半田畔の短編小説「猫の飼い主はどこ?」
半田畔さんから短編をいただきました。野良猫からはじまる青春ミステリ。動物好きなら必ず共感できる短編になっています。特に猫好きなら! 半田さんの動物短編はこちらもおすすめです。あわせて是非読んでみてください。https://note.com/jump_j_books/n/n580c5b9599e1
猫の飼い主は?
1
猫が苦手だという話をすると、大抵は意外そうな顔をされるか、もしくは憐れまれるかのどちらかだった。へえ、猫が苦手なひとなんているんだ。あの可愛い動物を愛でられないなんて、かわいそう。なかには「猫アレルギーの自分は撫でたくても撫でられないのに、お前はどうしてそんな贅沢なことが言えるんだ」と筋違いの恨みをぶつけられることもあるが、とにかく大抵は意外がられるか、憐れまれるかのどちらかだ。
小学校に入ったばかりの頃、保育園から同じ学校にあがったクラスメイトの家に遊びにいったとき、家のなかでかくれんぼをしたことがあった。僕は部屋の隅に、体がちょうど収まるサイズの穴がついた置物を見つけて、そこが最適な場所であると疑いもせずに飛び込んだ。直後に悲劇が起こった。忍び込んだ暗闇のなかで、何かが降ってきて、叫び、動物的な雄たけびをあげるそれが体にぶつかり、頬をひっかき、背中にしがみつき、暴れまわった。友達数人が助けだしてくれるまで、僕は悲鳴を上げ続けていた。
救出されたすぐあとに、その置物がキャットタワーと呼ばれるものであることと、そこは友達の飼っている数匹の猫たちにとってお気に入りの住み処であったことを知った。僕は頬に負った無数のひっかき傷と、あちこちがほつれてしまったお気に入りの服とともにそれを学んだ。猫たちにしてみれば穏やかに過ごしていた住み処にいきなり知らない人間がどかんと入り込んできたのだから、パニックになって当然だし、怒り、怯え、ひっかいてきても文句は言えない。完全に僕が悪い。けれど僕は勝手ながら、それ以降、猫というものにまったく触れることができなくなってしまった。
ところで、石橋めいが好きだという話をしたら、ひとはどんな反応をするだろう。
いま通っている中学の同じクラスの女の子。夏休み中、穏やかとはいえない事件にともに頭を突っ込み、特別な日々を過ごした女の子。事件の最中で、僕は彼女に次第に好意を寄せていった。夏休みが明けて数週間、想いはまだ伝えられていない。
物言いやたたずまい、雰囲気に、もちろん容姿も。一見頼りなさそうで、他人の意見にすぐおしつぶされてしまいそうな子に見えるけれど、動物が好きで何よりも優先するという、そのモットーを抱く一貫性と力強さだけは、誰にも負けない女の子。
そもそも、これが恋なのかどうかは分からない。一四年生きてきて、本気で異性を好きになったことがまだなかった。けれど僕は、彼女がそばにいれば思わず目で追ってしまうし、話しかけてくれれば、同等かそれ以上の量で言葉を返したいと思うし、うぬぼれた意見がもし許されるのなら、近くで支えて守りたいと思っている。助けを求められたらすぐにでも駆けつけたいし、惜しみなく自分の持てる力をすべて差し出したい。
たとえそれが、猫に関する困りごとであったとしても。
石橋めいが猫を連れてやってきたとき、どんな顔をすればいいか分からなくなった。好きなものと苦手なものが同時に飛び込んでくると、ひとは固まって動けなくなる。
僕はそのとき、兄とともに住んでいたマンションで、引っ越し前の最後の掃除を済ませているところだった。家具はすべて、同じ町内にある実家のほうへ運ばれ、五日後には完全退去となる予定だった。最終的にはマンションごと取り壊されることになる物件なのだが、このままにしておくのはどうにも落ち着かず、掃除せずにはいられなかった。ちなみに一緒に住んでいた兄は手伝ってくれなかった。まあ、兄が正しいと思う。
「手伝ってほしいの」
インターホンが鳴り、誰かと思って出るとモニターに映っていたのは彼女だった。石橋めい。セルフカットをしているせいで、左右の髪の長さが微妙に違う女の子。少しの嘘も見逃さず、暴かれてしまうような大きな瞳。
モニターからでは、彼女が抱えていた猫が見えなかった。玄関前にやってきてドアを開けたとき、ようやく彼女が茶色の毛並みの猫を抱えているのがわかった。
「宝くんに、手伝ってほしい」
二度目の呼びかけでようやく我に返った。彼女が助けを求めている。力を借りたがっている。それはたぶん、いま胸元に抱えられている大人しい茶色の猫とは決して無関係ではないだろう。
唾をひとつ飲み込んで、僕は応じた。
「なかに入る? 玄関で立ち話もあれだし」
「ここのマンション、動物はいいの?」
「ペットは確か大丈夫。だめだったとしても、どうせもう住民は誰もいない。僕と兄さんも五日後には完全退去になる」
ペット、という自分が発した単語に導かれるように、視線が猫の首元に向いた。猫は赤い首輪をつけていた。正面には派手な装飾がほどこされたペンダントのようなものがぶら下がっている。誰かの飼い猫なのだろうか。
「じゃあ、お邪魔しますニャア」
石橋さんの応答とかぶるように、猫が鳴いた。一瞬だけ彼女がしゃべったのかと思った。
彼女が靴を脱ぎ、そろえる音を背中で聞きながら、なるべく猫のほうを振りかえらないように、先に進んだ。
リビングについて、石橋さんが胸元から猫をおろすよりも先に、僕は掃除機を握って自分の足元に引き寄せた。防御用だと悟られないように、あくまでもそっと。
赤い首輪をつけた茶色の猫は大人しい性格の子らしく、おろされた場所から動かず、そのままじっと座ったままだった。一度だけあたりを見回し、そのまま寝転がりはじめる。僕と、僕の握っている掃除機には、気にもとめていない様子だ。どことなく石橋さんに似ているように見えなくもない。
「その猫、きみの?」
「違う。最近、うちの庭にやってくるようになったの」
「でも首輪がついてる」
「そう、誰かに飼われてる。でもうちにいつもやってくるし、毎回別の方向に帰っていくの。迷子なんだと思う」
「迷子の飼い猫か」
手伝ってほしい、と最初に放った言葉を思い出す。なるほど。好きなものと苦手なものが同時にやってきた理由が、ようやくわかった。
「首輪に何か情報はある?」
「ううん、何も書かれてなかった。飼い主の電話番号も、この子の名前も」
石橋さんが猫の背中を、尻尾に向かって撫でる。とても重要な仕事みたいに、その動作を丁寧に繰り返していく。猫はふるふると一度だけ身を震わせて、あとは撫でられるままになっていた。彼女の白く小さな手が動くのを、僕は目で追う。
「この子、飼い主のもとに戻れなくて不安だと思う。宝くんは私と同じで動物が好き。動物好きとしては、絶対に放っておけないでしょう?」
「……まあ、たいていはね」
猫は例外だ、といまここで言うべきか。素直に明かして断るのは簡単だが、彼女が残念がる様子を見ることになるのは、僕にとっては受け入れ難い相談である。もし断っても、石橋さんはきっとわかりやすく表情には出さず、淡々と受け応えをして静かに去っていくのだろう。それでも僕はどうしても、その内面で密かに寂しがる彼女を想像せずにはいられない。
放っておけないのは猫じゃなくてきみだと、こぼれかける意見を飲みこみ、僕はためいきと一緒に答えた。
「わかったよ。一緒に飼い主を探そう」
赤い首輪をつけた茶色の毛並みの猫。名前は不明。性別はメス。年齢はおそらく三~五歳? 大人しく人慣れしていて、食欲が旺盛。家の庭にとつぜん住み着きました。心当たりのある方はご連絡を。
