SNSの暴力性と、サービス設計思想の変化
どうも、エンジニアのgamiです。
先日、起業家のけんすうさんのSNSに関する記事がTwitterで流れてきました。
この記事を読んで、SNSが生み出した社会の変化についてあれこれ考えさせられました。今回のnoteでは、そのあれこれについて書きます。
SNSなんて興味がないという人もいるかもしれませんが、直近10年は「スマホとSNSの時代だった」とこの記事に書かれているくらい、SNSが世界に大きな影響を与えました。
市場やエンドユーザーの生活を考える上で、SNSはとても無視できない重要な要素になりつつあります。特に最近のtoCサービスの設計思想みたいなものも、SNSの影響を受けてトレンドが変わりつつあるように見えます。
SNSが広めた陰謀論
SNSは人と人のつながり方や情報の流通の仕方を一変させました。それによって生み出された新しい価値や生き方もたくさんあります。一方で、多くの人が自覚していないSNSの危険性については、色んなところで語られています。
ちなみに現代の多くのサービスは、多かれ少なかれSNS的な要素を含んでいます。この記事で「SNS」という場合、およそ次のような特徴を持つサービスを想定しています。
たとえば、Facebook、Instagram、Twitter、TikTok、YouTube、などがこれらに当てはまります。
SNSの危険性を示す最近の具体的な事例に、陰謀論の広がりがあります。あまり日本のニュースでは大っぴらに取り上げられていない気がしますが、「Qアノン」や「ディープ・ステート(影の政府)」などを巡る陰謀論が極右的な思想とともに広がっています。その結果が2021年1月に起きたアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件であり、SNSの危険性がインターネットの中にとどまらないことを示してしまいました。QアノンのWikipediaを読むだけでも、やばいなあという感覚が得られます。
陰謀論は極端な例ですが、SNSには多かれ少なかれ思想の偏りを助長するような側面があります。その要因の1つはレコメンドアルゴリズムです。たとえばブラウザのシークレットモードでYouTubeを開いて右翼的なチャンネルの動画を何本か見るだけでも、ホーム画面に似たような動画が多くレコメンドされるようになります。一度タイムラインが偏ってしまうと、それが主流の考え方であるかのような錯覚に陥ってしまいがちです。
ちなみに、SNSの危険性については、Netflixの『監視資本主義』というドキュメンタリーがわかりやすいです。SNSが悪者として描かれすぎているきらいもありますが、「SNSによって人の信念が操られている」と言われる理由がわかります。
(予告編動画を見るだけでも概要がわかるのでおすすめです。)
インフルエンサーと、「何者かになりたい」ムード
SNSは別の側面として、有名人と一般人の間を地続きにしました。
それまで有名人になるにはテレビや雑誌などの大手メディアでの限られた面を取るしかなく、一般の素人からすると自分とは関係のない存在でした。しかしInstagramやYouTubeなどのSNSが人気になるにつれて、無名の個人がバズって有名になるケースがかなり増えました。
たとえばYouTuberのヒカルは、YouTube動画投稿を始めて3年でチャンネル登録者100万人を超える有名人になっています。今では宮迫博之など多数の有名人とコラボしたり、企業とのコラボグッズの売上が数億円規模を超えるなどの実績を積み上げています。学歴は高卒で最初のキャリアは地元の工場勤務という経歴ですが、そこからは想像できないほど社会的な影響力を強めています。
面白いのは、SNSを通して有名になったいわゆるインフルエンサーたちは、SNSのフォロワー数によって「戦闘力」が可視化されるという点です。かつてのテレビの有名人は、多くの一般人からすると雲の上の別の生き物だったはずです。一方、InstagramやYouTubeは誰でもすぐに始めることができます。憧れのインフルエンサーと自分との間にあるのは(見た目上は)フォロワー数の差だけであり、頑張って発信し続ければ自分も有名になれるという夢を多くの人に与えました。まさに冒頭で引用したけんすうさんの記事で指摘されているところです。
たとえばTikTokを見ていると、一見普通の高校生が投稿している動画にも、「#おすすめにのりたい」や「#運営さん大好き」といったハッシュタグが付いています。こうしたハッシュタグには「多くの人に見られて有名になりたい!」という期待が明らかに込められています。SNSに対して「友達と楽しくつながりたい」以上のものを求める人が増えています。
