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【試し読み】君が作家だと知る三ヶ月

Jブックス六郷です。斜線堂有紀さんに続いて、恋愛小説の短編を頂きました。今回執筆して頂いたのは十和田シンさん。『NARUTO』『東京喰種』のスピンオフノベライズを担当。原作ファンからも高い評価を受けました。現在は、石田スイ先生とともに『JACKJEANNE』のプロジェクトにシナリオとして参加しています。久々のオリジナル小説となる今作……期待してほしいです。体が触れあわなくても、心が触れあう瞬間は、あるんだなぁ……素敵な恋愛体験です!!


作者プロフィール

十和田シン(とわだしん)

ノベライズ作家、シナリオライター。別名義である十和田眞の名前で『恋愛台風』を執筆、小説デビュー。また、奥十の名前で漫画家として活動する。コミックス『マツ係長は女オタ』発売中。今回はJブックスレーベルの活動ということで十和田シン名義での参加。今後に大注目のクリエイター。



君が作家だと知る三ヶ月

【1】

「あなたはやっぱり作家さんだよ」
 穏やかに伝えた言葉は、強く響いて、あなたの瞳を涙で揺らした。

 くたびれたビル明かりと、お情け程度に置かれた街灯が、真夜中の公園をぬるく照らしている。
 公園の中心には、あちこち塗装が剥げたすべり台。その階段を、ギシギシと音を立てながら上る人がいる。
 すべり台で遊ぶ無邪気さなんてとっくの昔に通り過ぎた、御年二十九歳の成人女性だ。
「……高い」
 女性は、すべり台のてっぺんで息をつく。
 本来の使い方をするのであれば、土埃にまみれたすべり口にスカートの汚れなど気にすることなく大胆に腰掛け、思いのほか鋭角な傾斜を躊躇なく下っていくべきなのだが、女性――杜宮(もりみや)ハルは、すべり台のてっぺんにとどまり、バッグの中からおもむろに小説を取り出した。
「懐かしい」
 ハルは表紙をじっと見つめ、そしてページを開く。文字で綴られた別世界。読むごとに、その中へと溶け込んでいけるはず――だった。
「暗くて読みづらい」
 人が聞けば当然だと呆れることだろう。
 ハルは眉間によったしわを親指でぐっと押しつぶし、小説についてきた書籍レーベル紹介チラシをしおり代わりにはさんで空を見上げる。
 四方を活気のないビルで囲まれた公園から見上げる空は、まるで額縁の中に閉じ込められた絵画のようだ。
 星空でも収まっていれば本日のハイライトになっただろうが、空は厚手の雲に覆われ、星どころか月も行方不明。こちらの感受性頼りの鬱鬱怏怏とした絵画だ。それがハルの状況に酷似していた。
 杜宮ハルは、今日、仕事を辞めた。
 職場は未経験者歓迎をうたっておきながら即戦力を求める、人の出入りが激しい年季の入った大型雑貨店。
 一年保てばいい方で、三年勤めればベテラン扱いのその職場で、契約社員として約五年勤務したハルの地味ながらも真面目な働きぶりは、仕事の評価よりも面倒ごとを押しつけられる回数ばかりを更新していった。
 それでも、粛々と働いていられたのは、「仕事なんてこんなもの」という諦めに近いわりきりが出来ていたからだ。
 仕事に対する充実感や、満足感がなかったとしても、生活のためにこのままなんとなく働き続けるのだろう。そんなぼんやりとした将来像が、ハル隣でいつもうずくまっていた。
 突然、上司に呼び出されるまでは。
 ――おめでとう、杜宮さん。
 満面の笑みとともに聞かされたのは、正社員登用の話だった。
 給料が上がり、今までついていなかった保証が付加され、より安定した生活が送れるという。
 そして、ありがたい責任が増え、休み返上で働きたくなるほど人に頼られ、より長い時間仕事について考えられるようになるのだ。
 感謝しろと言いたげな上司の前で、ハルの表情は硬く強張っていく。
 霞がかっていた未来が突如クリアになり、ハルの隣でうずくまっていた将来像が、突如立ち上がって指し示した。ハルの足下から遥か彼方まで伸びる一本道。
 細く、頼りなく、逃げ場のない、煤色の一本道。
 上司が今すぐ返事をよこせと言わんばかりの表情でハルを見ている。
 ハルは思った。
 ――無理。
 今期の契約期間満了をもって仕事を辞めることにした。
 話は瞬時に広がった。
 仕事に対してなんの不満もなさそうに黙々と真面目に働いていたハルが、正社員の話を蹴って仕事を辞めるだなんて信じがたかったからだ。
「杜宮さん、もう二十九でしょ? もっときちんと人生設計した方がいいよ」
