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人生を狂わせる格闘プロレスという迷宮/「U.W.F外伝/平直行」レビュー&UWF私論

田村潔司VS船木誠勝の煽りVTR

    

2008年4月29日さいたまスーパーアリーナで行われた総合格闘技「DREAM」で実現した田村潔司VS船木誠勝のUWF出身 者対決。

その試合で使われた煽りVTRは後世に残る伝説の映像となった。 

理想は時に、
大きな傷跡を残していく。
そして時に、
計り知れない“狂気”の集合体となる。
(中略)
その歴史を語るには、あまりにも時間がない。
あれは20年前(1988年)、
U.W.F(第2次UWF旗揚げ)。
若者たちが抱えた青きエピソード。
その刺激的な空間に、人々は酔いしれた。
そこに、格闘技の桃源郷をみた。
またたくまにUWFは、社会現象と化した。

映像では当時UWFに熱狂したファンたちが残したコメントが紹介される。
「他のプロレスを今まで観てたのがバカバカしくて…」
「徹夜して買ったのに、1万円の券、買おうと思ったのに、5,000円なんだもーん。私の前なんだもーん」
「今まで格闘技戦で人が死んだことはないですけれど、今日そうなっちゃうかもしれない」


第1次UWF&第2次UWFで総大将として獅子奮迅の活躍をしてきた前田日明はこう語る。
「格闘技を食えるようにしたのはU.W.F」

ここで煽りVTRは田村と船木について言及していく。

正統派UWF・田村潔司
「男の格闘技人生は、Uから始まった。
青春の全てをUに捧げ、
Uしか語らず、
Uしか信じない。
誰が呼んだか、孤高の天才」

急進派UWF・船木誠勝
「新日本プロレスから引き抜かれたスター候補。
だが、強さへのあくなき欲求はとどまるところを知らなかった。
船木は時としてルールさえも拒絶。
これは、本当の闘いではない。
これは、最強ではない。
ファンが抱く幻想、
己の理想、
リングでの現実。
すべてが乖離していた
ただ、本当の闘いがしたかった…」

だが、1991年1月に第2次UWF解散。

煽りVTRは佳境に入る。

「時は流れて21世紀。
進化を遂げた格闘技の影で、
UWFは完全に過去のものとなった…」


そして終盤に前田がこのように語る。


「格闘技の原点は『必死でやる』ってことですよ」



この煽りVTRを見て私は感動で震えていた。そして、改めてUWFという運動体が与えた多大なる影響を感じずにはいられなかった。

2021年「LIDET UWF」誕生!

田村VS船木の煽りVTRから13年後の2021年7月1日東京ドームシティホールにて、かつてプロレスリングノアの親会社として団体を立て直したリデットエンターテイメントが旗揚げした新団体「GLEAT.1」が開催された。

このGLEATでは、通常のプロレス部門として「G PROWRSTLING」と共に格闘プロレス「LIDET UWF」の二枚看板で運営されているのだ。

リデット・エンターテイメントの鈴木裕之社長と共に「LIDETUWF」の仕掛け人であり、「GLEAT」エグゼクティブ・ディレクターとなったのは、あの煽りVTRの主人公のひとり田村潔司だった。

煽りVTRでは「過去のもの」と形容されたらUWFが、令和の時代で蘇ったということである。

これはUWFを知るプロレスファンのツボを大いに刺激した。

LIDET UWFの誕生したことにより、UWFを名乗っていなかったが、UWFスタイルをアップデートしながら闘っていたハードヒットとの対抗戦に発展していった。

そこでの対抗戦で見て私は感じたこと、それは…。

「LIDET UWFとハードヒット、互いにUWFスタイルなのに、目指すものが違い、UWFルール内異種格闘技戦ではないか」

プロレスとは何か?その答えは千差万別であり、多種多様である。
それはUWFでも同様だった。

これはUWFについて考えていかないといけない。何かひとつの私論を述べなければいけない。

「U.W.F外伝/平直行」

そう思っていた時に私は一冊の本に出会った。

U.W.F外伝/平直行【双葉社】 

2017年に双葉社さんから発売された平直行さんの著書「U.W.F外伝」。

この本は、「UWFから日本の総合格闘技の歴史は始まった――。プロレスであったはずのUWFが切り拓いた格闘技の扉。シューティング、シュートボクシング、リングス、K-1、そしてUFC。のちに迎えるPRIDE全盛期に至る前に、その舞台裏で何があったのか。そしてそのキーマンであった佐山聡、前田日明、石井和義。"流浪の格闘家"としていくつものリングを渡り歩いた平直行が初めて明かす実体験総合格闘技史」という内容である。

平直行といえば、人気漫画「グラップラー刃牙」の主人公・範馬刃牙のモデルとなった人気格闘家だった。

(YouTube前田日明チャンネルの平直行VSエリック・エデレンボスのサムネイルより)

平直行(たいらなおゆき)
1963年、宮城県出身。10代半ばで極真空手に入門し、その後大道塾に移る。高校卒業後に上京し、プロ格闘家の道を志す。佐山聡率いるタイガージムに入門したのち、シーザー武志率いるシュートボクシングに移籍し、メインイベンターに成長。その後、正道会館、リングス、K‐1などのリングに上がる。自身の道場・ストライプルを中心に、総合武術や健康維持の指導を全国で行っている

「U.W.F外伝」が本当に面白かった。そして「UWFとは何か?」を考える際に大きなヒントになるのではないかと。

そこで今回は「U.W.F外伝」の各章を順々に追うレビューを書きながら、その各章に伴いながら、UWF私論を述べていこうと考えたのである。

「UWFとは何か?」

この記事が、その答えの一考になれば幸いである。

プロローグ 2016年秋 

【内容】
2016年12月29日・新宿FACEに53歳の平直行がいた。2002年にプロ格闘家を引退した彼は、格闘技興行のレフェリーやセコンドとして活躍する傍ら、ブラジリアン柔術道場「ストライプル」代表を務め、大気拳や古武術にも傾倒し、後進の指導に当たっている。競技者としては引退したかもしれないが、格闘技の達人としての道を歩んでいた。

そんな平が「Uの末裔」を名乗るプロレスラー・佐藤光留が主催するUWFスタイルの興行「ハードヒット」のエキシビションマッチに参戦した。対戦相手は佐藤のタッグパートナーでレスリングで全日本社会人オープン選手権優勝という実績を誇り、プロレスラーとしては全日本プロレスの世界ジュニアヘビー級王者に輝いた実力者・青木篤志(彼は2019年6月に交通事故で急死している)。

久しぶりにリングに立つ平のセコンドには、シューティング(修斗)時代のインストラクター仲間の北原光騎(この本が出たときはまだプロレスラーだったが、2018年に引退)がついた。青木戦は公式戦ではなく、エキシビションマッチ。なのに、会場につくと緊張感が漂っていた。さらに対戦相手の青木をみてみるとなぜかよそよそしい態度。セコンドの北原が青木と主催者に話をした上で、平にこう告げた。

 「これは仕掛けてくるつもりですよ」

"仕掛けてくる"。それはプロレスの範疇を越えた攻撃をしてくるという意味。プロレスではセメントという言葉で形容される。平はかつてプロレスラーとして活動していた時期があったが、プロレスの試合で"仕掛けられる"のは初めてだった。「どうしよう」と焦る平に北原は言った。

「仕掛けてきたら、やっちゃえばいいんですよ。自分も何度もやってます」

平は北原の言葉で腹を括ってリングに上がった。果たしてこの試合はどんな内容になったのかはこの本を読んで確認してほしい。

個人的な感想だが、最高に痺れた。この一言に尽きる!

