新名智の恋愛短編「ゴルディロックスの憂鬱」
新名智からいただいた短編を掲載します。わたしの心の中は「クーちゃん」――交換留学で来日した同級生―でいっぱい。ある日、「クーちゃん」に危険なストーカーがつきまとっている可能性が……最後の1行まで目が離せない、新鋭による百合×ミステリ。
「ゴルディロックスの憂鬱」
わたしは冷たい便座に腰を下ろしたまま、じっと考える。わたし、間宮真美子の人生のハイライトシーンを編集し、危機一髪の場面にランキングをつけるとしたら、今日のこれは何番目になるのか、と。なんのことはない。追い込まれた人間特有の、くだらない現実逃避だ。
上位に入るのは疑う余地もない。これに匹敵するようなピンチとして、まず思いつくのは去年のあれ。一ノ宮学園高等部編入試験で、数学の筆記テストの終了十五分前に起きた事件――大問選択式の答案用紙で、選んだのとは逆の問題をずっと解いていたことに気づいたとき。
当時のわたしは泣きそうになりながら、答案に消しゴムをかけ、選んだほうの問題を大慌てで解いた。人間、追い込まれると不思議な力が出るものらしく、試験には合格した。あそこで解く問題を間違えていることに気づかなかったら、今頃わたしはこの学校にいない。
それに次ぐ大ピンチといえば中学の頃。クラスの中で孤立していたこと。
きっかけは、今にして思えば、つまらないことだ。相手の子はクラスの人気者だった。顔がかわいく、歌がうまくて、おしゃれな服を着ていた。わたしはその子と仲よくしたかった。毎日、その子の後をついて歩き、その子に話しかけ、同じ髪型にして、同じ本を読み、同じように笑った――それがよくなかった、とわかったときには手遅れ。みんなから気持ち悪いと言われ、仲間はずれにされた。
最終的には、それも乗り切った。家から離れた私立高校を受験し、見事に合格。人生をリセットし、新しい生活が始まった。重要なのは、失敗しないことではなく、同じ過ちを繰り返さないこと。そう、アインシュタインも言っている――言ってなかったかもしれない。
過去の失敗はどうだっていい。問題は、今。
「はあ――油断した――」
わたしはうめいた。始まる時期が、いつもと少しずれていたのが原因だ。慣れない電車通学や新生活、中学までとは違う独特の雰囲気――そういうもののせいで、知らず知らずストレスが溜まっていたのかもしれない。こんなことなら、日頃から面倒くさがらずにナプキンを持ち歩いておくんだった。「急に始まることもあるから」と、お母さんに注意されていたのに。わたしは狭い個室内を見回す。トイレットペーパーで代用できたりしないだろうか。でも授業中、横から漏れたりしたら困るし。
急いで教室に戻って、だれかに相談しようか――いったい、だれに。会えば挨拶するくらいの間柄になった子はクラスに何人かいるけれど、センシティブな話題を気兼ねなく相談できるような友達は、まだできてない。ここでいうセンシティブっていうのは、恋愛とか、政治とか宗教とか、あとまあ、生理とか。
はあ――とまた大きなため息をつく。さっきからため息ばかりついているけど、事態は変わらない。当たり前だ。困った姿を見せていれば、だれかが察して手を差し伸べてくれるなんて、そんな都合のいいことが起きるわけ――
そのとき突然、個室の扉がノックされる。わたしはびっくりして、思わず姿勢を正す。「はい!」と返事した声が裏返る。
「あの、大丈夫デス?」
落ち着いた女性の声。声の感じで、きっと上級生だ、と思った。自分が校務棟のトイレにいることを思い出す。学年ごとに階が分かれている教室棟と違って、こちらのトイレには違う学年の生徒が入ってくることもある。
「ずっとため息してるカラ、困ってるじゃナイかって――」
彼女の喋り方には不思議な訛りがある。文法もところどころ変わっている。留学生かもしれない。国際交流に力を入れている一ノ宮学園では、各学年に交換留学生がいる。隣のクラスにもひとり、ドイツから来た男の子がいたはずだ。この人もそうだろうか、と思った。そういえば、入学したばかりの頃、廊下を歩く金髪の女子生徒とすれ違った気が――。
「聞こえてマス?」
「は、はい!」わたしは少し迷ってから、それでも話し始める。「すみません、実は――」
クラスの子には恥ずかしくて相談できなかったことを、知らない上級生に打ち明ける気になったのは、ひとつには顔が見えないからってこともあるだろう。あるいは相手が外国の人だと思って、少しオープンになれたってこともある。でも、何よりわたしを安心させたのは、彼女の柔らかい声色だった。それと、かすかに節をつけたような、独特の日本語。
「生理――ああ、ピリオドのこと」
彼女はそうつぶやいて納得した。どうやら、英語ではそういう風に呼ぶらしい。ゴソゴソという音が聞こえたかと思うと、不意に扉の下の隙間から白いものが突き出される。
「これ、ワタシの、あげマス」
ビニールで個包装されたナプキンだった。わたしはためらいながら手を伸ばす。受け取る瞬間、指先が触れる。ひんやりした細い指。
「体調、よくナイだったら、だれか呼びマスけど――」
わたしは慌てて、内緒にしてほしい、と答えた。こんな失敗は、だれにも知られたくない。それに、親切な先輩の手を、これ以上わずらわせるわけにはいかない。そういう意味のことを伝えたら、こちらの気持ちが通じたのか、彼女はくすくすと笑った。
「今度からは恥ずかしがらナイで、センセイに言うデスヨ」
それはまるで、小さな子にするような言い方だったから、わたしの顔はますます赤くなる。最初から、保健室か職員室に行けばよかったのか、と今更ながら気づく。とっさに言い訳を口にしかけたとき、トイレの外から別の声がする。
「クーちゃん、教室移動するって」
呼ばれたのは、どうやら扉の前にいる彼女らしい。ハイ、と透き通る声で答え、それからまた軽く扉をノックし、わたしに向かって言った。
「バイバイ。気をつけてネ」
タイルの床を蹴る足音。友達らしき人の「何してたの」という声。トイレの入り口のドアが閉まる音。そして元通りの静寂。だけど、その静けさを満たしているものは、さっきと今とではぜんぜん違っていた。わたしは彼女の手から受け取ったナプキンの袋を、胸の前でぎゅっと押さえた。彼女の手触りがまだそこにあるような気がした。
――クーちゃん、か。
クララとか、クリスティーナとか、そういう名前が浮かぶ。いつかまた会えるだろうか、とわたしは思った。心配はいらない。同じ学校に通っているなら、どこかですれ違うこともあるだろう。でも。
