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1999年10月10日

「新日本プロレスの若手レスラーは他団体のレスラーとは肉体が違う。だから肉体だけを見れば『この人は新日本の若手』だと分かる」

これは元・週刊プロレス次長の宍倉清則氏が自身のコラム「感動させてよ!」でまだデビューして1年弱だったヤングライオン時代の真壁伸也(現・刀義)の写真を掲載して綴っていた内容である。

真壁の写真から「練習の賜物」によって築き上げられた鍛えられた強靭な肉体が映し出されていた。

確かに新日本の若手レスラーと他団体の若手レスラーではまず肉体が違う。練習量の違いなのか、闘魂なのかは分からないが、新日本の若手レスラーからは肉体に説得力が満ちている。技術やスタイルについて道場の体制や指導者の方針によって変わっていったが、「若手レスラーの肉体」に関しては時代が経過しても変わらない。これこそが新日本の伝統ではないだろうか。

その記事を目にしてからまた1年ほど経った1999年10月10日・後楽園ホール大会。翌日(1999年10月11日)に東京ドームでビッグマッチを控えていた新日本から3人の新人レスラーがデビューする。

井上亘
柴田勝頼
棚橋弘至

1998年3月に新日本に入門した井上と柴田は1999年7月21日の札幌中島体育センター大会でのバトルロイヤルでプレデビューを果たしていた。二人ともプレデビューの段階から負けん気を全開にしていた。特に柴田は試合後に今後の目標として「(獣神サンダー・)ライガーを倒す」と呼び捨てで言い放ち、実にヤングライオンらしい新人レスラーだなと感心したものである。リングに上がれば新人もベテランもない。柴田の心意気はデビュー当初から目を見張るものがあった。

井上は1973年8月27日東京都出身。幼少期はアトピー性皮膚炎で苦ししんだが、虚弱体質克服のため学生時代は陸上、水泳、野球といったスポーツに励んだ。東京電機大学在学中にアニマル浜口トレーニングジムに通い、プロレスラーとしての修練に励み、1998年3月に新日本に入門した。

柴田は1979年11月17日三重県出身。父は元プロレスラーであり新日本のレフェリーも務めた柴田勝久。高校から始めたレスリングの推薦で福岡大学への進学が決まっていたのだが、「大学に行ったら4年間プロレスラーになれない」との思いから高校の恩師と相談して断念。1998年3月に新日本に入門した。

井上と柴田は互いのデビュー戦の対戦相手となった。井上と柴田は苦楽を共にした同期だが、棚橋は1999年4月に新日本に入門しているので、デビュー戦は同日でも入門時期で考えると二人の後輩にあたる。

棚橋は1976年11月13日岐阜県出身。立命館大学時代はプロレス同好会に所属しレスリング部の練習に参加していた。「学プロ」上がりのヤングライオンは真壁以来二人目。っまだ「学プロ」に対して風当たりが強かった時代であり、当時の現場監督・長州力が「学生プロレス嫌い」だったため、当初はレスリング部出身を名乗り、「学プロ」経験者であることを公言せずに後年、「学プロ」経験者であることをカミングアウトしている。

棚橋は先輩・真壁とのデビューを迎えた。真壁は棚橋にとってはいい兄貴分である。新人時代は「お前、頑張っているな。これで美味しいものを食えよ」とお小遣いを渡して労ったというエピソードがある。また真壁は先輩レスラーの理不尽ないじめに遭遇した辛酸の新弟子時代を過ごした苦労人。真壁が選手寮長になってから伝統と化していた理不尽ないじめはなくなったという。

26歳(当時)の井上、19歳(当時)の柴田、22歳(当時)の棚橋。1999年10月11日、3人の新弟子がヤングライオンとなり、「四角いジャングル」新日本のリングでデビューを果たした。