誰でもインフルエンサーになれる世界によって、自己実現の選択肢は増えました。一方で、実際にYouTubeの動画投稿とかをしてみるとわかりますが、よっぽどの才能が無い限りは、本気でインフルエンサーになろうとしても生活の足しになるほど稼げるようになる人はほんの一握りです。一部の人にとってSNSは「何者にもなれない自分」を強く意識させられ生き苦しさを助長するものにさえなっているように見えます。
ちなみに、この「何者かになりたい」ムードを体感するにはNetflixの『Followers』を見ると良いです。
(Netflixの好きな動画をおすすめする記事みたいになってきた。。。)
広告モデルが生み出すインプレッション至上主義
先ほど、SNSの特徴を3つ挙げました。
これらは、広告によって収益をあげるビジネスモデルと密接に関わっています。
いま普及しているSNSの大きな魅力の1つが、ユーザー全員が無料で使えるというハードルの低さです。今では当たり前過ぎて意識すらされないですが、こんなに楽しいSNSが無料で使い続けられるというのは素晴らしいことです。ユーザーがSNSに大量の画像や動画をアップロードすれば、それを保管・配信するためのストレージ等のインフラコストがかかります。にもかかわらず、ユーザーはそのコストを気にせず無料で自由に自分を発信することができます。
ご存知の通り、多くのSNSが無料でサービスを提供できているのは広告を掲載しているからです。無料のSNSを運営し続けるということは、広告の表示数やクリック数をなるべく上げるようなサービス設計思想にどうしても寄ってしまうという弱点があります。たとえば、コンテンツやアカウントが「多くの人の興味を呼ぶか?」という軸で評価されがちになります。YouTubeチャンネルで広告収益を最大化したいと思えば、不安を煽ったり根源的な欲望を刺激したりする動画を上げ続けるのが有効になります。自分がやりたいことで独自性を出すよりも、バズを狙った扇情的な動画の方がYouTubeというプラットフォームからは評価されてしまうのです。
YouTuberとして生計を立てたい人が集まってシェアハウスをする様子を描いた、「レイワ荘」というチャンネルがあります。
住人のYouTuberたちも、始めはもともとやりたかった動画を上げていきます。しかし次第に「まずは登録者を集めなきゃ」と、大食いやお酒や料理などの人気になりやすいジャンルにシフトしていきます。「自分の歌をみんなに届けたい」と言っていた人が、「1,000円で楽しめるコンビニおつまみ!」みたいな動画を上げ始めるのを見るのは、ちょっと複雑な気持ちになります。
もちろん、どんなに新しい価値を発揮できるとしても、まずは自分や自社が知られないと誰にもリーチできないというのは資本主義の常です。「まずは知ってもらうこと」を優先して行動するのは、いわばマーケティングの一環であり、よくある話です。
しかし、広告モデルが支配するSNS世界はあまりにも「多くの人に見られること」が重視されすぎているとも感じます。インプレッション至上主義の中では、良いコンテンツとは多く見られるコンテンツであり、良いアカウントとはフォロワーの多いアカウントです。一方で、本来コンテンツを評価する基準や価値観はもっと多様であり、「あんまり流行ってないけど自分は好き」みたいな状態も認められるべきです。
SNSが生み出した偏りと、その揺り戻し
広告モデルやレコメンドアルゴリズムに支えられたSNSは、思想や価値観の偏りを助長してきました。その揺り戻しとして、「自分が良いと思えるものに対して素直にそれを表明できることの価値」が再評価され始めたように感じます。
たとえば塩谷舞さんの最近の文章や発言を見ると、「バズることこそ正義」という価値観からの脱却についてよく語られています。
また、「自分が良いと思えるものに対して素直にそれを表明できること」に重きをおいて設計された、ポストSNS的なサービスも増えています。たとえば次のような特徴があります。
これら全ての特徴を備えているサービスばかりではないですが、SNSの負の部分の反省を活かしたサービス設計が広まっています。
たとえばDiscord上では、ゲームなど共通の話題を軸に半クローズドなコミュニティがたくさんできています。
シラスは、有料の動画配信プラットフォームとして、多様性のある言論空間を模索しています。
また、Instagramが「いいね数」の公開をやめるなど、既存SNSにも変化が見られます。
楽しく生計を立てたい人たちに何を言うべきか?