すぐに会いたい。優しくて、きれいな声の先輩。わたしは見たこともない彼女の顔を想像する。そしてまた頬を染める。
*
クーちゃんはきれいだ。優しくて、スタイルがよくて、勉強もスポーツもできる。ダンスとピアノが上手で、むろん英語も流暢。いろんな才能に恵まれた女の子――わたしとは大違いだ、と花子は思った。
彼女のお父さんは貿易会社の社長で、お母さんはヨーロッパを拠点に活躍するファッションモデルだという。その時点で、もう花子とは別世界の住人だ。花子はと言えば、生粋の日本生まれ、日本育ち。父方の実家は茨城で、母方の実家は新潟にある。おかげで納豆もコシヒカリもない国では生きていく自信がない。
そんな花子がクーちゃんと出会ったのは去年のことだった。正確には去年の十月。海外にある姉妹校の学期に合わせて来日したクーちゃんの、メンターに選ばれたのが花子だった。学校側がどういう基準と根拠で花子を選んだのか、こちらから知るよしもないが、最初に面談をしてくれた学年主任の先生いわく「生活態度が悪すぎず、かといってよすぎず、ほどほどに真面目な生徒の中から、くじびきで選んでいるのではないか」ということだった。それは非常に納得できる推測だったから、たぶんそうなのだと思うことにした。
最初はもちろん不安だった。花子の外国語は人並みだし、その他の成績も中の上で、取り柄と言ったら握力が強いことくらい。それだって、友達の代わりにペットボトルの蓋を開けてやるときしか役に立っていなかった。そんな自分にメンターなど務まるだろうか。日本と母国のギャップに悩む留学生から、深刻な悩みを打ち明けられたら、なんて返せばいいんだろう。想像するだけで胃が痛んだ。
しかし花子の不安とは裏腹に、メンターの選定はトントン拍子で進み、ついには正式に決まってしまった。花子は悩んだ。それでも最後に引き受けたのは、ここで逃げたら何も変わらないままだという気持ちが、自分の中に芽生えたからだった。
初めて顔を合わせるという日。花子は緊張で倒れそうになっていた。相手の留学生については、名前と、女の子であるということしか知らなかった。まるで話が通じなかったらどうしよう――威圧感のある相手だったら――こちらが失礼なことを言ってしまったら――理事長室の隣にある応接室で、花子は怯えながら待った。一分が十分に、十分が一時間に感じられた。と、不意にノックの音がして、ドアが開き、彼女が現れた。
その姿が視界に入るなり、たちまち花子は心を奪われた。白く透き通った肌。切れ長の美しい目。光を受けて輝くような、つややかな髪。こんな子は今までに会ったことがない、と思った。彼女は、花子の周囲にいる日本人の友達の、だれとも似ていなかった。
彼女は長いスカートの裾を持ち上げて軽く会釈し、革張りのソファに腰を下ろした。彼女の体重を受け止めたソファが、楽しそうにキュッと鳴った。
「あなたが、ハナコサン、デスね?」と、彼女は言った。「わたしのコトは、クー、と呼んでくだサイ」
じゃあ、クーちゃん、と声に出して言ってみた。彼女は笑った。その頃はまだ、クーちゃんの日本語は今ほど上手ではなかったけれど、そうやって日本風の愛称にされたら自分の名前ではないみたいだ――という意味のことを彼女は言った。
また花子は花子で、クーちゃんが口にした「ハナコ」という呼び名の響きを噛み締めていた。異国風の発音で発せられたせいか、あるいは普段、下の名前で呼びかけられることが少ないせいか、その名は花子自身にとってさえ、どこか非日常の装いを持っているような気がした。
彼女と出会って、花子の学校生活は一変した。
教室でも廊下でも、クーちゃんとはいつも一緒だった。メンターとして、そうすることが義務だったわけではないけど、なぜか自然にそうなった。並んで授業を受け、同じ場所でランチを食べる。
留学生のクーちゃんは、やがてクラスの人気者になった。最初は物珍しさに惹かれて寄ってきていた子たちも、クーちゃんの人柄の温かさや折り目正しさに触れると、たちまち彼女の虜になった。噂は隣のクラスや他の学年にも伝わっていった。休み時間になると、見知らぬ生徒がやってきて教室を覗き込む。
花子は、クーちゃんが学校のみんなに受け入れてもらえたことが、まるで自分のことのように嬉しかった。それだけでなく、そんな人気者のクーちゃんとふたりでお弁当を食べていると、自分までちやほやされている気分になって心地よかった。
「クーちゃん、ごはん食べよ」
お昼休み、花子が声をかけると、彼女は「ハイ」と上品に答え、にっこりと笑う。それからふたりで階段を上がり、屋上に出る。
最初は中庭でお昼を食べていたクーちゃんと花子だったが、クーちゃんが有名になるにつれ、だんだん騒がしく、落ち着かなくなってきた。そういうことを先生に相談したら、特別に屋上で昼食を摂る許可をもらえた。フェンスで囲まれた校舎の屋上は、災害時の避難のために施錠こそされていなかったけれど、むやみに生徒が立ち入るのは禁止だという決まりがあった。
重たい金属のドアを開けると、さわやかな春の風。五月の空は高く、焼けた屋上のコンクリートは太陽の香りを放っていた。花子は持参したレジャーシートを日陰に敷いて、その上にクーちゃんを座らせると、すぐ隣に腰を下ろした。
花子の父が作って持たせてくれる和風のお弁当を、ときどきはクーちゃんも食べたがった。クーちゃんは、異国の食事にも抵抗がないたちらしく、花子が遠慮がちに差し出す漬物や焼き魚の切れ端をパクパク食べた。聞けば、彼女の生まれ故郷は大きな港湾都市で、そこで水揚げされる魚の料理を彼女もよく口にしていたのだという。
その日も花子は、クーちゃんが差し出した弁当箱の蓋の上に、彼女が興味を示しそうな日本食のおかずをいくつか載せてやる。
「ありがとう、ハナコ」
と、クーちゃんが言った。たくさんあるから気にしないで、と花子が答えたら、違いマス、と彼女は笑った。
「お弁当じゃナイ――んー、お弁当もありがとうデスけど、クーが言いたいのは、いつものことデスヨ」
いつも、クーちゃんのそばにいて、あれこれと甲斐甲斐しく世話を焼いている。そのことにありがとうと言っているのだ、と花子は理解する。実際、メンターとしての本来の仕事に、ここまでの内容は含まれていない。入学して実際に授業が始まれば、あとは週に一度の面談さえ欠かさなければいいことになっている。だからメンターによっては、ほとんど会話がなくなるケースもあると聞く。