作成した迷子猫のポスターに分かる範囲の情報を盛り込み、印刷する。もちろん写真も大きく添付している。撮影係は石橋さんで、猫を正面からとらえた良い写真のように思えた。連絡先は僕のスマートフォンの電話番号とメールアドレスを記載した。
出来上がった五〇枚のポスターを手分けし、放課後をつかって僕と石橋さんは町の電柱に貼り付けていった。途中で何人かの主婦や自転車でどこかに向かっている途中のお年寄りの男性、学校帰りの小学生たちなどが、足を止めて丁寧に目を通してくれた。
ポスターの作成と印刷は実家のパソコンとプリンターを使って行った。兄が設定などをもろもろ手伝ってくれた。事情を説明すると、ポスターの作成と印刷だけではなく、マンションに泊まらせている猫の面倒も交代で引き受けてくれることになった。
兄は現在、深夜の警備員のアルバイトと、専門学校の受験勉強にあけくれている。バイトの時間が深夜なのは単純に時給が良いからというのと、あとは先月まで引きこもっていたときのリズムがまだ体に残っていて、夜のほうが活発に動けるからだった。
「保健センターに連絡は?」
マンションで集まっていたその日、兄が僕たちに尋ねた。石橋さんがうつむくので、僕が代わりに答える空気になった。
「先月のカラスの事件のとき、職員と話す機会があったけど、あまり誠実な対応をとってもらえなかった。だから石橋さんは信頼できないって言ってる。僕もまあ、そう思う。野良猫ならともかく、少なくとも誰かの飼い猫ではあるようだし、できる限りは自分たちの力で探すつもり」
なるほど、と兄がうなずく。町で起きていたカラスの不審死をめぐる事件の解決には、兄も深くかかわっている。あの事件がきっかけで僕と兄の関係も変わった。兄は引きこもりをやめた。僕たちは二人で住んでいたこのマンションを出て、両親のいる実家に戻ることになっている。
「とはいえ、ここで預かっておけるのはあと三日だ」兄が言った。ポスターを作成し、町中に拡散してからすでに二日が経っている。連絡はまだない。
学校帰り、途中で寄ったコンビニで買ったキャットフードを小皿に盛りながら、石橋さんが答える。
「うちは置いておけない。母が猫アレルギーだから」
キャットフードを盛り終えたのを見て、待ち遠しそうに彼女のまわりをぐるぐるとまわっていた猫が皿に向かっていく。喉を鳴らしながら、猫が食事を始める。一般の猫と比べて体型が少しふくよかであることを、僕は石橋さんに指摘されて知った。確かによく食べる。昨日、試しに買ったかつおぶしのパックはもうない。
「まあ最悪、親に説明して、俺と宝の実家で預かるかたちになるかな。うちの親、こういうイレギュラーなことは嫌がるから、説得は必要になりそうだけど」
兄が僕に目くばせをしてくる。意図をくみ取れないでいると、近寄って彼女に聞こえないよう、小声で言ってきた。
「宝、確か猫は苦手だったよな」
「うん。別にいまも克服はしてない」
「なんでまたこんなことを…………ああ、なるほど」
「勝手に納得しないで」
僕たちの視線の先で、石橋さんは昨日設置した猫砂トイレに問題がないかどうか、確認をしている。段ボールで組み立てた枠内に、買ってきた猫砂を撒いた即席のものだ。ちなみに対角線上に一番離れた場所には使っていない毛布でつくった臨時の寝どこが設置されている。ここ二日の猫の様子を見る限り、トイレだけはこちらの思惑通りに使ってくれているようだった。寝どこはまだ使われた形跡がない。
「誤解だよ。何を妄想しようが兄さんの勝手だけど、勘違いだ」
「まだ俺は何も言ってない」
「そのまま口を閉じててほしい」
兄は大人しく僕の指示に従って、それから妄想を繰り拡げることはしなかった。その忠実で適切な対応ぶりも、なんだか逆に腹だたしかった。
「石橋さんにはまだ言ってないんだ。猫が苦手なこと。この二日、いまのところは多分まだバレてない」
「隠しごとはいつか暴かれるぞ。それも予想しない速度でな」
兄は言って、食事を終えた猫のもとへ近寄っていく。猫は大人しく兄に頭をなでさせていた。食事を提供してもらった分くらいは戯れに付き合ってやるとでもいうような、妙な余裕を感じる。意地悪な雰囲気ではないが、かといって素直で純粋な気配もない。
「今夜も俺が泊まって面倒をみよう。ここは静かだし、受験勉強も集中できる」
兄が来年の春に受験しようとしているのは、看護師の専門学校だった。警備員のアルバイト先も川を渡った先にある隣町の総合病院だ。これまでの人生の停滞を取り戻すみたいに、すべての行動に無駄がない。
兄の言葉に甘えることにして、僕たちは猫を残してマンションを後にした。外は夕方になっていた。カラスの鳴き声は聞こえないかわりに、小学生たちのはしゃぎ声がどこかで聞こえた。保護してから三日目の今日が、まもなく終わろうとしている。
「もし、あと三日で見つからなかったらどうしよう」石橋さんがつぶやいた。
「兄さんが言うように、ひとまず僕たちの家で預かるよ」
「そのあとも見つからなかったら?」
ずっとは置いておけないかもしれない。そんな答えを、なるべく不安にさせず伝える方法はないかと探していたそのとき、スマートフォンが振動した。
確認するとメールが一件届いていた。内容を読んで、思わずほっと溜息をついた。彼女に伝えるべきことがシンプルになったからだった。
スマートフォンの画面を石橋さんに見せる。届いたメールには、最初にこうあった。
《はじめまして。迷子猫のポスターを拝見し、ご連絡させていただきました。》
連絡をくれたのは高畠さんというひとで、僕たちと同じ仲原町に住む二八歳の男性だった。都内のジムでトレーナーとして勤務しており、本人の体つきもたくましく、全身の脂肪がそぎ落とされ、くまなく筋肉に置き換えられているような体型だった。なぜわかるのかというと、本人が自身の身元を証明するためにSNSのURLを共有してくれたからだった。投稿された画像の大半は自身が勤務しているジムの宣伝写真と、そこで行われたトレーニングの様子だった。
電柱に貼られた迷子猫のポスターを見つけて、飼っていた猫かもしれない、と連絡をくれたそうだ。メールの最後には詳細は会って話したいとも書かれていた。
連絡のあった翌日の日曜日、僕たちは高畠さんとの待ち合わせ場所に向かっていた。何度かやり取りをして、場所は任せると言うので、猫を預かっているマンションの近くにあるファミレスを指定させてもらった。すぐに分かるよう、こちらは制服姿で向かうことにした。先月よりもだいぶ涼しくなり、僕も彼女もカーディガンを着用している。
「あのひとのSNSに、猫の写真は投稿されてなかった」
道すがら、石橋さんが指摘する。どこか警戒のこもった声色だった。高畠さんの情報を共有するために彼女にもSNSのページを見せたが、筋骨隆々の裸体が投稿された写真を一枚目にすると怯えて(例のごとく顔にはださず、そっと身を引いた程度のリアクションだったが)、それきり見なくなってしまった。気持ちは分からなくはない。
「飼い猫の写真を投稿しない飼い主だっているさ」
「うん。直接話して、ちゃんと確かめる」
彼女はまだ高畠さんを完全に飼い主として信じているわけではない。高畠さん自身を人間的に警戒しているのももちろん理由の一つだろうが、一番はやはりあの猫のためだろう。保護した猫が正しい相手に、適切に帰されることを彼女は望んでいる。
