【昭和・平成の重大事件】三菱重工爆破事件~東日本反日武装戦線「狼」の犯行
今では、すっかりオシャレでクリスマスを前にして盛り上がっている丸の内。
丸の内仲通りではカフェ付近にツリーがとてもきれいに飾られています。
昭和期にこんな大事件があった痕跡すらありません。
しかし、昭和49年、日本中を恐怖に陥れ、震撼させた出来事がありました。
当時の模様をWikipediaの資料より引用しています。
三菱重工爆破事件(みつびしじゅうこうばくはじけん)は、1974年(昭和49年)8月30日(金)に日本の東京都千代田区丸の内で発生した、東アジア反日武装戦線「狼」による無差別爆弾テロ事件で、連続企業爆破事件の一つである。東アジア反日武装戦線の呼称はダイヤモンド作戦。虹作戦で使用する予定であった爆弾を流用した。
事件の背景
東アジア反日武装戦線は第二次世界大戦以前の日本を「完全な悪」と捉えており、太平洋戦争を「侵略戦争」として憎んでいた。そのような思想を元に、戦前・戦中に日本の重工業を支え、戦後も日本を代表する重工メーカーであり、防衛産業を手掛け、またアジア・ヨーロッパ・北アメリカなど、世界進出を行っていた三菱重工業は、犯行時点においても「帝国主義(を支援する企業)」であると断定。グループの政治思想に基づき「経済的にアジアを侵略している」として爆破テロのターゲットとするに至った。
東アジア反日武装戦線は、1974年8月14日決行予定だった昭和天皇暗殺作戦「虹作戦」に失敗していた。しかし、翌8月15日に在日韓国人で朝鮮総連系団体活動家の文世光が朴正煕大統領暗殺を企てた文世光事件を起こした。彼らは虹作戦を断念したことを不甲斐なく感じ、文世光の「闘争に呼応するため」として新たな爆弾テロを進めた。
概要
1974年8月30日、「狼」の実行犯4人は、午後0時25分ごろ三菱重工業東京本社ビル(現:丸の内二丁目ビル)1階出入り口のフラワーポット脇に時限爆弾を仕掛けた。これは三菱重工業東京本社ビルと、道を隔てて反対側にある三菱電機ビル(現:丸の内仲通りビル)の両方を破壊する意図からであった。
午後0時42分頃、三菱重工ビルの電話交換手に「三菱重工前の道路に2個の時限式爆弾を仕掛けた、付近のものは直ちに避難するように、これは冗談ではない」旨の怪電話がかかってきた。
直後の午後0時45分に時限爆弾が炸裂した。この爆発の衝撃で1階部分が破壊され玄関ロビーは大破、建物内にいた社員が殺傷されたほか、表通りにも破片が降り注ぎ多数の通行人が巻き込まれ死傷した。三菱重工業東京本社ビルの窓は9階まで全て割れ、道を隔てて反対側にある三菱電機ビルや、丸ビルなど周囲のビルも窓ガラスが割れた。また、表の道路に停車していた車両も破壊され、街路樹の葉も吹き飛ばされた。
この爆風と飛び散ったガラス片等により、三菱重工とは無関係な通行人を含む死者8人(即死5人、病院収容後に死亡3人)、負傷376人を数える戦後日本最悪の爆弾テロ事件となった。この被害は、オウム真理教による松本サリン事件(1994年)と地下鉄サリン事件(1995年)までは最大規模であった。この時の爆発音は新宿でも聞こえたという。
このように甚大な被害が出たのは、後述のように爆発物の質量が大きかったこともあるが、通常放射状に拡散する爆風がビルの谷間に阻まれ、ビルの表面を吹き上げ爆風の衝撃波で窓ガラスを破壊し、粉々になった窓ガラスが道路に降り注ぎ、割れたガラスが凶器になったほか、ビル内に入った衝撃波も階段などを伝わり窓から噴出し、ビル内部をも破壊したためである。また爆心には直径30センチメートル、深さ10センチメートルの穴が開いていた。この爆発の威力は陸上自衛隊の調査によれば、敵軍侵攻を食い止めるために用いる「道路破壊用20ポンド爆弾よりも強力だ」としていた。