〇井上亘(7分40秒 チキンウイング・アームロック)柴田勝頼✕

井上と柴田、同期二人が互いがもてるものをリングで爆発させたデビュー戦。最後は井上がチキンウイング・アームロックが極まり勝利。デビュー戦で初勝利を挙げた井上は歓喜の表情。一方、当時テレビ朝日系で放送されていたスポーツ情報番組の密着がついていた柴田は悔しがっていた。その後、井上と柴田はシングルマッチで闘えばバチバチでやりあい、タッグを組めばジュニアヘビー級戦線で新風を起こしてきた。2001年のジュニアタッグリーグ戦に出場した井上と柴田のコンビは獣神サンダー・ライガー&エル・サムライに大金星を挙げた。試合は井上がライガーに得意技のトライアングルランサー(飛びつきストラングルホールドγ)が決まったことにパートナーである柴田が「嬉しいけど、悔しい!」と複雑な心境を吐露していた。ヤングライオン時代の井上と柴田はデビュー戦から燦然と輝いていた。

〇真壁伸也(6分55秒 逆エビ固め)棚橋弘至✕

棚橋は真壁とのデビュー戦を迎え、敗れた。誌面で読んでの私の第一印象は「この人の肉体はすさまじい」だった。とにかく筋骨隆々で鍛えに鍛えられた肉体の鎧を身にまとっていた。個人的には「ジュニアの超竜」と呼ばれた高岩竜一を彷彿とさせるようなパワーファイターになっていくのかなと感じた。新人時代の棚橋は「肉体が名刺代わり」だった。

棚橋は海外武者修行を経験していない稀有なレスラーである。2000年9月9日栃木大会で左手中手骨骨折を負い長期欠場。半年後の2001年4月19日後楽園大会にて復帰を果たす。欠場期間中のトレーニングによって肉体がさらにビルドアップした棚橋はコスチュームを黒のタイツから赤のスパッツに変更、さらに長髪となりヤングライオンを卒業する。同期入門のスーパールーキー鈴木健想との「タナケンコンビ」「キング・オブ・ザ・ヒルズ」で新日本をトップ戦線に肉薄する活躍を見せた。


赤のスパッツにコスチュームを変えてからの棚橋は、若くしてプロレス界の論客であることが判明する。2001年8月に発売された『純プロレス主義! 週刊プロレススペシャル5』(ベースボール・マガジン社)に掲載されたインタビューの中で当時24歳の棚橋が考えるプロレス論が披露されている。


「僕もフィジカルな面が先に走っちゃってますね。フィジカルな部分じゃなくて、プロレスラーに必要なのはそれを除いた部分なんですけどね。だから僕は体のことをどうのこうの言われるのは嫌なんですよ。僕の体はスタンダード。いちいち『マッチョ』とか騒がれるものじゃないです。ほっといてくれよ、と(笑)。だいだい肉体改造とかおかしいですよ。特訓で改造とか話になんないですね。やる気や情熱は自然と体に出るものでしょう。だからプロレスラーが努力をウリにしちゃダメですよね」

「プロレスには闘いがなければダメだと思うんです。試合ではなく闘い。他のスポーツなら試合といえば勝ち負けを競えばいいんですけど、プロレスは試合結果がすべてではない。プロレスという枠組があいまいな分だけ自由にいろいろな闘いができると思うんですよ。フォールを奪いにいくもいいし、関節をとりにいってもいい。バックの取り合いの勝負ひとつでも見せられる」

「肉体的な闘いもあれば、相手の土俵に上がるか上がらないかの精神的な闘いもある。いろんな局面で闘いがフィジカルな面、スピリチュアルな面、様々に折り重なってプロレスの試合を成立する。人間対人間の要素が大きいのがプロレスの魅力でしょうね」