「それ、寂しいって言ってる子もいましタ。わたしはハナコみたいな、親切な人でよかったデス」
クーちゃんの言葉に、思わず花子もじんと来る。と同時に、ささやかな罪悪感。
花子は、別に不幸な星の生まれではない。家庭は円満だし、貧乏も病気もしたことがないのは、むしろ幸せな部類に入ると言える。それでも花子には漠然とした不安があった。自分に対する自信のなさ――人に誇れる何かも、頼みにできる強みも、持ってはいないこと。
だからクーちゃんとの関係は、花子にとっては少しだけ、後ろ向きな喜びをもたらすものになりつつある。人気者の彼女を、花子は独り占めしている。だれもが振り返る人気者のクーちゃんが、花子を頼りにしている。クーちゃんと一緒にいるときだけ、花子は特別な存在になれる。
頬の筋肉を動かして、沢庵を噛んでいるクーちゃんの横顔を、花子はじっと見つめる。まるで人形みたいに小さくて整った顔。
花子はクーちゃんが好きだったけれど、少しだけ、ほんの少しだけ、妬ましさも感じる。
*
あれから一週間。わたしの心の中はもう「クーちゃん」のことでいっぱいになっている。
授業を受けているときも、ごはんを食べているときも、お風呂に入っているときも、ずっと彼女のことを考えている。学校のトイレでの、ほんのわずかなやりとりが、まるで人生のすべてみたいに思える。扉越しに聞こえた、あの人の声。一瞬だけ触れ合った、あの人の指。クーちゃんという名前の響き。時間が経つと、そのすべてが魅力に感じられてくる。
休み時間。わたしは教室の席に座ったまま、窓の向こうの空をぼんやりと見つめる。顔も知らない相手をこんなに好きになるなんて、冷静に考えたらおかしい。昔話みたいに、顔を見て幻滅、なんてことがあるかもしれない。
それならそれでかまわない、とわたしは思った。いっそ幻滅させてほしい、とさえ思う。じゃないと、こんな熱に浮かされた気持ちのまま、卒業まで過ごす羽目になりかねない。たとえ、どんな相手だったとしても、助けてもらったことに対する感謝の気持ちは嘘じゃないのだし。
感謝の気持ち――そうだ、わたしはまだ、あの人にちゃんとお礼を言えてないじゃないか。
ちょうど、トイレに行っていた隣の席の女の子が戻ってくる。この子の名前、なんだっけ。ああ、そうだ。
「ねえ、前島さん」
一瞬、彼女は変な顔になった。雑談などしたことのない相手が、急に話しかけてきたので面食らったのだろう。わたしはたじろいだが、今日だけはそのくらいのことでしょげていられない。前島さんは、わたしと違い交友関係の広いタイプで、よく同じ部活の上級生たちと仲良く会話している姿を目にする。だから、ひょっとしてと思って声をかけてみた。
「この学校に、留学生の女の子っているの?」
「え、なんで?」
わたしは適当な言い訳を探す。正直に答えてもいいのだけど、なんだか恥ずかしい。それにまだ相手が留学生と決まったわけではない。
「ほら、隣のクラスに交換留学生の男の子がいるでしょ。他にもいるのかなって」
前島さんは、ちょっと考え、それから答えた。
「一年生には、まだひとりしかいないはずだけど」
「そうなんだ」
「あ、でも、三年生の先輩のクラスに、留学生の女子がいるって言ってたな」
「ほんと?」きっとその人だ。「なんて名前?」
「知らないよ」
答える前島さんの声に、不機嫌さのかけらみたいなものを感じ、わたしは慌てて引き下がった。笑顔を取り繕い、「いいの、ありがとう」とだけ答える。彼女はそれを待っていたかのように立ち上がり、別の友達のところへ行ってしまう。わたしについての陰口を言いに行ったんじゃないといいけど、と思う。
三年生のクラスにいる留学生の女の子。それがクーちゃんだろうか。
その後の授業は上の空だった。チャイムが鳴って昼休みになった。周りの子たちは机をくっつけたりして集まり、お弁当を食べ始める。わたしはだれとも一緒に食べる予定がない。ランチボックスをかばんから出して机の上に置く――そのとき閃く。三年生の教室を覗いてみればいい。例のクーちゃんたちも、きっとそこでお昼を食べていることだろう。
わたしはランチボックスを持ったまま立ち上がって教室を出た。お昼のために移動したり、購買へ向かったりする生徒がたくさんいるので、廊下は賑わっていた。今の時間なら、他の学年の教室をうろうろしていたって、あまり目立たない。わたしは階段を上って三年生の教室があるフロアへ向かった。
教室棟の最上階には、三年生のホームルーム教室が並ぶ。わたしは廊下を歩きながら、ちらちらと視線を動かして教室内を覗く。留学生らしい人の姿はない。
そのとき、ちょうど教室の扉から出てこようとした人がいて、よそ見していたわたしはぶつかりそうになった。
「す、すみません」
わたしは頭を下げた。相手はショートカットで背の高い、強面の女子だ。なんとなく柔道部っぽい。
「前を見て歩きなよ。あんた、一年生?」
「はい」
「ふうん――」
向こうはわたしのことをじろじろと見てくる。どうしよう。怪しい者だと思われているのかもしれない。わたしはとっさに尋ねた。
「あの、三年生に、留学生の女の人がいませんか。『クーちゃん』って呼ばれてる人なんですけど」
「クーちゃん?」
ああ、とその人はつぶやき、さらに鋭い目でわたしを睨みつけた。
「あんた、あの子になんの用?」
「用ってほどでは」
わたしは目を泳がせる。厄介な人に捕まってしまった。ここは適当な言い訳をして、退散しようか。今のやりとりからして、三年生に「クーちゃん」がいるのは確からしいし。
と、そのとき。金色に光る何かが視界に入った。
首を横に伸ばして、柔道ガールの背後に目をやる。廊下の奥からこちらへ向かって、金髪をなびかせながら、ひとりの少女が歩いてくる。わたしは思わず口を押さえた。間違いない、あの人だ。
黒い髪をした生徒ばかりの中で、彼女のその姿はとても際立っていた。深みのあるダーティ・ブロンドの長髪に、透き通った淡褐色の瞳。日焼けして赤みがかった白い肌。わたしはただ見惚れてしまった。声をかけて呼び止めるなんてことは、わたしの頭の中にはない。そうこうしているうちに、彼女はわたしの横を通りすぎて、そのまま階段のほうへ歩いていってしまう。
「クラリス!」柔道ガールが声を出す。「この子が――」
「わ、わ、わ!」
わたしは慌てて飛び上がり、柔道ガールの口を塞ぐ。今はまだ心の準備ができていない。振り返ると、クラリスと呼ばれた彼女は、こっちの騒ぎに気づかないようで、そのまま角を曲がり、見えなくなった。