僕もまだ確信しているわけではないが、現状は連絡をくれた唯一の希望だ。高畠さんと実際に会って話をして、猫の様子や習慣などを簡単に挙げてもらい、こちらの認識と齟齬がなければ、保護していたあの猫を彼に返却をする。その流れでひとまず問題はないだろう。僕の隠しごともあばかれることなく、この件は解決するかもしれない。
「ねえ、制服にシワとかはない?」
「ないよ、大丈夫。ついでに僕もチェックしてくれ」
過剰なくらい礼儀正しい石橋さんへの冗談のつもりだったが、彼女はその場で立ち止まり、本当にチェックを始めてしまった。仕方なく付き合う。
「宝くんも問題ない」
再び歩き出し、ファミレスまであと数分という距離になったとき、スマートフォンが振動した。誰かからの着信だった。
立ち止まり、ごめんと石橋さんに言い置いて電話に出る。僕が対応している間、石橋さんは近くのカーブミラーを使い、制服にシワがないかどうかを確かめはじめた。
「もしもし? 飯田です」
「あ、どうも、はじめまして。宮崎と申します」
返ってきたのは男性の声だった。年上なのは間違いないが、声が高く比較的若く感じた。僕の知り合いに宮崎と名乗る、声が高い年上の男性はいない。初対面だ。
続く宮崎と名乗る男性の言葉で、僕は自分の楽観ぶりを思い知ることになった。
「迷子猫のポスターを拝見して、お電話させていただきました」
2
宮崎さんは三一歳で、フリーランスのデザイナーとして基本的には在宅作業をしている。銀のフレームの眼鏡と、肩までかかる長髪が特徴的な男性。髪の長さには少し驚くが、清潔に保たれているのがわかり、不快な印象はいっさいない。なぜそこまでわかるのかというと、彼もファミレスに来てくれたからだった。事情を説明すると、ちょうどいまからうかがえると言うので、高畠さんとも合流し、四人で話し合う流れになった。
窓際のテーブル席に四人で座る。僕の横に高畠さん、石橋さんの横に宮崎さんという配置になった。全員ドリンクバーを注文し、それぞれが簡単に自己紹介を終えて、高畠さんが次の会話の波をつくった。
「いや、メッセージのやり取りのときに知らせてもらってはいたけど、本当に中学生だったとは。だから別にどうというわけでもないんだけど」
眩しいね、いいね、若いね、と、そんな言葉が続きそうな口調だった。
「一応話し合いの進行はさせていただきますが、何か失礼な点があれば、遠慮なくおっしゃってください」僕が応える。
「とんでもない。というか、むしろとても大人びて見えるよ。最近の中学生はみんなキミみたいな感じなの?」
僕は苦笑いで返して、石橋さんは無言でうなずくだけだった。
「兄の影響が大きいと思います。いろいろなことを教えてもらっているので」
高畠さんと宮崎さんは、猫を保護した僕たちを尊重し、場の進行をそのまま任せてくれるようだった。石橋さんが制服の袖をまた気にし始めてしまったので、話すのは僕の役目になった。
「確認ですが、お二人は迷子猫のポスターを見て連絡してくださったという認識で間違いないですね?」
高畠さんと宮崎さんは顔を見合せて、同時にうなずく。筋肉と長髪、などと安易なニックネームを思わずつけたくなってしまう二人。おそらく趣味も嗜好も、肌の焼け具合も髪の長さも、何もかも違う二人だけど、たった一つだけ共通点がある。僕たちが保護したあの猫に関心があり、休日をわざわざ割いてでも、時間をつくってこうして会いに来てくれる情熱がある。宮崎さんにいたっては、待ち合わせを調整してくれたのは今さっきだ。
「正直、僕たちも困っているところなんです。迷子猫の飼い主を見つけようとポスターを作成したけど、連絡が複数の方から来るのは想定していなくて」
それについては、と宮崎さんが手を上げる。眼鏡を指で調整しなおし、低姿勢な笑顔でこう切り出してきた。
「厳密には、私は飼い主とは言えないかも。つい先月まで、あの猫が私の家の庭先に入り浸っていたんだよ。軽い気持ちでご飯を上げたら、どうも居ついてしまってね」
庭先。確か石橋さんが保護したのも同じ、自宅の庭。
「そこから勝手に、あの猫に絆のようなものを感じててさ。もし飼い主の方が名乗り出ないようなら、正式に保護しようかと思っていたんだ。それで連絡をね」
「なるほど」
となると、本当の飼い主は高畠さんということになる。高畠さんが飼っていたあの猫が逃げだし、宮崎さんの場所に居付き、そして彼女のもとへやってきた。流れとしては不自然ではない。
僕たち三人の視線が集まったところで、高畠さんが恥ずかしそうに笑って頭をかきはじめた。
「いやあ悪い。実はおれも似たような理由なんだ。マンションの一階に住んでるんだけど、ベランダや玄関口にあいつが毎回来てたんだよ。ほんの二か月くらい前。ある日、突然いなくなったから心配してたんだ」
飼い主が名乗り出ないようなら、自分のところで預かれないかと連絡をした。二人の理由は寸分たがわず同じものだった。
「じゃあ、高畠さんの飼い猫というわけでもない?」
「たぶん野良猫じゃないかな、あいつ。店で売られているような猫種でもないし」
飼い主が二人名乗りでたところで、解決が複雑になっていくとは思っていたが、どうやら予想のしていない複雑さをはらみ始めていた。どちらかが飼い主なのではなく、どちらも飼い主ではない。
「どう思う?」僕は向かいに座る石橋さんに尋ねた。タッチパネル式のメニュー票に視線を逃がしていた彼女が我に返り、それから数秒かけて、こう答えた。
「あの子を大事に、愛情を持って保護してくれるのでしたなら、私はどちらが飼い主でもいい、……です」
敬語の使い方はともかく、彼女の立場と意見がわかりやすく凝縮されていた。どちらも飼い主ではないのなら、どちらが飼い主になってもいい。二人の立場は平等だから、あとは穏便な話し合いさえ行われれば――。
「いや、混乱させて申し訳ない」高畠さんが頭を下げる。
「こちらこそ」宮崎さんも続く。
様子を見ている限り、穏便に進められそうかという点に関しては、問題はなさそうだった。まだ会って一〇分少々だが、悪い人たちには見えない。石橋さんも基本的に無言をつらぬいているが、彼女のなかでひそかに行われている審査に二人とも合格している雰囲気を感じる。そうでなければ、彼女はもっとこの二人に突っ込んだ質問をしたり、もしくは激しく噛みついたりしているはずだ。
状況の整理を手伝ったところで、ここから先は高畠さんと宮崎さんに丁寧に話し合ってもらって、正式に飼い主を決める時間になりそうだった。僕も石橋さんも、もう口を挟まなくても問題ないだろう。緊張が解けたところで、空腹を感じ始めていた。適当に食事でもして待っていてもいいかもしれない。冗談ではあるが、石橋さんは本当にそうしようとしている節がある。注文用のタブレット端末をとうとう手に取り、メニューを漁りはじめていた。
そういえば、とひとつ思い出すことがあった。大人同士の話し合いが行われる前に、軽い興味で訊いてみることにした。
「ところで、あの赤い首輪はどちらがつけたんですか?」
「高畠さんのほうでしょう」「あれは宮崎さんだよ」
二人の回答が重なる。ぴったり同じタイミングで答えていたが、中身はま逆だった。
石橋さんが操作していた指を止めて、タブレットから顔を上げる。
「あの、どちらもつけていない? ……んですか?」彼女が初めて訊ねた。
高畠さんと宮崎さんが顔を見合わせる。二人とも、驚いたように薄く口を開けている。どうもおかしい。嫌な予感。
「宮崎さんがつけたんじゃ?」高畠さんが訊く。