「僕は詰め将棋のようなプロレスをしたいんです。今のプロレスは少し単調。最後に大技を交互に出しあってどちらが先にバテるかっていうタフマン大会。だからプロレスは他の競技に比べて予定調和っぽいって言われるんです。一瞬の隙をついて勝ちを狙う詰め将棋のようなプロレスなら、例えば相手が格上の先輩や体格差があっても気の抜けないスリリングな攻防ができるんです」
 「僕の立場としては純プロレスは否定しませんが、闘いがあるスタンスをとりたいんですよ。今の時代は認識として格闘技=真剣勝負、プロレス=予定調和って二元論で語る人が増えていますよね。でもプロレスは予定調和って一言でかたづけられるほど甘いものじゃないですよ。少なくとも僕の目指すプロレスは違います。そういう意味では純プロレスって言葉はあまり好きじゃないです。純プロレスというと、暗に『強くなくていいよ』とか『プロレスラーはプロレスができればいいよ』って言われてるみたいな感じがして」

『純プロレス主義! 週刊プロレススペシャル5』(ベースボール・マガジン社)

棚橋が頭角を現すと、「俺を忘れるな!」と言わんばかりに抗ってきたのが柴田だ。20代の棚橋が藤波辰爾路線なら、20代の柴田は喧嘩ストロングスタイル。互いの主張は新人時代から一貫しているが故に、交わることはなかった。

2003年12月に発売された『プロレスは死なない! "明るい近未来”への道しるべ  週刊プロレススペシャル 10』(ベースボール・マガジン社)において柴田は自身のプロレス論を語っている。

「入る前から新日本プロレスは強いってイメージ。レスラーは強くないといけない。バロメーターは喧嘩したら勝てねぇなと思えるかどうか。ボクが入ってこの人怒らせたら怖いって思ったのは石澤常光さん(ケンドー・カシン)ですね」

「オレが新日本に入ってから信じていたものがことごとく崩された。それ自分が強くなればいいんだなって。でもデビュー当初は違和感がありましたよ。一生懸命やってたけど、新日本に対してこれでいいのかな?っていう。プロレスってこういうことなのかなって。でもプロレスラーがいちばん強くなきゃいけないとはずっと思ってきたし、いまでも思ってます」

「いまの新日本って弱いじゃないですか。だったら守るとかじゃなく、ぶち壊していけばいい。それが新日本プロレスのためでもあるような気がしますけどね」

「プロレスってなんなの?ってなった時に『闘い』って答えるのか、『プロレスはプロレス』ってヘンな逃げ方をするのか。胸を張って『プロレスは闘い』って言えなきゃいけない。新日本プロレスはむかしから『キング・オブ・スポーツ』って言っているんだから」

「オレはあんまりアントニオ猪木さんの試合を見てないですから。でもなにが新日本プロレスでなにがアントニオ猪木かっていうのは、なんとなくわかってました。オレの考えと猪木さんが言っていることが近いだけじゃないですか。そこは新日本プロレスだからってことに繋がると思う」

『プロレスは死なない! "明るい近未来”への道しるべ  週刊プロレススペシャル 10』(ベースボール・マガジン社)


棚橋と柴田がヘビー級で活躍する中で、ジュニアヘビー級で闘い続けたのが井上である。2002年10月から目の治療のために長期離脱。翌2003年の7月に戦列復帰を果たした彼はロングのパンタロン姿にコスチュームを変えた。2005年に金本浩二とのコンビでIWGPジュニアタッグ王座、2007年12月にIWGPジュニアヘビー級王座を獲得し、2008年には「BEST OF THE SUPER Jr.」を優勝を果たす。ジュニアヘビー級のトップレスラーとして着実に結果を残してきた井上だったが、不器用ながらも燦然と輝いていたヤングライオン時代と比べるとその光を増すことはなかった。

新人時代から極度の緊張しがちと語っていた井上は礼儀正しく実直で真面目な性格である。その性格がリングで良くも悪くも出てしまっていた。

「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」

これは井上の座右の銘だが、彼のレスラー人生は苦悩の連続だった。だが一瞬でもいい。歓喜に浸りたいという思いでリングに上がっていたのではないだろうか。

2008年にヘビー級に転向を果たすも低迷が続き苦しんでいた井上だったが2010年5月に永田裕志との青義軍コンビでIWGPタッグ王座を獲得し、同年の「G1 TAG LEAGUE」では永田とのコンビで見事に優勝を果たす。