そこでようやく、わたしは柔道ガールの口から手を離す。彼女は咳き込みながら怒鳴った。
「いきなり何すんのよ!」
「ごめんなさい。それじゃあ」
とだけ言って、わたしは踵を返し、駆け出した。柔道ガールの叫び声を背中に浴びつつ、廊下の角を曲がって階段へ向かう。ここは最上階だから、下へ向かったに決まっている。
そう思って階段を下りていったのに、あの人の姿はどこにもなかった。おかしい。よっぽど早歩きだったのかしら。そういえば、すれ違うときの表情は、何かに集中して、急いでいるようにも見えた。
一階まで捜して、また念のため三階に戻る。柔道ガールが追いかけてこないかと不安だったが、すでにいなかった。代わりに黒い髪の三つ編みを垂らした、かわいらしい先輩とすれ違う。その人を呼び止めて、また留学生のことを聞こうかと思ったが、結局はしなかった。でもいい。知りたかったことはわかった。
クラリス――それがあの人、「クーちゃん」の名前に違いない。わたしは胸の中で、その名前を何度も呼んでみた。きれいな名前。目を閉じると、歩くたびに揺れる髪の毛の輝きが、いつでも浮かんでくるような気がした。
でも、話しかけられなかった。機会はあったのに。
わたしはランチボックスを抱えたまま、人気のない校舎の裏へ移動する。だれも来ないことを確かめてからしゃがみ込み、お母さんの作ってくれたサンドイッチをもそもそと口に運ぶ。
やっぱり無理だ。上級生の、しかもあんな美人に話しかけるなんて。おまけに留学生だという。柔道ガールが日本語で話しかけていたところを見ると、会話は問題ないのだろうけど――トイレで困っていた女の子のことなんて、あちらはとっくに忘れているだろうし。
サンドイッチは紙を食べているみたいで、なんの味もしない。わたしはうじうじと悩み続けた。何も難しいことじゃない。あのときはありがとうございました、と一言だけ言えればいいのに、その勇気すら出ない。ましてや友達になるなんて。わたしみたいなものが。
デザートとして入っていたイチゴまで食べ終わり、ランチボックスを片づけようとしたとき、ふと思った。じかに話しかけられないなら、手紙を渡せばいいじゃないか。手紙に感謝の気持ちを書いて、あの人に届ければいい。
そうだ、そうしよう。わたしは勢いよく立ち上がる。そのとき、正面の校舎の屋上に、人影のようなものが見えた。校舎の屋上は、たしか立ち入り禁止のはずだけど。
まばたきすると人影は見えなくなった。わたしは深く気にせず歩きだした。なんて書こうか、何色の便せんにしようか。考え始めると、わたしはすぐに夢中になっていた。
*
最近、クーちゃんの表情がときどき暗くなるのに、花子も気づいていた。
けれど原因まではわかっていなかった。最初は慣れない外国暮らしの疲れが溜まってきたのだと思い、それとなく質問してみた。ところがクーちゃんは笑顔で否定した。みんな優しいし、気配りをしてくれるから、困ることは何もない、と。
が、明らかにクーちゃんの様子はおかしかった。登下校中、不意に立ち止まったり、あたりを見回したりする。あるときなど、自分のロッカーの前で、代わりに花子が扉を開けて欲しい、と言ったこともあった。とても普通の状態ではない。
ある朝、クーちゃんが何か手紙のようなものを見ながら、唇を震わせていた。花子は急いで駆け寄り、何を読んでいるのか、と尋ねた。クーちゃんは手紙をくしゃくしゃと丸め、ポケットに突っ込み、笑顔を作った。しかし、その表情はぎこちなかった。
ついに花子はクーちゃんの肩を掴んで、強く問いただした。
「わたしはクーちゃんの味方だよ。何か困ったことがあるなら、正直に話して。力になってあげるから」
クーちゃんは、一瞬だけ目をそらした。すぐに花子の顔を見て、言った。
「他の人、内緒にしてくれマス――?」
「うん、だれにも言わない。約束する」花子は周囲を見回す。「ふたりきりがいいなら、お昼に、いつもの屋上で。いい?」
そう花子が伝えると、クーちゃんはこくりとうなずいた。花子は話題を変え、ふたりは趣味の音楽について、普段と変わらない会話を楽しんだ。
チャイムが鳴って、お昼休みになる。花子は急いで屋上に向かった。ところが、クーちゃんは来ていなかった。花子は不安になった。捜しに戻ろうか、でも入れ違いになったら。花子が迷っていると、屋上のドアが開いてクーちゃんが姿を見せた。花子はほっとして胸をなで下ろした。
クーちゃんは、すぐにその話を始めなかった。花子も急かしたりはせず、ふたりは並んでお弁当を開いた。ところが食べている間もクーちゃんは落ち着かず、物音がするたびにドアのほうを見たり、屋上の隅にある給水塔の陰をしきりと気にしたりしていた。
とうとう我慢できなくなって、花子は口を開いた。
「クーちゃん、いったいどうしたの。なんだか変だよ」
するとクーちゃんは、お弁当箱の蓋を閉じ、花子の目をじっと見つめた。クーちゃんの潤んだ瞳に見つめられると、花子はなんとも言えない気分になった。やがてクーちゃんは静かに話し始めた。
「――だれかに、ストーキングされてる気がするデス」
「ストーキングって、あのストーキング?」
クーちゃんのネイティブな発音をカタカナ語に直して、花子は聞き返した。クーちゃんはうなずく。ストーカーのことは、英語でもストーカーと呼ぶらしい。
「たしかに、クーちゃんは人気者だし、教室でも目立ってるけど」
「そういうのと違うデス」
そう言って、クーちゃんはこれまで起きたことを、ぽつりぽつりと花子に教えた。引き出しに入れていたはずの持ち物がなくなり、いつの間にか戻ってくる。カメラのシャッター音が聞こえて、振り返るとだれもいない。トイレや更衣室で、見られているような視線をずっと感じる――そして靴箱にはこんなものが入っているのだと言って、クーちゃんは丸めた紙切れを見せた。
しわを伸ばすと、ピンクのかわいらしい便せんに、やはり濃いピンク色をしたボールペンの字で、こんなことが書いてあった。
「『とってもかわいいクー先輩。だいすきです。はやく気づいて。あたしを見つけて』」花子は顔を上げた。「うーん。ちょっと気持ち悪いだけで、危ない感じはしないけどな」
「そっちは最初にもらったのだカラ――こっち、今朝あったデス」
別の丸めた紙がポケットから出てくる。なるほど、さっきクーちゃんが読みながら震えていたのはこちらのほうだ。
――どうしてむしするの?
――あたしがきらいなの?