【考察①/ハードヒットという城】

「U.W.F外伝」が最高のオープニングを迎えたところで、「ハードヒット」について言及したい。20世紀末に誕生した格闘プロレス・UWF。ここで改めてUWFスタイルとは何かについて簡単に説明しておきたい。

UWFスタイルとは、従来のプロレスとは異なり、格闘技の要素を取り入れて、新日本プロレス道場で行われていたスパーリングのような関節を取り合う寝技の攻防、掌低やレガースやニーパットを着用した状態でのキックといった打撃技、スープレックスやタックルからの投げを中心としたテイクダウンの技術が三位一体として組み合わさった格闘プロレスである。

だが、21世紀に入ると総合格闘技の台頭に伴いUWFスタイルの団体は岐路に立たされていく。パンクラスはUWFスタイルからMMAにシフトチェンジし、リングスは経営難により2002年に活動停止(2008年にMMAで活動再開)、格闘探偵団バトラーツは2001年に活動停止(2002年に活動再開を果たすも2011年に解散)に追い込まれていった。

その後、格闘技ジムU-FILE-CAMPを主宰する田村潔司をエースに据えた「U-STYLE」 が不定期に開催されるもやがてフェードアウトしていく。

UWFスタイルが廃れていく最中に誕生したのが「ハードヒット」だった。 2008年2月に高木三四郎が率いるプロレス団体・DDTプロレスリングの別ブランドとして設立された。「スポーツライク」のコンセプトを掲げ、通常のプロレスルールに加えてダウンやロープエスケープで減点となるロストポイント制を採用していく。ここでポイントなのは、「ハードヒット」設立当初は、第2次UWF以降、主流となっていた3カウントフォールなしルールではなく、3カウントフォールを有効にしていた。

ハードヒットはすぐに活動停止してしまうが、2011年のDDT総選挙で一位となったパンクラスMISSIONの佐藤光留が、「城をください」と直訴し、活動停止していたハードヒットは佐藤がプロデューサーとなり、再始動していった。そこで佐藤は再始動の際に3カウントフォールを廃止し、初期パンクラスに近いルール設定を行ったのである。

やがてハードヒットの興行権を手にした佐藤は文字通り主催者となったのである。

佐藤光留体制となったハードヒットの凄さはUWFスタイルを現在の格闘技技術のトレンドを取り入れてアップデートしてきたことにある。

UWFと名乗る団体でも興行ではない。だが、ハードヒットという城でUWFスタイルで10年近くやってきたという誇りと自負が佐藤にはあった。

さらにUWFやプロレスに憧れた格闘家たちがハードヒットで、UWFスタイルでその夢を叶え、ハードヒットという城に思い入れを持って闘ってきた。

だからこそ2021年になって勃発した「LIDET UWF」との対抗戦で、佐藤だけではなく、元ウェルター級キング・オブ・パンクラシストでサンボマスターである和田拓也やブラジリアン柔術全日本選手権優勝という実績を引っ提げて40歳を越えてプロ格闘家となった元警察官の関根"シュレック"秀樹といった男たちからは、UWFスタイルで闘ってきた覚悟と怒りが爆発していたのである。

 「LIDET UWF」との対抗戦の記者会見で佐藤は、このように語っている。そこにはハードヒットとしてUWFスタイルを死守してきたという男の意地があった。

「自分がハードヒットに出たときはまだ前身の DDT の 1 ブランドで。そのあとプロデューサーという立場で譲り受けてから、完全に DDT から切り離して佐藤光留の主催興行ということに、独立してもう 6 年という月日が経ちます。現在進行形の U を名乗るために自ら先頭に立って痛い思いをしてきました。『もう終わったスタイル』『総合格闘技とプロレスが分かれて、必要がなくなったスタイルだ』と言われたものをやり続けてきました。ですが、GLEAT 発足して LIDET UWF というものが出来たときに、広く伝う記事の中で『ここ最近は UWF スタイルの興行があまり行われていない』というのを見て、正直怒りに震えておりました」
「正直言いまして、(LIDET UWFの)配信マッチとか何度か目を通したんですけど、あれほどまでに緊張感のないものを堂々とUWFだと語られることにも個人的に納得がいかない部分が多いです」
「 田村(潔司)さんの言っているUっていうのが……2021年、この現代にそれこそUとして、懐メロじゃないもので人は評価するのかな? っていうのが正直なところですね。LIDET UWFの選手が田村さんのところで練習をしている、それでUを勉強している・受け継いでいる……それは別に悪いことじゃないんですけど、現場で、現実で闘い続けて、人に晒されて、多くの人の声で『ハードヒットなんかUじゃねえよ』って言われた我々の中で、現在進行形のUっていうのが育ってきたんです。教わって、習って、教えて、それでUWFなのかな? Uなのかなっていうのは、いまもずっと思っているものですね。だから配信マッチとかで田村さんが言っているのを見ても、『本当にこれって田村さんが目指していた、言っていたUなのかな?』っていうのは、その緊張感がまったくないのも含めていまも疑問です」

確かに佐藤の言うことは正論である。ただ「LIDET UWF」という"UWF"を堂々と名乗るグループが登場したことにより、これまで地道に積み重ねてきたハードヒットがスポットライトを浴びたことは事実。

よく考えてみると2016年、53歳の平直行が選んだ「ハードヒット」というリングは男たちの情念と怨念が詰まった尋常じゃない戦場だったということである。

そして情念、怨念というものはUWFを語る上で外せない概念なのだ。


第1章 『無限大記念日』―第一次UWFという転換期

【内容】
仙台で暮らしていた中学2年生の平は、当時ジュニアヘビー級で大活躍する新日本プロレスの藤波辰巳(現・辰爾)の試合をテレビで観て感動してから、プロレスのことを考え、やがてプロレスラーになりたいと思うようになる。

ただどうすればプロレスラーになれるかはわからない。プロレスには町道場などない。

そこで平は新日本プロレスのアントニオ猪木と対戦した"熊殺し"ウィリー・ウィリアムスのバックボーンである空手に目を付ける。「プロレスの敵である空手を学んでみよう」というやや不純な動機だったが、地元・仙台のカルチャーセンターにあった極真空手の門を叩くことになる。そこで稽古をつけてくれたのが当時極真空手全日本王者であり、後に独立して、空道というジャケット武道の創始者となる大道塾代表師範となる東孝だった。

