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桜田一門の短編小説「かみにいのる」

桜田一門さんの短編を掲載します。大病を患った女子中学生は、病の影響で頭髪を失ってしまった。クラスメイトは彼女が恥ずかしくないように、彼女と同じように頭を剃り上げるのだが……”いい話”では終わらない一編。


「かみにいのる」

 

     1

 

 紡の髪がウィッグであることを私が知ったのは、蓮実中二年二組のほかのクラスメートたちと同じく、彼女が四カ月の入院治療を終えて学校に復帰した翌週のことだった。

     ◯

 土田紡(つちだ つむぎ)は中学二年生の八月からの四カ月間を病院のベッドの上で過ごした。

 夏休みの途中に血液の病気を患っていることが発覚し、入院していたのだ。悪化すれば命の危険すらある重い病気だった。

 いつも強気で自信に満ちている紡が、診断直後に私たちのグループラインに送ってきた「死んじゃうのかな、私」といういつになく弱気なメッセージが、その病気の過酷さを物語っていた。

 幸い発見が早かったこともあって、紡は命に影響があるほど深刻な状態に陥ることはなかった。入院中の容体も比較的安定していたという。入院治療は波乱なく終了し、通院での治療に切り替わった。一年ほど治療を受け続ければ治る見込みとのことだった。

 そうして四カ月ぶりに二年二組の教室に姿を現した紡は、退院を祝うサプライズの花束に涙と笑顔を浮かべた。「死んじゃうのかな、私」はもう過去のものになっていた。

「姫様復活って感じだよね。どうです? 久しぶりの下界は」

「やめてよー、もう」

 復帰初日の昼休み、同じ机を囲んでいた陽菜(はるな)が冗談半分にそう言うと、紡は満更でもなさそうに笑った。肩まで伸びた艶やかな黒髪と目鼻立ちの整った顔。姫様と呼ぶにふさわしい美少女ぶりは、難病を乗り越えたことでより磨きがかかったような気がする。

 朝から昼休みにかけてクラス全員から労られ、気を遣われ、ガラス細工のように丁重に扱われた紡の姿は、確かにやんごとない感じが全身から滲み出ていた。

「そういえば操(みさお)も入院したことあるんだよね? 小学生のとき」

 同じ机にいる、私たち四人の中でただ一人出身小学校が違う里香(りか)が聞いてくる。

「うん、あるよ。三年生のころ、自転車で転んで骨折したの。一カ月入院した」

「操が小学生のときに骨折で入院して、今回私が病気で入院したでしょ? てことはさ、高校生になったら陽菜か里香のどっちか入院して、大学生で残る一人が入院するかも」

「うっわー、そうなったらマジでうちら呪われてるね」

「えー、操の呪い? やめてよー」

 悪気なく笑う三人。私も「あはは」と少しだけ乗っかって、ふと、視線を感じて教室の隅の方を見た。窓際の席に座っている男子が一瞬、私の方を見ていた。飛永京(とびなが きょう)。耳まで覆う男子にしては長い黒髪と、成長が制服のサイズに追いついていない小さな身体。

「操?」

 横から呼ばれて、私は慌てて三人の方に向き直った。飛永が私を見ていたのはほんの一瞬だったのに、私は意味もなく彼を見続けてしまっていた。飛永はさっきの一瞬以外は特に私の方を見ることはなく、長い袖の中にしまい込んだ手で頬杖をつきながら、窓の外に視線を向けていた。

     ◯

 病気の治療に使用する薬の副作用で髪が抜け落ちてしまうということを、紡は誰にも言っていなかった。ほかのクラスメートはおろか、普段一緒にいる私たちにも黙っていた。

 入院中に何度か見舞いに行ったときから、少し気にはなっていたのだ。

 病気をしてから紡の髪質がちょっと変わったなとか、なんか頻繁に髪の毛というか頭を気にしてるなとか、日常の端々に違和感はあった。でもまさかウィッグだなんて思わなかった。薬の副作用のことなんてちっとも想像しなかった。昔見たドラマで紡と同じ病気を患った主人公が、抜け毛を隠すためにニット帽を被っていたのを思い出したのは、紡がウィッグであることを知ったあとのことだった。

 紡が隠そうと思っていた気持ちは理解できる。

 紡の抜け毛は一生続くものではなく、投薬治療を受ける一年かそこらで終わるものだ。だから隠し通せるのなら隠し通すに越したことはない。私だって同じ立場だったらそうしたと思う。

 事件が起きたのは、紡の復帰から一週間が経った昼休みのことだった。

 山本という同じクラスの男子が聞き齧りの知識と興味本位で「薬の副作用でハゲるってマジ?」と紡の髪を軽く引っ張って、その綺麗な黒髪が丸ごと彼女の頭から外れてしまった瞬間、教室は無音の混乱に陥った。誰も彼も、紡も、髪を引っ張った山本も、目の前で起きている事態を理解できなかった。笑うとか庇うとかの前にまず、目の前の状況を理解する時間が必要だった。クラスの姫様が黒いインナーキャップ一枚被っただけの丸い頭を晒して硬直し、それまで彼女の頭の上にあった長い髪は傍に立つ山本の手の中で力無く垂れ下がっている。これは本当に現実なのかと様子見するような沈黙が一分近く続き、やがて紡が細い声で泣き出したのをきっかけに、山本に向けて火のような非難が一斉に飛んだ。

 四方八方からの口頭リンチを喰らってムキになった山本が椅子を蹴り飛ばして逆ギレしたところで、騒ぎを聞きつけたクラス担任が現れ、事態は一応の収束を見せた。

 担任は午後の自分の授業の前半を使い、紡が向き合っている病気についての話をした。

「みんなも知っての通り土田の病気はまだ完全に治ったわけじゃない。今も病院に通いながら治療を受けている」

 教室は神妙な沈黙に満ちていた。

「治療にはみんなには馴染みのない薬が使われている。その薬には副作用といって、病気を治す以外にもいろいろな作用を身体に起こすはたらきがあるんだ。吐き気がしたり、お腹の調子が悪くなったり、髪の毛が抜けたり」