――振り向いてもらえるまであきらめない。ぜったいにすきになってもらうから。
――ぜったいにぜったいにぜったいにぜったいにぜったいに。
うわあ、と花子はうめいて、言葉を失った。
「意味はよくわからナイなのに、怖くなりマシた」
「そいつの顔を見たことは?」
クーちゃんは首を横に振った。会ったこともないのにこんな手紙を送ってくるなんて、やっぱりどこか常軌を逸している。花子は薄ら寒さを覚えた。どうやら相手は危険なストーカーらしい、と花子自身もあらためて認識した。
「でも、相手がだれかわからないんじゃ、やっつけようがないね」
「ハナコ、ストーカーやっつけるデスか?」
「それは、まあ、必要とあらば――」
かっこつけて言ってみた。が、実際のところ花子にも自信はなかった。運動は得意なほうじゃないし、格闘技や護身術の経験もない。ふと、頭にクラスメイトの香織の顔が浮かぶ。彼女はたしか柔道の有段者だと言っていた――あの子にちょっと習ってみようかな、と思った。そんな付け焼き刃でどうにかなる相手だったらいいのだけれど。
とにかく、今は不安を押し殺してでも、クーちゃんを勇気づけてあげねば。花子はクーちゃんの肩にしっかりと手を置き、それから言った。
「大丈夫。クーちゃんは、何があってもわたしが守るよ」
「ありがとう。でも――ハナコが危ナイになるは、ワタシ――」
「こっちのことは気にしないの」
クーちゃんは嬉しそうに笑う。けど、その目はあいかわらず不安に怯えている。それを見た花子は、なんとも言えない暗い喜びが、自分の胸の底に広がっていくのを感じていた。
特別な女の子のクーちゃん。その子がわたしを頼りにしている。こんなにも震えながら――。
そこで花子は、はっと我に返る。
ふたりで今後のことを話し合う。クーちゃんの希望もあり、先生に相談するのは、しばらく控えることにした。まだ事を大きくしたくはなかったし、周囲の憶測を招いて、結局はストーカーを刺激するだけの結果にもなりかねない。
ひとまず花子がボディガード役を買って出た。もともと、しょっちゅう一緒にいるふたりだから、その頻度を増やすことになんの問題もなかった。今後は少し席を外したり、教室を移動したりするようなときにも、できるだけ並んで行動しようと約束した。
さっそく、その日の午後から、花子はクーちゃんのそばを離れないようにし、周囲に目を光らせる。手紙に「先輩」とあったことからして、犯人は下級生だ。この学校では、学年ごとに制服のリボンの色が分かれているので、下級生に警戒すること自体は難しくない。問題は、クーちゃんに近づけなくなった相手が、次は何をしてくるかということだ。実力行使に出られた場合、果たして花子に対処できるかどうか。
放課後、クーちゃんは荷物をまとめ、そそくさと教室を出る。花子もそれに付き従う。「ふたりでデート?」とクラスメイトがからかってきたので、花子は愛想笑いを返す。
クーちゃんの代わりに靴箱を開けたが、今回は何も入っていなかった。靴にいたずらされた形跡もないが、念のため、今後は別の靴箱を使ったほうがいいかもしれない。
花子とクーちゃんは、並んで校舎を出る。その瞬間。どこかからカメラのシャッターを切るような音が聞こえた。花子は素早くクーちゃんの前に立ち、彼女をかばった。スタスタスタと逃げていく足音。
「待て!」
と花子は叫んだ。しかし、あたりを見回しても怪しい人影は見つからない。そのときになって花子は、ようやく初めて、かすかな恐怖を感じた。
*
手紙を書くと思いついたまではよかったが、いざ書くとなると難しいものだ。
わたしは机の隅に積まれた書き損じの山を見る。伝えたいのは「ナプキンを分けてくれてありがとう」の一言なのだけど、それではあまりにそっけない。だいたい、そんなことを手紙に書くのは恥ずかしい。かといって婉曲にしては伝わらない。もっと直接的に好意を示してみるのはどうか。たとえば――かわいい先輩へ。好きです。友達になって。
最初はこのくらい、わかりやすいほうがいいかもしれない。時計を見ると、すでに時刻は午前二時近かった。早く寝ないと学校に遅刻してしまう。
ピンクの便せんにピンクのボールペンで、思いついた文言を書きつける。それからベッドに入り、先輩の夢が見られたらいいなと思いつつ、目を閉じる。
実際に見たのは、アロエの鉢植えに水をやる夢だった。水を浴びたアロエはなぜか巨大化し、そこへお母さんが現れて「アロエは乾燥ワカメと同じだから気をつけな!」という手遅れなうえに理不尽なお説教を食らう。わたしは逃げようとして屋上から転落する――そこで目が覚めた。
昨夜の手紙が、エアコンの風にでも吹かれたか、床に落ちていた。拾ってみると、すごく恥ずかしい内容で顔が真っ赤になった。深夜テンションというのは恐ろしい。
破いてゴミ箱に捨てる。もう新しい手紙を書いている暇はない。わたしは身支度をし、朝ごはんを食べて、学校に向かった。日差しがまぶしかったけれど、わたしの心は少し沈んでいた。
授業には、あいかわらず身が入らない。考えているのはクラリスのこと――ブロンドの髪をなびかせていた、あの人のこと。ノートの隅っこに手紙めいたものを書いては、消しゴムで消す。どうすれば気持ちが伝わるのか、わからない。
思えば昔から、わたしはいつもこうだった。他人との距離が掴めなくて、気がつけば孤立している。そのくせ、優しくしてきた相手にはベタベタ甘えて、最後には愛想を尽かされる。そしてまたひとりぼっちになる。
中学のときのわたしが、まさにそうだった。あのときも、わたしは好きな相手にどうやって振り向いてもらえばいいのか、よくわからなかった。話しかける勇気がなくて、その子のあとをつけたり、持ち物をこっそり調べてみたり。今にして思えば、完全にストーカーだった。
そうそう、あの子にも、やっぱり手紙を書いたんだ。でもそれは、ひとりよがりな内容だったから、返事なんてもらえなくて――それどころか相手を怖がらせてしまって、とうとう口も利いてもらえなくなったっけ。
わたしは、かばんから余った便せん用紙を取り出して、教科書の上に置いた。ノートを取っているふりをしながら、わたしはまた新しい手紙を書いた。今度のはシンプルな文面だった。「お話ししたいことがあります。放課後、校舎の屋上で待っています」――それだけだ。
便せんを取って折りたたみ、ポケットに入れる。わたしに足りなかったのは、勇気だ。それも自分勝手な勇気じゃない。相手とちゃんと向き合う勇気。
休み時間、わたしはそっと教室を出た。トイレに入って、チャイムが鳴り止むのを待つ。頃合いを見て廊下に出ると、すでに授業が始まっていて、出歩いている生徒はだれもいない。わたしは昇降口へ向かう。なるべく人に見られたくなかった。
並んだ靴箱の中から、まずは三年生の列を捜す。続いて、あの人の名前を捜す。靴箱の上には、使用者の名前がフルネームで書かれており、ひとつだけカタカナの「クラリス」はすぐ見つかった。その名字が「佐藤」だったことにわたしは驚いた。意外にも日系人だったのか。
わたしは靴箱を開けて、革製のローファーの上の、すぐ見つかりそうな位置に手紙を置いた。元通りに戸を閉め、教室に戻ろうとしたとき、廊下を歩いてきた女子生徒と目が合った。見覚えのある強面。あれは前に会った柔道ガール。
「あんた、そこで何やってんの。授業中でしょ」
そっちこそ――と言いかけて、やめた。柔道ガールは視線を横に動かして、わたしと、わたしが出てきた靴箱の列とを交互に見比べ、それから怒鳴りつけた。
「さては、あんただね。クラリスが言ってたストーカーって」
「は?」
