【試し読み】斜線堂有紀の恋愛短編『ミニカーを捨てよ、春を呪え』
斜線堂有紀さんから新作短編をいただきました。やっと彼氏ができた冬美……しかし彼氏はドルオタだった。地下アイドル・赤羽瑠璃に彼は心を奪われている。冬美に共感する人、渓介に共感する人、読む人によって全然ちがう感想が出てきそうな作品です。絶賛発売中の『愛じゃないならこれは何』収録の一編『ミニカーだって一生推してろ』に登場する人々のお話です。
斜線堂有紀
第23回電撃小説大賞《メディアワークス文庫賞》を『キネマ探偵カレイドミステリー』にて受賞、同作でデビュー。『コール・ミー・バイ・ノーネーム』『恋に至る病』『楽園とは探偵の不在なり』『廃遊園地の殺人』『回樹』など、ミステリ作品を中心に著作多数。恋愛小説集『愛じゃないならこれは何』『君の地球が平らになりますように』絶賛発売中。
ミニカーを捨てよ、春を呪え
「アイドルだって女じゃん」
と冬美が言うと、場が凍り付いた。そして、一拍遅れてからドッと付け足したような爆笑が起こる。この中で一番声が大きくて品性の無い古田が渓介を引き寄せ、拳でこめかみをぐりぐりと押した。
「おいおいラブラブじゃ~ん。こんだけ愛してもらえるなんて幸せもんだなぁ」
やけに大声で言われたそれを聞いて「あ、フォローされたなあ」と、冬美も他人事のように思った。じゃあ、これってフォローされるくらい無様で空気が読めなくて、イタい発言だったんだなあ、とも遅れて後悔が滲んでくる。
正直、少しくらいの共感は得られるだろうと思っていた。今回の飲み会には女の子達も参加している。『彼氏がアイドルにハマりすぎてて嫌』というところまでは、彼女達も頷いていてくれたはずなのに。「女じゃん」発言を聞いた瞬間、薄ら笑いを浮かべてきた。冬美の必死さを見て「一緒にされたくないんですけど(笑)」という気持ちになったのだろう。あー、なるほど、じゃあそれ本気の共感じゃなかったのかよ。
本気でミスった。これで、可愛くもないくせにアイドルに張り合う女っていう不名誉な肩書きだけが残ってしまった。最悪だ。そういう『弁えてない女』になるのが嫌で、ずっと慎重にしてたのに。冬美はマジョリティーじゃなかった。見誤った。みんなアイドルのことは女にカウントしないんだ。恥ずかしい。消えたい。
ちらりと視線を向けると、当の渓介は暢気に酒を飲んでいた。分かってはいたけれど、こういう時の渓介は本当に頼れない。最悪なのは、渓介が決して分かっていないわけじゃないところだ。
空気を壊すのが嫌だから、彼女が傷ついていても絶対に庇わない。
もし渓介が冬美の理想の恋人だったら、きっと庇ってくれた。もっと何かいいように場を治めてくれて、アイドルなんかより彼女が大事だよ当たり前じゃんって、みんなの前で示してほしかった。
それは愛ではなく、当然の権利を与えられないことに対する怒りである。彼氏として必要十分なものを、ちゃんと与えてほしい。
帰り道でも、冬美は味わった空気を反芻し続けていた。一番失敗したくなかったところで、自分はやらかしてしまった。最悪で、みじめだ。悲しくて苦しい。その気持ちが、隣を歩いている渓介に向く。
「何? まだ怒ってるの?」
最悪のタイミングで渓介が言い、怒りの炎が燃え上がった。
「私さ、研究室の飲み会なんて行きたくないって言ったじゃん。完ッ全に下に見られてたし、馬鹿にされに行ったようなもんだよ、あんなの」
「えー……それは被害者意識強いよ。あいつらそこまで嫌な奴らじゃないって。ちょっと身内感強いけど」
「その身内感でジャッジされたのが本当嫌なの。なんでだよ。あいつらだって陰キャのオタクのくせに、大したことない女扱いされなきゃなんないの」
「そんなつもりはないと思うけど……」
渓介は困ったように眉を寄せる。彼のそういうところが、冬美は殊更に嫌だ。彼女のことも庇わないが、自分の友人が悪く言われても同様に庇わない。事なかれ主義の日和見男。王子様には程遠い。情けなくてどうしようもない男。
それでも、冬美の恋人はこの男なのだ。
「……もう行かないからね。絶対」
「そんなこと言うなよ。これからもこういう機会何度もあるだろうしさ」
「無くていい。ていうか、私が行ったって盛り上がらないじゃん。いるだけ無駄だよ」
「みんな冬美のこと良い彼女じゃんって言ってたよ。俺には勿体無いって」
「そんなことない」
冬美は短く言う。自分がどのレベルかははっきり分かっている。自分達の天秤は完璧に釣り合っていて、もう動かない。だから、冬美が渓介に文句を言う権利など、無い。
名城渓介とは大学で出会った。何の面白みもない出会い方だった。大学を卒業する前に、同じキャンパスの学生を一堂に集めて親交を深める会が催されたのだ。知り合いの知り合いが声を掛け合う。もう既に『出来上がっている』グループが寄り集まる。
二十二歳の牧野冬美は、必死だった。
この中で、誰かを見つけようと必死だった。