犯行声明(全文)
逮捕と裁判
視察対象とされた一名に対する捜査をきっかけに、1975年5月19日にメンバーが一斉に逮捕された。この時の逮捕容疑は韓国産業経済研究所爆破事件であった。
佐々木規夫と大道寺あや子は日本赤軍によるクアラルンプール事件とダッカ日航機ハイジャック事件によって超法規的措置で釈放・逃亡するも、リーダー格の男2人(大道寺将司、益永利明)の裁判は続行となった。
裁判で被告人らは「爆弾の破壊力が予想できなかった。また予告電話をかけており、殺意は無かった」と殺人罪の無罪を主張した。これに対し検察庁は捜査段階で「死傷者が出てもやむを得ない」と供述していたことや、客観的に見ても白昼人通りの多い場所に置いた上に、予告電話をしても爆弾の種類や場所を明示しておらず、短時間で建物内や通りにいる人々を避難ないし爆弾の無力化は不可能だとして、「故意」であるのは明らかであるとし、殺人罪は成立するとした。
裁判所は「天皇殺害目的の爆弾を転用したことは当然、三菱重工爆破事件でも殺意が適用される」「爆破数分前の電話は予告とはいえない」「爆破予告が有効にならなかった場合には時限爆弾を止める手段を講じておらず、爆破させる意思に変わりはない」などとして、1987年3月24日に最高裁において、リーダー格の男2人(大道寺将司、益永利明)の死刑判決が確定した。戦後の新左翼事件における死刑判決確定は初めてで、公安事件における死刑判決確定は三鷹事件以来であった。
大道寺は2017年5月24日午前、東京拘置所で病死(68歳没)したが、現在、益永は確定死刑囚として東京拘置所に収監されている。国外逃亡をしていた浴田由紀子の連続企業爆破事件の裁判が再開された時は、死刑が確定していた大道寺と益永を証人とするために拘置所で出張尋問を受けた(弁護人は大道寺と益永を法廷に出廷させることを要求したが、死刑囚の逃亡懸念から裁判所に退けられた)。なお、判決確定後20年経過しても大道寺と益永の死刑が執行されなかったのは、「事実誤認」を主張し、再審請求という司法手段を講じている[注釈 2]こともあるが、法務省関係者によれば、佐々木ら共犯が国外逃亡しているのも理由の一つだという。
この事件がきっかけとなって、犯罪被害者に対する補償制度の確立を求める声が高まり、1980年に犯罪被害者等給付金の支給等に関する法律が成立した。
佐々木規夫と大道寺あや子の裁判は「公判停止」となり、現在も国際指名手配となっている。
当時、小学生だったわたしは大きな衝撃を受けました。
のちに丸の内勤務となったわたしは、そのときの模様を、年配の上司から聞いています。
『いやぁ、すごかった。ウチの会社のビルがひっくり返るほど揺れて、大地震が起きたかと思ったよ。もしくは富士山の噴火。。。三菱重工はすぐそばだったから、みんなパニックで叫んでいたんだ。となりの三菱電機から爆弾が運ばれたそうだ』
事件以降、丸の内では、警備が厳重体制となりました。
どこへ行くにも、身元のチェックが行われていたものです。
幸せで平和なムードの丸の内を見るたびに、このような凄惨な事件があり、危険思想を持った人たちがいたことを忘却してはならないと思うのでした。
わたしが大学生のときはゼミ旅行の帰りに、中核派による「浅草橋駅焼き討ち事件」があり、国鉄(現・JR)が止まりましたし、決して、このようなテロリズムとは無関係な日常でなく、一歩間違えれば、被害者になる可能性もあったわけです。
わたしたちは、このような暴力に屈してはならない。
また、このような身勝手で、罪なき人々を陥れる犯罪行為を断じて許してはいけないのです。
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