 静かに俯いた紡の背中を、後ろの席に座っている里香がそっとさすった。

「いいか。髪の毛が抜けることは、みんなの年頃では珍しいことかもしれない。でもそれは絶対にバカにしちゃいけないことだ。何より髪の毛が抜けるのは土田が病気と必死に戦っている証だ。すごいことなんだ。そのことは忘れないでほしい」

 担任が二組に熱く訴えかけた翌日、登校してきた山本の頭は坊主になっていた。昨日まであったツンツンの黒髪を綺麗に丸く刈り上げていた。そうして教室に入ってくるなり真っ直ぐ紡の机に近づいてきて、

「昨日はごめん」

 と青い頭を深々下げた。

「面白半分でカツラとってごめん。副作用のことちゃんと知らなくて、というか本当にハゲてるなんて思わなくて」

「カツラじゃなくてウィッグ」

「あとハゲてるとか言うの失礼。デリカシーない」

 陽菜と里香から厳しいツッコミをくらい、山本はまた「ごめん」と頭を下げる。

「それで、あのハ……じゃなくて副作用は土田が頑張ってる証拠だって担任が言うの聞いて、反省もしてるんだけど、それより俺、土田のこと応援したくて、頭、刈った」

 途端にクラスがどよめいた。

 昨日の最低最悪のおふざけから一転、山本が見せた覚悟の丸刈りに、私たち四人もほかのクラスメートも度肝を抜かれた。

「やるじゃん」

「見直した」

 陽菜と里香が言い、紡も恥ずかしそうに微笑んだ。

 椅子に腰を下ろす紡と、その左右を固める陽菜と里香。三人の前で深々頭を下げる山本。四人の構図に、半歩離れた場所に立っていた私は、いつか美術の教科書で見た騎士叙任の儀式を思い出していた。

 すると山本だけに騎士の称号はやらんと意気込んだのか、別の男子が「俺も土田さんのために頭刈るわ」と立ち上がった。近くにいた野球部が「バリカンならあるぜ」と得意げに掲げると、二年二組はあっという間に即席の理容室になった。電気音と笑い声が幾重にも連なって響く。いつの間にか男子全員が「紡の快復祈願」という名目で丸刈りにすることになっていた。

 野球部から借り受けたバリカンを巧みに捌いて二組の男子を次から次へと刈っていく山本。教室にいた全員の髪を収穫してしまうと、今度は登校してきた男子を片っ端から押さえつけ、一切の事情を説明することなく、頭にバリカンを走らせていくのだった。

 教室は羊の毛刈りショーをやったあとみたいに真っ黒い髪の毛だらけになっていった。誰も何もしようとしないので、私が箒とチリトリを引っ張り出して片付けることにした。

「えー、操えらーい」

「あ、陽菜、チリトリ押さえててくれない?」

「里香ー、操が助けてだって」

「私いま動画回してるから無理ー」

 校則で禁止されているスマホを男子たちの丸刈り大会に向けながら里香は言う。めんどくさいので私は自分一人で片付けることにした。「ありがと、操」と紡が声をかけてくれるのを「うん」と短く受け流し、チリトリにまとめた男子たちの髪の毛を教室後方のゴミ箱に持っていく。ふわふわと浮いてしまう髪の毛をそっとゴミ箱に落としていると、開けっぱなしにした後方扉の外に飛永が立っているのが見えた。ちょうど登校してきたところらしかった。

「なにそれ?」

 飛永はチリトリから落ちていく謎の黒いわたげを見つめて聞いてきた。

「髪の毛。男子の」

「どういうこと?」

 不思議そうな様子の飛永に、私は今教室で起こっていることを教えた方がいい気がした。

 が。

「おお、飛永! 待ってたぜ! 次お前の番な」

 颯爽と近づいてきた山本の右手の中で「ぶぃいいっ」とバリカンが唸る。

「僕の番って?」

「いいからいいから、来いって」

 山本が笑いながら伸ばした手を、飛永は反射的にといった様子で払った。

「それなに? バリカン?」

 山本はめんどくさそうに舌打ちし、

「二組の男子全員で丸刈りにして、土田の快復祈願すんだよ。担任が言ってたろ、抜け毛は土田が頑張ってる証拠だって。だから男子みんな坊主にして、応援しようぜ。励ましてやろうぜ土田のこと。ほら、来いって」

 飛永は何故か私に視線を向け、それから山本を見て言った。

「やだよ」

「は?」

 山本の笑みが薄まる。

 飛永は扉の敷居を挟んで廊下側に、根を張るみたいにじっと立っていた。「ノリ悪いなー」と冗談めかして肩を組もうとしてきた山本を、飛永はもう一度しっかり拒絶する。

「やんないよ、坊主なんか。馬鹿らしい」

 

     2

 

 私は小学三年生のころに足の骨を折り、一カ月ほど入院していたことがある。

 ブレーキをかけずに自転車で坂を下っていたら、カーブを曲がりきれずに道端の雑木林に突っ込んでしまったのだ。完全に自業自得の事故だった。

 入院中はとにかく退屈だった。両親のいない夜の寂しさは数日で紛れたが、日中の暇さだけはどうしようもなかった。両親が見舞いのたびに差し入れてくれる本や漫画はすぐに読み終えてしまうし、当時は自分のスマホがなかったから紡やほかの友達と気軽に連絡を取ることもできなかった。クラスメートが何人か見舞いに来てくれたが、長居しても一時間程度なので、帰ってしまうとやっぱり退屈はすぐにぶり返す。

 入院生活が半ばを過ぎたころ、飛永が一人で見舞いにやってきた。たいして仲がいいわけでもなく、悪いわけでもない、本当にただのクラスメートでしかない彼の来訪に、私はちょっとだけ驚いた。そのとき病室にいた母が「あら」と妙な気を遣って席を外したおかげで、私は飛永と二人きりになってしまった。