大学卒業を前にして、冬美は自分なりの真理に辿り着いていた。即ち、自分は大学までにパートナーを見つけなければいけない人間だ、という真理に。
これから就職して、働き始めて、生活をしながら恋人を見つけられる自信が無い。かといって、誰かから見つけてもらえるような人間でもない。だから、人と出会うハードルが低い大学時代の内に対処をしなければ。
「彼氏いないの? じゃあこいつとかどう?」
そんな時、所属していた童話研究会の先輩ごしに紹介されたのが名城渓介だった。
「宇宙情報処理をやってる名城渓介です。永居研究室だけど……院生じゃない人にこれ言っても伝わらないか」
本当にどこにでもいそうな理系院生だった。適当に選んだ厚めの眼鏡。柔和そうな垂れ目。少し口元が小さいのが垢抜けなくて、だからこそ誠実そうに見える。
「どうよ名城。この子、物理学科の牧野冬美っていうんだけど、めちゃくちゃ良い子だぞ」
先輩が語る自分の売りが『良い子』であることに、冬美の心が少しだけささくれ立つ。今までの人生で、冬美は殆ど『可愛い』とか『美人』だと言われたことがない。見た目がセールスポイントになるような人間じゃないことは、自分でも重々分かっていた。それでも、苦しさはやわらがない。
「良い子なのに俺に紹介していいんですか。俺甲斐性無いですよ」
「でもお前も良い奴じゃん。良い子と良い奴は長く続くから」
先輩に肩を叩かれ、名城渓介が困ったように笑っている。けれど、そこまで嫌がっているわけでもない。冬美は人の顔色を読むのがそこそこ上手かった。そこまで積極的じゃないけれど、満更でもない。
「彼女いないんですか?」
「あー……うん。いない。ていうか、理系の院って出会い無くてさ。モテるわけでもないし」
「じゃあ、お友達からどうですか。ご飯食べに行くのとかでも」
「え、いやいやそれは、俺で良ければ」
積極性の使い方はここだと思った。渓介に心惹かれるものがあったわけじゃない。けれど、条件が良い。この大学の院に行くくらいなら、多分それなりのところに就職出来る。見た目だって良くはないけど悪くはない。
冬美が捕まえられる男の中で最も条件の良い男は渓介だ。これ以上は、きっと無い。
渓介と冬美は何度か食事をして、七回目のデートでようやく付き合うことになった。その言葉も「そろそろちゃんとしようか」なんて色気の無いものだったけれど、冬美はそれで構わなかった。
だって、ロマンチックな告白とか、少女漫画みたいなシチュエーションとかは現実にはそうそう無いものだから。「そろそろちゃんとしようか」と言っている渓介の右斜め後ろで、幸せそうなカップルがケーキを前に写真を撮っている。花火の刺さった浮かれたケーキは、多分何かしらの記念で用意された特別なもの。されど、お店に一本電話を入れれば、簡単に用意出来ただろうもの。
渓介にだって、そのくらい出来た。
でも、渓介はそんなことしない。第一、あんな派手なケーキを前に、冬美は上手くはしゃげない。多分照れ隠しに仏頂面をして、しどろもどろのまま空気を悪くする。ガラスの靴は、相応しいお姫様にしか与えられない。慣れないステップでそれを割ってしまった日には、また苦笑いが待っている。
『サンドオリオンは私の祈りですよ。サンドオリオンが誰かを守ってくれる鎧になってほしいし、誰かを飛ばせる羽でありたい』
インタビューに書かれたその言葉を読んで、何故かわからないけれど動悸がした。インタビューに答えている灰羽妃楽姫は、冬美の憧れの相手だった。若くしてサンドオリオンというオリジナルブランドを立ち上げたカリスマデザイナ―で、いかにも『強い女』という感じの自立した美しさを持っている。
サンドオリオンは女性の為のメルヘンを謳っていて、少女趣味を良い具合に大人向けにアップデートしたブランドだ。嫌らしくない程度のフリル、ポイントだけに甘さを残したワンピース。初めて見た時、衝撃を受けた。自分が着たかった服はこれだ、と思った時、冬美の視界がパッと燦めいた。
けれど、冬美を絶望させたのもまた、サンドオリオンだった。
必死にお金を貯めて買った、シンプルで綺麗めのワンピースは冬美には全く似合わなかった。サンドオリオンの白は、浅黒い自分の肌には似合わない。襟のフリルが輪郭の丸さを引き立ててみっともないし、二の腕の太さも目立つ。
何が全ての人の為の服だ、と思った。これは特別な人間が着る服で、冬美の為の服じゃない。
見渡してみれば、サンドオリオンの服や小物を持っているのは、いかにもキラキラしているインフルエンサーや、顔立ちの美しい女子アナばかりだった。ガラスの靴を履いてもおかしくない側の女達だ。冬美とはまるで違う。
その時、冬美は悟った。人間には相応の身の程があり、そこからはみ出るところから不幸が始まる。思い返してみれば、冬美が今まで犯した失敗は、全てが分不相応なガラスの靴を履こうとしたことに由来していた。──小学校の頃の劇で鼻白まれたのは? 前に出ようとする度に疎まれたのは? 誰も冬美のことを特別扱いしてくれなかったのは? 告白をしてくれた人がいないのは?
