことに気づいています。そこからなぜ自身の祝福に結論づけたのか。
おそらく尾形はあの時、そのような生き方を選ぶことがゆるされていた(自由が与えられていた)ことに気がつき、存在していたこと自体が祝福であったことに気づいたのだと理解しています。
尾形の最期に現れた勇作の台詞は「祝福されて生まれた子供です」であって、「〝両親から“祝福されて生まれた子供です」ではないので、そんなふうに解釈しました。(それを踏まえて彼があの最期の選んだのは、彼が罪悪感に囚われた、ごく普通の人間だったということを物語っていると思います。)
狙撃手としてヴァシリは尾形に追いつくことはできませんでしたが、ヴァシリにとって狙撃手は職業的、尾形は人生そのものだったからだと思います。空いた時間にヴァシリは絵を描いているのに対して、尾形は偵察等あくまで狙撃手としての行動をとっています。
追いつけなかったとはいえ、ヴァシリは尾形と対決して「死んでいない」のですから、勝敗は決してないのです。尾形は優勢ではありましたが、勝ってはいない。ヴァシリの中では、尾形が死んだあとも、“勝負“が終わってなかったかもしれませんね。(それに、勝負云々は杉元が判断したことで、ヴァシリの言葉でもないので、そもそも的外れの可能性すらありますが…。)
その後、ヴァシリは狙撃手としてではなく、画家として彼の人生を生きていきました。
画家になりたいという望みに蓋をして、狙撃手をしていた彼にとって、徹底して狙撃手そのものとして生き抜いた尾形の姿は鮮烈に映ったと思います。
同じ狙撃手としての立場からその表現を受け取ることができ、芸術家として大成するほどの感性を持ち、更にそれを曇らせるような情報を持たない存在として、ヴァシリという存在がいたというのは尾形にとっての救いだったな、と思っています。
尾形の命を受け取ったといいますか、二瓶の魂が銃と共に谷垣、チカパシと受け継がれていったような、そんな風にも見えました。
ヴァシリが尾形を追った初めの動機は、尾形を仕留めて狙撃手としての誇りを取り戻すというようなことだったと思うのですが、ビール工場での尾形が狙撃手として完成したあの一発に美しさを見、そこで尾形を追う動機の方向性が変わったように思います。
二瓶がレタラを仕留めようと追って行ったような感覚に近いのではないかと思っています。
尾形は小銃を、ヴァシリは絵画を足がかりに、その人生をかけ、「道」を極めていったのだと思います。ファンブックの名前が、探求者達の記録、ということもあり、そんなふうに思ってます。
ゴールデンカムイのこと
原作は、網走監獄から脱獄した囚人と日露戦争から帰還した主人公が出会うところから始まります。
全編を読んで、ゴールデンカムイは何かに囚われた人達がその中で何か(救い)を求めて生きるお話だったのかな、と思いました。
囚われたままそれを原動力にして生きた人、囚われから解放されて生きた人、また、逆に何かに囚われて生きることにした人。
もともと皆なにかしらの罪悪感(※)、例えば、杉元であれば大切な人たちを助けることができなかった無力感、ヴァシリなら家が貧しいせいで画家にはなれないという諦め、尾形なら家族への罪の意識の他に、存在を祝福されない不要な人間であるという恐れや無価値観のようなものにも囚われていたのかな、と思っています。
※罪悪感とは、尾形の言葉を借りれば、自分は欠けた人間であるという認識、前提、と理解しています
ヴァシリの名前には「王」という意味があるので、元囚人の白石が最後に南の国の王になったように、ヴァシリについても、自身が囚われていたものから解放され、画家としての人生を歩むことを決めたのではないかと考えました。
自らの王、つまり人生を他人や世間に委ねることなく、自らを拠り所とし、その意思、感性に従って一人歩んでいったのではないかと思うのです。
王のように孤高の存在として。
やがて彼は著名な画家となり、多くの人々から冠を被せられることになりました。
最終話を読み終えたとき、山猫の死の一コマの完成度に感動しつつも、なぜヴァシリが一流の狙撃手としての役割を捨てて画家になったのか、正直疑問でした。
17巻でよい狙撃手の条件は、人でなしのように説明されていたこともあり、そんな人間がたった3回まみえただけの相手の死に、人生を変えるほど衝撃を受けるのはおかしくないか?と。
しかも、昔あきらめた夢とはいえ、なんで画家?と。画家は殺人とは縁遠い存在ですよね。
更に言うなら、時代に求められていたのは一流の狙撃手としての彼だし、どこかに所属していれば身分も保証されて金ももらえ、あれだけの腕があれば昇進の可能性もある。
まして画家になることを一度は諦めているので、そんな現実的なことは十分わかっているはずなのですよね。
それなのに後年に名狙撃手としてではなく、著名な画家として名前が残っている。
正直なところ、考えるほどに意味がわかりませんでした。
今の結論としては、そんな人が銃を捨てる決心をした理由として、尾形の最期に対する怒りや悔しさといった反応的な行動、というよりは、それはあくまできっかけで、ヴァシリ自身のもっと個人的な理由、前述のような価値観や考え方の根幹に関わるような変容があったもの、と思っています。
原作にはよく〇〇!(放送禁止用語)が出てきますが、意味は一人で立つ、ということもありそんなふうに思いました。