「違いますよ。僕はつけてないです」
「おれのときにも首輪はなかった」
時系列を整理する。二人の記憶を信じるなら、まず高畠さんの庭先にあの猫があらわれた。ご飯をあげて可愛がっていたが、やがていなくなる。それから猫は(途中でもしかしたら数人の庭先を経由していたかもしれないが)、宮崎さんのもとへ。同じように過ごしたあと、またひょっこりいなくなる。そして石橋さんの自宅にあの猫がやってきた。赤い首輪をつけて。
ゆっくりファミレスのランチを楽しむ時間はなさそうだった。目を合わせてきた石橋さんに応えるように、僕は溜息をつく。
「赤い首輪をつけた三人目の飼い主が、どこかにいる」
結局、高畠さんと宮崎さんとは一度解散することになった。正式な飼い主の決定は三人目の飼い主が見つかったタイミングか、もしくはもう少し待ってもあらわれなければ再度話し合うことになった。三人目からの連絡があったときに素早く確認できるほうがいいからと、猫は引き続き僕たちが保護することになった。とはいってもあのマンションに泊まらせられるのは、あと二日だ。できれば二日以内にケリをつけたい。
「ずっと隠していたことがあるのだけど」
猫の待つマンションに戻っていたとき、石橋さんが言った。隠していたこと、と聞いて、なぜか僕自身のことを指摘されるのではないかと一瞬身構えてしまった。
「実は私、人見知りなの」
「……へえ、それは驚いた」
隠せていたと思っていたことに驚いた。
「だからさっきはありがとう。宝くんがいなかったら場が進んでいなかった」
「いや、あの穏やかな二人なら、僕たちがいなくても話し合いはちゃんと進んでいたと思うよ。それに場を進めるどころか、僕は逆に混乱させてしまった」
赤い首輪の話題を持ち出したのは僕だ。
少しの間があって、彼女が答えた。
「混乱じゃない。真実に近づいただけ」
「…………うん。だといいね」
真実に近づくためには、もう一度あの猫をしっかり調べる必要もありそうだった。そういえば、猫にはまだ名前がない気がする。石橋さんも、あの男性二人もつけていない様子だった。たまたまその話題にならなかっただけで、二人がこっそりつけていた可能性もなくはないが。
途中のコンビニで昼食を買って帰り、マンションに戻るころには午後一時を過ぎていた。兄との交代の合間の時間だったので、部屋は無人だった。鍵を開けてはいり、廊下を抜ける。
リビングのドアを開けたところで、部屋の隙間から何かが近づいてきた。
「にぃ」
もちろんあの猫だった。予想以上の近さと速さでこちらに迫ってきて、思わず驚き、飛び退いてしまった。キャットタワーと暗闇の襲撃が即座に脳裏によぎった。ひとが驚いたときに見せる反応というのは、叫ぶかまったく声が出なくなるかのどちらかだと思っていて、僕は後者の種類の人間だった。
飛び退いた勢いが強かったのか、壁にぶつかって派手な音を立ててしまった。
「大丈夫?」
「平気。なんともない」
隠し事はいつか暴かれる。こちらの予想しない速度で。
「お腹が空いてたんだね」
猫は石橋さんの足元をぐるぐるとまわり始める。彼女がコンビニで猫用のツナ缶を買ってきたことを、すでにつきとめているような様子だった。石橋さんが猫のご飯の準備をしている間に、部屋の隅まで距離を取っていく。できればもう二歩分くらい下がりたかったが、すでにそこは壁だった。もう逃げられない。
猫の飼い主は誰なのか。今回の真実に到達するためには、僕の隠しごとはさらなる混乱を生みだしかねない。余計なノイズとなってしまう前に、そして取り返しがつかなくなる前に、観念するしかなさそうだった。
「石橋さん。実は僕も隠していたことがある」
ご飯をあげ終えた石橋さんが、床に膝をついたままこちらを見上げてくる。隠していたこと? と、その瞳が僕に続きを促す。
「言いそびれていたんだけど、僕は猫が苦手なんだ。その猫にまだ僕が触れていないことに、きみは気づいてたかもしれないけど」
猫が苦手だという話をすると、大抵は意外そうな顔をされるか、もしくは憐れまれるかのどちらかだった。
石橋さんは――。
「へぇ」
笑った。
とても小さく。どこか嬉しそうに。僕の記憶のなかの、誰とも結びつかない反応で、思わず理由を訊かずにはいられなかった。
「……それはどういう種類の笑み?」
「宝くんにも苦手なものがあるって知って、ちょっと嬉しい笑み」
彼女はいつになく饒舌に続ける。
「不安なことや怖いものなんて、ないと思ってたから。安心した。宝くんにも、ちゃんとそういうものがあるって」
あくまでも隠していたことは責めない。ここで無理して克服させてこようともしない。明かしたことで、僕の行動や意識の何かが不自由になったわけでもない。それどころか、石橋さんはこう言ってくれる。
「手伝い、する。三人目を見つけるために、猫をよく調べないといけないはず。私が代わりにやる」
だから僕は彼女が好きだった。
この想いも、いつかきっと暴かれるのかもしれない。
「高畠さんも宮崎さんも赤い首輪はつけていない。だから問題の首輪をもう一度、念入りに調べてみたい。でも僕は猫に触れない」
うなずいて、石橋さんが食事中の猫の首元に触れる。猫は一度だけ嫌がるそぶりを見せたが、あとは任せるままだった。あっという間に首輪を取って、持ってくる。
「これで大丈夫?」
「十分。ありがとう」
首輪を受け取り、調べなおす。裏側に飼い主やこの子の名前などは刻印されていない。革製品だが、ほとんど摩耗した形跡もなく、真新しい。ここ一か月以内につけられたと判断して、間違いないだろう。
猫の正面にくるように配置された装飾はハートの形をしている。そこでようやく気付いた。ハートの装飾には妙な厚みがある。よく見ると側面に溝があり、蓋のような構造になっていた。僕の指ではうまく溝に爪が入らず、石橋さんに託す。数秒後、カチッという小さな音が鳴って、彼女はなんなくそれを開けた。
「気付かなかった」石橋さんがつぶやく。
なかには一枚の折りたたまれたメモ用紙が入っていた。いきなり答えを見つけたかもしれない。期待して開くと、印字された文字が飛び込んできた。
《小林モカ》
他に情報はない。たったそれだけ。
「飼い主の名前?」
「いや、この子の名前だろう」
納得したように、ああ、と石橋さんが小さくうなずく。
この首輪の装飾部分についた収納機能は、間違いなく飼い猫に関する情報を保管しておくためのものだろう。迷子になったとき、拾い主がスムーズに猫の身元や飼い主を特定するためのもの。実際にこの飼い主もそうしている。
「だけど、おかしい」
厳密に言えばそれは半分しか目的を達成できていない。いや、半分も首輪の機能を活かせていない。書かれているのは猫の名前だけで、飼い主の氏名や住所、電話番号といった肝心な情報がひとつもないからだ。飼い主の苗字が小林であることが分かるくらいか。
「どうしてだ? なぜひとつも大事な情報を残さない?」
返事をするように、ニャア、と猫のモカが一声鳴いた。
答えをつかんだのは翌日の午後だった。授業の合間の休み時間での出来事が、そのきっかけだった。
それまでの間、僕は首輪から入手したメモを睨み続けていた。書かれた《小林モカ》という、ただひとつだけの情報。手書きではなく、わざわざ印字されている。パソコンやスマートフォンを使って入力し、印刷するという作業をわざわざはさんでいる。飼い主である小林さんの性格によるものか? 電話番号や住所の記載を忘れたのも、本人の気質のせいか?