高校に進学してもプロレスラーになりたいという思いを抱く平。空手を教えてくれている東孝が独立して、大道塾を立ち上げたため、自然と平も大道塾に移ることになる。スーパーセーブと呼ばれる面をつけての顔面打撃、投げ、寝技が有効で格闘空手と呼ばれた大道塾で鍛練することでプロレスラーになる近道を歩こうとする平は高校卒業後に上京する。

池袋の喫茶店でアルバイトで働きながら、プロレスラーを目指していた平は、喫茶店の主任から渡されたスポーツ新聞を目にする。それは前日に行われた第1次UWF(当時はユニバーサルプロレス、ユニバーサルとよばれていた)の後楽園ホール大会の記事だった。

「大熱狂に包まれたメインのカードは藤原喜明、前田日明VSザ・タイガー(佐山聡)、高田伸彦(現・延彦)。関節技とキックを駆使した、新しいプロレスが後楽園ホールで生まれた」

そしてどうやら今日も第1次UWFは後楽園ホール大会をやるらしい。主任に誘われて平は見に行くことになる。これが後に伝説の興行として語り継がれる1984年7月24日後楽園ホールで行われた第1次UWF「無限大記念日」2日目だったのである。

20歳の平が「無限大記念日」を観てどう感じたのかは、この本を読んで確認してほしい。個人的には「リングで起きていることを観客が理解しようとするプロレス」という記述が印象に残った。平が、これは現場にいたからこそ書ける一文だと思う。

【考察②/第1次UWF(ユニバーサル)が目指したもの】

ここではプロレスラーを目指して上京していた平が心を奪われた第1次UWF(ユニバーサル)について触れたいと思う。

そもそも、なぜ第1次UWFは誕生したのか。決して新しいプロレススタイルを作ろうという大義の元で生まれた団体ではなく、クーデターで新日本を追われた、元・新日本営業本部長・新間寿が、同じくクーデターで失脚していたアントニオ猪木や維新軍のリーダー・長州力、WWF(現・WWE)の外国人レスラーたちを移籍させる受け皿として生まれようとしていたプロレス団体。その先行部隊として第1次UWFに移籍したのが、当時新日本で次代のエースとして期待されていた前田日明だった。

だが、当初の計画は頓挫してしまい、猪木や長州、WWFレスラーたちは参加することはなく、一連の責任をとって新間は第1次UWFを辞めてしまう。

残されたのはハジコを外された前田や新間に誘われて参加したラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田、マッハ隼人だけとなる。

実は前田には高田伸彦を経由して猪木から「お前だけでもすぐに新日本に戻ってこい」という伝言が届くが、前田には残された選手とスタッフと共に闘う道を選ぶ。すると新日本から藤原喜明、高田伸彦が移籍。さらに1983年に引退していた初代タイガーマスクこと佐山聡(ザ・タイガー、スーパー・タイガー)と、佐山が設立したタイガージムのインストラクターを務めていた山崎一夫が合流。

第1次UWFに集った選手たちを見ると"プロレスの神様"カール・ゴッチの薫陶を受け、さらにこの団体に移籍してきた"関節技の鬼"藤原喜明が厳しく指導し、スパーリングでしごかれた面々が多い。

そこで、新日本道場でやっているスパーリング(きめっこ)をベースにして、佐山聡が持ち込んだキックボクシングの打撃、プロレスの動きを交えた"自分たちがやりたいスタイル"で勝負しようとしたのである。そしてこのスタイルは新日本も全日本もアメリカやヨーロッパ、メキシコでも誰も手をつけていない未開のジャンルだったのだ。これがUWFスタイルの起源である。

つまりUWFスタイルとは、団体が生き残るために生まれた苦肉の策であり、団体の中心選手たちの源流である新日本道場でのスパーリングに打撃を加えてプロレスとしてパッケージングすることで誕生したものだった。
    
だから平はあの日、見た「無限大記念日」でのUWFスタイルは「ほんの少し格闘技っぽいプロレス」である。だが、あまりにも新鮮で斬新な"格闘プロレス"に会場にいる多くの者たちを虜にしたのである。




























第2章 新しい格闘技―天才・佐山聡とスーパータイガージム

【内容】
1984年夏、プロレスラー志望の平は佐山聡が主宰するタイガージムに入会するが、その年の秋になるとタイガージムは突然活動停止をしてしまう。

立ち止まっているわけにはいかないという思いを抱いた平は、UWF道場に行き、大道塾時代に面識があった若手レスラー・広松智に、「UWFに入門したいんです。ここで格闘技をやりたいです」と直訴する。

大道塾で空手経験もあり、タイガージムに通っていた平を広松は追い返すことはなく、他の若手レスラーを呼んで紹介してくれた。さらにタイガージムでインストラクターを務めていた宮戸成夫(現・優光)が平を覚えていたことも大きかった。

道場でちゃんこ鍋を一緒に食べることになり、翌日のちゃんこ鍋の買い出しが終わり、道場に戻った時に若手レスラーのひとりが「ウチも、プロレスなんですよ。格闘技って言っても、やってることはプロレスなんです」と言った。平は「もしかしたらこの夢見がちなプロレスラー志願者をあきらめさせるためのやさしさだったのかもしれない」と捉え、UWFに入門することはなかった。

1985年1月、タイガージムはスーパータイガージムに名前を変えて再始動する。実はジム再開の直前に佐山はUWF大阪大会で藤原喜明と対戦し、チキンウイング・アームロックを極められて敗れ、左肩を脱臼してしまう。

平は佐山を心配していた。だがジム再開の日、三角巾をつけ、スーツ姿を現れた佐山がジムに現れる。すると「あっ、これ大丈夫なんだよ」と三角巾を外し、脱臼しているはずの左肩を回し出したのだ。周囲は呆気にとられる中で佐山はこう語った。

「UWFはプロレスなんだ。だから本当は、肩は怪我してないんだよ」

この当時佐山が発した言葉に誰も理解できなかった。当時のファンの大多数はUWFは新しいプロレスという格闘技をやっていると信じていたからだ。

「ここからここで格闘技を教えていく。UWFとは違った本当の格闘技を教えていく」

平はこの頃に佐山からそういう意味の言葉を聞いたことをはっきりと覚えている。

 

そこから平は週2回スーパータイガージムに通い、残りの日はボディビルのジムで汗を流しながら、大道塾東京支部にも通い鍛練していった。昼間には喫茶店でアルバイトをしていた。

そんなある日に平は佐山からスーパータイガージムのインストラクターに指名される。

カール・ゴッチ式のトレーニングを平に課す佐山。すると佐山は平を寝技のスパーリングをしないかと声をかける。大道塾空手をバックボーンにしている平には寝技の知識はほとんどない。

何がなんだかわからないままスーリングが始まった。当然のように玉砕し、右肘を痛めた平だったが、ここでしかプロレスラーになる夢は叶わない。だからスーパータイガージムでのトレーニングで強くなるしかなかった。

スーパータイガージムにはUWFの前田や高田も練習に訪れていた。またUWF戦士にキックを教えるために"立ち技何でもありのキックボクシング"シュートボクシング創始者シーザー武志も顔を出していた。