答えは簡単だった。牧野冬美が、この世の端役でしかないからだ。
人生ずっと冬 サンドオリオンの新作可愛いけど私みたいな骨ストだと似合わないよね。骨格から負け組なんですわ
人生ずっと冬 骨ストにはモデルが多いとか言ってるやつダルいわ。それは一部の顔整いのせいだろ。だったら私もモデルになれてるんだが。
五十人程度しか見ている人のいないアカウントで、密かにそんな投稿をする。一、二人しか反応が無いけれど、それでも心が慰められた。こういう時、冬美の孤独は紛れる。
容姿へのコンプレックスが過剰な自覚はある。ルッキズムへの抵抗を謳う社会に逆行している自覚もある。けれど、拭えない。
「あんたそんなに可愛くないんだから、勉強だけはちゃんとしときなさいよ」
これは母親から何度も言われた言葉だ。冷たいとも酷いとも思わない。事実を予め伝えてくれて感謝しているくらいだ。自分が恵まれていないことは、はっきりと理解しなければ。
だが、与えられなかった事に対する憎しみは絶対に忘れない。忘れたくない。だから、冬美はこうして吐き出す。
冬美が悲鳴のように綴る言葉に誰かが反応してくれる。その度に、冬美の夜に一筋の光が差す。
選ばれたら変わると思っていた。自分のことを恋人として扱ってくれる、ちゃんとした誰かを見つけられたら何かが変わるはずだった。
けれど、名城渓介と付き合うようになっても、冬美の焦燥感はまるで止まない。
渓介との交際は可も無く不可も無かった。
正直なところ、渓介からの愛情を強く感じたことはない。意外にも冬美と渓介は気が合って、何時間でも他愛ない話が出来る関係になった。けれど、それだけだった。社会性が認められるだけの適当なカップル、としてごっこ遊びをしているようですらあった。
初めてセックスをした時、冬美は密かに焦った。悪くはなかったけれど、良くもなかった。まるで詳しくない料理をレシピ通りに作った時のようだった。感動も何も無い。これから回数を重ねていったら、目新しさや違和感すら無くなるだろう。それを思うとゾッとした。──それなのに、これを何回も続けるの?