 何を話せばいいのか分からなかった。記憶の底をさらい、飛永との共通の思い出を必死に探した。

 一個だけあった。

「一年生のときさ、遠足のバスで隣の席だったよね」

 少しずつ思い出していく。

「ほらアスレチックのあるなんちゃら運動公園に行ったときのやつ」

「……」

 飛永は俯いたが、私は話題がそれしかないのでとにかく続けた。

「それで飛永がバス酔いして、思いっきり吐いて……」

 途中でやめた。引っ張り上げてはいけない思い出だった。あのとき近くの席に座ってたクラスメートたちは彼に対して「臭い」だの「汚い」だの酷い言葉をぶつけていたのだ。飛永からしたら最悪の記憶以外の何ものでもない。

「ごめん」

「……別に」

 飛永は俯いたまま首を小さく横に振った。

 それっきり私たちは黙った。バス酔い以外に私と飛永には共通の思い出がなかった。この沈黙をどう解消するべきか考えていると、飛永はベッドテーブルの上に大きく膨らんだビニール袋を置いた。

「これ、折り鶴。クラスのみんなから。快復祈願、的な」

 袋の口を開けると色とりどりの鶴たちがベッドテーブルの上に群れをなした。

「すごい、ありがとう」

 どれもこれもお世辞にも綺麗とは言えない不細工な鶴たちだった。みんな鶴折るの下手だなと率直に思ってしまった。私が一番上手いかもしれない。でももちろん口には出さない。私のために何かをしてくれるクラスメートたちのその気持ちだけで嬉しかった。

 しかしどうしてこれを飛永が持ってきてくれたのだろう。紡あたりが持ってきそうなものなのに。そんなことを考えながらふと飛永を見ると、

「僕、保健委員だから」

「え?」

「保健委員だから、代表で持ってきただけ」

 飛永はそれだけ言うと、小さな身体を翻してそそくさと病室を出ていった。あくまで自分は折り鶴を届けることが仕事だ、と言わんばかりに。

 心の中を読まれたみたいで気まずかった。

 飛永がすぐに帰ったことに安堵と物足りなさを半分ずつ感じながら、私は彼が置いていった折り鶴を丁寧にテーブルに並べた。暇なので何羽いるのか数えてみようと思ったのだ。

 どうせなら色別に分けようと腕まくりをしたところで母が戻ってきて言った。

「あの男の子、もう帰ったの?」

「うん。これ届けに来ただけだって」

「あら千羽鶴? 今どきの子もやるんだねー、こういうの」

 母は鶴を一羽手に取って「一生懸命折ったって感じがして、いいね」とギリギリ失礼ではない感想を口にした。

 それから私は母と二人で鶴を数えた。確か全部で一〇〇羽はいたはずだ。今となってはもう正確な数は覚えていない。

 飛永が山本の「丸刈り」を断ったとき、私はふとその見舞いの日のことを思い出した。あの日の飛永の事務的な態度は「折り鶴なんて馬鹿らしい」と訴えているみたいだった。

     ◯

 二年二組の男子で、飛永ただ一人だけが髪を刈らずにいた。

 元から友達が多い方ではなかったけれど、坊主を拒否してから、飛永は二組の中でいっそう孤立を深めていっているように見えた。

 ときどき飛永と言葉を交わしていた何人かの男子も、少なくとも教室では彼のことを避けているみたいだった。山本たちクラスの総本山勢力にあらかじめ何かを言われているのか、あるいは話しかけたら何か言われるかもしれないからだろう。

 二年二組の男子は一人だけ髪を刈らない飛永を許さなかった。

 嫌がらせが繰り返された。

 授業中に丸めた紙や消しカスを投げたり、すれ違いざまに心ない言葉を投げかけたり、バリカンを鳴らしながら近づいてみたり。無視するのに疲れたらしい飛永が休み時間に教室を出ていけば、坊主頭たちは数珠のように連なって彼を追いかけた。しばらくして飛永が濡れた制服を手に体操服姿で教室に戻ってくるのは、つまり彼らの嫌がらせの結果だったのだろう。二組の男子は飛永が「坊主でないこと」に対して徹底的に残酷だった。

 そして残酷なのは男子だけではなかった。

「正直さ、男らしくないよね」

 陽菜が自席に突っ伏す飛永を横目に言えば、里香がスマホをいじりながら「わかるー」と同調する。

「坊主くらいすっぱりやれって思うわマジ。何そんなビビってんだっての」

「誰もお前の髪型なんかに興味ないんですけどー」

 キャハキャハ笑う陽菜と里香を、一応の関係者である紡は止めようとしなかった。同調するように薄く笑みを浮かべたまま「やめなよー」とやんわり言うばかりだ。

「飛永、なんで坊主にしないんだろうね」

 私はひとりごとのように言った。こんなにもあっちこっちから嫌味を言われるくらいなら、いっそ坊主にしてしまった方がずっと楽だろうに。

「飛永くんってさ、あんまり協調性ないよね」

 紡が言った。

「なんか空気も読めてない感じするし、コミュニケーション苦手なのかな? 言いたいことあるなら言えばいいのに、はっきり言わないで黙ってるよね。昔からそんな感じ」

「言うねー、紡」

 私がどうにか苦笑いを返すと、紡は平然とこう答えた。

「私は別にいいけど、あれじゃ大人になったら苦労するよね。多分。だって『俺が坊主にしたところでお前の病気は治んないだろ』って暗に言ってるみたいだもん。弱い人に寄り添えないのってかわいそうだと思う」