平は前田からもここで技術を教わる。佐山の教え方は感覚的に教え、細かい指導はない。だが前田は理論的で分かりやすく技を教える。
 

「格闘技は人の持つ本能的な動き、体の仕組みを理解しないと上達しない」
「俺たちの技は禁止されている技が基本なんだ」

平にはありがたい前田の金言だった。しかし、UWFと佐山との間がゴタゴタもありギクシャクしていく。そしてUWFサイドはスーパータイガージムのインストラクターを引き抜いてジムの機能を停止させようという動きが起ころうしていた…。

ここから先は本を読んでご確認ください。それにしても面白い。「誰にも真似できない華麗な動きと本物の強さを持つ選手に憧れていた」という平の一文を読むと、自身が憧れたスタイルを彼は格闘家生活で忠実に生きようとしていたことがわかる。あとはこの当時のスパーリングは亀の状態から始まるのが、なんともこの時代らしいなと感じた。だがよくよく考えると自分が不利な状態になってからいかに凌ぐのか、逆転するのかという鍛練だと考えると亀の状態からのスパーリング開始は案外、実戦向きなのかなと思ったりもした。


【考察③/プロレスラー引退後に佐山聡が目指した理想郷シューティング(修斗)】

新日本プロレスで初代タイガーマスクとして大ブームを起こし、1982年にはジュニアヘビー級では初のプロレス大賞MVPを獲得した初代タイガーマスクこと佐山聡。

1983年に突如プロレスを引退。引退後は格闘技ジム・タイガージム(スーパータイガージム)を設立。そこから第1次UWFでプロレスラーとして電撃復帰。ザ・タイガー、スーパータイガーというリングネームで活動してきた。だが次第にUWFとの関係がギクシャクしてしまい、選手との間には徐々に溝ができていた。そして1985年9月2日。大阪府立臨海スポーツセンターで行われた前田日明とのセメントマッチが決定的な亀裂が生じ、佐山は第1次UWFを脱退。第1次UWFは活動停止し、新天地として、新日本を選び参戦していった。

プロレス界から離れた佐山は自らの格闘理論を具現とした新たな格闘技「シューティング(修斗)」を開設する。階級別のタイトル設立、オープンフィンガーグローブの導入、アマチュア大会普及に務め、プロへのピラミッドを形成といった総合格闘技におけるシステムの礎となる組織を生み出したことは佐山の功績である。

そして第1次UWFで導入されたすねを守るレガースを考案したもの佐山だった。

佐山がシューティングで目指したものはスポーツ競技としての格闘技の確立だった。

シューティングでは、「打・投・極(だ、とう、きょく)」という打撃と投げ技、寝技が融合しながら高いレベルでの攻防を理想としていた。これこそ「総合格闘技」というジャンルの魅力を言語化でしたものではないだろうか。

だが佐山はこれらの功績に頓着しない。シューティングも内部で揉め事もありやがて去っていった。  

シューティングを去った佐山はプロレスに復帰してアントニオ猪木、小川直也と共にUFO(世界格闘技連盟)を設立するも、己の理想を求めて1999年に団体を離れ、新たな武道・掣圏真陰流設立する。

また2005年には"ストロングスタイル復興"を掲げ、リアルジャパンプロレスを設立し、令和の世になっても、昭和のプロレスのような緊張感溢れる試合を提供している。

 現在は総合格闘技・佐山道場の代表を務めている。

プロレス、武道、総合格闘技の多岐に渡り、自身の活動を行う佐山はこれまでの格闘人生においてあらゆる「創造と破壊」を繰り返してきた。

橋本真也は「破壊なくして創造なし」という言葉を多用し、己のアイデンティティーにしてきたが、本当にこの言葉を体現してきたのは佐山。    

UWFもシューティングも彼にとっては過去のアートでしかなく、そこに執着していない。あくまでも今、自分が何をしたいのかという欲求を大切する生き方を彼はずっとしてきたのかもしれない。

 

第3章 歪んだ愛情―シュートボクシングから見たUWF

【内容】
一度はUWF入りの話もあったが断った平はスーパータイガージムでトレーニングを続ける。ただ自分が強くなりたいという思いで取り組むも、実戦で披露したい欲望が渦巻く。佐山に出会ったあたりからプロレスラーから格闘技のプロになりたいという目標に変わっていた。

そこで平が選んだのはシューティングではなく、シュートボクシングだった。シーザー武志のシーザージムに出稽古に行くうちに、シーザーの男気に惚れたのだ。 シーザーからUWF移籍話を持ちかけられて、断ったことで顔は潰されているにも関わらずシーザーは変わらずに可愛がってくれていたのだ。

平はシーザーに「シュートボクシングをやりたいです」と伝えた。するとシーザーは笑顔で出迎えてくれた。

一方佐山には勇気を持ってスーパータイガージムを去ることを伝えなくてはならない。佐山は「わかった、頑張るんだぞ。それで勝ってくれよ」と了承してくれた。

こうして1986年夏、平はシュートボクシングのシーザージムに入門し、11月にプロデビューする。高校卒業後にプロレスラーを目指して上京してからもう22歳。もうやるしかない。デビュー戦が判定勝ち、2戦目はハイキックでKO勝ち、3戦目は優勢に試合を進めていたが、最終ラウンドで右クロスカウンターをもらいKO負け。4戦目はKO勝ち。スリリングな試合ぶりにより期待の若手として将来を嘱望されていた。

平はシーザーから言われたこの教えを守ってきた。

「お客さんはお金を払って試合を見にくるんだ。試合を通じて夢を見にきている。リングの上で闘っている選手を見て憧れと幻想を膨らませるのだから、選手は特別な存在でなければプロじゃない。ただ勝つだけならアマチュアとそう変わらない。ファンに幻想を抱かせてこそ本当のプロ選手なのだから、お前たちはいつでも人に見られている。そう思って普段も過ごすんだぞ。それがプロとしての自分を磨くことになるのだからな」

シーザーはシュートボクシングの主催者だが、ファイターとして団体を守るエースでもあった。そんなシーザーがある試合で負ったダメージが深く、試合が出れなくなった。シーザーはそれでも団体のことを優先し、平と若手の阿部健一を指名し、次の興行のメインを託すことにした。

恩師に頼まれたらやるしかない。平は練習でギリギリまで自らを追い込んだ。こうして迎えた1988年4月3日のシュートボクシング後楽園大会はどうなったのか?それはこの本を読んで確認していただきたい。

この章はとにかくシーザー武志の凄さ、男気。それに尽きる。あとシーザーが平や選手に残した「プロとしての教育」。これが心に響いた。どんな職業にも当てはまるプロフェッショナルの流儀である。

【考察④/UWF系3団体の違い】
























この第3章では新日本プロレスと業務提携していた時代の1986年のUWFから第2次UWF、UWF崩壊後三派に分裂する1991年の5年間が描かれている。平自身はプロ格闘家として活動している。

1991年1月に第2次UWFが内部分裂により崩壊し、前田日明が率いるリングス、高田延彦が率いるUWFインターナショナル、藤原喜明が率いる藤原組の三団体に分かれる。これが俗にいう「UWF系」「U系」の誕生である。