幸いなのか不幸なのか、渓介はそれほどそういうことに興味が無いようで、する頻度はそう多くなかった。そうなると今度は、余計に自分達が『恋人』である理由が分からなくなってしまって、怖かった。
でも、別れる選択肢は無い。渓介といるのは楽だった。友達のように過ごせるデートは気楽だったし、色々な意味で同じレベルの渓介となら、外を歩いていても気負わなくて済む。先輩の『お似合い』という言葉が頭を過る。その通り、自分達はお似合いだ。
自分達はきっと、このまま問題無く交際を続けて、適当なところで『ちゃんと』結婚をするだろう。渓介は決断力が無いけれど、一人の人生をいたずらに消費させる度胸も無い。付き合った責任として、結婚までこなしてくれる。
そのことが分かっているからこそ、冬美は渓介と付き合っていた。冬美の嗅覚は間違っていなかった。冬美にとっての人生最大の幸運は、渓介を掴まえられたことだろう。名城渓介こそ、人生の伴侶に相応しい。
渓介がアイドルオタクだと知るまでは、そう思っていた。
めるすけ 東グレのライブ結局全通になりそうですわ~。会場で会える方よろしく。
そのアカウントを見つけた時のことを、冬美はよく覚えている。
その時期、冬美も渓介も仕事が忙しく、休日が合わないことが増えていった。連絡は取っているのものの、会えるのは月一回くらいで、まるで遠距離恋愛である。別にそこまで会いたいわけじゃなかったけれど、この予定の合わなさが気になった。
──まさか、浮気? 疑った瞬間、手の先がすうっと冷たくなった。悩んだ末に、冬美は渓介と引き合わせてくれた先輩に相談をした。
果たして、先輩は言った。
「浮気? 名城に限ってないない。ていうか、聞いてないの? 忙しくなるって」
「仕事が忙しいとは聞きましたけど……それとか関係無しに、なんか予定が合わなくて」
「いやいやいや仕事じゃないって。ほら、この時期っていつもそうなんだよ。ライブが詰まってるとかで」
「え? は? ライブ? 何のですか?」
「地下アイドルだよ。あいつ、ドルオタだから」
先輩はなんでもないことのようにそう言って、冬美にスマホの画面を突きつけてきた。
そこには『めるすけ』という名前のSNSアカウントが表示されている。「一介のアイドルオタク。東京グレーテルのばねるりを応援しています。」という文字と、ブレた猫のアイコン。ブレていても分かった。これは渓介の猫だった。
「え? え……待ってください、何これ」
「えー、知らんかったの? あいつもこういうとこあんのよ。こっそり見てみ? 推しにめちゃくちゃ真剣でウケるから」
ウケるって、何がウケるんですか。言いかけたその言葉をぐっと堪えて、めるすけの投稿を遡る。サイリウムを握る手に見覚えがあった。CDの積まれている部屋は、よく知っているものだ。どう見たって、めるすけは名城渓介だった。
『ばねるりが生きがい』『ばねるりの為なら仕事頑張れるわ』『就職して良かったこと、東グレに思い切り突っ込めること』
それなのに、投稿されている内容はまるでピンとこない。こんな渓介は知らなかった。付き合って、もう一年になる。それなのに、冬美は『めるすけ』のことを全く知らなかった。
「もしかして名城にほっとかれてるか~? 俺が言ってやろうか?」
「いえ……そんな、普段は優しいですし。最近、ちょっと予定が合わなくて、お互いの時間を大事にしたいタイプだからあれなんすけど。気になって。浮気とか、だけはまあ許せないってだけなので」
「よかったな~絶対そんなことないって。あいつ一途で真面目なタイプだし、冬ちゃんのこと大事にしてくれると思うよ~」
「それは……すごく感じてます。すごく。渓介と付き合えてよかったというか……大事にされてるのは、わかるので……」
硬い笑顔を貼り付けながら、冬美はなんとかそう答えた。完ッ全に嘘だ。大事にされてるなんて思ってない。二人の間にあるのは、冬美が求めていたような愛じゃない。あんなものは、それらしい真似事だ。けれど、それを訴えることはしなかった。そうでないと、惨めだ。浮気を疑っていると話す時でさえ、侮られないかと心配だった。冬美は可哀想な女になりたくない。
「ドルオタって浮気しないらしいよ。まあ、理想高いからね」
駄目押しのように先輩が言って、冬美はいよいよ息が出来なくなった。湧き上がってきた感情を、必死で留める。──先輩、これって浮気じゃないんですか。
赤羽瑠璃、というのが渓介の推しの名前だった。覚えたくもない名前だったのに、一回聞いただけで覚えてしまった。東京グレーテルの孤高のブラック、ばねるり。華々しいカラーが多めなグループの中で、空気を読まずに君臨する黒いドレスの女。
……そのコンセプトというか佇まいは、憧れの灰羽妃楽姫に少し似ていて、嫌だった。自分が絶対持ち得ない羽を持っている人々。