「あーわかるかも。坊主にしないって、ようはそういうことだもんね」

「ほんと調子乗んなよゲロナガ」

「ゲロナガってなに?」

 悪態をついた陽菜に、里香が首を傾げた。

「あいつ小学生のときに遠足のバスでゲロ吐いたの。すごかった。めっちゃ臭かったもん。そんで一時期ゲロナガって呼ばれてたの。紡だっけ? 名付けたの」

「ねー、言い方ー。私がボソって呟いたのを山本くんが大騒ぎしたせいだからね」

「てか操あのとき飛永の隣の席でさ、ゲロ浴びてたよね。かわいそうだったー、あれ」

「だから陽菜、言い方。ちょっと服についただけだよ」

「えー、ついたの? きっもー」

 悲鳴を上げる三人の前で、私はただ苦笑いを浮かべていた。飛永を傷つけないように、飛永をかばわないように、ちょうどいい位置で頬を固めるように必死に表情を調整した。

 私の視界の端っこで飛永は自席に突っ伏し続けている。山本たちにちょっかいをかけられても完全に無視を貫いている。そんな光景がもう、かれこれ三日も続いていた。

 クラスのほとんど全方向からの同調圧力に耐え続ける飛永をすごいと思う一方で、私は不安にも感じていた。飛永は耐えているのではなく、耐えようとしているだけなのかもしれない。小学校のときの遠足バスでそうだったように、内側に抱えざるをえない苦しさが、いつかどこかで爆発してしまうのではないだろうか。

 遠巻きに眺めるしかない飛永の小さな身体に、私はバスで隣だったときのことを何度も思い出した。あのとき私は飛永の異変に気がついていた。でも声をかけるのが恥ずかしくて黙っていた。先生が気づくだろうと思って、辺りをキョロキョロしこそすれ、助けを呼ぶことはなかった。

 だからこの三日間、私は常に漠然とした恐怖を感じていた。我慢の限界に達して爆発する飛永や、それを前にして何も行動できないかもしれない自分を想像すると、とても怖かった。

 しかしそんな私の恐れをよそに、事態は悪い方へと転がり落ちていく。

 二組の男子全員が坊主になってから一週間近くがたったある日の昼休み。いつもと同じく喧騒に包まれる教室で、坊主派閥の筆頭である山本が突然、飛永の机の脚を蹴り飛ばした。

「土田の治療が失敗したら飛永のせいだからな」

 一瞬にして教室の喧騒が消し飛んだ。クラス中の視線が飛永の机に集まった。

 山本が発したとんでもない理屈に、私は唖然とした。でも唖然としているのはクラスの中で私だけのようにも見えた。

 机に突っ伏して寝ていた飛永は、顔を上げて山本を見た。

「なに? 睨んでんの? それで? ねー、なんか飛永キレてんだけど、誰か助けてー」

 ヘラヘラ笑いながら山本がほかの男子を振り返る。

「やばくね? こいつ。きつすぎ。坊主にしないくせにイキってんの笑えるくない?」

 飛永怒るなよー、怖くないぞー、と男子たちからの嘲笑が飛ぶ。紡がその様子を笑って眺めているのも、彼らを調子に乗らせる一因になった。飛永の机や椅子を蹴り、猿のように騒いでまくしたてる。私は燃え広がっていく火事を対岸から見ていることが心苦しくて、勇気を振り絞って紡に言った。できるだけ軽いノリに聞こえるように笑いつつ、

「ねえ、ちょっとさすがに止めない? 山本やりすぎだよ」

「うーん、そうだね。ちょっとかわいそうかも」

「だよね、いくらなんでも」

「じゃあ操止めてきて。お願い」

「いや、私がでしゃばるより紡が言った方が」

「私ちょっと今日あんま体調良くなくて。ね? 私操みたいに強くないからさ」

 少し沈んだ調子の紡の声に、陽菜と里香が同調する。

「言い出した操が止めなよ」

「紡にあんまり無理させない方がいいと思う」

「まあでもほら、山本くんたちもふざけてるだけだし、気にしすぎだよ操。放っておきなよ。本当に嫌だったら飛永くんが自分で文句言うでしょ」

 飛永が簡単に文句を言えたら、今こんな状況になってない。

 ウィッグの髪を指で巻きながら笑う紡に、私はちょっとだけ語気を強めた。

「ねえ紡、私結構マジで言ってるんだけど」

「怖いよー、操。そんな怒らないで? ね?」

 こっちはこっちで一触即発だった。三対一。陽菜も里香も紡の味方だ。ここで引かないと、私はきっとその瞬間からこのグループにいられなくなる。今ならまだ間に合う。「放っとこうか」とか「ま、ふざけてるだけだからいっか」とか言って前言撤回すればギリギリ許してもらえる。そうすればこれからも何食わぬ顔で四人組を維持していられる。

「よっしゃ、強制丸刈りの刑にしまーす!」

 誰かの声が聞こえた。見ればいつの間にか山本を中心にした男子たちが飛永の机を取り囲み、寝たふりを続けようとする彼を無理やり机から引き剥がすところだった。

 男子数人が椅子から引き摺り下ろした飛永を羽交い締めにし、山本が嬉々としてバリカンのスイッチを入れた。飛永は身体が小さいし、彼を押さえる男子たちはみな運動部のスタメンクラス。力では到底敵うはずもなかった。

「えー、かわいそー、やめなよー」

 陽菜が棒読みで笑いながら手を叩き、里香がいつものようにスマホを構える。

 紡は静かに笑っている。

 どうする? 

 私は考えた。答えは一つしかなかった。

 黙殺。笑って受け流そう。だって飛永よりも紡たちの方が今の私の人生には必要だから。

 なのに。

「やめようよ、山本」

 気がつけば私は震える声で言っていた。自分でも分からない衝動が私を椅子から立ち上がらせた。紡たち三人が私を異様な目で見ているのは気配で察した。「間違った」と言って座る道もまだ残されていた。でも私はバリカンを構える山本に物申す道を選んだ。

「やりすぎだよ、さすがに。一人だけ坊主にしないのは、ムカつくかもだけどさ、けどそれってあんたたちが勝手に始めたことで、別にするしないは自由じゃん? だから」

「うるせーブス」

 山本は私に中指を突き立て、バリカンを構え直した。私は飛永を見た。飛永も一瞬、私を見た。救いを求めているわけではない。どちらかといえば「余計なことすんな」と訴えるみたいな目つき。でもその目がかすかに濡れて光っているのを見て、私は動いた。