優勝が決まった試合後、満員の観客から「井上」コールが飛び交う中で井上がとびきりの笑顔で優勝トロフィーを受け取る。すると永田が「井上、この声援はお前が自分で起こした声援だ。俺と組んで1年間、辛かったよな。お前の目を信じて、お前を信じてよかった。お前にいっぱいのものをもらった。ありがとう」と涙で声を詰まらせていた。

さらにバックステージで永田は「あいつはあぁやって、ファンと一緒に喜ぶことを目指してずっとやってきたから。あぁやってファンが囲んでくれてる中で、1人1人に感謝してさ。それをずっと切に願ってたんだ。あいつは本当に夢というか、目標だったんですよ。もう気が済むまでやってほしいですね。上(バルコニー席)まで行って上のお客さんまで握手して、それができなくて悔しくてずっとそういう状態にいたからね」と語った。

「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」が叶った瞬間、井上の笑顔は燦然と輝いていた…。



あの後楽園ホールでのデビュー戦から25年が経った2024年。

棚橋はその後、自他ともに認める「100年の一人の逸材」と化し、新日本プロレスを代表するプロレスラーに成長を遂げ、団体やプロレス界のエースとして活躍。2023年12月には新日本プロレスリング株式会社代表取締役社長に就任。プレーイングマネジャーとしてリング内外で躍動している。新日本のために、プロレス界のために棚橋は今日も全力プロモーションを行っている。

僕は……仕掛けますよ。ファンの方の想像している斜め上を行きますから。猪木さんの仕掛けに近いこともやりたいという気持ちは強いですね。僕にとって猪木イズムは「見る前に飛んでしまえ」「成功するかどうかわからないけど、やってしまえ」だと思っていて、チャレンジングなことをやっていきます。ただ経営を丸投げはしたくないので、坂口さんのような堅実さも大切にします。今まで誰も成し遂げていないレスラーとして活躍しながら、会社経営もうまく乗りこなす社長レスラーになるんじゃないかなという予感はしています

新日本・棚橋社長が語る「プロレスの未来予想図」 「猪木さんの仕掛けに近いこともやりたい」 | スポーツ | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)

レスラーと社員、家族の生活を背負う責任が僕にはあるので、会社のためにできることがあれば全部やっていきますよ。猪木さんのような、ファンが喜ぶような仕掛けを考えつつ、経営面では坂口さんのように堅実性があって、藤波さんのような受け身も取れるという3人のレスラー兼社長の長所を織り交ぜて、自分のカラーもプラスしていくような経営者でありたいです。

新日本プロレスの「闘う広告塔」棚橋新社長の胸中 猪木、坂口、藤波に続く「レスラー兼社長」が語ること | スポーツ | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)


柴田はその後、2005年に新日本を退団。ビッグマウスラウド、フリーとしてさまざまな団体を転戦するも、2007年から総合格闘技に参戦。船木誠勝、桜庭和志の薫陶を受けた。2012年から桜庭とともにフリーとして新日本参戦し、「ケンカ、売りにきました。」と宣戦布告。激闘と熱きファイトで次第にファンの支持を集め「ザ・レスラー」という異名を持ち、2016年に新日本に入団。だが2017年4月9日のオカダ・カズチカとのIWGP戦後に急性硬膜下血腫と診断され長期欠場。新日本LA道場ヘッドコーチを経て、2022年1月4日の成田蓮戦で復帰するも、2023年12月24日、新日本との契約を終了し、AEWに入団。AEWで残りのレスラー人生を燃やしている。柴田はAEW入団の際に次のメッセージを残している。

「今日、新日本プロレスの許可を得て、AEWと契約を結びました。この1年間、AEW/ROHで活動し、AEWの素晴らしさを学びました。ここは、レスラーがリングでの戦いにだけ集中できる最高の環境です。そして、トニーと彼のために働くすべての人から、プロレスへの愛があふれています。私はAEWのリングをレスラーとしてのキャリアの最後の終着点にしたいと思います。私のレスラー人生をトニー・カーンとAEWに捧げます。ありがとうございます。柴田勝頼」