第1次UWFからLIDET UWFに至るまであらゆるUWFを名乗ったり、「U系」、UWFスタイルを傾倒する団体が現れてきた。

私は「UWFはプロレスと格闘技の間」だと思っている。ただし、「中間地点ではなく、間」。これには理由がある。

「プロレスと格闘技の間」の配合がUWFスタイルの団体によって違うのだ。

これは個人的な感覚で選定すると、第1次UWFはプロレスが9割、格闘技が1割。第2次UWFはプロレスが7割、格闘技が3割といった具合である。そしてこの両団体に共通しているのは、これをリアルファイトのように思わせる戦略を取ったことである。

そして第2次UWF崩壊後に誕生したリングス、UWFインターナショナル、藤原組もそれぞれに「プロレスと格闘技」の配合が違う。

リングスは異種格闘技戦をメインの基軸に起き、格闘家たちにUWFスタイル(リングスではフリーファイトと呼んでいた)を闘わせることがコンセプトだった。従って、プロレスが6割、格闘技は4割。

UWFインターナショナルは、第2次UWFが避けてきたプロレスに回帰していった団体である。だから第2次UWFではあまり見られなかった純プロレスの攻防も取り入れられたりしている。ただし、異種格闘技戦はシュートだったという説もあり、プロレスラーは最強の格闘家という理念を持ち、強さというナイフを磨いていた。従って、プロレスは7.5割、格闘技は2.5割。

藤原組はある意味、第2次UWFがやってきたことを最も忠実に継いだ団体ではないだろうか。また当初はUWF藤原組と名乗っていた。そして日本人の若手対決に関してはシュートマッチだったという説もある。従って、プロレスは7割、格闘技は3割。

これはあくまでの私個人の意見であるが、UWFスタイルの団体でありながら、それぞれにコンセプトの違いもあり、微妙に違うのだ。そしてU系3団体がそれぞれに輝いたからこそ、1990年代の「プロ格」時代に突入していったのではないだろうか。


第4章 まだら色の季節―正道会館・石井和義館長の先見性


【感想】
1991年12月7日、リングス有明コロシアム大会。コマンドサンボの達人ヴォルク・ハンが初参戦し、前田日明と名勝負を展開し、空手常勝集団・正道会館参戦など話題が多かった大会の観客席に平がいた。この大会を観ている内に「こんな闘いがしたい!」と興奮が抑え切れなくなる。

1992年1月にキックボクシングWKA世界ミドル級王者デル・クックを相手に敗れたものの、アグレッシブな攻撃を繰り出し、場内を沸かせた。試合後、平は当時「格闘技通信」編集長を務めていた谷川貞治に「僕は総合格闘技の試合がしたいんです。谷川さんから正道会館の石井和義館長に話をしていただけませんか」とお願いし、谷川からその伝言を聞いた石井も了承し、平の正道会館格闘技イベントへの参戦が決まった。

ここでポイントなのが師匠シーザーの器の広さ。当初は渋っていたが、平の意向を汲んで参戦を了承。さらに日本大学レスリング部への出稽古の手配をしてくれた。シーザーの思いを応えるために総合格闘技の練習に励む平。レスリングだけではなく、スポーツ会館でサンボも学び、シーザージムでは打撃を磨いた。

1992年3月26日東京体育館で行われた正道会館主催「92格闘技オリンピック」。正道会館だけではなく、リングス、シュートボクシング、大道塾とあらゆるジャンルの猛者が集結した夢の大会。平はオランダのエリック・エデレンボスとリングスルールで対戦。ここで平は1ラウンド1分33秒、アームロックで秒殺勝利を収めたのである。

全試合終了後、リングには出場した全選手が勢揃いする。初の総合格闘技戦で勝利した平リングス総帥・前田日明と正道会館館長・石井和義が駆け寄っていく…。


【考察⑤/K-1とは格闘技とプロレスとUWFの融合体】

他流派の大会で結果を収め常勝集団と呼ばれ、空手にリングを導入、ド派手な演出、延長になるとグローブ導入、前田日明が率いるUWF系団体リングス参戦など空手革命を起こしていた正道会館。その集大成として1993年4月30日・国立代々木競技場第1体育館で行われた立ち技世界最強トーナメント「K-1GRAND PRIX」である。


K-1とは、空手、キックボクシング、カンフー、ケンポー、格闘技の頭文字のKの一番を競うという意味で、世界中から格闘技の王者たちによるワンナイトトーナメントで世界一を決めるという当時誰も実行していなかった格闘技ワールドカップだった。

試合は優勝候補が次々とKOで敗れていく波乱の展開。リングス参戦で全国的知名度を誇っていた正道会館のエース佐竹雅昭も準決勝で敗れ、優勝を果たしたのは、クロアチアのブランコ・シカティックという当時はあまり日本で知られていなかった未知の強豪だった。

神大会となった「K-1GRAND PRIX」は大成功を収めた。そして大会プロデューサーである石井和義は既存の格闘技ファンだけではなく、プロレスファンやUWFファンをターゲットにしていき、取り込みに成功していった。

選手入場時のスモークやレーザー光線、ラウンドの休憩時間に音楽が流れる光景は第2次UWFを彷彿とさせた。さらにK-1のコンセプトである「立ち技世界最強決定トーナメント」も「世界最強の格闘家はリングスが決める!」をコンセプトにしていたリングスの影響が大きい。

それもそのはずプロデューサーの石井はUWFやプロレスから多くのことを学び研究していた男だからだ。石井は雪辱戦や因縁ドラマをリングに持ち込み、「K-1REVENGE」というひとつの大会を実行して大成功を収めている。

今のK-1は運営元が変わり、純血のK-1ファン育成に成功しているが、本来のK-1ひとつの格闘技イベントではない。立ち技世界最強を決める場であり、キックボクシング、ムエタイや空手のいいところを闘いに落とし込み、UWFやプロレスのドラマ性、エンターテイメント性を導入したもの。K-1とは格闘技、プロレス、UWFの融合体なのだ。

そう考えるとある意味、K-1もまた違った形だが、U系と言えるのかもしれない。



























第5章 金魚を食べるシャーク―「何でもあり」UFCの衝撃

【感想】
1992年夏に平は紆余曲折の末にシュートボクシングを辞め、すき家やはま寿司といった飲食チェーン店を運営するゼンショー社員として働きながら、格闘家として活動することになる。これは今の格闘技界でも実例はほぼないと思われる実業団形式である。

毎月給料をもらえ、さらにボーナスまで支給されることで生活基盤が安定、試合のファイトマネーも出る。しかもゼンショーは自分のために道場を作ってくれた。平はプロ格闘家としては最適の環境を手に入れる。

1993年2月28日、リングス・後楽園ホール大会で「実験リーグ」という新興行がスタートする。これは団体の垣根やジャンルを超えて、軽量級や中量級のファイターにスポットライトを当てたまさに実験興行。

そのメインイベンターに抜擢されたのは平だった。前田日明は平に「あの大会はお前をスターにしようと思って始めた」と語っていて、平を中心に据えたイベントだったことは間違いない。それだけ平には太陽のような天性のスター性があった。