 言ってダメなら。

 私は力任せに山本に肩から突っ込んだ。運動部で鍛えた山本の身体も、同い年の女子の体当たりを不意打ちで喰らって耐えられるほど仕上がってはいなかった。私は山本がよろめいた隙に彼の腕に飛びつき、バリカンをもぎ取ろうとした。バリカンさえ取り上げてしまえばこっちのものだと思った。

「……っ、やめろっ、この」

 ぶいぃいいいと振動を続けるバリカン。私はもぎ取ろうと必死で、山本ももぎ取られまいと必死だった。突如として始まった取っ組み合いをクラス中が囃し立てる。ふざけんな見せ物じゃない。耳元に迫るバリカンの振動音。帰宅部かつインドアな私では、放課後毎日筋トレをしているであろう山本の太い腕に勝てるはずなんてないのだけど、もうヤケクソだった。ここまできて後になんて引けなかった。今年で部活を引退させてやるくらいの気持ちで、全体重を山本の右腕に乗せた。山本も山本で本気で私を振り払おうとしたのだろう。乱暴に振るった右手が、正確には右手に握ったバリカンが、私の頭の横を掠めた。嫌な冷たさが全身を撫でた。力が緩んだ拍子に突き飛ばされ、私は尻から床に倒れ込んだ。そうしてバリカンが掠めた頭の横に手をやって、さっきまで私の身体の一部だった髪の毛が、無惨にも手のひらに絡みついて離れたのを見て、心臓が止まるかと思った。

 思いがけないほど長くて色の薄い私の髪が、指の隙間から床に音もなく落ちていく。一本、二本、三本……数はすぐにわからなくなった。とにかくたくさんの、私の毛たち。

 嘘だ嘘だと思いながらもう一度、祈る様な気持ちで頭の横をさする。こめかみのあたりから耳の後ろにかけて、おろし金に触れるようなざらついた感触が指先に生まれた。

 山本がバリカンの電源を切る。音が止まる。クラス中の視線が私に刺さる。呆気に取られている子、笑いそうになっている子、本気で憐れんでいる子、顔を背ける子。全員の表情から、私は私の頭に起きた事態の悲惨さを理解した。

 私は出血した人みたいに頭の横を押さえて教室を飛び出した。

 

     3

 

 次の日は学校を休んだ。

 山本にバリカンで髪を刈られたあと、私は教室に戻らず早退した。教師にも親にも本当の理由は言えなかった。言ったことが山本や紡たちにバレたらどうなるかを考えると怖かったのだ。どれだけ理由を聞かれても私は「体調不良」の一点張りで譲らなかった。家に帰ってからは数年前にスキー旅行用に買ったニット帽をクローゼットの奥から掘り出してきて、端を引っ張って深くかぶり、布団に包まって岩になった。

 ニット帽はお風呂のとき以外かぶり続けた。両親の前でさえ取らなかった。怪しんだ両親からの問いかけに対しては「言いたくない」一本で押し切った。それくらい徹底して自分の頭の状態を隠した上で、一度たりとも鏡を見なかった。お風呂では目をつぶってすべてこなした。当たり前だが外には出ていない。自室のカーテンも完全に閉ざした。

 いっそもう丸坊主にした方がマシなのかも、とは何度となく思ったが、実行する勇気はなかった。

 昼夜を問わず真っ暗な部屋で小さくなっていると、脳裏をよぎるのはバリカンで髪を刈られた瞬間のことばかりだった。時間にして五秒足らずのあの一幕の、音、声、景色、空気。すべてが一日たってなお鮮明に頭の奥に生き続けているのだった。忘れようと思えば思うほど意識はあの五秒に向かっていき、負の感情は分厚く固く積み重なっていく。

 昼間に紡から個別にラインが来た。私を気遣うような内容のラインだった。どこまでが本音か分からなくて怖かった。「頭のこと誰にも言ってないよね?」という確認なのかもしれなかった。無視しようかとも思ったけれど、無視したらもう髪が伸びた後も学校に行けなくなってしまう。私にとっての友達グループは紡たちだけで、あそこからはぶられたら二年二組に私の居場所はない。今さらほかのグループには移れない。移れば「土田グループを抜けさせられた者」という肩書きを卒業までずっとぶら下げることになる。それは嫌。だから気力を振り絞って「ありがとう」とだけ返した。紡の返事はなかった。

 私は明日も学校を休むつもりでいた。当分行きたくなかった。だから私は嫌な記憶を掘り起こす以外に、明日以降も学校を休む理由を考えなくてはならなかった。医者に行かずの「体調不良」が利くのは一日が限度だと思っている。二日続けば「病院に行け」となる。そうなったらもう次の日には学校に復帰だ。症状がないのだから。かといって「病院に行かない」という手札は今の両親には利かない。人はいつどこで大きい病気にかかるか分からない。そして早期発見が命運を左右する。両親は紡の一件からそういうことを学んでいるはずだからだ。

 ただ、それでも、私は本当のことを言うのは嫌だった。

 バリカンで頭を刈られたなんて言ったらたぶん大ごとになる。

 両親も教師も動く。それは困る。

 確かに髪を刈られたのは嫌なことだけど、大ごとにして何がなんでも報復してやったり詫びを入れさせたかったりするわけじゃない。今日も明日もただ平穏でいたいだけだ。

 部屋の時計を見る。午後四時。両親のどっちかがあと三時間後には帰ってくる。

 そのとき、インターホンが鳴った。

 今日の夕方に荷物が届くと母が言っていたことを思い出した。受け取ってくれとは言われていないのだが体調も悪くない手前、出ないのは申し訳ないという気持ちが勝った。私はニット帽を深々かぶり直し、廊下に出て親機の通話ボタンを押した。我が家の親機は型がだいぶ古いので、訪問相手の顔を確かめるためのモニタがない。だからいつも相手が誰かわからないまま通話ボタンを押さざるを得ない。宅配なのか営業なのか宗教勧誘なのかは押してから初めてわかる仕組みだ。

