主夫がおうちでセラピストしています「炊事から学ばせてもらっています」
夫婦でセラピールーム「AQUAMIXT」を運営して14年。日々の作業として、炊事ができるのは僕のほうということもあり、お仕事への相乗効果やリフレッシュするために、料理をしています。
レタスから学ぶ「あなたはどうしたいの?」
スーパーマーケットでの買い出しの際、レタス・大根・キャベツは半分にカットして売られていることが多いですね。
半分と1玉では、値段が違います。
ほんの十数円なのですが、売り場で「考える時間」になってしまいます。
確固たる「この料理をこの分量で作ろう」という思いを持って買い物していない場合、お店側の優しさは、買い出しする僕にとって、ある種の「悩ましい時間」になります。
思い切って、レタスを1玉買いました。(思い切らなくても買えますね…)
使い切れるかどうか?という自分への猜疑心もゼロではありません。
「できる・できない」じゃなくて、「やるか・やらないか」って話なのですが、これも「自分がどうしたいのかが試される機会」です。
「海老レタスチャーハン」にレタス一玉は多い…
しかし、半分残してもそれを有効活用する自信はない。
こんな小さな心の迷いもレタスに思うわけです。
躊躇するなら、やっちゃえばいい…と踏ん切りがついて、1玉全部ちぎって
「レタス海老チャーハン」になりました。
レタス盛々で注意したことは、調味料の按配でした。
何か新しい選択をした時は、今までとは違う工夫が必要ですね。
春雨サラダから学ぶ「あなたが納得できる選択は何?」
春雨サラダも作ろうと思ってから、作るに至るまでの道のりがあります。
春雨サラダから、自分軸を持とうって話なのですが…
主役を張るわけでもなく、絶対にないといけない料理でもない。
作ってても、家族が喜ぶ姿をイメージできないわけで。
「春雨サラダ始めました❗」ってお店の看板は見たことなくて…。
その脇役っぷりを思います。
こうなってくると「自分が作りたいかどうか」が、その後の家族への愚痴になるか疲労感になるかが決まってきます。
それを「好き嫌いはなく食べなさい❗」とか「栄養バランス悪くなるわよ❗」と言って、自分の不安を誤魔化し、正当化するのも気恥ずかしいというかベタだなぁ…と思うのです。
誰のためか、何のためか、自分がどうしたいのか、キッチンから問う日々です。
思っていたよりも家族へのウケもよく、自分が創り出していた「ダークストーリー」に自分で驚かされます。
そうした学びがその後のスピリチュアルカウンセリングやレッスンに生きてくるのですから、おうちセラピストの恩恵は大きいです。
(台所で仕事→かまどワーカー)