そんな最中の1993年に誕生したのが、"立ち技世界最強決定戦"K-1、"完全実力主義のUWF系団体"パンクラス、そして"ノーホールズバード"UFCだった。

平は1994年3月の第2回UFCの観戦ツアーに参加している。そこで目の当たりにしたのは、グラウンドに倒された後、ヒジを打ち落とされ、蹴られる。無抵抗の相手でも失神するまで殴り続ける。目潰しと噛みつきだけ反則というノーホールズバード(NHB/何でもあり)に平は大きなショックを受けていた。

平は当時UFCを主催していたグレイシー柔術のホリオン・グレイシーの「興行にはシャークと金魚が必要だ。シャークが金魚を食べるのが見たいから観客が集まるんだ」という言葉を忘れない。

そんな暴力的な大会で、グレイシー柔術のホイス・グレイシーは柔術テクニックを用いて制圧し、優勝していく。しかもその対戦相手には大道塾・市村海樹がいた。市村は大道塾最強の男、格闘技界の火薬庫と呼ばれた日本のトップファイターの一人。その実力を知っている平は市村があっさりホイスに敗れたことに実力差だけでない何か大きな違いを感じた。

UFCの影響でこれまでの総合格闘技はぬるくて甘いジャンルだったことが分かり、次第に理由が分からないが涙が出てくる平。周囲は平にUFC参戦を期待していた。だが、このままではUFCとグレイシー柔術というシャークを見事に食われてしまう金魚になってしまう。

UFCを観戦後に宿泊先のホテルで思い悩む平に1本の電話がかかる…。


【考察⑥/"完全実力主義"パンクラスの衝撃】

ここでは1993年9月に旗揚げしたUWF系団体パンクラスについて述べたい。パンクラスとは、1991年の第2次UWF分裂により誕生した藤原喜明が率いる藤原組の中心選手だった船木誠勝、鈴木みのるといった若い実力者たちが脱退して自分たちで理想の闘いを求めて立ち上げた団体である。

彼らは藤原組時代から、自分だけの試合ではUWFスタイルをよりセメント純度を高めた"ナチュラルスタイル"と呼ばれるシュートマッチを展開していた。このスタイルを基軸にしたのがパンクラス。

旗揚げ戦は、全試合リアルファイト、5試合合計試合時間は驚きの13分5秒という内容、極限まで絞り込まれた肉体を誇る選手たちによるシュートマッチ。"秒殺"、"21世紀のプロレス"、"完全実力主義"と形容されたハイブリッド・レスリングはプロレス界や格闘技界に衝撃が走り、大きな話題となった。

私はプロレスという興行のフォーマットで、格闘技を実践したという点で、パンクラスこそプロレスと格闘技の中間地点だと考えている。プロレスが5、格闘技が5の割合のUWFスタイルということである。

UWFでさえ躊躇ってきたリアルファイトに踏み切ったパンクラスだが、その影響で怪我人が続出してしまい、競技と興行の両立という難題に挑んだ。

やがてパンクラスはUFCを筆頭とする総合格闘技の波に乗る決断をし、2000年からオープンフィンガーグローブ着用のMMA団体にシフトチェンジしていく。

強さを追い求め、進化型UWFスタイルを実行した「完全実力主義」パンクラスは、今では、修斗と共に老舗の格闘技団体となっている。

第2次UWF時代に船木は「UWFがスポーツや格闘技として打ち出すならば、格闘技をやらないとウソになる」と感じていた。結果的に格闘技に振り切るという禁断の果実を食したパンクラス。その過程としては「プロレスと格闘技の狭間」というUWFのある種の中途半端さがあったからこそ、パンクラス旗揚げ時の衝撃度を高めたのではないだろうか。

そして佐藤光留が率いるUWFスタイル「ハードヒット」はこの頃のパンクラスのようなスタイルをバックボーンにしながら、現在にアップデートしているのだ。




























第6章 グレイシー旋風―総合格闘技「第2章」の幕開け

【感想】
UFCの出現に大きなショックを受けた平は、このUFCを制したホイス・グレイシーが使う格闘技グレイシー柔術の奥義がどうしても知りたくなり、第3回のUFCを観戦し、ホイスの道場に行こうと考えていた和術慧舟會・西良典(元大道塾全日本王者)に同行することに。

ホイスの道場があるロサンゼルスに着くと、そこにはかつてシューティングのインストラクターで、USA修斗代表・中村頼長が待っていた。西が来ることはわかっていた中村だったが、まさか平がいるとは思っていなかったが、中村は「まぁ、この人は昔からこうだから」と変わらずに接してくれた。

中村の案内でホイスの道場である「グレイシー柔術アカデミー」に到着し、主宰者のホリオンから柔術の基本を学ぶも、「君に教えることができるのはここまでだ。君はプロの格闘家だ。闘う可能性がある相手には教えられないんだ」と言われ、その場を後にする。

悩んだ末にゼンショーを辞めていた平は正道会館のバックアップを受けることになった。そんなある日、サンフランシスコにいる石井から連絡がある。

どうやら平にグレイシー柔術を教えてもいいという道場を見つけたので、準備ができたら渡米してほしいとのことだった。

平は渡米すると「カーリー・グレイシー柔術アカデミー」を訪れた。そこには友好的に接してくれる主宰者カーリー・グレイシーがいた。実はグレイシー柔術とは講道館柔道をブラジル滞在中の前田光世が、カーロス・グレイシーに教え、カーロスが改良したものである。ホリオンやホイスの父エリオ・グレイシーは、カーロスの弟である。またカーリーはカーロスの息子。だが、グレイシー柔術に関する権利をホリオンが登録したことにより、他の一族が使うと裁判沙汰になっていたという。ちなみにカーリーとホリオンは犬猿の仲。カーリーはUFCでのホイスの活躍はあまり快く思っていなかった。だからカーリーは平にこう言った。

「お前をホイスに勝たせる!」

まずカーリーはいきなり平にスパーリングを命じる。そこで彼はガードポジションを学んだ。カーリーからホリオンから教わることはなかった数々の奥義となる技術を学び、自信が芽生える平。3週間の滞在期間で、平はグレイシーとUFCへの恐怖心が減っていく。

「相手に攻めさせて自分は絶対に疲れない、これがグレイシーの秘密だ。(中略)力に頼ってはいけない。相手の力を奪うんだ。だからジョギングみたいに闘う。そのためにすべての上記を理解するんだ」

カーリーとの出会いによってグレイシーの秘密を知った平は日本でノーホールズバード(なんでもあり)の試合をやってみたいと決意する。

そして帰国後、石井から平は「カーリーからグレイシー柔術を学んだことは絶対に秘密にしておけ」と厳命される。石井も平も本気で打倒ホイス・グレイシーを狙っていた。そのために石井は隠密に平にアメリカ行きや古巣・修斗でのスパーリングで鍛練させたのだ。