 ハルにしょっちゅう仕事を押しつけていた年長者ほど、訳知り顔でそんなことを言ってくる。
 それは、退職日である今日も同じだった。向こう見ずで愚かな二十九歳という生き物を突き叩きたくて仕方がないらしい。
 そして最後は笑顔で「いつでも戻ってきていいのよ」と言っていた。ハルは心の中で手を合わせる。
 ――ありがとうございます、さようなら。今生来世でご縁がありませんように。
 職場から足を踏み出したハルの心は解放感で満たされ――なかった。
 仕事に絡めた将来への不安から、見通しが立たない自分の人生への不安にバトンタッチされたにすぎないからだ。
 真っ直ぐ家に帰る気にはなれず、だからといって行く当てもない。
 ハルは駅前を一人さまよい歩く。
 すると、ふと目に入ったものがあった。
「……あれ? 書店……」
 どしんと構える大型書店の明かりがハルの足下まで伸びている。
「本……そうだ、小説……」
 子供の頃から本を読むのが好きだった。その中でも小説はハルに様々な感情を与えてくれた。
 ハルは引きよせられるように書店に入る。
 棚の中、並ぶ小説の背表紙を見て、無性にホッとした。安心出来る場所に帰ってきたかのような温かさがあった。
 物色しているうちに閉店の音楽が流れ、ハルは数冊を相棒に店を出る。
 今すぐ本を読みたい。だが、我が家という独りぼっちの空間に帰るには、まだ勇気が足りない。そうかといって、仕事終わりの社会人が楽しげに往来する駅前は息苦しい。
 ハルは明かりを避けるように、細い道へと入って行く。
 そして見つけたのだ。暗闇の中、すべり台がぼんやりと浮かびあがるこの公園を。
 読書場としてすべり台のてっぺんを選んだのは、ハルとしても説明しがたい行動で、明らかなミスチョイスだったが。
「……どうしよう。あ、そうだ」
 ハルはスマホを取り出すとライトを点灯した。それを右手に構え、左手で小説を支える。ページを開き、ライトで照らすと小説の文字が明るく浮かび上がった。
そこまでしてここで小説を読む必要があるのかと訊かれれば、そうだとしか言えない。
ハルは再び本を開く。
 初めは違和感があった。スマホライトも小説も落としそうになった。だが、徐々にめくるページがなめらかになっていく。物語が頭の中を駆け巡る。
 小説には、遠い昔に置いてきたハルの夢が詰まっていた。
 淀みきった心の中、少しだけ、澄んだ風が吹き込んだような気がした。
「おねーさん。何読んでるの?」
「えっ」
 足下から突然、男の声が響いたのは、物語が佳境にさしかかった時だ。
 驚いて見下ろすと、暗闇の中、ぼんやりと明るい何かが浮かんでいる。
 それが、男の染められたプラチナブロンドの髪だと気づくのに、数秒かかった。
「小説?」
 年は二十代前半だろうか。綺麗な髪色に負けない端正な顔立ちで、口元にはゆったりとした笑みが浮かんでいる。語り合うには勇気がいる相手だ。
「言っとくけど俺よりもおねーさんの方が不審者だから」
 反応出来ないハルを見て、警戒されていると感じたのか、男が笑みを深くする。
「あと、俺が興味あるのはおねーさんが読んでる小説だけ。正確に言うと、こんな時間こんな場所で、こんなごくごく普通の女の人がスマホライトを当てながら夢中で読んでる小説」
 ハルの警戒心を解こうとしているのか、自意識過剰だと嗤っているのかわからない。もしかすると、両方かもしれない。
 ハルは滑り台の手すりの隙間から手を伸ばして、「これです」と読んでいた本を彼に差し出す。
 男は表紙のタイトルと作者名を確認したあと、本をひっくり返して裏表紙に書かれているあらすじを見た。
 体験上、暗くて読みづらいだろうと反射的にライトで照らすと、男がパッと顔を上げ、ライトのついた携帯を見る。余計なことをしたのではないかと焦ったが、男が「ありがとう」と感謝してくれたのでホッとした。男はライトで照らされたあらすじをじっと読む。
「恋愛小説?」
 そう、ハルが読んでいたのは恋愛小説だった。
 オールジャンル何でも拘らず読むのだが、今日はこの本が読みたい気分だったのだ。
 男はページを開くことなくハルに本を返す。
「恋愛小説って、つまらなくない?」
 今まさにその恋愛小説を読んでいる人間に対して不躾なもの言いだ。
 だが、彼くらいの年頃の男性が女性向けの恋愛小説に対してそういった感想を抱いたところで、波立つ感情はなかった。
「人それぞれでしょうね」
 ハルは受け取った小説をバッグにしまい、携帯のライトを消して立ち上がる。
 そのまますべり台の階段を降り、この公園から、いや、この見知らぬ男の前から去ろうとした。
