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花ざかりの校庭 2『piano』
作品、今日もこっちにコピーします
2021jan.12th
最大公約数の話題で伯父と会話していた。
この伯父さんと智恵との世間話の最中、麻理はずーっと聞き耳を立てていたが、天気以外は何も興味をかきたてるものがな
かった。
この間、麻理は舌打ちをしてしまった。
チッ!
まったく迂闊なことである。
一瞬、智恵と伯父の間に水を打ったような沈黙が続いた。
麻理は基本的に空気を読めない。
驚くべきことに、麻理は新聞に目を落としていた。
伯父の目には、彼女は「欠格者」に映っていたのであろう。
伯父さんは目を剥いたまま、
「将棋が好きなんだね?」
能面のような顔で、言った。
麻理は、笑顔で頷いた、
智恵は姉の隣で、事態の進捗をつぶさに読んでいた。
時すでに遅し、
智恵の目にはそう映っていた。
「お父さんは元気かね?」
伯父さんは陰険な目付きになっていた。
麻理は新聞から目をあげて、はい、と頷く。
伯父は鼻をすこし鳴らした。
智恵は気をきかせて、アイスコーヒーを持ってきた。
この時、麻理は口をポカンと空けていた。
「あっ、そうだった」
麻理は独りごちた。
「なにがそうだったんだ?」
伯父さんはすでに、俗世間の仮面を脱ぎ捨てていた。
「お茶、お出しすることすっかりわすれてました」
智恵は戦慄を禁じえなかった。
智恵が持ってきたアイスコーヒーを伯父さんはまずそうに飲んだ。
麻理はあまりこの伯父さんに来てほしくなかった。
このマンションの謄本を調べているという情報が彼女の耳に入っているのである。
この伯父さんは、保険会社に勤めていて、1000万の融資を銀行と交渉しているらしい。
伯父さんが頻繁に彼女たちのマンションに来るようになったのは、一年前からだ。
麻里の父が母と別れる事になったのは、この伯父さんが原因であった。
伯父の魂胆を知り尽くしていた麻里は、母とのいざこざの終息はあり得ないと考えるようになっていた。
「お姉ちゃんヤバくない?」
智恵が上目づかいに言う。
三人の暮らしは、あの詐欺師の伯父におびやかされている。
智恵自身もそれは何気に解りはじめている。
ただ、女3人の暮らしは脅威が具体的にどう言うものか、言葉に出来なかった。
麻里は清美との対立を避けたかった。
清美は勤めには向いているが、麻里のような向こうっ気の強い女ではなかった。
「伯父さんに気を付けた方がいいよ」
かつて、麻里は言ったことがある。
感情に左右されやすい清美は、筋違いな怨みと勘違いしていた。
意味がない。
清美との気まずいやり取りのあと、麻里は一人で夜道を自転車で走った。
アレックスサンジェの自転車。
赤いそれのペダルを漕ぎながら、言い様のない無力感が彼女を襲っていた。
月の光は秘めやかな魔法の引力でもあるのだろうか?
ふいに、瞼が熱くなった。
普段から泣かない彼女が、ポロポロと涙をこぼしていた。
この自転車に乗って、父のいる大阪まで行こうか、と、出来もしないことを思って夜を走る。
国道を走るクルマのヘッドライトが虚ろな渦になって来ては去り、そんな繰り返しが、無性に侘しい思いを加速させた。
麻里は泣きながら、人気のないバス停で自転車を降りた。
スカートのポケットに手を入れた。
財布を開くが、とても新幹線に乗れるだけの金額はない。
自転車を引いて、とぼとぼと夜道をさまよう。
キンモクセイの香りがする。
彼女の学校の校舎まで知らぬうちに来ていた。
野球部のバックネットの陰が見えた。
その向こう側に月の光がみちて、銀色に照らされた講堂が見えた。
麻里は講堂に通じる菩提樹の小路に足を踏み入れた。
芝生の感触がしっとりと心地いい。
風がひとしり吹いた。
誰もいないはずの講堂から、ピアノの音が流れてきた。
麻里は髪をかきあげると、耳をすました。
聴いたことがある。
ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」だった。
まるで少年が何かに焦がれているような想いが伝わってくる。
彼女は、自転車を野球部のボックスの裏において、木々の間を進んだ。
講堂の扉を少し開くと、中で誰かがピアノを弾いているのが見えた。
紺色のシャツを着た少年は瞳を閉じたまま、鍵盤に向かっていた。
「田畑……」
クラスは違うが、彼のことは知っていた。
去年、愛知県の音楽コンクールで準優勝した男の子だ。
麻里は父が音楽をよく聴くこともあって、そこそこ聴く耳は肥えていた。
二拍子、三拍子、
この曲はリズムがとりづらい。
でいて、絵画のようなピアノ曲だ。
田畑は何かに焦がれるように、鍵盤の上で音の絵を描いている。
好きな女の子のこと?