 どうせ宅配だろうと思って出た私は、出たことを激しく後悔した。そしてかつてないほどに親機の古さを恨んだ。

 返ってきたのは聞き覚えのある声だった。

「あの、こんにちは。えっと、飛永って言います。飯……操さんと同じクラスの」

「……」

「操さん、いますか?」

 どう答えるか迷った。最初に思いついたのは母のフリをすることだった。でも母が普段どんな喋り方をするか思い出せなくて、うまくできなかった。

 沈黙が続き、飛永の音割れした呼吸が催促するようにスピーカーに流れ込んできて、私は結局飯塚操として応じた。

「なに?」

 声が固くなった。たとえ見えないとしても今の頭の状態で飛永に応対する緊張と、どうして飛永が家に来たのかという警戒心と、今日初めてまともに人と口をきくせいとで、舌がうまく回らなかったのだ。

 今度は飛永が黙る番だった。さっきと同じだけの沈黙があった。沈黙の最中に色々な思考が頭を巡った。紡や山本が心無い言葉を投げかけてくる光景を想像した。

 気分が落ち込んだ。

 私は安全な自室に戻りたい思いで聞いた。

「用ないなら、もういい?」

「あ、いや、あの、謝りたくて」

「謝る?」

 私は眉を顰めた。

「意味わからない。別に謝んなくていいよ」

「ごめん」

「だから謝んなくていいって」

 つい語気が荒くなる。飛永からの必要のない謝罪に、頭を刈られた怒りが八つ当たりのように沸々と湧いてきた。

「飯塚、このインターホンってカメラついてる?」

「ついてない」

「じゃあちょっとでいいから出てきてくれない? 見せたいものがあって」

 それは嫌だ。たとえニット帽をかぶっていたとしても部屋からは出たくない。ましてやそんな姿を同級生に見られるなんて。

 また沈黙。

「少しでいいんだ。ダメ?」

「見せたいものってなに?」

「それは」

 飛永は口ごもる。ノイズ混じりの静寂。

 私は飛永のはっきりしない誘いの意図を完全に理解した。

「山本でしょ」

「え?」

「出たら山本たちがいるんでしょ。私が出てくるのを物陰に隠れて見てるんでしょ」

 それで私が出てきた瞬間にニット帽を剥ぎ取ってこの頭を晒しものにするのだ。頭の横だけが刈られたこの奇妙な髪型を笑うのだ。飛永は私を売ろうとしているのだ。

 そうすれば坊主にしなくていい、とかなんとか言われて。

 涙が出た。なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないんだと思った。こんなことなら私も紡に同調して、山本たちに丸坊主にされる飛永を笑って見ていればよかったんだ。

「帰って」

「飯塚」

「もう帰って! 知らない!」

 通話ボタンから指を離してマイクを切った。飛永の声は聞こえなくなった。私は一人きりの廊下にくずおれた。ニット帽を目一杯下に引っ張って、声を押し殺して泣いた。悔しかった。悲しかった。腹立たしかった。自分のバカみたいな正義感を心の底から恨んだ。

 ひとしきり涙を流したあとで部屋に戻り「目が覚めたら世界中の全員が等しく頭の横だけ部分ハゲになっていますように」と願いながら寝た。

     ◯

「最近の中学生って、頭の横だけ雑に刈るのが流行ってるのか?」

 夕飯の席で父が言った。

 私は生姜焼きに伸ばそうとしていた箸を止めて父を見た。両親からいつ「体調はどうだ? 明日は学校行けるのか?」と聞かれるのかと戦々恐々としていた私にとって、それは思いもよらない方向からの質問だった。

「どういうこと?」

 私に代わって母が尋ねた。

「いや、な。今日仕事帰りに寄ったヤスキマートであの子に会ってさ」

「どの子?」

「あの子だよ、操の同級生の」

「紡ちゃん?」

「違うって。紡ちゃんは分かるよ、俺だって。そういや操、紡ちゃんはどうなんだ? 大丈夫なのか? 元気にしてるのか?」

 父はキャベツを頬張りながら質問を変える。私は紡の名前が出たことに少しだけ緊張しながら、できる限り平静を装って答えた。

「大丈夫なんじゃない?」

 自分のために頭を丸める男子を見て笑っていられる程度には。

「なんだそれ。大丈夫なんじゃない、って。友達だろ?」

 私はほとんど音もなく「まあ」と息を吐く。

「まあ、って、お前。喧嘩したのか?」

「別に」

「別にって、お前。優しくしなきゃダメだろ」

「なんで」

「大変な時期だからに決まってるだろ」

 私は握っていた箸をテーブルに強く置いた。

「知らないよそんなの」

「お前、紡ちゃんは」

「知らないってば!」

 父はいつになく声を張った私に気圧されたのか、それ以上何も言わなかった。

「操、何かあったの?」

 心配そうに様子を窺ってくる母に、私は何も答えなかった。黙って箸を持ち直し、生姜味の豚の死体を乱暴に口の中にねじ込んだ。

「で、あの子って誰?」

 ピリついた食卓の空気を、母の質問が少しだけ元通りにする。

「ああ、あの子だよ、男の子。背の低い、小学校も一緒だった」

「飛永くん?」

 二人の会話を横目に私は黙々と咀嚼を続け、

「そう! 飛永くん。あの子がお母さんと一緒に買い物に来てたんだけど、頭の横の一部だけをこう、バリカンで刈ったみたいに妙な髪型をしててさ」

 歯が止まる。

「あまりにその、ユニーク? な髪型だったからついじっと見ちゃったんだよ。いや、失礼だなとは思ったんだけど。そしたら向こうのお母さんが俺の視線に気がついて『なんかクラスで流行ってるんですってこの髪型』って言ってて『そうなの?』って彼に聞いたら『まあ、はい』って。操、最近ってそうなの? あんな髪型が流行ってんの?」

