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『竜とそばかすの姫』感想&考察:10代に見て欲しい青春劇

注意:この記事はネタバレを多く含みます。

「竜とそばかすの姫」。個人的にはとてもツボでした。

セーラー服のショートカット少女、心に落ちる暗い影、甘酸っぱい青春劇、恋愛、友達、それに加えて、正体を隠して仮想世界の歌姫になる、歌で人の心を救う展開など、胸熱と言って良い映画でした。

ただ、脚本にはいささか残念なところもあり、この記事ではそのあたりを掘り下げて補足していきます。

脚本の骨子

(1) 母親が自分ではなく見ず知らずの子を助けて亡くなった→自分は本当に母親に愛されていたのか→低い自己肯定感。
(2) 大好きだった歌を歌おうとすると母親を思い出して吐いてしまうほどのトラウマを感じていた。
(3) しかし「現実」とは違うもう一つの世界「U」でなら、そのトラウマは感じなかった。なぜなら「Belle」は自分ではない、もう一人の自分だから。
(4) Uで認められるBelle。回復していく自己肯定感。
(5) 竜登場。自己肯定感が低いことが自分と重なる。助けたいという思い。しかし竜を助けるには、Belleという存在を捨て、自らの身をネットに晒す必要があった。有り体に言ってこれは「自殺行為」であった。
(6) 葛藤の末、鈴は自己犠牲を選択した。それはかつての母親と同じであった。それが出来たのは、母親からしっかり「優しさ」を受け継いでいたからであり、周囲に見守ってくれる人たちがいたから。自分は母親に愛されていた。
(7) 自己犠牲かに思われたその行為は、むしろプラスとなり、Belleではない「鈴」自身を輝かせた→自己肯定感の完全復活。
(8) 完全復活した鈴は、最後の敵と対峙し、見事勝利を収めた。家庭も恋愛も、なんだかよくなっていく気がする。

「竜とそばかすの姫」の鈴の心情を中心とした脚本の骨子はこんなところでしょうか。

シンプルに言えば「10代特有の自己肯定感の低さを克服するお話」を、「母親を亡くした喪失感」や「ネットの匿名社会」「歌」という道具を使って、多くの人に共感して貰えるストーリーに仕上げた作品です。

この流れ自体はとても良いと思いますし、ある程度は成功していると思います。

荒を感じた部分

しかし、細かい部分でどうしても、荒を感じます。
その辺さえもっとしっかりと練られていれば、この作品は傑作に成りえたと思うので、なおさら残念です。

一つは、Belleの成功と自己肯定感の回復の関係の描き方が足りないことです。
「Belleでいくら成功しても、現実の自分はいまだに人前で歌うことすらできない苦しさ」という描写がありませんでした。

それ一つ入れるだけで、最後にアンベイルされて鈴の姿で歌うことの「恐怖」がより一層際立ったはずなのに、です。

物語序盤のBelleは、成功し、誰もが羨む存在となりました。鈴も満足しているような感じで描かれています。そこで突然竜の話になるので、「あれ? 鈴のトラウマの話はこれで終わり?」という違和感があるのです。まるで、ここで鈴のトラウマは一旦解消されたかのように見えてしまいます。

なので、アンベイル後の歌唱シーンで鈴が震える描写を見て、「あ、まだトラウマ克服できてなかったんだね」と思ってしまいました。

例えばもし、初の大規模ライブがある程度進み、クライマックスの瞬間に竜が追われて飛び込んでくるとします。そしてBelleのステージに衝突し、Belleが「だ、大丈夫ですか!?」と声をかけますが、竜が拒否してこう言ったらどうでしょう。

「偽善ぶるな。どうせおまえも所詮、現実では何もできないクズのくせに。」

竜は鈴の事を知っていて言ったのではなく、自分の境遇を誰も助けてくれないことを思って言っただけなのですが、鈴はその言葉に見透かされたようなショックを受け、落ち込みます。実際、現実世界で歌おうとしても、やっぱり自分は歌えなかったからです。そこから竜に興味を持ち、もう一度話を聞きたいと思うようになります。