「いやあ、ほんとショックだよ」
僕の周りの男子グループが何かの話題で盛り上がっていて、そのうちの一人が大きなリアクションをとり、そのとき僕の机にぶつかった。
「あ、ごめん飯田」
ぶつかった衝撃でメモが床に落ちる。拾いながら、特に興味はなかったが、クラスメイトに尋ねる。
「なんの話をしてたの?」
「動画配信者だよ。VR機能を使って可愛いアバターで話すのが面白いんだけどさ、この前、設定ミスか何かで中の人が映っちゃったんだよ」
「放送事故」
「そうそう。で、中の人があまりにもイメージと違ったから、ショックだったっていう話」
「なるほど」
「分かってないだろ飯田。お前ちょっとは流行を知っておけって」
「ペンネームで女性だと思っていた小説家の著者近影が公開されて、男性だったと知ったくらいの衝撃?」
「なんだ、分かってるじゃん」
適当に合わせてみたのだが、どうやらニュアンスは近かったらしい。でもどうでもいい。流行を追いかける時間があるなら、石橋さんから動物の雑学を聞いていたほうがよっぽど有意義だ。
中の人、という単語が頭に残りながら、《小林モカ》のメモに意識を戻したところで、ふいにひらめいた。
なるほど。小林さんは忘れたわけじゃない。わざと書かなかったんだ。
勢いで席を立ち、そのまま廊下側の列に座る石橋さんのもとへ向かう。彼女は何かの作業に没頭しているところだった。割りばしと拾ってきた何かの植物をテープで留めようとしている。工作物の形態から、ねこじゃらしだと予想がついた。
割りばしと植物をテープで留め終えたタイミングで、彼女に話しかける。
「手伝ってほしいことがある」
「なんでもする」
「ところで、この町にあるペット用品店の数はわかる? ペットショップでもいい」
「二つ。駅前のモール内と、小学校の近く」
「さすが」
ふと、クラスの何人かが僕と石橋さんに意識を向けていることに気づく。夏休み明けから急に話すようになった二人の男女。そんな光景に、穏やかではない好奇心を抱かれているのはなんとなく察していた。彼女が不快にならない噂なら、別に僕も気にはとめない。いまのところは。
「この首輪はたぶん町内で買われたものだと思う。ネット通販もありえなくはないけど、可能性は町内のほうが高い」
「首輪が二つの店のどちらにあるかを探すのね」
「それほどめずらしいデザインではなくて、両方の店にあるかもしれない。でも、小学校側の店にはおそらくあると思う」
「どうしてわかるの?」
「仮説が正しかったら説明する。上手くいけば、このまま飼い主をつきとめられるかも」
放課後、さっそく手分けをして探すことになった。石橋さんは駅前にあるモールの店のほうを捜索すると手をあげた。そちらのほうが遠くて大変だから僕が行こうかと一度提案したが、それでも彼女は譲らなかった。例の如くほんのささいな変化ではあったが、答えた彼女の口調や態度に、妙な強固さを感じた。その理由を僕はすぐに知ることになる。
石橋さんに教えてもらったとおりの場所に、そのペット用品店はあった。大手のチェーンではなく、小さな個人経営店のようだった。小学校の校門と同じ通り沿いにあり、店のすぐ向かいは学校の敷地内になっている。奥に校庭があるのだろう、残って遊んでいる児童たちのはしゃぎ声が聞こえた。
探していた首輪はすぐに見つかった。入ってすぐ、陳列されていたいくつかの首輪のなかにまったく同じものがあった。試しに店主に赤い首輪を最近買っていったひとはいるかと聞いてみたが、まったく覚えていないという。短く答えた店主はレジに帰り、競馬新聞の熟読に戻ってしまった。
店を出ようとしたところで、石橋さんから電話がかかってきた。
「モールの店にはなかった。あといくつかのネットショッピングサイトで探してみたけど、あの赤い首輪は見つからなかった」
「ありがとう」
こちらは見つかったことを伝える。
「どうしてわかったの?」石橋さんが再び訊いてきた。
「合流してから教えるよ。そのほうが次の動きがスムーズになると思う。いまからここに来られる?」
「迷わず行ける」
店を出て、店主に聞こえない距離まで離れたあと、通話を続ける。
「それにしても、この店よく知ってたね。学校の裏手の狭い通りだし、小さな個人経営店のようだったけど」
ほんの数秒、彼女は黙った。校庭のほうから、児童たちのひときわ大きな歓声があがる。たぶんサッカーをしている。
やがていつも以上に淡々と、石橋さんは答えた。
「そこにあるの、私が通ってた小学校だから」
3
今年の夏休み、僕は石橋さんとともにカラスの不審死をめぐる調査を行った。そのとき彼女の小学校時代の話を聞く機会があった。あるウサギの話。総合の授業がきっかけで先生によってウサギの飼育が提案され、クラス全員でケージ代や餌代を負担し合い、飼っていた話。
物珍しさも手伝って、初めは愛情を持って育てられたウサギだったが、やがて飽きられ、ついには臭いを理由に教室から遠い場所へ移されてしまった。それが直接の原因になったかは不明だが、一週間後にウサギは亡くなった。石橋さんはそれを今でも悔いている。だから動物に関する出来事にはひとよりも敏感になるし、カラスの不審死事件では原因をつきとめて、なんとか助けようと試みたが、結果的には過去の傷口を広げるだけの苦い結末を迎えた。
そしていま、僕はまた彼女に苦い過去を振り返らせようとしてしまっている。事情を知らなかったとはいえ、よりにもよって石橋さんのほうからこの小学校に来るよう指示までしてしまった。
「首輪に書かれた猫の名前は、印字されたものだった。どうして手書きにしないのかと不思議だったけど、クラスメイトの雑談がきっかけである仮説にたどりついた。赤い首輪をつけた張本人は、特定されるのを避けるために印字という方法を選んだんだ。自分の筆跡や文字は、特定されるための大きな手掛かりになってしまうと思ったから」
僕はここにたどりついた経緯を説明していく。きみを傷つけたり、追いこんだりする意図はなかったのだと、どこか言い訳がましさを自分で感じる。
「筆跡が手掛かりになるのだとしたら、お年寄りか小学生あたりかと思った。まだ未成熟で、バランスを欠いた印象を持つ字になってしまう。そう考えて小学生が身分を隠すために印字した。そちらのほうがイメージはしやすかった」
「小学生ならネット通販じゃなくて、町で首輪を買ってるかもしれない。それで私に聞いたのね」
「二つのうち、小学校に近い店は可能性が高いと思った。日頃から目についているだろうし、首輪のことを思いつきやすい」
お年寄りよりも小学生のイメージが強かった理由はほかにもある。
「首輪には電話番号と住所が書かれていなかった。忘れたんじゃなくて、これもたぶん同じ理由だ。特定されたくないから」