「なるほど、あの子、それで急に護身術なんか――」柔道ガールは、いかにも柔道っぽい構えを取った。「とにかく、観念しなさい」
冗談じゃない。ここへ来て、またしてもストーカー扱いとは。しかし彼女を追い回しているのは事実でもあり、反論できない。わたしはくるっと反対側を向き、全速力で逃げた。
渡り廊下を渡って校務棟に入り、職員室の前を駆け抜ける。もちろん柔道ガールも、大声を出しながらあとを追ってくる。と、職員室の扉が開いて、ジャージを着た先生が出てきた。
「こら、何を騒いでんだ!」
先生は柔道ガールの前に立ちはだかって、そんなことを言った。先に通り過ぎたわたしには気づいていない。柔道ガールが足止めを食らっている隙に、わたしは廊下を曲がって中庭へ出た。中庭を突っ切って、さっきの昇降口まで戻ってくる。
ここまで逃げれば大丈夫か――と、さっきまでわたしがいた三年生の靴箱の列に、だれか知らない女の子が立っていた。彼女は、わたしを見るなり、あっ、と言って逃げていく。
今日はなんだか、やけに逃げたり逃げられたりする日だ。女の子は靴箱の戸を開けっぱなしにしていた。やれやれと思いながら、その靴箱に近づく。林なんとかさんが使っているものらしい。わたしは元通りに戸を閉めた。
柔道ガールはまだ絞られていることだろう。わたしは何食わぬ顔で自分の教室に入った。先生には、おなかが痛くてトイレにいた、と言い訳する。とくに叱られたりもしなかった。
さあ、今日の放課後だ。わたしは気合いを入れ、胸の高鳴りを静めようとする。あの人が屋上に来てくれたら、わたしは――なんて言えばいいんだろう。まずは、ありがとう、かな。その後は、何?
考えているうちに、授業はどんどん進んでいく。時計の針はぐるぐる回って、放課後が近づいてくる。いつまで経っても考えはまとまらない。時間だけが過ぎていく。
*
「また手紙?」
「ハイ」と、クーちゃんは言った。「グラウンドから戻ったときに見つけました。こんなものが」
花子は四つ折りの便せんを受け取って、中身を読んだ。「お話ししたいことがあります。放課後、校舎の屋上で待っています」と、自信なげな文字で書かれている。ついに来たな、と花子は思った。
「わかってると思うけど、行っちゃ駄目だからね」
「もちろんデス。でも、行かなかったら怒るデスよネ」
「そんなの、怒らせとけばいいの」
花子は手紙を握りつぶし、あとで捨てようと自分のポケットに入れた。それを見たクーちゃんが、小さな声でつぶやいた。
「どうして、ワタシなんデショウ――」
「どうして、って」
それはもちろん、と答えようとして、花子はやめた。クーちゃんはきれいだし、かわいらしい。おまけに――こう言ってはなんだけど、外国人だ。手っ取り早く特別な何かになりたい女の子にとって、こんなにうってつけの相手はいない。
でも、それを口にしてしまったら――自分もそうだって認めることになる。だから花子は何も言わなかった。何も言わず、クーちゃんの大きな瞳や、花びらみたいな唇をただ見つめていた。
視線に気づいたクーちゃんが振り返る。
「どうかしマシタ?」
「え、いや、あの」花子はしどろもどろになる。「そう――香織さんがね。さっき昇降口で怪しい一年生の子を見つけたんだって」
花子は、しばらく前から香織に護身術の稽古をつけてもらっている。当然、理由を聞かれたが、クーちゃんのことは内緒にしておく約束だったので、適当にごまかした。それでも香織は何か察するものがあったらしい。
「その子が、これまでずっと手紙を入れていたんだと思う」
「でも、どうやって――だって靴箱は――」
「盗撮をするような相手だからね。きっと、わたしたちが靴を脱ぐところを、こっそり見てたんじゃないかな」
それを聞いたクーちゃんは、腕を抱えるようにしてうつむいた。無意味に怖がらせてしまったかもしれないと思い、慌てて花子はフォローした。
「とにかく落ち着いて。そうだ、屋上へは、代わりにわたしが行くよ」
「ハナコ、危ナイ」
「平気だよ。あいつの狙いはクーちゃんなんだから、わたしには手出しできっこない。約束通りに相手が待ってたら、迷惑だってはっきり言ってやる」
強気なことを言いながら、花子の心は不安でいっぱいだった。よく考えたら、花子に手出しできないなんて保証はどこにもないからだ。相手は見境なく襲ってくるかもしれない。香織の話では、小柄で地味な子だったらしいけど、いざとなったら何をされるか。
それでも、クーちゃんを心配させたくはない。だからわたしは、陽気な笑顔で取り繕った。クーちゃんに手を振り、自分の席に戻る。クーちゃんに聞こえないよう、こっそりとため息をつく。
最初はただ、クーちゃんが羨ましかった。そんなクーちゃんと友達になれたあとは、ただ誇らしかった。今の自分の気持ちは、その中間の、薄汚れた何かだ。クーちゃんに頼られているときの気持ちは、誇らしさよりも後ろめたさが勝る。遠い国へ来た彼女の不安を利用して、もてあそんでいる気持ちになるから。
花子は、それでも決心する。放課後、屋上へ行こう。どんな相手だか知らないが、立ち向かってやる。わたしに足りないのは勇気なのだ、と花子は思っている。もうこれ以上、友達を前にして後ろ暗い気持ちにはなりたくなかった。クーちゃんに対して胸を張れるくらい、正しいことをしたという事実が欲しかった。そのための勇気。
午後の授業は、あっという間に終わる。
まずは香織を呼んで、クーちゃんのそばにいてもらえるよう頼む。今日は柔道部の練習を見学してもらおうと言うと、クーちゃんは喜んだ。練習でも瓦を割ったりするのかと香織に尋ね、困らせている。彼女には柔道とカラテの区別があまりついていないらしい。
ふたりを教室に残して、花子は廊下に出た。そのとき、どこかから視線を感じた。
花子は周囲に目をやる。授業が終わったばかりなので、たくさんの生徒が教室を出たり入ったりしている。ほとんどが同学年だが、下級生の姿もある。ぱっと見ただけでは、だれが怪しいとも判断しがたい。花子は気にせず階段のほうへ向かう。その途中でもやはり視線を感じ、何度か振り返る。
屋上へ通じる階段の前まで来た。左右を見て、だれもいないことを確かめてから、小走りで階段を上がる。ドアを開けて外に出る。今日は日差しが強くて暑い。おまけに風もない。
「だれかいるの?」
と、花子は声をかけたが、返事はなかった。そのまま屋上の真ん中あたりまで歩いていく。と、給水塔の反対側に人の気配を感じ、花子は立ちすくんだ。ふたたび声をかける。
次の瞬間、背後のドアが勢いよく開く。花子はとっさにそちらを振り向く。下級生の女の子が立っている。髪を振り乱した、小柄な少女。
その手にはカッターナイフが握られている。
「だ、だれ?」
花子は尋ねた。その声は震えていた。相手の少女は無言のまま近づいてくる。コツコツという足音だけが屋上に響く。
「――だよ、あんた」
「え?」
「目障りなんだよ、いつもいつも、クー先輩とくっついて!」
そう叫んだ。彼女はカッターナイフを振りかざしたまま、駆け寄ってくる。突然の動きに、花子は反応できない。思わずしゃがみ込んでしまう。カッターの刃が日差しを反射して、光る。花子は両腕をかざして、顔をかばった。それが精いっぱいだった。
しかし。
「クラリス先輩、危ない!」
叫び声とともに、黒い人影が給水塔の後ろから飛び出してきて、カッターを持った少女に体当たりした。少女はバランスを崩して屋上の床に転がる。
何が起きたのかわからず、花子はふたりの下級生を交互に見た。ひとりは、クーちゃんを屋上へ呼び出したストーカーだとして、では、もうひとりは?
