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僕と清水エスパルスとの出会い 〜静岡へ引越し&下部組織編〜

前回は自己紹介を兼ね、生い立ちから始まり、なぜ静岡へ来たのかを書かせていただきました。

※前回のnoteはこちら↓
https://note.com/jumpei_takaki/n/n759d1bfc18b8

今回は静岡へ来てからのこと、エスパルス下部組織時代の話を書きたいと思います。

ようやくエスパルスと出会い、"僕とエスパルスとのストーリー"が幕を開けます!

それでは早速、参りましょう!

1.静岡県旧清水市初見参

熊本を離れ、静岡へ引っ越すことになった僕たち家族は、まず大分港からフェリーに乗り、神戸へ向かいました。大分港へ向かう道中、車中で松任谷由実さんの"輪舞曲(ロンド)"が流れていたことを覚えています。今でも"輪舞曲"を聴くとフラッシュバックするのか、少し切ない気持ちになります…
フェリーで一夜を過ごし、神戸に着いた僕たちは高速で静岡へ向かいました。記憶にあるのは車内でプラモデル(ガンプラ)作っていたこと。
当時はハマってたのか、何かとプラモ作ってたような…芝生席しかり。笑
そうこうしてる間に清水インターに無事到着…するやいなや、僕の目に飛び込んできたのは、"富士山・サッカー・天女"が描かれたドデカイ青いタンク!…「なんじゃこりゃ!」 いきなり圧倒されました…。
静岡到着直後からハードパンチを浴びた僕に、次に待っているのは中学校転入という大きなミッション。転入初日を成功させようと、当日は身なりをしっかり整え、用意周到で清水第二中学校へ初登校しました。
この気持ちのイレ込み具合が逆効果になるとは思いもせず、当時の僕の髪型は"ギバちゃん(柳葉敏郎さん)スタイル"で(分かりやすく言えば角刈り)、生意気にもムースで固めており、僕の中ではキマッていると思っていた"こと"が、ものの見事に校則に引っかかり、初日からみんなの前で蛇口で髪を洗わせられ、濡れたまま授業を受けることになりました…。更に追い討ちをかけるように、転校生には容赦ない仕打ちが待っており、掃除の時間、机を教室の後ろに移動している最中、背中に机が飛んできました。ムースで固めた髪型が生意気だと、ヤンチャな同級生に目をつけられていたのです…あれは痛かったぜ…
僕の心はその時既にポッキリと折れていたのですが、繋ぎ合わせ修復してくれた"もの"、それは父親に半強制的にやらせていた''サッカー"でした。サッカーは初対面の同級生と僕を繋ぐ架け橋となり、コミュニケーションのトリガーとなりました。サッカーをきっかけに友達の輪に溶け込むことができ、この状況を乗り越えることができたのだと思います。

かくして僕は静岡でのスタートを、最初は派手に転びましたが、サッカーのおかげで立ち上がることができ、その後も紆余曲折あったものの、レッドカードを受けることなく過ごすことができました。
しかし、前回書きましたが、当時の僕はサッカーがあまり好きではなく、このタイミングでバスケットでも始めようかと思っていたことを、次の章に移る前にお伝えします。
※当時流行った"スラムダンク"の影響で。

2.エスパルスJr.ユース時代〜前編〜

静岡へ引っ越してから2週間くらい経った頃、父親から「清水エスパルスJr.ユースのテスト受けるぞ」と、僕たち兄弟に伝えられました。
その頃、僕はサッカーを続けようか?バスケットを新たに始めようか?グラグラしている時期でありましたが、父親へは言い出せず、入団テストを受けることになりました。
後から聞いた話ですが、この頃のJr.ユースは正規のセレクション以外で選手はとっておらず、入団する選手は清水FCか静岡FCの有力選手でほぼ決まっており、僕たち兄弟がテストを受けられたのは父親の知り合いがたまたまチームDr.の知人であり、その後押しを受け、形だけでも行いますか的な感じだったようです。
テスト当日の夕方、当時Jr.ユースが練習を行なっていた長崎新田グランドに僕たちは行きました。選手全員が、胸に「S-PULSE」のロゴが入った青いウェア上下を着用し練習している、その光景にまず驚き、練習が始まりw-upで行われたのは、リフティングしながらバーを飛び越え進んでいくというアトラクション的な練習でした。しかも使用するボールは通常のとは違い、リフティングボールと呼ばれる専用の小さいボールでした。僕はこのバーを一つも越えられず、リフティングのやり方が違うと、みんなと離れ個別にリフティング指導を受けました。
静岡へ来た途端、みんなと同じ練習をこなせずいきなりの別メニュー…しかも、コーチが「こいつを見て」と見本として連れてきた選手がまぁ上手いこと。身体が小さく鳥の巣みたいな頭のその男は、ボールを上手に扱い、目の前のアトラクションを難なくクリアしました。熊本では県選抜に入り、正直上手い方だと自負してました。サッカーなんて簡単だと…鼻もピノキオ状態だったと思います。鳥の巣男の光景を目の当たりにし、僕の中にあった自負はあっさり消え去り、鼻も折れに折れました…がしかし、僕の心にはそれと同時に二つの想いが湧き出てきました。
「負けてたまるか…」
「サッカーって面白い!」
悔しさと興味が一斉に湧き出し、その日は一心不乱にボールに触れていました。
テスト期間中は、技術的に練習内容についていけない部分が多かったですが、僕にとってはとても新鮮でとても悔しい時間となりました。そして、テスト期間はあっという間に終了し、後日合否が伝えられました。兄貴は不合格で、僕は合格。兄貴は時期的なこと(中学3年)もありチームが出来上がっているという理由で不合格になり、僕は単に"足が速いから"という理由だけで合格になりました。※プロになり、なぜヘタクソな自分をなぜ合格にしたかを聞いた。
サッカーを続けるか迷っていた僕は、兄貴が不合格になったことでサッカーをやめるとは尚更言い出せず、サッカーの魅力を感じ始めたことと、負けたくない悔しさが後押しし、晴れてエスパルスJr.ユースに入団することとなりました。ここからついに、僕と清水エスパルスとのストーリーは歩み始めたのです。
ちなみに鳥の巣男の正体は、同期で一緒にプロに上がった塩澤達也です。笑

