「お忙しいのにすいません」
どうも、エンジニアのgamiです。
「お忙しいのにすいません」
社内メンバーから1on1ミーティングに呼ばれたときなどに、そんな言葉を言われることがあります。この「お忙しいのにすいません」という言葉を聞く度に、僕はほんの少しだけ違和感を抱きます。
別にそれを言った人を責めたいわけではありません。きっと僕も同じような言葉を誰かに言ってしまったこともあります。問題があるとすれば、こうした言葉が自然と使われている背景にある「社会通念」や「常識」の方です。
「お忙しいのにすいません」という言葉に感じる違和感の正体とは、「真面目に仕事をする人はみんな忙しくあるべき」と誰もが思っていることへの不安です。
この違和感は、たとえばDXの文脈で言われている「日本は生産性が低い」という言説にも通じるような、重要なものであると僕は思っています。どういうことでしょうか?
「時間がない」とはどういうことか?
「お忙しいのにすいません」という言葉には、2つの誤解が前提として含まれています。
1つは「相手はきっと忙しいに違いない」という誤解です。いま目の前にいる相手に対して「当然忙しいだろう」と暗黙的に決めてしまう。しかし実際には、そこまで忙しくない人もいるし、時期や時間帯によって忙しさが変わる人もいるはずです。
そもそも「忙しい」とはどういう状態でしょうか?遠回りに見えますが、少し考えてみましょう。
忙しいとき、人は「時間がない」と言います。この「時間がない」とはとても不思議な言葉で、そもそも時間は(相対性理論を持ち出さなければ)みんなに等しく流れているし、人間は常に時間を使って何らかの活動をしているはずです。「時間がない」を額面通りに捉えれば、少なくとも生きている人間には当てはまらないように聞こえます。
「忙しい」を辞書で引くと、「暇がないこと」と出てきます。さらに「暇」を調べると、「やるべきことが決まっていない自由な時間のこと」であるようです。つまり、忙しいときの「時間がない」とは「自由な時間がない」という意味です。
当たり前のことを言っているようですが、この「時間を自由に使える度合い」こそが「忙しさ/暇さ」の評価軸であるという認識はとても重要です。同じように1日8時間の仕事をしている2人でも、一方だけが忙しく、もう片方が暇である、ということがありえます。「忙しい」とは、単に「働く時間が長い」ことではなく、「やることを自由に決められない」状態のことです。
「時間を自由に使える度合い」が忙しさであるなら、人をより忙しくさせるのはスケジュールが決まっている仕事です。オフィスワークの文脈で具体例を挙げれば、ミーティングに参加している時間や〆切の厳しい仕事に取り組んでいる時間は、一般的には「自由な時間」ではありません。
「忙しい」という曖昧な言葉の裏には、「自由」をめぐる問題が隠されています。
暇であることの価値
「お忙しいのにすいません」という言葉に含まれる2つ目の誤解は、「相手を忙しくさせることは常に悪いことである」というものです。
誰かをミーティングに招待する行為は、確かに相手の「時間を自由に使える度合い」を下げ、相手をより忙しくさせるものです。しかし相手を忙しくさせることが必ず悪なのであれば、すぐに全てのミーティングや〆切は撲滅するのが望ましいということになってしまいます。
忙しさが「時間を自由に使える度合い」であるなら、そこには「程度」の問題があります。適切な忙しさとは、どの程度の忙しさなのでしょうか?それを考えるためには、「暇であることの価値」について触れる必要があります。
暇であること、すなわち自由な時間を確保することの最大の価値とは、不測の事態に対処しやすくなることです。非常事態に迅速に対応するためには、常に余白や余力を持っておく必要があります。たとえばすでに限界ギリギリまで忙しいチームでは、誰かが体調を崩して休んでしまうと仕事の〆切は確実に守れなくなります。多少の暇を残すことは、リスクに対処するためのバッファとして必要なことです。
僕が関わるソフトウェア産業の例でいえば、システム障害について考えるとわかりやすいです。障害というのはどんなシステムにも必ず、そして突然に発生します。重大な障害が起こったとき、問題を解決するためのエンジニアがすぐに手を上げて最優先で対応することになります。こうした突然の障害に対して迅速に修正作業や情報発信をするためには、常に一定数の人がそれなりに「暇」でなければいけません。
この視点で見れば、不測の事態に対応しなければいけない度合いが強い役割ほど、より「暇」であるべきだとも言えます。たとえばいつも暇そうに見える上司は、暇であることによって見えないリスクに意図的に対処しているかもしれません。単に暇であることを理由に上司を弾劾するのは本質を見失っています。もちろんそんな上司も、非常事態に頼りにならなければ暇である価値は半減しますが。
人間と機械のどちらが暇であるべきか?