1995年4月20日に日本武道館に行われた「バーリ・トゥード・ジャパン・オープン1995」を石井と共に観戦した平。石井は途中から平と二人っきりとなり、まだ発展途上だったノーホールズバードの試合を「これの動きは間違っています」「こう動くのは正しいんです」と解説したのである。そして石井は興行後に「平君、試合いつやる?いつでもいいぞ、相手も自分で決めればいい。やりたい舞台を用意してあげるから」と言われる。いよいよ己の技術をノーホールズバードで解放する時がきた。

それが1995年9月3日・日本武道館で行われた「K-1REVENGEⅡ」でのヤン・ロムルダーとのノーホールズバードである。ロムルダーはオランダの強豪キックボクサーで、日本初のノーホールズバード興行「バーリ・トゥード・ジャパン・オープン1994」で、修斗重量級最強の男・川口健次をボコボコにした危険なファイターである。

平はロムルダー戦に向けて、渡米し再びカーリー・グレイシーの元へ。そこでカーリーは平を全力でバックアップすることを宣言して、スパーリングを課した。カーリーは平に「柔術で息を吸い、体を動かす。体全体を柔術で満タンにするんだ」というアドバイスを胸に帰国。そして迎えた当日はどうなったのか?それはこの本を読んでご確認ください!

とにかく平は人とのご縁に恵まれていることに気がつく。それだけ魅力的な人物だったことは間違いない。あとカーリー・グレイシーっていい人ですね。太陽みたいに明るくて陽気で、でも格闘技に関しては理論的にも感覚的にも教えてくれる。平にとってグレイシー柔術を学ぶには最適な人材だったのではないだろうか。

【考察⑦/UWFスタイルとブラジリアン柔術】

そもそもUWFスタイルの源流とは、新日本プロレスの「きめっこ」と呼ばれるスパーリングからである。この「きめっこ」での関節技は主に"プロレスの神様"カール・ゴッチが弟子たちに教えた代物である。そこにキックボクシングの打撃、サンボの寝技などを組み合わせて、プロレスというパッケージで生まれたのがUWFのスタイルである。

「目指す理想のレスラーは蹴ってはキックボクサーを上回り、投げてはアマレスラー、柔道家を上回り、組めばサンビストを上回るレスラー」

かつて前田日明が残した名言はUWF戦士の理念だった。

1984年にUWFが旗揚げされ、1991年に第2UWFが解散したことにより、「UWF系」と呼ばれる3団体に分裂していく。

1993年のUFC誕生がきっかけで、黒船グレイシー柔術が日本上陸している。そこから格闘技の歴史は大きく変わり、「UWF系」はその矢面に立つことになる。

そして次第にUWFスタイルは、総合格闘技ブームの波に飲まれていき、過去の遺物となっていった。

もし、今も「UWF系」ではなく、「UWF」が存続していたら、その技術体系はどうなっていたのだろうか。

私はそのひとつの答えとして、ハードヒットで活躍しているブラジリアン柔術をバックボーンにしている松本崇寿の存在は大きいと思っている。

彼はブラジリアン柔術の猛者でありながら、プロレスラーとしてリングに上がり、ハードヒットの常連として活躍している。そのリングコスチュームは柔術着なのだ。

かつてリングスでクリス・ドールマンなどサンボ着を来て闘ったファイターがいた。


私は遅かれ少なかれ、柔術はUWFスタイルの技術体系に組み込まれていたのではないかと考えている。「強さを追い求める」という信念があるUWF戦士が、1990年代に最強を証明していたブラジリアン柔術を取り入れた上で進化させようとするのではないかと。

そう考えるとハードヒットの松本崇寿は、21世紀のUWFファイターであり、「もしUWFが存続していたらこうなったのではないのか」を見事に体現しているのだ。



















第7章 確立されたルール―技術を競う時代へ

【感想】
流転を繰り返す平。400戦無配の男ヒクソン・グレイシーへの挑戦権を獲得するためにブラジルのノーホールズバードに出場するも、一回戦終了後に大会そのものが突然中止し、ヒクソンへの挑戦という話も流れてしまう。そこからまたも紆余曲折の末に、K-1の英雄アンディ・フグの「チーム・アンディ」の一員となり、一緒に練習する日々。トップファイターであるアンディと共に練習すれば、さらに強くなれる。平にとって名誉や金ではなく、ただ「強くなる」という欲求が行動となって自身を動かし、あらゆるジャンルやリングに上がって話題を呼んできたのが彼の格闘人生である。

ちなみにスパーリングパートナーとなった平はアンディに教えたのはなんとグレイシー柔術の流儀!要は力を抜いて、テクニックを磨くことを心がけることを伝えたのだ。あとアンディの練習がさまざまなデータに基づいたものだったのは意外な発見である。

そこから平が選んだのは驚きのプロレス参戦。どこか歪んだ思いで捉えていたプロレスだが、いざプロレスをしてみるとプロレスラーのすごさを体感する。特に受け身とロープワークには苦戦した。

プロレスに励む平にオファーをかけたのはリングスの前田。前田はずっと平を気にかけていた。オープンフィンガーグローブを着用した独特のルールを用いたリングスKOKトーナメントへの参戦させようとしていた。

「田村(潔司)も出るぞ。お前も大丈夫だろ」

だが平はプロレスと格闘技の二足の草鞋は厳しいと判断し断る。すると前田は平をレフェリーとしてKOKルールの大会に携わらせたのだ。

正道会館で柔術クラスの指導員となり、レフェリーを務め、みちのくプロレスやバトラーツの巡業に参加する平は多忙な日々を過ごす。

だが、ある日、盟友アンディ・フグが急性白血病で急逝。そこからしばらく平はリングに上がることはできなかった。

そんな平に「出るだろ?」と試合のオファーをかけたのはやはり前田だった…。

ここから先は本を読んで確認してください!一言、感動しました!そしてやっぱり平はもっている! 

【考察⑧/UWFを追い求めてきた平直行は20世紀末に出現した格闘技の神童】

日本格闘技界のスーパースターである那須川天心。神童、日本キックボクシング界の最高傑作と呼ばれている男はキックボクシングから離れて、2022年からボクシング転向し、世界王者に目指すという。

 とにかく稀有な格闘家である。ジャンルの壁を見事なまでに越えていくスゴい人。キックボクシングでは全勝で誰にも負けていない。しかもその対戦相手には日本国内や世界各国の強豪を含んでいる。また総合格闘技に進出して無敗。しかも2017年大晦日にはボクシング界世界のスーパースターであるフロイド・メイウェザー・ジュニアとボクシングルールで対戦。次々と無謀なチャレンジに果敢に挑み、一躍有名人となった。

またキックボクシング、総合格闘技、ボクシング以外にもテコンドーや日本拳法のスパーリングをしても現役選手と互角の攻防をやってのける天才的な格闘センスを持つ男。

ちなみに那須川天心はプロレスファンである。オカダ・カズチカ、飯伏幸太が好きな選手とのこと。またDDT中継のゲストに来た際には場外乱闘に目を輝かせながら観戦していたのが印象的だった。