 父の話は途中から耳に入っていなかった。私は潰れた肉と米を舌の上に放置したまま飛永のことを考えていた。考えながらニット帽に覆われた自分の頭に触れた。素材越しにもわかるザラついた頭皮の感触。頭の横に一筋、畦道のようにのびた不細工な刈り跡。

 頭の横だけを雑に刈り上げた髪型。

 私の想像が正しければ。飛永は。

「操?」

 固まった私を母が覗き込んできた。

「どうしたの? 具合悪いの? 無理だったら残していいからね」

「念のため明日も休め、学校。な? 先生には連絡しておくから」

 私はすっかり味のなくなった噛みかけの豚肉をどうにか飲み込んで「残りは明日食べる」と両親に言い置いてから自分の部屋に引っ込んだ。

 スマホを持って布団に潜り、ラインを開いて飛永とのトークをタップする。事務的なやり取りを何度か交わしたことがあるだけの短い画面。何かを送るべきか、黙っているべきか。迷っているうちに眠りに落ちた。

 

     4

 

 父の言葉に甘えて次の日も私は学校を休み、自室のベッドの上で無為の一日を過ごした。

 そして昨日とだいたい同じくらいの時間にインターホンが鳴った。

 飛永だと確信した。確信した上で、出た。

 一日考え、そう決めていたのだ。もし今日も飛永が訪ねてくるのなら出よう、と。

 通話ボタンを押す。

「飛永?」

「……なんでわかったの?」

 私はその問いには答えず、逆に問いかけた。

「頭、私のせい?」

「なんのこと?」

「昨日お父さんがヤスキマートであんたに会ったって言ってた。それで髪、変な刈り方してたって。私と同じ髪型でしょ。私が山本にされたのと同じ髪型だよね?」

 飛永は答えない。私は自分のニット帽越しに側頭部に触れる。

「もしかして私が余計なことしたからあんたもあのあと、無理やり」

「いや、自分でやった」

「……は?」

 思わず通話ボタンから指を離してしまった。慌てて押し直す。

「は? 自分でやったって言った?」

「うん」

 私は数秒の間を置いて、もっと詳しく話を聞かなければいけないという気がしてきた。

「あと山本たちはいない。僕は脅されたりとかしてないから」

「……」

「見せたいものがあるんだ。出てきてくれないかな」

 一階に降りて玄関扉を開けた。短い飛び石のポーチの先、門の外に立っている制服姿の飛永は、父が言っていた通りの髪型をしていた。彼が見せたかったものとは、その奇妙な髪型のことらしかった。

「本当に自分でやったの? その髪」

 自室、は恥ずかしいのでやめて、リビングに飛永を通す。コップに麦茶を注いで渡し、向かい合わせに座ってから自分が完全に無防備な部屋着姿だったのを思い出した。

 慌てて自室に引き返し、寝巻きよりはいくらかマシな服に着替えて仕切り直す。

 飛永は見れば見るほど変な髪型をしていた。

「一昨日家に帰ったあと、兄貴のバリカン借りて自分でやった。飯塚の頭、一瞬しか見てないから完璧に同じってわけじゃないと思うけど」

「別に完璧さ出さなくていいよそんなところで」

 私は呆れたように言う。

「けどなんでわざわざ」

「……飯塚一人だけを変な髪型にしておきたくなくて」

 言ってから飛永は恥ずかしそうに俯いた。私も思わぬ答えが返ってきたせいで咄嗟に何を言うこともできず、もごもごと口を動かすばかりで、私たちはまたそろって黙った。

 しばらくして気持ちが落ち着いてから私は聞いた。

「なんで紡のときはすぐ坊主にしなかったの?」

 私のときみたいにすんなり大人しく坊主にしていれば、山本たちからちょっかいをかけられることもなかっただろうに。

「飯塚さ、小学生のころ、入院しただろ」

 飛永は唐突に切り出した。

「あのとき折り鶴持ってったじゃん、僕。クラスみんなからって。覚えてる?」

「うん、覚えてる」

「今だから言うけどあれ嘘なんだよ」

「嘘?」

「あれ全部僕が自分で折ったんだ」

「え? 飛永が? 一〇〇羽とかあったよあれ」

「数なんかもう覚えてないけど。とにかく学校の図工室にあった折り紙全部使って折った。一週間くらいかかったかな」

「なんでまたそんな」

「最初はみんなに声をかけようとしてたんだ。入院してる飯塚のために何かできることはないかなって考えて、鶴折るくらいならできるなって。それで飯塚と仲がいい土田に声をかけたら一番手っ取り早いんじゃないかって、思ったんだけど」

 その先を言うべきかどうか、迷うような沈黙があった。

「言いかけたなら最後まで言って。中途半端にされてもモヤるだけだし」

「じゃあ言うけど、土田は『やだ、馬鹿らしい』『一人でやれば?』って。あのときから土田は女子たちのボスだったろ? だから土田が『ノー』と言ったら逆らう女子はいなくて、男子も男子で『折り紙とかダッセー』『土田のこと好きなの?』とかめんどくさいやつばっかだったから、もういいやって思って、自分で全部やることにした」

「クラスのみんなからって言ったのは、じゃあ」

「本当のことを言ったら多分、飯塚が傷つくかなと」

 私は大きく息を吸って、吐いた。

 予想通りと受け入れる気持ちとただただショックという気持ちがちょうど半々くらい、私の胸の奥にいた。

 今になって考えてみればいろいろおかしかったのだ。クラスのみんなからなのにそろいもそろって形の悪い折り鶴と、特別親しいわけでもない飛永が代表者に選ばれたこと。

 全部飛永が一人でやったことだと思えば納得がいく。

 私は思わず笑った。麦茶の入ったコップを手に、自分でもびっくりするくらいしっかりとした笑い声が出た。今を除いて一番弱っていた時期の、思いがけない裏側を知って、私は笑いが止まらなくなった。この二日ほとんどまったく動いていなかった表情筋が、生き生きと私の顔の上を跳ね回っていた。