以上が、僕が最近考えていたSNSの功罪とサービス設計の変化についてのあれこれで、このnoteの本題でした。
以下、余談です。
「ポストSNS的なサービスによって自分らしい楽しさを見つけよう」という話であればここまでの話で決着がついているかもしれません。他方、「やりたいことやって自由に生きる」みたいな夢をSNSによって持ってしまった人について考えると、暗澹とした気持ちになります。
「好きなことで、生きていく」というのは、2014年に話題をさらったYouTubeの広告キャッチコピーです。
SNSが見せたこの「好きなことで、生きていく」という夢の残滓が、近年のFIREムーブメントやプログラミングスクールの流行にまでつながっているように見えます。
この点について、マガジン購読者向けに軽く触れておきます。
SNSが見せた「何者かになれる」とか「好きなことで、生きていく」という夢は、ざっくり2つの要素を含んでいる気がします。
ここまで書いてきた話や世の中で語られがちな話は、前者です。「好きなことで、生きていく」という夢をSNSは見せたが、インプレッション至上主義の中では、優れた才能や容姿がない人は画一的なコンテンツを発信するしか勝ち目がなくなるというディストピアがあった。そういうフォロワー数を競うゲームは止めにして、自分が好きなものを好きといえる場所で、それを認めてくれる少数の人に囲まれて生きよう。そういうムーブメントが始まっています。
一方で、多くの人は人生の大部分を仕事にあてるわけで、仕事がつらいと人生も割とつらいはずです。趣味の時間をDiscordでつながる仲間とどんなに楽しく過ごせても、毎日通う会社での仕事がつまらなければ、自分の人生を肯定しながら生きるのは難しい気がします。仕事がつまらなければ「やりたいことで金稼いで自由に生きたい」と願うのは当然であり、そんな人に「SNSのフォロワー数とか気にするのやめよう」と言っても、「じゃあつまらない仕事をせずに生計を立てるには他にどうすればいいか教えてくれよ」と反論されるのがオチな気もしてます。もちろん、そんな人にも大抵は「フォロワー数を金に変える生き方は万人にはおすすめできないから別の方法を探そう」と言い続けるしかないのですが。
もはやSNSの話から逸れますが、この閉塞感の原因は結局「自由に楽しく働く」という状態に至る選択肢のパターンが少なすぎることがあります。よく想起される「自由に楽しく働く」ための選択肢は下記です。
結局どれも、自分に向いていて運が良ければ成功するかもしれませんが、普遍性や再現性はあんまりない気がします。
ちなみに、Z世代の15~21歳に対するとある意識調査でなりたい職業を聞いたら、1位はインフルエンサーだったそうです。
こういう状況を見ていると、いかに日本では「普通の仕事=楽しくない」という価値観が蔓延しているかが思い知らされます。僕の人生のミッションは今のところ「楽しく働く人を増やす」なのですが、ミッション達成の難しさが伺いしれます。
この話に結論は無いのですが、昨今のCX(顧客体験)重視の風潮の中で「従業員も楽しく働いてないと顧客に良い体験届けられないよね」というムードも徐々に広がっています。その流れの中で、従業員体験を重視する会社や本質的な価値を追求できる仕事が増えるといいなあと思います。
また個人的には、特にITとかデジタルと言われる領域に強みを持ちたい人がいたら、そのスキルアップには貢献したいです。やりたいことを実現するためのスキルを身に付けて仕事上の発言権を獲得していくというプロセスが、多くの人にとっては健全だと思います。僕の活動が、誰かにとっての「自由に楽しく働く」ための選択肢につながればと日々願っています。
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