突き飛ばされたほうの少女が、ゆっくりと立ち上がる。その手にはまだ刃物が光っている。花子は身構えた。香織に習った即席の護身術など、すっかり頭から飛んでしまっていた。
カッター少女が走り出す。切っ先が迫ってくる。
*
放課後。授業が終わって真っ先に屋上まで来たのはいいけれど――果たして、本当にあの人は来てくれるのか。わたしは、そのことだけが心配だった。考えてみれば、あんな怪しい手紙、いたずらと思って捨てられたとしても文句は言えなかった。
だいたい、この屋上には本来、生徒が立ち入ってはいけないはず。前にだれかが来ているのを見たような気がしたから、つい待ち合わせ場所に選んでしまったけど、それがもう失敗だったかもしれない。クラリス先輩が規則を重視する人だったら、その時点でアウトだ。
それに屋上というのは、映画やドラマで見るほどロマンチックな場所じゃなかった。日が照っていると暑いし、砂ぼこりが溜まっていて汚い。出入り口の後ろの一角だけは、定期的にだれかが使っているのか、多少は掃除されている。しかし、やってくる相手をこんな角度で待っていては、不意打ちを仕掛けるみたいでよろしくない。
わたしは屋上を横切り、給水塔の裏へ回った。ここはまあ日陰だし、死角から不意をつくような出会いにもならなくて済む。
あとはただ、じっと待つしかない。あの手紙には「放課後」としか書かなかったので、理屈の上では日が沈んだ頃に来たとしてもおかしくはないのだけど――そこまで待っているべきだろうか。いや、待つべきだ。
もう近道は探さないって決めたのだ。わたしは人付き合いが下手で、不器用で、そのくせ変な小細工ばっかりして、勝手にピンチを作ってきた。
自分がそういう人間だということを、わたしは潔く認めることにした。人生に一発逆転の近道なんかない。あるのは、だれもが平等に通らされる険しい道だけ。苦手な道だからって、避けていたら置いていかれるばかりだ。
そのとき、屋上のドアが開いた。
わたしは給水塔の陰から様子をうかがった。ダーティ・ブロンドの長髪――間違いない、クラリス先輩だ。
彼女の目がこちらを向く。わたしはつい、さっと身を隠してしまった。何をやってるんだ。勇気を出さなきゃいけないのに。
「だれかいるの?」
と、先輩が言った。すぐに返事をして出て行かなければ、ますます変に思われるだろう。でも緊張のあまり声が出せなかった。訝しんでいる気配が、ここまで届いてくる気がした。
両足が震える。駄目なのか、ここまで来て――。
ところが、続けて予想もしないことが起きた。出入り口のドアがふたたび開き、また別のだれかが、屋上に現れた。
わたしは驚いて身を乗り出した。屋上の中央付近にクラリス先輩が立っている。さらにその向こう、ドアを塞ぐような格好で、見慣れない少女が立っている。
「目障りなんだよ、いつもいつも、クー先輩とくっついて!」
そう叫んだ少女は、床を蹴って突進していく。手には刃物のようなものが光って見える。カッターナイフだ。
大変なことになった。しかし一方で、わたしはすぐに動けなかった。怯えて足がすくんでいたが、それだけではない。少女の言い回しが引っかかっていた。「クー先輩とくっついて」――クー先輩とは、そこにいる彼女のことではないのか?
少女がカッターナイフを振り回す。クラリス先輩は、恐怖のあまり逃げることもおぼつかないようで、その場に尻餅をつく。
ああ、なんてこった、こんな短期間に、人生におけるピンチのランキングを二度も更新するなんて――わたしはそこで、はっと気がついた。前のピンチのとき、助けてくれたのはあの人だったじゃないか。冷たいトイレで、不安で落ち込んでいたとき、優しく声をかけてくれたのは、彼女じゃないか。
だったら、今度はわたしが助けなくちゃ。
思い込んだら、あとはがむしゃらだった。
「クラリス先輩、危ない!」
悲鳴のような声を上げながら、わたしは給水塔の陰から飛び出した。そのまま少女めがけて体当たりする。体格の差はあまりなかったけれど、不意をつけたのが大きかったのだろう。相手はバランスを崩し、屋上の床を転がっていった。
座り込んでいる先輩に手を貸して立ち上がらせる。と同時に少女も起き上がった。転んでもカッターナイフは手放さなかったらしい。それを振り上げ、ふたたびこちらへ向ける。わたしは息を飲んだ。
すると、いきなり先輩が大声を出した。
「わたしが憎いんでしょ!」流暢な日本語。「来なよ、こっちだ!」
少女が狙いを定めて、また駆け出す。わたしから相手を引き離そうとしたのか、先輩が距離を取る。しかし――どういうわけか、相手が向かってきたのはこちらのほうだった。突き飛ばされた恨みのほうを優先したっていうのか。そんな、ひどい。クラリス先輩もあっけにとられている。
カッターの刃が迫ってくる。わたしは目をつぶった。しかし、刃が突き刺さる痛みは、いつまで経っても襲ってこない。
おそるおそる目を開けた。カッターを握った少女の手。それを、クラリス先輩の手が掴んでいる。少女は全身で抵抗していたが、びくともしないらしい。やがてその顔が苦痛に歪み始めた。
「痛い痛い痛い!」
と少女が泣き叫んでも、先輩は手を離さなかった。やがてカッターナイフを握っていた指が緩み、床に落ちる。わたしはすかさず手を伸ばして、それを拾い上げた。
そのとき、またしても出入り口のドアが勢いよく開いた。
「ハナコ!」
そう呼びかけて走ってきたのは、黒髪に三つ編みの、やはり三年生の先輩だった。あとから来たのは、例の柔道ガール。少女の手を掴んでいるクラリス先輩の姿を見て、目を丸くしている。
「やっぱり、危ナイだったヨ。ああ、怖かっタ!」
黒髪の先輩が言う。彼女の声を聞いた瞬間、わたしはあっと思った。この声だ。あの日、トイレの個室で聞いたのは。しかし見た目には、とても留学生には見えないのだけど。