・・・そんな感じの繋ぎがあったら、脚本はよりしっかりとしたものになったのではないでしょうか。

もう一つ、ネットでは、実はあのインターネット正義マンこと「ジャスティン」が、実は竜の父親だったのではないか(父親は竜の正体は知らない。竜はジャスティンの正体が父親だと知っていて邪魔をしていた)というものがあります。

ジャスティンと父親の声が異なること、わざわざ左利きと右利きという違いを見せて「別の人です」という見せ方をしていることを考えると、この説は恐らく間違いで、監督としては「こういう人が、ネットにも現実社会にもいるが、どちらも本当の愛の前では無力」という見せ方をしたかったんじゃないかと思います。

ただ、ひょっとすると制作段階では実際にジャスティン=父親だった可能性もあり、尺の関係で中途半端にそこを語るよりはボカしておいた方がいいという判断になったようにも思います。

しかし、作中「竜が暴れる理由」に共感ができず、人によっては「いくら虐待されていたからといって、ネットで迷惑をかけて暴れる理由にはならないよね」という感情を抱いた気もします。この違和感を払拭する設定として、「ジャスティン=父親」というのは割と良い設定だった気もします。

ちょっとした演出で尺も使わずにこのあたりは表現できたのではないでしょうか。ぶっちゃけ、「竜の正体は誰?」のところで、3人も容疑者を出す必要はなかったと思っています。あそこで無駄に尺を使っていたのではないかということです。ジャスティン=父親というのは、最後の最後のシーンで、父親が鈴の顔を見て「おまえは…」と怯える、というだけで表現できたと思います。

それをやめて「父親とジャスティンは別人」とした理由もわからなくもないのですが。所謂インターネット正義マンは、「ごく普通の人々」であると良く言われます。しかしこの父親は、恐らく突然妻を亡くして一人で子供2人(しかもそのうち1人は恐らく知的障害を持つ子供)を育てながら仕事をしなくてはいけなくなった、ある意味社会的弱者の一人でもあります。ですから、それらを同じ人物だとしてしまうと、細田監督の思いとは若干ずれてしまうという事だったのかもしれません。

「田舎の人のつながり」と「自立すること」について

「おおかみ子どもの雨と雪」でも感じたことですが、細田監督の中には「弱者救済」についての明確な意思があるようです。

それは、一言で言うなら「田舎の人のつながり」と「自立すること」です。

「おおかみこども」では、母親は、誰にもわかってもらえない辛さを抱えつつ孤軍奮闘する姿が描かれています。都会ではうまくいかなかったそれは、田舎に移り、地域とのつながりが生まれることで少しずつうまくいくようになりました。

しかし同時に描かれているのは、母親もこどもたちも、基本的には「自分たちでできる事を精一杯やることで前へ進んでいく」ということです。そこに描かれていたのは「助け合う」だけではなく、「自立すること」が大事だというテーマでした。

そしてこの「竜とそばかすの姫」でも、同じものを感じました。

鈴は田舎で暮らしており、いろんな人に見守られています。しかし、竜は都会に住んでおり、完全に孤立無援の状態です。上にも書いた通り、竜の父親自身も、恐らく孤立無援の(但し無理をして外面は保っている)状態だったと推測できます。

あの話は別に田舎と都会にわざわざしなくても成り立つ話のはずで、そこを敢えてそうしているのは、監督の中に「田舎は人のつながりが残っていて素晴らしい」「都会では失われてしまった」という想いがあるからでしょう。

そして、最後に鈴が「単身で」敵地へと乗り込むのは、「自立することこそが尊い」と監督自身が思っているからではないかと思います。

周囲の手助けは、あくまでも「自立する」為のものでしかありません。一緒になって問題解決をしてしまっては、カタルシスは得られないということなのだろうと思います。

ただ今回のケースについては、「流石にそれは危険すぎるだろう」とは思いました。

鈴がたった一人で考えて一人で行動していたのならそれもアリだったのですが、周囲には母親の友達である大人がたくさんおり、あまつさえ駅まで車で送ってすらいます。

「一人で大丈夫かい?」みたいな話があったとして、「いやいや、大丈夫じゃないから。ついていってあげないとまずいから」という感じです。

なぜこうなったかというと、冒頭の母親の自己犠牲シーンとの対比の為でしょう。
あの時、周囲の人々は「傍観者」でした。
なので、ラストシーンも「周囲の人は傍観者」にしないと対比にならなかったのだろうと思いますが…。