「わからない。どうして特定されることを恐れるの? 飼い猫が迷子になったら、いち早く連絡はほしいはず」
「飼っているわけじゃないからだよ」
「え?」
厳密には飼い主というわけじゃない。ファミレスで宮崎さんはそう言っていた。高畠さんも同様だった。猫に首輪をつけたこの小学生もだろう。
「首輪の持ち主は、あの野良猫を『飼い猫』だと思わせたかったんだ。首輪をつけていれば誰かが飼っていて、迷い猫だと誰もが思う」
「どうしてそんな――」
言葉がとぎれ、あ、と小さく口が開く。石橋さんなら察するのも早いだろう。
「たまたま見つけた野良猫が可愛くて、自分のものにしたくなった。そういう可能性もゼロじゃない。だけど、野良猫だと不都合なことがあって、それを隠すために行った。そちらのほうが筋はより通る」
「保護猫」
彼女の導き出した単語に、僕もうなずく。たどりつけたのはそばに石橋さんがいたからとも言えた。人と動物が戦争になったら、きっと動物側につく女の子。
「野良猫として保護されるのを危惧したんだろう。万が一保護されることになっても、飼い猫なら、野良猫よりも延命できる。期限が延びる」
もちろんこれもただの仮説にすぎない。状況から憶測を広げていっただけの、膨大な可能性のひとつにすぎない。確証を得るための手がかりはおそらく、僕たちの目の前に建つこの小学校にある。
「石橋さん」
僕が呼ぶと、彼女は学校からこちらに視線を戻した。
「首輪の持ち主は、この学校の児童の誰かだと思う。けど探ってみたところで証拠が得られるとは限らない。そもそもこの時間帯は児童もほとんど帰ってるだろうし、万が一うまくいっても今日会えることはない」
こんな場所に、安易に呼んでしまってすまない。デリカシーのない真似をしてすまない。そうやって謝れたらどんなに良いだろう。けど、それで楽になるのは僕だけだ。彼女じゃない。それほど簡単なひとじゃないことを、僕は知っている。だから続ける。あくまでも理路整然と。
「学校を実際に探るなら僕一人だけでも十分だ。OGである石橋さんの名前は使わせてもらうことになるかもしれないけど。とにかく無理強いはしない。行きたくないなら行かなくていい。そもそも、首輪の持ち主だって別に特定しなくても――」
「行く」
彼女は短く、はっきりと返事をする。首輪の持ち主のくだりは、余計なひと言だったかもしれない。石橋さんの何かに火をつけてしまった。その火はきっと、少なからず自分自身を焼いて傷つけるものだ。
「私も、行く。そのほうがスムーズ。それにちゃんと見つけたい。首輪の持ち主に会って、確かめたい。宝くんが正しかったって知りたい」
石橋さんは続ける。
「気を遣ってくれてありがとう。でも、大丈夫」
「……辛かったら、本当に途中で帰ってもいいからね」
「そうする。宝くんを置いて勝手に一人で帰る」
覚悟を決めたようだった。過ごすたびに気づき、そして彼女の強さを思い知る。そばにいて支えたいだなんて、まったく僕はおこがましい。
石橋さんの言ったとおり、学校訪問は彼女がいたことでスムーズに進んだ。昇降口すぐの職員窓口で対応してもらい、石橋さんが確かに在校生であったことが分かると、受付を担当した女性教師はあっさりと態度を軟化させた。制服姿で来校したことも、信頼してもらえた要因の一つだろう。僕一人だったらこうはいっていなかったはずだ。
来客用のスリッパと来校証を僕たちに渡しながら、女性教師はさらに、自分たちは自由に見て回っていいとすら言ってきた。
「しっかりしてそうだし、ふざけた悪戯とかしないだろうから、信頼するわ」
大人びていると僕に言っていた、ファミレスでの高畠さんの言葉をふいに思い出す。
職員室から遠ざかりながら、応対した教師は隣のクラスの担任だったと彼女が教えてくれた。
「どこを見て回る?」
「教室あたりを見て、小林姓がいないか確認しようと思ってたけど。そうだな……低学年は除外していいかもしれない」
「ペット用品店があるほうのあの校門は、四年生以上の児童しか使っちゃいけないルールだった。登下校の混雑の解消のために。あちら側のほうが家が近いっていう児童は例外的に認められてたけど」
「なるほど。それなら四年生から見ていこう」
こっち、と石橋さんが案内してくれる。階段を上り、途中の踊り場で一度だけ彼女の足が止まった。窓の外には体育倉庫と雑木林が見えるだけだった。
「ウサギはあそこに移されたの。あんな薄暗い場所に」
「……きみは移されても、毎日通ってたんだろうね」
「うん」
気の利いた言葉をもう一つか二つ、返せればよかったのだけど、結局何も思いつかなかった。そのうち石橋さんはまた階段を上り始めた。
四年生と五年生、そして六年生の教室が並ぶ階までやってくる。廊下の端から四年生になっていて、順番に教室を外から眺めていく。なかには入るなと受付のときに指示を受けていた。
教室の壁沿いには、図工の授業で作成された絵や工作がずらりと展示されていた。それぞれの絵に名前が書かれていて、途中、小林姓を一つ見つける。四年生はぜんぶで三クラスあり、別のクラスでもう一人小林姓を見つけた。石橋さんは最近買ってもらったばかりのスマートフォンで二人の小林の氏名をメモしていた。
五年生の教室の前を通ると、壁の掲示物の種類が変わった。一面を覆っていたのは手作りの学校新聞だった。それぞれの班に分かれて作成されたものらしい。制作日も丁寧に右上の端に書かれていた。一か月ほど前。
どの班も内容はバラエティに富んでいて、児童間のアンケートを取って行われた人気給食ランキングや、学校設備の要望といったもの、設立から現在までの歴史を事細かにとりあげたり、著名人になった卒業生たちを特集したりする記事もあった。
少し先を歩いていた石橋さんが、ある新聞の前で立ち止まる。横に立つと、あれ、とひとつの記事を指さしてきた。
記事の見出しがすぐに僕の目にも飛び込んできた。
《仲原町の美化推進運動における野良猫数の推移》
美化推進運動。今年に入ってから新市長が積極的に進めている活動のひとつ。カラスの不審死を調べていたときも出てきた言葉。僕たちが知っているのは市花であるキキョウが通りや河川敷の土手沿いに植花されていることや、ごみ捨て場が改修されていること。もちろん取り組みはそれだけではなく、この記事を読む限り、どうやら「野良猫の保護」も活動のうちのひとつだったようだ。
「社会の授業か何かで新聞を書くことになり、その過程で町の取り組みを知ったのかもしれない。野良猫が実際に減っていることもつきとめた」
記事を読み上げながら、整理していく。
「書いたのは誰だろう?」