一方、クラリス先輩は金色の髪の毛をかき上げながら、照れ臭そうに笑った。それからやっと少女の手を離し、駆け寄ってきた黒髪の先輩を抱きしめた。
「平気だよ、クーちゃん。わたし――握力だけは自信があるから」
*
「ワタシ、林《リン》可晨《クーチェン》といいマス。シンガポールから来ましタ」
「佐藤クラリス花子。お父さんは茨城生まれの日本人で、お母さんは新潟育ちのフランス人。みんなからは『クラリス』って呼ばれてる」
「『ハナコ』のほうがかわいいデスヨ」
花子とクーちゃんは、真美子に向かってそれぞれ自己紹介をした。真美子は、しかし、まだ混乱しているようで、ふたりの顔を交互に眺めた。
「ええと、つまり――クーちゃん先輩のほうが留学生で、クラリス先輩のほうは――」
「留学生じゃないよ。わたし、日本語以外はちっとも喋れない」
そう言って花子は笑った。真美子は何も言わずまばたきをする。金髪のクラリスが生粋の日本人で、三つ編みのクーちゃんが海外から来た留学生。花子もクーちゃんも気にしたことがなかったが、事情を知らない人間にとっては物珍しく映る状況だったらしいことを、そこで初めて理解する。
真美子は恥ずかしそうにうつむき、小さな声で詫びた。
「わたし、すっかり勘違いしてました」
「別に謝るほどのことじゃないよ」
「でも、あんな手紙を送って、呼び出したりして――」
「手紙?」
「はい。放課後、屋上へ来てくださいっていう」
花子は戸惑ったが、やがてぽんと手を打った。
「あれ、きみの手紙だったんだ。てっきり、わたしはストーカーの手紙かと」
そう言いながら花子は振り返ったが、そこにストーカー少女の姿はない。ついさっき、香織が首根っこを掴んで職員室へ連行したばかりだ。彼女はずっと黙っていて、自分が何者なのかも、なぜクーちゃんに執着していたのかも話さなかった。もっとも花子もクーちゃんも、そんなことを聞きたくはなかったが。
ふと花子は、不自然な点に気づいた。
「どうして、その手紙がクーちゃんのところへ届いたんだろう」
「え?」真美子は首をかしげる。「あれはクラリス先輩の靴箱に――」
「わたしの?」
「はい。靴箱の名前のところに、『佐藤クラリス』って書いてありました」
「あ、なるほど、そういうことか」
花子とクーちゃんは顔を見合わせ、どちらからともなく、ふふっと笑った。真美子にはなんのことだかわからない。
「何がおかしいんですか?」
「ごめん、たいしたことじゃないよ。わたしたち、靴箱を交換してたから」
と、花子は答えた。ストーカーから妙な手紙が届くようになり、やがて靴にもいたずらされるんじゃないかと警戒した花子は、クーちゃんにそのことを提案していた。そこで今朝から、ふたりはお互い、相手の靴箱に自分の靴を入れていた。そういうわけで、真美子が名前を見てクラリスのものだと思った靴箱を、実際に使っていたのはクーちゃんだったことになる。クーちゃんは自分の靴の上に載っていた手紙を、そのまま自分宛ての手紙だと思い込んだらしい。
「ちなみに、あの靴箱の名前って六文字しか入らないみたいなんだよね。わたしの名前も『佐藤クラリス』で切れちゃってて」
だからみんな花子って呼んでくれないのかな――と言って花子は笑ったが、真美子は笑わず、ただ肩をすくめた。花子は言った。
「じゃあ手紙に書いてあった『話』って、なんのこと?」
そこで真美子は、はっと顔を上げた。そうだ、いろいろなことがありすぎて忘れていたけど、今日はそのために彼女を呼び出したのだ。真美子はあらためて自分の気持ちを伝えようとした。しかし、混乱のあまり何を言えばいいのかわからなくなってしまっていた。
無理もなかった。あのときトイレで助けてくれたのはクーちゃん先輩であって、クラリス先輩ではない。けれど、真美子がここ何日も憧れを抱いていたのは、クラリス先輩のほうだった。そんな込み入った、しかも勘違いだらけの経緯を説明するのは、とても失礼な気がして嫌だった。
ああ、自分はまた、つまらない失敗をしている。そう思うと真美子の目には涙が滲んだ。
するといきなり、クーちゃんは真美子の前に膝を突いてしゃがんだ。下から見上げるようにして、真美子の顔を覗き込む。真美子はたじろいで後ずさりした。クーちゃんは笑った。
「そうデスヨ。トイレで困ってタ、あの女の子」クーちゃんはウィンクをする。「話って、あのときのコト。ネ?」
真美子は驚いて目を見開いた。覚えていてくれたなんて思わなかった。あのときは、お互いの顔を見なかったし、会話だってほんの少ししか。
「トイレで何かあったの?」
何も知らない花子は、不思議そうな顔でクーちゃんに尋ねた。しかしクーちゃんは、真美子の肩を抱くようにして、人差し指を軽く唇に当てた。
「フフ、内緒デス。マミコとの秘密」
クーちゃんの言葉を聞いて、真美子は胸にじんと熱いものが込み上げてくるような気がした。短いやりとりを覚えていてくれた。それだけじゃなく、わたしの気持ちを察して、クラリス先輩には隠しておいてくれた。なんて優しいんだろう。真美子は目元をこすった。
と、今度は花子が近づいてきて、真美子の反対側の肩に手を置いた。
「でも真美子は、今度はわたしを助けてくれたんだよ」花子は真美子の頭に、自分の額を当てる。「ありがとう。よく勇気を出してくれたね」
先輩ふたりに左右から挟まれて、真美子はどうすればいいかわからなかった。かたや自分を助けてくれた優しい先輩。かたや思わず見惚れてしまう憧れの先輩。真美子は思わず天を仰いだ。茜色の空。巨大なアロエみたいな形の細長い雲が、風に吹かれてゆっくりと流れていく。
人生って、正面から行けば、意外とたいしたことないのかもしれない。真美子はにやけた顔のまま、そんなふうに思った。
さて、調子に乗った真美子が、今度はチェーンソーを持ってきたストーカー少女と追いかけっこを繰り広げ、走行中の列車に飛び乗ったり滝壺めがけてダイブしたりする羽目になるのは、また別のお話。