また17巻で良い狙撃手は殺人に強い興味がある人間と書かれていましたが、そんな性格であれば狙撃手を続けていると思うので、あれは戦場での彼らを他人が評価した記述で、あたかもその人の人格であるようなミスリードを狙ったのかなと思います。
割と普通の人だったんじゃないですかね。彼は。
山猫の死のこと
一般的にいわれている、尾形を忘れず、晩年に描いたものという他にいくつかの見方が出来たので書いていきます。
①狙撃手、そして画家ヴァシリの生(死)
ヴァシリは尾形の死を見届けた後、狙撃手をやめ、画家として歩んでいきます。
ヴァシリの狙撃手としての人生はあの線路の側で終わり、画家としての人生が始まりました。
当時の画家の出自を見れば、実家が裕福だったり身分のある子弟が多い。ましてあの時代に狙撃手をやめて画家になった彼が、平穏に一生を送れたとはとても思えないのです。実際、恵まれた環境にあった画家達にとっても苦難の時代のようでした。
その中で、金も何の後ろ盾もなくひとり画家として歩むことを決め、しかも著名な画家にまでなった彼の生涯も、静かに、そして満足そうに眠る山猫に重ねたいと思うのです。彼が最後まで手放さず、共にあった作品ですしね。
樺太の旅を経て、アシリパさんも鯉登少尉も変化したように、北海道の旅を経て、ヴァシリにも大きな変化があったのだろうと思います。
名前や外見、身分もしがらみも全部置いて、自分のことを誰も知らない外国で、得意の狙撃で一行の役にたちながら、好きな絵を描き、馬と共に好敵手を追った日々は、彼にとって、自身を振り返るためのとても貴重な時間だったと思います。
厳つい見た目は頭巾に覆われてマスコットのようになり、言葉は口の怪我で失い、昔の彼を知る人は誰もいない、それまでの彼を形作っていたアイデンティティががらっと変わって、生まれ変りの暗示のような、そんなイメージもうけますね。
広大なカンバスのような雪原から大きく動き出したヴァシリの物語が、老年に差し掛かったときにあの日の雪原を圧縮したようなカンバス上に、山猫の絵を表したんだなと思うと、とても感慨深いです。
②復活、新しいはじまり
山猫の死は3億円で落札されました。数字で書くと、300,000,000となり、3に10の8乗を掛けた数字です。
コミックスで尾形は8巻、17巻の表紙、ヴァシリは26巻の表紙です。足すと8になります。なので個人的に狙撃手のふたりの関係性に、野田先生は8の意味を込めたかなと思っています。
原作で尾形が亡くなったのは26歳、なのでヴァシリは71歳まで生きたのかな、なんて想像しています。
8という数字は、キリスト教的に復活、新しい始まりという意味とのこと。ヴァシリのフルネームの中に隠れたアシリパさんの名前の意味も、アイヌ語で新年や未来でした。
3は、三位一体。または、3をふたつ用意して、くっつけると8の形になります。0も捻ると8ですね。
あとは、尾形と対戦したのも3回になりますか。
そんなことから尾形は画家ヴァシリの手により絵画として復活し、本物の芸術作品として後年に残ることになった、ということかな。と思ってます。
作品の背景(物語)も絵をみる楽しみではあるのですが、この作品はきっと、それを知らなくても一目見て、誰かの人生を変えてしまうような、本物でもあるのだろうと思います。
③ゴールデンカムイ、救い
ゴールデンカムイの物語が始まったのは、1907年、山猫の死は1940年に描かれたので、ゴールデンカムイのお話が始まって33年後に描かれたものともいえます。
33ですが、キリスト教ではキリストが処刑され、救世主として復活した年齢です。また、宗教は異なりますが、五稜郭戦では土方勢の大砲の隠し場所として、観音像が出てきました。観音はこの世に33通りに姿を変え、人々を救いに現れるという菩薩です。京都の三十三間堂の名前の由来にもなってます。
ゴールデンカムイは、登場人物達がそれぞれ全力で生き抜いたその人生への祝福が描かれた物語かなと思うところもあり、穏やかに眠る山猫に、原作の魅力的な登場人物達の一生を、重ねるのも粋かもな、と思いました。
④なぜヴァシリは山猫と尾形を結びつけたか
ヴァシリは尾形の背景を何も知りません。なのになぜ山猫に尾形を準えたか。
個人的な予測ですが、ヴァシリは脱走兵ということもあり、東欧ではなく西欧で暮らしたのではないかと思います。
ギリシア語で山猫は、アグリオガタと発音しますので、山猫と尾形をそこで結びつけたのではないかと思っています。
この言葉を耳にした時、ひとり狙撃手として生き抜いた、尾形の姿が思い出されたのではないでしょうか。
ヴァシリも、国境守備隊としての任務中、あの雪原にいた山猫を見かけていたでしょうしね。
最終決戦の熊
最終決戦で謎に出てきた熊ですが、ロシアは風刺画などで熊で表されることがあるため、ヴァシリは一部始終を列車でみていた可能性があるかなと思っています。
また、あの熊がいなかったら尾形は最後の自問自答の時間を与えられず、祝福に気づくことが出来なかったと思うので熊さんGJと思っています。
これらはあくまでとある個人の一解釈を書きつらねたものにはなりますが、少しでもお楽しみいただけたなら嬉しいです!
原作で何も語られていない以上、どんな解釈も正解ではないので、私が一番しっくりくるな、というものを色々と書かせてもらいました。
それでは、ここまでお読みいただき、ありがとうございました!