この結果、「見守ってくれていた人達」のはずが「ただの傍観者」に成り下がってしまい、後味の悪い見せ方になってしまいました。もちろん、監督としては「自立の為に見守るということが大事」ということだとは思うのですが。

ここは、「車で送っていくシーン」の時に、こういうシーンがあったらよかったと思います。

母の友人「(運転しながら)鈴ちゃん。あたしはさ。あんたのお母さんが川に飛びこんだ時、ただの傍観者だった自分をずっと後悔してるんだよ。自分にもできる事がきっとあったんじゃないかって。だから今回は自分もできる限りの手伝いをさせてちょうだい。現地まではいけないけど、現地の警察に連絡は入れといた。いって助けてあげな。でも無理はするんじゃないよ!(すっと旅費を差し出す)」

あと、父親は、家で待ってるのではなく、実は車をかっ飛ばして現地へ行ってた描写が欲しかったところです。

竜と鈴が抱き合ってるシーンの後、警察が来て、そこへ父親が車で到着して、という感じで。

「おかえり」のシーンも、その場のシーンとしてちゃんと構成できたと思います。
(ぶっちゃけ、帰りの電車のシーンはなんか間延びしていましたし)

ただ、恐らく、細田監督の中でその辺を脚本として昇華できなかったのではないかと思います。下手な見せ方をしてしまうと、傍観者でいることへの痛烈な批判になりかねないし、傍観者が大多数である現実を考えると、この映画を見ている大半の人も本来「傍観者」だったはずなので、そこをあまり直接的に批判するのはまずい、という判断なのかもしれません。

また、細田監督の中に、警察権力や国家への不信があるのかもしれません。もしそうだとしたら、さすがにナイーブすぎるとは思います。

脚本がしっかりしてないからこの作品は駄作か?

全体的に、「この脚本でいいだろう」と思ってしまう細田監督の甘さというのを強く感じたのは正直なところです。

やりたいことはわかるし、それに理解を示してちゃんと主張を保った上で、ストーリーの説得力など細かい部分を調整してくれる脚本家がいるはずです。

ので、どうか次回からはウマのあう脚本家を入れてほしい所です。

とはいえ、だからといってこの作品が駄作かというとそうではないと思います。

多くの人が言っているのでこの記事では触れませんでしたが、圧倒的な映像美と歌声、音楽は本当に最高です。映画館でみるべき作品でしょう。

そして、この脚本も、骨子はなんとかなぞれていますし、個人的には破綻しているとまでは思っていません。

細かい部分は観る人の解釈、もっと言うと「観る人の善意」に委ねているとも言えます。

実は省略されていただけで、今回私が補足したようなシーンが本当はあったと考えれば、なるほど納得です。

幼い頃に母親が亡くなるという設定は感情移入の手段としては安易とは思いますが、片親家庭は今とても多く、特に若い人には刺さる人は多いと思います。

題材としても、ネットの匿名社会というものをうまく使っています。ネット社会の傍観者達は、現実社会の傍観者達と同じです。母親が亡くなった時、鈴には匿名の傍観者達からの勝手な批判の声ばかりが届きました。

しかし、Belleとなって分かったのは、勝手な批判の声以外にも、必ず応援してくれるファンの声が存在するということです。彼らは、鈴がオリジンを晒して歌ったとき、心からの拍手を送ってくれました。

実は、母親の自己犠牲精神に対しても、鈴には見えなかった称賛の声があったに違いありません。実際、母親の友人を含む周囲の人々は、母親の意思を継いで鈴を支え続けてくれました。

細田作品に通じる、そういう前向きなメッセージ、人間賛歌がこの作品にも感じられます。

細かい部分に囚われず、不足部分は自分の想像で補いながら、この圧倒的な映像美と歌声、そして鈴の成長を見守ってみてください。

あと、鈴の友人達の甘酸っぱい青春物語も、必見ですよ。

10代の若い子達にぜひ、見に行ってほしいですね。



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