「でもさ」
 ところが、男はハルが下りようとしていたその階段を上ってくるじゃないか。
 目的が見えず、ハルは慌てた。男がどんどん近づいてくる。逃げるなら、すべり台本来の使い方をするしかないのだが、その決断を下せないまま、階段を上りきった男が隣に並んだ。窮地に立った時、自分は考えるばかりで行動に移れず真っ先に死ぬタイプに違いない。
「恋愛小説って死ぬと思うんだ」
「え」
 だが死ぬのは恋愛小説らしい。
「おねーさんの周りで恋愛してる人、いる?」
 この年頃の男性から「恋愛」という言葉を聞くのがまず珍しかった。不思議と力が抜け、ハルは答えを探すように周りの人とやらを頭の中で思い浮かべる。職場の人間しか思い出せない人間関係の狭さが切ないが、たいしてない記憶の引き出しから恋愛というワードを探す。それそのものは見当たらないが、その結果だろうものは散見した。
「つき合っている人や、結婚してる人はいました」
「その人たちが恋愛してるとは限らないよね。妥協や諦めで辿り着いた関係かもしれない。俺思うんだ。大半の人間は恋愛に飽きてる」
 ハルはなるほどと思った。この人は個性的だ。
「恋愛って、種の保存に世間体まで加わって、一大コンテンツとして人間につきまとってきた。でも、今、徐々にだけど多様性が認められ、結婚に依存しない生き方も形成されていってる。恋愛は人間の生活から遠くなり、数ある趣味のひとつ程度になっているんだよ。それなのに、前時代の記憶が更新されないまま、恋愛ものはウケると勘違いしたヤツらが需要のない世の中に向かって恋愛小説を放出してる」
 男は「恋愛小説に限ったことでもない」と続ける。
「小説自体がそうだ。娯楽が増えた今、小説を読む必要性なんて低下する一方。自力で能動的に読み解かなきゃいけない小説よりも、しゃべって動いていつでも見られるネット動画の方がずっと楽。差別化するように文学の尊さ高尚さを声高に叫ぶ人がいるけど、持ち上げられたものを見上げるなんて肩が凝って疲れるだけ。その時代に寄り添えるくだらなさと寛容さがなければ、どんなものでも老いて死ぬ。小説も死ぬ」
 ハルは数時間前まで滞在していた書店の小説棚を思い出す。あれが全て死ぬとは思えない。
 だが、男の言葉は淀みなく流ちょうで、彼の中で何度も反芻された答えだろうことがわかった。
 だから思ったのだ。
「あなた、小説を書いたら?」
「え?」
「それだけ真面目に小説のことを考えている人が書いた小説って、面白そう」
 読み心地の良いものではないかもしれないが、彼にしか書けない小説が生まれそうだ。読んでみたい。素直にそう思った。
 男は数秒、探るようにハルを見つめてくる。だが、言葉以外の意味は読み取れなかったのだろう。突拍子もないことを言い出したハルを嗤うように目を細めた。
「書いてたよ」
「書いてた?」
「小説家だったからね、俺」
 彼の小説論は、それを生業にしてきたからこその思想だったのか。
 しかし、ひとつ引っかかることがある。
「小説家『だった』?」
 まだ年若いだろう彼が昔を振り返るように語るじゃないか。
「うん、辞めたから」
「どうして」
「小説が嫌いだから」
 もったいぶることなく、ハッキリと、彼は言いきった。
「仕事に嫌気がさして辞めた。それだけの話」
 男の視線がふわりと浮いて、空を見上げる。
 そこにあるのはビルの額縁に飾られた味気ない曇天の空。
 ただ、彼の明るい髪色が月明かりのように見えた。
「……私も仕事辞めたの。今日」
 自然とそんな言葉が口をついて出た。
 男が「へぇ」とハルを見る。
「鮮度のいい話題だね。どう、辞めてすっきりした?」
「全然。だから、現実逃避に小説を読んでた」
「逃げれた?」
「ほんの少しね」
「その程度なら読む必要ないんじゃない?」
 ハルは首を横に振った。
「今の私がほんの少しでも気持ちが楽になれるって、天と地がひっくり返るくらい劇的で、すごいことなの。だから、読んで良かった」
 ハルが静かに微笑む。頬の筋肉が硬くて上手く笑えなかったが。ここ最近、ずっと笑えていなかったことをそれで知る。これも、小説がくれた劇的な発見だ。
「あなたが書いた小説も、誰かにとってそういうものだったんじゃない? 読んでみたかったな」
 話しているうちに、心が軽くなっていった。だから、思ったことがそのまま言葉になった。
 相手のことなんか、なにひとつ考えずに。
「無責任だね」
 冷たい声。
 ハッとして見上げると、男は熟れた傷から血がにじみ出すような、そんな顔をしていた。