「けどごめん、飯塚」

「なにが? 昨日も謝ってたけど」

「飯塚の髪のこと、正直半分は僕のせいだと思うし。僕が下手に抵抗してなければ、飯塚があんな目に遭うことはなかった」

「いいよ別に。理由聞いたら許せる。というか悪いのは山本とその他大勢の男子だし。飛永も被害者だよ」

 私は麦茶を飲み干して立ち上がった。それからおもむろにニット帽のてっぺんを掴んで、ほんの少しだけためらって、言った。

「あのさ、お願いがあるんだけど」

     ◯

 父のキャンプ用の椅子を家の裏庭に出して座り、ゴミ袋の底に穴を開けて被った。脱いだニット帽を握りしめて、裏庭に面した隣の家の窓を「今このタイミングで絶対に開きませんように」と祈りながら見つめた。

「本当にいいの?」

 背後に立った飛永が言う。

「うん。ひと思いに」

「じゃあ、やるよ」

「うん」

「本当にやるよ? いいね?」

「いいから。はやく。この状態を見られるのが一番恥ずかしいんだから」

 わかった、と言う代わりに飛永が電気シェーバーのスイッチを入れた。洗面台に置いてある父のものを勝手に借り、アタッチメントをバリカンに付け替えて飛永に握らせている。

 丸刈りにして、と飛永に頼んだ。

 この中途半端な髪型でいるよりはいっそ、と。

「いくよ」

「くどい」

 刃がうなじにあてがわれ、頭頂部めがけて一息に駆け上がる。一度開拓を始めて仕舞えば飛永も楽しくなったようで、最初のしつこいくらいの確認が嘘みたいに、自由に私の頭で電気シェーバーを動かした。中途半端に刈って「ここでやめる?」なんてほざいたときは振り返ってパンチしてやろうかと思ったくらいだ。電気シェーバーの振動音をBGMに、私たちは他愛のない話をした。思えばこうしてじっくり話すのは小中を通じて初めてだった。

「飛永さ、私が入院したときさ、なんで鶴折ってくれたの?」

「遠足のバス」

 電気シェーバーの小気味良い音が鼓膜を揺らす。

「僕が吐いたとき、飯塚だけが僕を気遣ってくれたから。ほかのみんなが僕を笑ったり気持ち悪がったりしてるなかで、飯塚だけが心配してくれたんだよ。隣の席に座ってて、なんなら一番の被害者だったのに、服を汚しちゃったのに、飯塚は『どうせアスレチックで遊んだら汚れるもん』って言ってくれた。僕はそれがすごく嬉しかった」

「だって、そりゃ、隣に困ったり不安になってる人がいたら、助けるよ」

「僕も同じだよ。飯塚が困ったり不安になったりしてると思ったから、僕なりにできそうなことをしようとしたんだ。それだけだよ。効果があったかどうかは、別だけど」

「効果ならあったよ」

 私は言った。効果ならあった。目を閉じる。瞼の裏を、あの一〇〇羽を超える折り鶴たちの群れが飛んでいく。彼らの紙の羽ばたきが私を病室の外に連れ出してくれたのだ。

 髪の毛が次々に頭を離れ、自由になっていく。自由になれ、と私は祈る。身も心も軽くなっていく。

 一〇分ほどかけて細かいところまで丁寧に均し、飛永の持つ電気シェーバーが止まった。

 私は恐る恐る頭に手を伸ばし、まずあるべき位置に髪の毛がないことに驚いて、それから自分の頭の小ささと丸さに驚いて、庭に散った自分の髪の毛たちの多さに驚いた。

「すごい。別の生き物になったみたい」

「鏡見てみる?」

 飛永があらかじめ用意してあった手鏡を渡してくる。ほとんど二日ぶりに見る自分の顔。そこに映った自分の、あまりに見慣れない形をした頭を見て、また驚く。

「どう? 気分は?」

「結構スッキリ。途中すっごい不安だったけど、意外と悪くない? よね?」

「なんか、うん。結構、自然」

 飛永は頷き、

「じゃあ、次は僕の番ね」

「え、飛永もやるの?」

「うん。見てたら気持ちよさそうだったから」

 ゴミ袋を脱いで飛永に渡し、椅子を交代した。電気シェーバーのスイッチを入れる。

「じゃあ、おね」

 私は飛永と違って躊躇わないし、しつこい確認もしない。スイッチを入れた瞬間にはもう、飛永のうなじから額にかけて見事な幹線道路を開通させている。

 自分にかかった半分の時間で飛永の頭をまるまる坊主にしてしまう。飛永は出来上がった自分の頭を見て、おおむね私と同じような反応をした。

「悔しいけど私より似合ってる」

「それは褒め言葉って思っていい?」

「うっわーじょりじょりだ」

 私は飛永の質問を無視して、彼の後頭部を下から上に撫でた。手のひらを擦る短い毛の感触が気持ちよかった。何度も何度もやっていると飛永は「くすぐったいって」と頭を振って逃げ出してしまった。

「自分のでやりなよ、同じなんだから」

「人のと自分のとじゃ違うんだよ。もっとじょりじょりさせてよ」

「やだよ」

「ねえ飛永」

「なに?」

「山本たちが丸刈りにしてから一週間くらい経つよね」

「だね」

「てことはもう完全に丸刈りなの私たちだけだよね」

「だね」

「明日さ、教室でじょりじょりしに行っていいよね?」

 飛永は答えなかった。

「じゃあ今やるね」

「今はやだ」

 恥ずかしがって逃げる飛永を、私は追いかけた。

 明日学校に行くのは怖くなかった。グループを追い出されるのだって怖くなかった。山本だって、ほかのみんなだって怖くない。

 丸坊主二人。笑いながら夕暮れの裏庭を走り回る。

 緩やかな風が庭に落ちた私たちの髪の毛を混ぜ合わせ、どこかへ運んでいく。

 髪よ自由になれ、と私は祈る。どこまでも、遠く、自由に。

 飛んでいけ。

〈了〉