3.エスパルスJr.ユース時代〜後編〜

入団してからの僕は、中学3年生になるまでいわゆるレギュラーとして試合にでることは一度もありませんでした。同年代の選手たちの中には、既にレギュラーとして試合に出ている選手もいましたし、年代別の代表に入っている選手も沢山いました。僕は中学3年生になるまでずっとトップグループとは違うカテゴリーで、下級生の選手たちと一緒に練習をしていました。ですが、それに対しての焦りは一斉なく、むしろサッカーがどんどん面白くのめり込んでいった時期であり、毎日が新鮮で新たな世界を感じていた…"好きこそものの上手なれ"まさにそんな感じでした。
転機になったのは、中学3年生時の夏のクラブユース大会だったと思います。その頃のJr.ユースは、2つ上に下部組織史上最高傑作"市川大祐"さんや"平松康平"さんを擁し、既に2連覇を達成しており、僕たちには3連覇がかかっている、そんな状況でした。大会が始まり予選グループを順調に勝ち進んだ僕たちは、決勝トーナメントに進み、準決勝で三菱養和と対戦しました。準決勝まで僕は2トップの一角として出場を続け、大会通して調子が良く、それまでの試合殆どでゴールを決めていたかと思います。しかし、準決勝では勝ちはしたものの、僕は決定的なゴールを決めることはできませんでした。続く決勝では、横浜マリノス(フリューゲルスと統合前)と対戦し、PK戦の末、僕たちは3連覇を成し遂げることができました。(その後4連覇まで達成)しかし、決勝でも数多くのチャンスを活かせずノーゴールでした。大会終了後に行われる、大会優秀選手が出場する東西クラブ対抗戦、メニコンカップメンバーに選出されたことが1番の転機になりました。その後、ユースチーム昇格をクラブから打診されたのですが、その時、父親から思わぬ提案を受けました。それは、前述した夏のクラブユース準決勝、決勝と「大事な場面でゴールを決められなかったのは、お前のメンタルが弱いからではないのか?」というものでした。「お前は今までクラブチームでしか経験したことがない。環境を変え、メンタル強化含め、高校はユースでなく部活でやったらどうだ?(知っている選手たちがいるユースではなく、色んな選手が集まる部活で揉まれてこい的な感じ)」今までクラブ志向の強かった父親からの意外な発言に驚きつつも、提案された僕は、今であれば「それは自分自身の意識次第であり、ユースに進んでもメンタルは鍛えられし、全ては自分自身の問題で、そもそもゴールを決めることはメンタル面も重要だけども、それだけでなく技術面も両方重要だ。」とはっきり思うのですが、その当時は、なるほど一理あるかもと妙に納得し、進路の話合いのため、親を交えた三者面談で父親から部活へ進む意向をクラブへ伝えたのでした。伝えた相手は当時のJr.ユース監督であり、恩師である"行徳浩二"さんと、コーチのこれまた恩師である"深沢卓司"さん。今でもはっきり覚えてますが、意向を伝えた後のお二人の顔が急変し、「正直、手塩にかけ育てた選手が離れていくことは、はらわたが煮えくりかえる思いです」と話出し、その後、僕を成長させるための育成プラン、僕のストロングな部分、ウィークな部分とその改善策を熱心に話されたのではと思いますが、お二人の顔を見るのが怖く、殆ど覚えていません…
話の最後に父親と二人で「ユースにお世話になります」と気付いたら一緒に言ってました。笑
裏話として、実は既に清水東高校と話をしており、受験前に推薦できるかもと言われてましたが、タッチの差でユースへ進むことに決めました。今となってみては、ユースに進み、恩師である行徳さんと深沢さんに教わったことで、プロ選手の道を切り開くことができたと間違いなく思います。お二人には大変感謝しています。しかしあれは怖かったな…笑

かくして僕は、ユースチームへ進むことになったのですが、その話はまた改めて書きます。
本当は下部組織時代を一気に書く予定でしたが、思いの他長くなってしまいましたので、また日を改めて、その後の話を更新していきたいと思います。

現在に追いつくまでの道のりはまだまだ長いですな…
また気ままに更新していきますので、よろしければ見てあげて下さい!

では、次はユース編からどこまで書くかは分かりませんが、気長にお待ちください!笑

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!



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