家に帰るなり、冬美は赤羽瑠璃について調べられるだけ調べた。上がっている写真、投稿されている記事、呟いている言葉。何でも拾って、その女を把握する。阿賀沼沢子に憧れていて、昭和のアイドルのカリスマ性を再現したがっている。好きな作家は遥川悠真だけど、ミステリもSFも何でも読む。
阿賀沼沢子も遙川悠真も、渓介から聞いた名前だった。
──うわ、ってことはあいつの好きって言ってたものとかって全部赤羽瑠璃の影響だったってこと? と気づいた時は、嫌悪感すら覚えた。今まで普通に食べてたものが虫だったと聞いた時のような、掌返しの不快感が体中を侵す。
赤羽瑠璃は、可愛かった。地下アイドルだというから舐めていたのに、まるでお人形さんのようだった。肌が白く、顔が小さく、顎がちゅんとしている。これだけシャープな輪郭を持っていたら、サンドオリオンのワンピースだってよく似合うだろう。吊り目気味で意志の強い瞳は、冬美の三倍はありそうだった。誇張じゃなく、本当にそう見えた。
当然だけれど、冬美とはまるで似ていなくて、急に恥ずかしくなった。
今まで、渓介は女の見た目に頓着しないタイプなんだろうと思っていた。冬美と付き合っているんだから、外見にはこだわらないタイプなんだろうと。
でも違った。なんでよりにもよって、ビジュアル要員みたいな女を──赤羽瑠璃を推しているんだろう。もっと愛嬌が良いだけのタイプとか、そういう選択肢だってあったはずなのに。童顔とか人懐っこそうなのとか、そういういかにも『地下アイドル』みたいな女だったら。
赤羽瑠璃が理想であるのなら、どういう気持ちで冬美と付き合っているのか。劣等感で胸が張り裂けそうだった。苦しくて、息が出来なくなる。めるすけの言葉はどれも熱狂的で、赤羽瑠璃への愛に満ちていた。冬美には決して与えられないものだ。
それを、赤羽瑠璃は当たり前のように受け取っているのだ。
渓介に会えたのは、それから二週間が経ってからのことだった。こういう時ですら、冬美は無理を言って会いに来させることすら出来ない。それが出来るほど、冬美は愛されていない。
「最近会えなかったのって、アイドルのライブ行ってたからなの?」
それを聞いた時、渓介はあからさまに動揺した。
「誰から聞いたの」
「野島先輩から。ていうか、公開アカウントで堂々と呟いてるのに秘密がバレましたみたいな顔しないでよ」
渓介が動揺していることが、一番悲しかった。やっぱりこれは薄ら暗い趣味なのだ。渓介が冬美に知られたくなかったもの。後ろめたいと思っているもの。
「休日出勤って言ってたのはごめん。本気で反省してる。大事な趣味だったから、絶対に行きたくて」
「私が大事な趣味を邪魔すると思ってたんだ。まあ、浮気みたいなもんだもんね」
「いや、その理屈は変だろ。相手はアイドルだぞ」
「でも言わなかったでしょ。後ろめたくなかったら隠さないじゃん。休日に金かけて女に会いに行くとか、キャバと何が違うの」
「俺のはそんなんじゃない!」
「CDいっぱい買って握手してもらうんだもんね? それじゃあ私と会おうとしない理由が分かるわ。無料で会えるブスなんてドルオタからしたら価値無いもんね?」
「なんでそんなこと言うんだよ」
「そういうことだからだよ! 浮気と同じじゃん、きっっっしょいな! だって、私は──」
言いかけて、どうにかやめた。私は──渓介にとって一番の女じゃないんでしょ? 私よりも赤羽瑠璃が好きなんでしょ? 口に出すだに恐ろしい言葉だ。赤羽瑠璃に敵うはずがないのに。
案の定、渓介が溜息交じりに言った。
「俺は……こんなことで冬美と喧嘩したくない。隠してたことで、冬美を不安にさせたかもしれないけど……相手はただのアイドルだぞ? 冬美と比べられるわけないじゃん……」
じゃあ、赤羽瑠璃のこと推すのやめてくれる? 東京グレーテルのライブにも行かないでくれる? 金輪際、どんなアイドルも愛さないでいてくれる? そう言いたかった。言いたい。誓わせたい。赤羽瑠璃のことを忘れさせたい。
でも、分かっている。赤羽瑠璃と天秤にかけさせたら、冬美は負ける。それがとても苦渋の決断であるという顔をして、渓介は冬美を捨てる。
絶対負ける賭けなんて出来ない。怒りに滾っていた脳内が、急激に冷えていく。ここで声を荒らげても、冬美の欲しい言葉は絶対に手に入らない。
冬美が人生を上手くこなす為には、諦めなければ。自分の手に掴める範囲を理解して、弁えなければ。
ここで渓介を失って、冬美には何が残る?
深く息を吐く。吸う。言いたかった全ての言葉を呑み込む。えずきそうになるし、目には涙が浮かんでいる。けれど、等身大の絶望が、渓介には一番効くはずだ。
「……ごめん,私も、冷静じゃなかった。私……渓介を責めたいわけじゃなくて……私……」
また嘘を吐いた。責めたかった後悔させたかった。二度と赤羽瑠璃に会わせたくなかった。でも、冬美には選択肢が無い。
読んでいただきありがとうございました!
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