石橋さんが新聞の端欄に作成者一覧を見つける。保護猫の記事の作成児童は、『浜口 羽美』となっている。小林性ではない。でも可能性はある。そもそも首輪の《小林モカ》だけで小林姓だと断定するのは少しリスキーだ。印字までして自分を隠そうとする性格。小林すらも嘘であると考えたほうが、自然だろう。
「ほかに保護猫の記事を書いている児童はいないかな?」
これで浜口羽美だけであれば単純だったが、そうはいかなかった。調べると、全四クラスのうち、三人が保護猫に関する記事を書いていた。一人は『筒井恭介』という名前の男子で、もう一人は『大川彩』という名前の女子。それぞれの記事では入念な調査が行われていて、一九九〇年初頭ごろから保護猫の殺処分数が減少傾向にあることや、六〇年代いこうの高度経済成長期に合わせて「猫ブーム」が到来していること、この仲原町でも同様の流れがあり、現在は市で主導されている美化推進運動によって、保護猫数が増え始めていることまで書かれている。
美化推進運動関連の記事にまで範囲を広げるなら、対象はもっといる。たぶん授業で取り扱うか何かしたのだろう。けど、ひとまずは保護猫関連の記事を書いた児童に絞る形でいいはずだ。首輪の持ち主候補は三人。
「この三人のなかに……」
一人ずつあたって丁寧に確かめてもいい。それが確実な方法でもある。だけど僕はできるだけ早く、これを終わらせてあげたかった。猫のためでもあるけど、何より彼女のためだった。いまだってこの校舎にいること自体、本当は辛いはずだ。それなのに来てくれた。少しでも早く、つきとめるんだ。
兄の言葉がふいに頭をよぎる。隠しごとは暴かれる。本人の予想しない速度で。
翌朝、僕たちはまた小学校の上級生用校門の前にやってきていた。僕と石橋さんが授業に遅刻するかどうかは、首輪の持ち主が何時にやってくるかにかかっている。
校門横に立つ僕たちを、登校してくる児童たちは物珍しそうに眺めていた。そしてそのなかに、ただ一人だけ動揺を浮かべてやってくる女子児童がいた。僕と石橋さんは彼女に近づき、話しかける。
「はじめまして、大川彩さん」
骨格はまだ幼さを残しているが、石橋さんよりも背が高い。きりっとした目つきと、口元のほくろ。背負っている黄色のランドセル。事前に彼女の担任教師から聞いていたとおりの容姿と風貌だった。
「どうして、あたしのこと……」
「昨日、この学校に来たんだ。来校受付で応対してくれた先生が、さらに君の担任の先生を紹介してくれた。容姿で分かった」
大川さんが唾をのみこむ。
「来た目的は、わかってると思う」
黄色のランドセルの女の子は石橋さんのほうを向く。厳密には、彼女が腕に通している赤い首輪のほうを。大川さんが動揺したのは、自分が猫につけたはずの赤い首輪を持っている女子中学生が、とつぜん校門にあらわれたからだろう。というかなぜ腕なんかにつけているのか、という動揺も少しは入っているかもしれない。そこは石橋さんのセンスなので僕は触れない。似合っては、いないと思う。そもそも似合うとか似合わないとかいう次元の話ではないが、そんなことはいまはどうでもいい。
「よく、あたしって分かったね」観念するように大川さんがつぶやいた。僕と石橋さんはそっと目を合わせる。
「候補はほかに二人いたけどね」
「もしかして保護猫の新聞記事?」
「そう、それ」
僕は続ける。
「首輪に印字された小林姓がでたらめなら、本名は何だろうと考えた。数秒前まで確信はなかったけど、正解だったみたいだ」
要するに、言葉遊びの一種だ。
「小林の小の反対を連想させる単語は、大。林の反対は海や川、もしくは森。この場合は川が正解だった。小林という苗字と二文字とも反対した単語で構成されているのは、大川
さんだけだった」
大川さんが溜息をつく。余計なことをした、と悔いているような雰囲気だった。
「本当にあの首輪だけからたどりついたんだ。すごい」
「たどりついたのは宝くん」
石橋さんが僕の制服の肩部分を引っ張る。
「探したのは、あなたの言葉を聞くため。直接聞きたかったから」
「言葉とか、別にないけど……。たぶん、予想してるとおりだと思うけど」
大川さんはそれでも言葉で続けてきた。彼女の望むとおりに。
「保護猫のことを知って、あたし、何かしたかったの。特にこの町で今年から始まった美化推進運動で、保護されちゃう野良猫たちのことが放っておけなかった。でも、うちでは猫は飼えない。ペット禁止のマンションだから。セキニンとか、まともに取れないし。だけどやっぱり忘れられなくて。そんなときに、あの猫にたまたま会ったの。あたしは勝手にモカって名付けた」
それで首輪のことを思いつく。学校の近くにあったペット用品店。小林モカと名前を印字したメモを仕込み、入念に飼い猫へと見せかけた。
何が良くて何が悪いとか、そういう分かりやすい話じゃない。こっちが白であっちが黒と仕分けできるような、奇麗な現実なんてこの世には存在しないのかもしれない。僕たちが遭遇するのはいつだって灰色だ。
今回はたまたま大川さんが出会った猫だけが、こうして僕たちに保護された。すべての猫に公平であろうとするなら、それはフェアな対応ではない。けど――。
「ポスターが貼られてたのは知ってた。でも知らないフリをした。まどわせたのは、ごめんなさい。怒られてもいい。でも後悔とかは、してない。先生が授業で言ってたの。口だけの善人より、動ける偽善者を目指せって。あたしはそうしたかった」
この子がもし石橋さんの同級生だったら、ウサギを助けることはできたのだろうか。石橋さんは孤独を感じることなく、表情豊かな女の子になっていたのだろうか。大川さんのいまの答えを聞いて、思わずそんな妄想をしてしまった。
「猫はうちで預かってるよ。飼い主になってもいいっていう大人の人が、二人名乗り出てくれてる」
大川さんの瞳が、ぱっと見開く。
「ほんとっ? モカはまだ無事なんだ? もらってくれるひと、いるんだ?」
「この首輪はどうする?」
「……そのまま持っててもらっていいし。必要なら、あたしがもらう」
「わかった。二人に伝えておく」
僕から確認しておくべきことは、特にもうなかった。石橋さんは何か伝えたいことは残っているだろうかと、彼女を見る。
石橋さんが大川さんの前に一歩出る。
数秒の間があって、それから言った。
「良い名前だね」
「え?」
「モカ。良い名前で、茶色の毛並みにあってて素敵。会ったら伝えようと思ってたの」
「……あ、そう、ですか」
想像していなかった言葉だったのか、ぽかんと口を開けていた大川さんだったが、やがてその口角が徐々にゆるんでいった。
最後には、二人で笑っていた。
4