他にも様々な要因に依り、「どのくらい忙しい状態がベストか」は人によって異なります。役割や状況によって、対処すべき不確実性のために積むべきバッファの量は変わるからです。また、仕事の特性によって自由な時間を確保する容易さも違います。
同じことが、人と機械の役割分担でも言えます。
ちょうど前回のnoteでは、人間からシステムへの業務の移譲について書きました。
そもそもシステムに業務を移譲し人間を暇にすることに合理性があるのは、人間の方が機械よりも不測の事態への対処が得意だからとも言えます。人間は、予期しなかった事態が急に起きても経験と直感で「いい感じに」対応するということができます。優秀な汎用AIがまだ開発されていない現時点では、機械にこうした柔軟な対応を期待するのは難しいです。
逆に機械の方には、忙しさへの耐性がかなり強いという特長があります。人間は同じ仕事をし続けると飽きてしまいます。また、定期的に休まないと性能が低下して適切な判断ができなくなります。ITシステムであれば、24時間同じ仕事をさせても文句も言わず同じパフォーマンスで働き続けてくれます。
人間の方が暇であることの価値を活かしやすく、機械の方が忙しい状態への耐性が強いからこそ、一般的には機械に任せられる仕事はどんどん任せた方が有利になります。その分、われわれは人間がやるべき不確実性の高い仕事に集中できるわけです。
暇を恐れず、自由を求め続ける
ここまで見てきたように、真に重要なのは「自分がどのくらい暇であるべきか」を考えた上で自分の忙しさを一定の範囲にコントロールすることです。「忙しい」と「暇」の極端な2つの状態しか考えないでいると、忙しさの程度をコントロールするという視点が抜け落ちてしまいます。
この視点で見ると、冒頭で挙げた「お忙しいのにすいません」という言葉には(あえて露悪的に言えば)2つの問題があります。
1つは、「忙しいやつが偉い」という価値観を押し付けていることです。もしも相手が忙しさを抑えようと努めている最中だとすれば、「お忙しいのにすいません」といきなり決めつけで言ってしまうのは、少し不用意かもしれません。ちなみに僕は「お忙しいのにすいません」と言われたとき、冗談めかして「いや、別に暇です」と返しています。きっとめんどくさいやつだと思われていることでしょう。
2つ目の問題は、「このミーティングはあなたを忙しくするに足る価値がないものです」という不必要な謙遜があることです。全ての忙しさが悪なのではなく、ミーティングにも出る価値のあるものとそうではないものがあります。「お忙しいのにミーティングを入れてすいません」と謝るくらいなら、「このミーティングは参加者の忙しさを上げてまでやる価値のあるものだ」と自信を持って言える状態にしておくべきです。
やたら説教臭い感じになってしまいました。僕自信も注意しないと自分や他者の「忙しさ」に対して無頓着になってしまうことがあるので、自戒を込めて書いています。特に僕は自分で仕事を抱え込みがちなので、渡せる仕事は新しいメンバーに引き継いだり型化したりして、忙しさをコントロールしようと努力し始めています。
忙しさを適切にコントロールしながら価値を生むには、「人間が本当にやるべき仕事とは何か?」とか「自分が本当にやるべき仕事とは何か?」という問いに向き合い続ける必要があります。自分がやるべき仕事に集中できる状況は、自分の仕事をきっと楽しくします。
暇であることは「仕事が無くなる」ように思えて怖く感じるかもしれません。しかし、意図的に暇を作り出し短期や長期のリスクに対して向き合う時間を持つことが自分を有利にするという局面はたくさんあるはずです。暇を過度に恐れすぎずに、「今すぐやる必要のない仕事」をやれるだけの自由を求め続けていきましょう。
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