そんな那須川天心を見ていて私はジャンルや団体の枠を越えてさまざまな大会やルールに挑んだ格闘家であり、この「U.W.F外伝」著者である平直行を思い出す。



人気漫画「グラップラー刃牙」の主人公・範馬刃牙のモデルと言われている「リアル・グラップラー刃牙」。

ボクシング、空手、修斗、シュートボクシング、リングス、柔術、バーリ・トゥード(総合格闘技)、プロレス、サンボ、レスリング、中国武術、柳生心眼流(日本古武術)、大気拳…。

ありとあらゆる格闘技を経験し、試合では相手や観客をそのトリッキーなファイトスタイルで驚かせるファンタジスタ。

大道塾時代の同期である長田賢一は平についてこう語っている。

「ジャンルにとらわれない"自分なりの格闘技"を求めていたんじゃないかな」

確かに彼の試合はどこまでもフリースタイルでひとつの概念や物事に捕らわれていないものだった。セオリーというものがあるなら、そことは違うものを提供して周囲を驚かせるのが平直行という男だった。

でも彼は格闘技界の注目人物となりながら、チャンピオンにはなれなかった。

そしてどこか時代が彼を味方していなかったようにも思う。もしK-1やPRIDE黄金期ともいえる1990年後半~2000年代前半にファイターとしての全盛期を迎えていたら、彼は格闘技の英雄として有名になっていたかもしれない。今の時代に彼がいたら、野球の大谷翔平のように、二刀流、いや打撃、総合、プロレスの三刀流ファイターとしてクローズアップされていたかもしれない。

平はこう語っている。

「先を歩きすぎたんですよね、時代の。音楽業界では時代の半歩先を歩かないといけないらしいんです。一歩じゃダメ、半歩。でも僕の場合は五歩くらい先行っちゃった」

時代の先を歩きすぎた。どうやら自ら望む欲求に忠実に生きようとした結果、平の場合は時代を置き去りにしてしまったようである。

そう考えると平直行は時代が味方しなかった那須川天心なのかもしれない。

もしかしたら那須川天心が色々なジャンルに果敢に挑む真意は、平直行なら理解できるかもしれない。

そして平直行の生き方を一番シンパシーを感じているのは、時代の寵児・那須川天心なのかもしれない。


UWFを追い求めてきた男・平直行は20世紀末に現れた格闘技界の神童だったのだ。


















エピローグ 2017年秋

【感想】
エピローグでは2017年現在の平について描かれている。都内4か所で格闘技スクールを運営し、指導に当たっている。

ここでは平の言葉が胸に響く。

「世の中は、理屈で説明できないことが山ほどある。UWFが生まれたことも、その後の総合格闘技の誕生に大きな影響を与えたことも、誰かが意図したことではない。おそらく理解できないことがこの世の中を動かしている。1つだけ言えることは、人生において思いもよらない素晴らしいことは確かに起きる。人が夢を追いかけ、必死に努力を続けていると、想像を超えた出会いや出来事が生まれる。現実を動かす手段は、こうした個人の思いや行動だけなのかもしれない」

あらゆるリングをさすらい、さまざまな経験を積んだのも、すべては格闘家として強くなりたいという純粋な思いだった。

プロレスラー志望だった青年がUWFに出会ったことで人生の進路が大きく変わっていき、それが誰にも真似できない独特の格闘人生を歩む道に繋がった。

そんな平の文章は、魑魅魍魎の世界であるプロレスや格闘技において、どこか爽やかで、心地よさが漂う。あれがやけに印象に残った。恐らく周囲を困惑させながらも飄々と渡り歩けるほど愛された平の人間性なのだろう。


UWFのアウトサイダーであり、格闘技界の神童・平直行の著書「U.W.F外伝」は、これまでのUWF関係の書籍の中でも間違いなくトップ3には入る名作である。




【考察⑨/人生を狂わせる格闘プロレスという迷宮~UWF私論~】

ここからは私が考えるUWF私論。UWFとは何か?その答えは本当にややこしく難しい。

そもそも考えてほしい。
プロレスとは何か?という答えも千差万別で多種多様なのだ。

プロレスは格闘技であり、エンターテイメントであり、演技であり、スポーツであり、興行であり、ショーである。

あらゆる「プロレスとは何か?」の答えは否定できない。それらのどこかしらの要素はプロレスを構築しているものだ。

ただそれはすべてではない。
だからこそプロレスはプロレスであるという答えは正確である。

そんな概念としてもややこしいプロレスからさらにややこしいレベルが上がるのがUWF。

スポーツや格闘技、エンターテイメントなどの概念をまるでジェンガのようにうまく何十にも積み重なっているのがプロレスだとすると、UWFはそんな複雑怪奇なプロレスを格闘技色を強めるという厄介なゾーンに突入していった。

そんな格段に「ややこしい」UWFを考察するならば…。


「UWFはプロレスと格闘技の間。ただしその配合はUWF系団体によって異なり、その配合具合が彼らなりのUWFスタイルというアイデンティティーなのだ」

「新日本プロレスを源流とするUWFは20世紀末から21世紀に繋がる総合格闘技ブームの橋渡しとなった。もしUWFがなければ、日本の総合格闘技ブームはなかったかもしれない。いきなりプロレスから格闘技に振り切るのではなく、道ならしのようにUWFでの試合で我々は格闘プロレスという枠内で格闘技のテクニックを啓蒙されたことで免疫ができていた。だからこそ総合格闘技ブームが起こった時に日本で飛躍的に総合格闘技というジャンルは発展していった」

「ストロングスタイル、王道プロレス、デスマッチ、アメリカンプロレス、ルチャ・リブレ、ヨーロピアンスタイルなどさまざまなプロレスの中にUWFというスタイルがある。つまりUWFはプロレスの大きな1ジャンルである」

この3つは個人的な現段階でのUWFに対する結論。

そしてUWFはさまざまな者たちの人生を大いに狂わせて、進路変更させてきた。

UWFを知ってしまった限りは普通には生きれないのだ。

そこには心を震わせ、狂信的にならざるおえないほどの熱量を放っていた格闘プロレスという魔物がいて、魔物が生んだ迷宮こそがUWFムーブメントだった。

迷宮から抜け出せない者たちは、平成から例話になった今でも、UWFスタイルを標榜する団体がほぼなくなっても静かに潜伏していたのではないだろうか。

だからこそ2021年に旗揚げした「GLEAT」という団体は純プロレスと共に「LIDET UWF」というUWFスタイルの二枚看板で勝負に打って出たことに、多くのプロレスファンから賛否両論を呼んだのではないだろうか。

「LIDET UWF」は呼び起こしてはいけない魔物を呼び起こしてしまった。そして元々UWFスタイルを現在でもやってきたハードヒットの怒りを生んだ。

「お前らは俺たちを無視してUWFを復活させたと豪語するのか。俺たちはずっとUWFスタイルを守って生きてきたんだ!」

「ハードヒット」と「LIDET UWF」
2つのUWFスタイルの団体が歩む今後に注目したい。

 UWFとは何か?
その答えは千差万別、多種多様だ。

そんな今だからこそ私は問いたい。

「あなたにとってUWFとは何ですか?」

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