ふいに、麻里は思った。
田畑高志の目蓋が心地好げに譜面を見ていた。
ピアノの音が微かに揺れた。
彼は麻里のことに気づいたのか。
指先が微かに乱れ、音符にして約三拍の分止まっていた。
田畑は麻里の姿に目をみはり、平静をよそおう。
再び細い指先がピアノのコードを踏み始める。
彼は麻里に小さなウインクを送った。
麻里は軽く会釈しておいた。
やがて曲が終わって、彼は言った。
「小寺さんだよね」
麻里は心持ちどぎまぎしながら、
「勝手に入ってきちゃって、ごめん」
「いや」
田畑は譜面をたたんで、立ち上がった。
「いいんだ」
「顔、ぐしゃぐしゃだよ」
田畑高志は真顔で言った。
彼はポケットからハンカチを取り出すと、麻里の頬に当てた。
麻里はたまらなくなった。
「あのね、ちょっと」
また、涙がポロポロと溢れる。
彼女はハンカチを瞼にあてたまんま、高志の胸に顔をよせた。
「ほんとにごめんなさい」
恥ずかしいところを見られているのは分かっている。
高志はなにも言わずに、麻里のことをうけいれていた。
彼にはつきあっている女の人がいる……という噺は知っていた。
「なにかあったんだ?」
田畑高志は言った。
麻里はハンカチを手にしたまま、
「……ちょっとね」
即答で三人暮らしの家族の問題はさすがに話しづらい。
「いろいろあるさ」
田畑はそこまで言うと、麻里の肩にそっと手をやった。
かすかに石鹸の香りがした。
麻里は田畑の腕のなかに溶け込んでしまいたいと思った。
田畑がショルダーバッグからショパンの楽譜がのぞいていた。
「弘田先生に頼んで、使わせてもらってるんだ」
グランドピアノのことだ。
「こんな時間だからビックリしただろう」
高志は笑った。
「今年のコンクールの本番のイメージトレーニング」
「去年出てたもんね」
「知ってた?」
「ええ」
麻里の父が話していた。
ペトルーシュカというバレエ曲だ。
「なんか不思議、こんなとこで会えるなんて」
麻里は伯父のことを話そうかと思ったが、やめた。
あわよくば、彼にあれこれと麻理自身のことを詮索してほしかった。
「クラシック聴くの?」
ホラ、父がよく聴いてたから自然と耳が覚えてて……、
麻里は何気に言った。
田畑は麻里をじっと見ていたが、少し目を逸らして、
「今度は笑ってる」
「えっ?私?」
「うん、さっきまで泣いてたのに」
「バカみたい、私」
「初めて笑ってる顔、見たよ」
二人は野球部のボックスの裏を歩いていた。
麻里は置いていた赤い自転車を担いだ。
「今のマンション、私の居場所なくって」
麻里は向こう側に広がる街の灯火を眺めながら、一言、口にした。
切実な何かを彼は感じ取ってくれたのか、田畑は少し黙ったあと、ポツリと言った。
「コンクールは今年で止めにするつもりなんだ」
「あんなに上手いのに?」
高志の鼓動が聞こえてきそうな距離で、麻里はこの少年と話していた。
手にした彼のハンカチの完食は湿っぽかった。
さっきの自分の涙だ。
銀色の菩提樹の森で、微かに鳥の鳴き声が聞こえた。
この森は昼間、空を飛び回っていたあの子達の夜の宿り木なのか。
この世界にもし、神様がいるのなら、願わくば時間を止めてほしいと彼女は祈りたかった。
二人はバス停まで歩いていった。
「あのね、私、この自転車で大阪まで行こうと思ってたの」
「バカだなあ」
「そうね、嫌なことだらけだもん」
「実家?」
「母と対立してるし」
「家族いるだけいいじゃないか」
「田畑くんだっているでしょう」
田畑高志は闇をじっと観ていた。
「いなくてね」
麻里は一瞬、口をつぐんだ。
自分はいけないことをいってしまったろうか?
麻里は黙りこんでしまった。
自転車のハンドルを握った手のひらにひんやりと汗を感じる。
「じゃあな、小寺」
田畑は麻里に手を差し出した。
握手なのだろう。
麻里が手をとると、細く繊細な指の感触がした。
「じゃあ、また」
「昼の学校で」
通りにバスがやって来た。
田畑はバスに乗ると、ガラス越しに手をあげた。そして、何か言っていた。
麻里は首を傾げた。
「何?田畑くん!」
もう一度、高志は何かいったがガラス越しで聞こえない。
彼はそれでも笑顔で手を振った。
夜道をバスは去って行った。
麻里はバスが走り去ったあとも、じっとその後を見ていた。
さっき聴いた、亜麻色の髪の乙女の最後の一瞬のフォルテ、そこに何が見えるのだろう。
確かに彼は何かを見ていたのだ。
……どんな女性なんだろう。田畑くんがつきあっている人……。
麻里は思った。
ふいに、携帯の音がした。
現実の世界に引き戻された、
……はい、私。
父からの電話だった。
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