【新日本】柴田勝頼が米AEWと正式契約「レスラーとしてのキャリアの終着点に」決意表明 - プロレス : 日刊スポーツ (nikkansports.com)


井上はその後、怪我に苦しんだ。2013年3月から「頚椎椎間板ヘルニア」及び「右変形性肩関節炎」の負傷で長期欠場。懸命にリハビリに励むが、思うように回復せずトレーニングも積めない。この現実に井上は引退を決断する。2014年4月2日・後楽園ホール大会で引退セレモニーが行われ、引退後は新日本にスタッフとして残り、サラリーマンとして生きる道を選んだ。

新日本プロレスリング株式会社 広報宣伝部と興行事業部で第二の人生を歩む井上はインタビューで自身のレスラー人生について次のように振り返っている。

喜怒哀楽を存分に味わいました。私は学生時代、喜怒哀楽の乏しい生活を送っていました。それが嫌で、打ちこむものが欲しくてプロレスラーを目指したんです。実際にプロレスラーになり、本当にいろいろなことを経験させてもらい、濃い時間を過ごすことができました。
話はそれますけど、昨日会社の後輩に「最近どうですか?」と聞かれて、「調子いいよ」とその時にパッと言ってしまったことがありました。私は人生にはバイオリズムがあると思っています。45年も生きていると、「あ、今いい感覚だな」「あの時に似ているな」というのが分かるんです。
今の自分の周りにある空気も含めて、私が初めてIWGPジュニアタッグ王座を取った時の感覚と似ていると感じていました。あの時の肌に残る感覚を思い出せば、今の私は私利私欲の気持ちがなければ突っ走っていい時だと思う、なんてことをその後輩にも伝えたくなってしまったんですね。(中略)デビューした時に、自分の想像以上の、100倍、1000倍、いや1万倍ぐらい世界が広がったんです。想像もできないほどの幸せが降ってきたんですよ。キツいことの先に幸せがあることを知り、それからはその幸せに向かって戦い続けました。

「新日本を世界に広める」インタビュー後編 - 井上 亘 |ONGROUND (doda.jp)

新日本プロレスは毎年1月から2月にかけて、選手との契約更改があります。その契約更改をする前、2013年10月に、私自身もうできないなと感じて、会社に「引退します」と伝えました。時系列があいまいですけど、確かその時に「ここに残りませんか?」とお誘いいただきました。ですが、私はその時すぐに「お願いします」とは言えませんでした。(中略)引退を決断して気持ちがすごく落ちていました。それは私が会社に残って何ができるか分からなかったからです。例えばリングを作る仕事だとしても、あの時はできなかったです。自分が作ったリングで、仲間が輝いている姿を見たくなかったので。その時はほかの選択肢として、ウェディング関連か葬儀関連の業界に進もうと考えていました。生活のために無職になるわけにはいかないですから。そんな中、会社から改めて「広報宣伝部はどうですか?」という提案を受け、いろいろ考えた末に残ることを決めました。私にこうして声を掛けてくれる新日本プロレスには感謝しています。私は転職って縁が大事だなあと強く思います。私の場合は「人とのご縁」で今があります。今の私の上長は、この時から親身になってサポートをしてくれました。

「新日本を世界に広める」インタビュー後編 - 井上 亘 |ONGROUND (doda.jp)

井上亘、50歳。
柴田勝頼、44歳。
棚橋弘至、46歳。

1999年10月10日にセルリアンブルーのマットでプロレスラーとしての産声を上げた3人の若獅子。彼らは三者三様のレスラー人生を歩み、ある者は選手を引退して団体スタッフとして第二の人生を歩み、ある者はプロレス界のエースとなり、団体社長として辣腕をふるい、ある者は紆余曲折の末に己の信じた「新日本プロレス」道を歩んでいる。

3人が見上げた漆黒の夜空には、今後の彼らの人生を照らすように満天の星が光っている。

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