「ごめんなさい」
ハルは即座に謝罪する。男は「いーえ」と心ない返事をした。
そこから、沈黙。
 勝手に同志を見つけた気持ちになって、好き勝手話してしまった自分の至らなさが恥ずかしい。
「……それじゃあ」
 ハルは、バッグを手にこの場から去ろうとした。
「待って」
 しかし、阻むように、男がすべり台の階段前を陣取る。謝罪が、誠意が、足りなかったのだろうか。
 男の唇が開くのを、ハルは審判を待つ子羊のように震えて待った。
「じゃあ、俺に小説を書かせてみてよ」
 思いがけない提案に、ハルは「えっ」とうわずった声をあげる。
「あれこれ講釈たれたけど、こうやって恋愛小説を楽しく読んでいるおねーさん相手に話すには、破綻した理論なんだよね、これ。なのにいつまでもつっこまずに聞いてくれるから正直恥ずかしかったよ」
 先ほどの表情とはうって変わり、彼はおどけている。
「『仕事』に対する答えは出して、今後関わるつもりもなかった。でも、真夜中の公園、すべり台の上で小説を読むおねーさんを見て、いつの間にか声をかけていた」
 彼は「おねーさん、さっき言っていたよね」と確認するようにハルを見る。
「小説のおかげでほんの少し気持ちが上向いた、些細でも自分にとっては天と地がひっくり返るくらい劇的な変化だって。今の俺もそれだ。これが育てば俺はまた小説を書くようになるかもしれない」
 男がハルの方へと一歩足を踏み出した。
「過去の物は捨てたから読ませることは出来ないけど、新しいものならいくらでも見せてあげる。だから俺に小説を書かせてみせてよ」
 最後の言葉には熱がこもっていた。
「……まぁ」
 その熱が、すぐに冷めていく。
「『なんで私がそんなことしなきゃいけないのよ』ってお話だろうけどね」
 男が自分の提案を嗤うように身を引いた。
「……どうしたらいいんですか?」
 追うように、ハルが尋ねる。虚をつかれ男は目を丸くした。
「何をすれば、あなたの小説が読めますか?」
 どうして私が、という気持ちは少なからずあった。
 でも、それ以上に、彼の小説を読んでみたいと思う自分がいる。彼の描く世界が見てみたい。
 意外だったのか、男が戸惑うように視線を泳がせる。しかし判断は早い。
「とりあえず、明日も会うってことでどう?」
 ハルは頷く。
「時間はそっちに合わせるよ。俺、今、無職だから。ああでも夜がいいな。十九時くらいがちょうどいい」
 合わせるという言葉の意味を調べたくなるが、ハルはそれにも「わかった」と頷いた。何せハルも、今日から無職だから。
「おねーさん、お名前は?」
「杜宮ハル。木へんに土の杜に、宮はお宮さんの宮で、ハルはカタカナ」
「ああ、神社の神域なんかを指す『杜』ね」
 男が指先で『杜』を書く。
「みんなにはなんて呼ばれてる?」
「大体『杜宮さん』」
「だったら俺は名前で呼ぼうかな。ちなみに、年下じゃないよね?」
「二十九、です」
「敬語が無駄にならなくて良かったよ、ハルさん。俺は二十二」
 彼の推察もハルの見立ても正しかったようだ。互いに年相応の面立ちをしているのだろう。
「あなたの名前は」
「俺の名前、そのまま作家名なんだよね」
 名前を知れば作品に繋がってしまうということか。どうすればいいのか迷っていると、彼が「適当に名前をつけて」と言ってくる。名前、そんな大事なものを勝手に決めていいのだろうか。しかし、名前がないことにはこの話は始まらないような気がする。
「……じゃあ、リョウで」
 思いついた名前を伝えると、彼は頓着することなく「OK」と答えた。
 そして彼――リョウは、ハルの横を擦(す)れ合うほどに近い距離で通り過ぎて、すべり台の急斜面を一気に駆け下りて行く。
「また明日、ハルさん」
 そう言って、彼は去って行った。
公園がまたハル一人だけの世界に戻る。だけど、一人で本を読んでいた時とは違った。
 明日のことさえ見えていなかったハルに、明日の予定が出来たのだ。
 ハルはバッグの中からもう一度、小説を取り出す。表紙をそっと撫で、もう一度空を見上げた。

「……ん? えっ!?」
 編集部。一人残り新規企画書を作成していた編集者は思いがけない人物からの電話に目を見開く。慌ててスマホを耳に押し当てた。
「先生! 先生ですか! ずっと心配していたんですよ! えっ、……何か変わるかもしれない? それって、どういう……あっ!」
 突然かかってきた電話は、その勢いのまま即座に切れた。


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