次に石橋さんに会ったのは土曜日だった。彼女はあれから三日間、熱で学校を休んだ。連日の外出や活動で疲れがでたという。僕も熱こそでなかったが、出席した授業も集中できず、中身はほとんど覚えていない。
彼女が休んでいる間に高畠さんと宮崎さんに連絡を取った。マンションも完全退去となり、猫も一緒にでていった。今日は会ってその報告をしようと、公園で待ち合わせをしているところだった。
思ったよりも早く着き、公園の出入口からわかりやすい位置にあるベンチに座って待っていると、野良猫が二匹前を横切って行った。そのまま茂みへ消えていく。バドミントンをして遊んでいる親子を眺めたり、近くを通る廃品回収業者から流れるスピーカーの音声を聞いたりしているうち、彼女がやってきた。紺色のカーディガンに、薄緑のロングスカート。季節はすっかり秋になろうとしている。
「遅れてごめん」
石橋さんが隣に座ろうとする。その前に僕が立ち上がる。
「今日はこれからついてきてほしいところがあるんだ」
「どこへ行くの?」
「僕の家」
「宝くんの家?」
彼女が頭のなかで情報を整理しているのがわかる。理由は分からないけど、私はとにかくいまから宝くんの家に行く。僕は急かすことなく、石橋さんのなかに事実が定着するのを待つ。
「お土産とか、買ってない」
「いいよそんなの。さあ行こう」
そのまま彼女の手を取り、歩きだす。あ、と小さく石橋さんが声をだしたが、僕は握った手を離さなかった。
公園を出て住宅街を進んでいる間も、僕は彼女の手を握り続けた。今日はそうしようと決めていた。明確に拒まれたり、嫌がられたりしない限りは、離すつもりはなかった。いまのところその気配はない。
場をつなぐように、石橋さんが口を開く。
「……お邪魔するなら、やっぱりお土産はあったほうが」
「いいって。それより熱はもう平気?」
僕も話題を提供する。少しでも沈黙が流れれば、とたんにつないだ手や指先の熱に意識が向かってしまう。僕たちの間で流れるいつもの沈黙とは、少し種類が違う。居心地の悪さ自体はないけれど、なんというか、くすぐったい。ゆらゆら、そわそわ。
「熱は平気。なおった。もう大丈夫」
「やっぱり小学校で少し無理をさせたかもしれない。ごめん」
「いいの。確かに入るときは少し緊張したけど、でも、校舎を歩いてる間は、思ったよりも平気だった」
「そっか。ならよかった」
「宝くんが一緒にいてくれたからだと思う」
「……そっか」
十字路にさしかかる。設置されたカーブミラーから目をそらす。いまの自分がどんな顔をしているのか、一瞬でも確認したくなかった。
道を曲がろうとしたところで、ばったり自転車に乗った兄と出くわした。僕は反射的につないでいた手を離した。勉強のために図書館に向かおうとしていたらしい。
「宝、と、石橋さん」
「こんにちは」
彼女がお辞儀をする。少し深すぎるくらい。
「へえ。なるほど」と、兄は分かった気でいるような息をつく。ペダルに置いた兄の足を見て、急いで視線を外した。
「何を考えているのか知らないけど、勘違いだ」
いつもなら一言ふたことくらいは雑談を交わすような空気だったが、兄は多くを答えず、そのまま走り去ろうとする。去り際、僕に近づいて、僕にだけ聞こえる声で耳打ちしてくる。
「手をつないでるのを見たのも、俺の勘違いだな」
隠し事はいつか暴かれる。それも本人の想定しない速度で。僕は猫が苦手だったし、石橋めいが好きだった。
だからこそ僕は、自分が想定できる速度で物事が動いているうちに、隠しごとを明かそうとした。正確に言えば、明かそうとしている最中だった。
兄がいなくなってからは完全にタイミングを失い、再び彼女と手をつなぐことはできなかった。石橋さんも特に何も言ってこなかった。機会をうかがっている間に、自宅の前までついてしまった。切り替えて、本来の目的を遂げることにする。
これといった特徴のない一軒家を見上げながら、石橋さんが言う。
「宝くんの部屋でも見せてくれるの?」
「そうしたいならもちろんいいけど、僕の部屋よりもまず、見てほしいものがある」
玄関ドアを開けて、彼女が先に行けるようにスペースを空ける。お邪魔します、と石橋さんがそうっと入っていくが、返事はない。両親はいないと伝えるのを忘れていた。母はスイミングクラブに行っていて、父は友人と博物館に行っている。
靴を脱ごうとしていると、とん、とん、とん、と階段を下りてくる軽やかな音が聞こえた。両親も兄も留守にしているが、僕たちの家族はほかにもいた。
「……あ」
駆け寄ってくる猫のモカを見て、石橋さんが驚いたように口を開く。ニィ、と鳴きながら、彼女のもとへたどりつく。モカはそのまま石橋さんの両足に身をこすりはじめる。さっき兄に会ったとき、ペダルにかけていた彼の足元にもモカの毛がついていて、一瞬バレるかもしれないと身構えた。幸い、彼女は気づいていなかったようだ。
しゃがみこみ、石橋さんはモカを撫で始める。家に来て二日、少しずつ慣れてきてはいるが、僕はまだ撫でることまではできない。
「やっぱりお土産、必要だった」
石橋さんがほほ笑みながら、見上げてくる。僕も笑みを返す。
「今度くるときは用意してあげてくれ」
僕は隠しごとを明かす。
「きみが休んでる間に高畠さんと宮崎さんに連絡を取って、うちで保護してもいいか相談した。二人とも了承してくれた。大川さんにも連絡して、首輪は正式に譲ってもらうことになった。ちなみに二日前に、不妊手術は終えてる」
手術を終えた当日は家の隅でおびえ続けていたが、翌日にはけろっとした態度で、また人懐っこい性格に戻っていた。そしてたくさん食べた。兄が特にご飯をあげすぎるので、太らないように注意しないといけない。
「でも、どうして? 宝くんは猫が苦手なのに」
ウサギのときも、そして最近はカラスの事件でも。石橋さんは動物を愛しているのに、そのまわりでは報われないことばかりが起こる。愛しているからこそ、ひとよりも傷つきやすく、動物たちの悲劇にも敏感なのかもしれない。だから今回くらいは、こういう結末があってもいいのではないか。
「僕も偽善者に、なってみたかったんだ」
答えると、石橋さんは納得したように一度うなずいた。それからあふれるように、笑った。彼女の笑顔が見られるだけで、僕の偽善は満たされる。
彼女を送る帰り道、今度は石橋さんが僕の手を取ってくれた。僕たちはそのまま手をつなぎあう。
「また遊びにきてもいい?」
「もちろん」
「それにしても、びっくりした」
「びっくりさせられてよかった」
「宝くんは、ときどき子供っぽい」
ふいに投げられたその言葉で、思わず嬉しくなって、笑う。
「そうだよ、僕は本当は子供っぽいんだ」
行きよりも近くに彼女の肩があった。その熱が、呼吸が、匂いが、そばにあった。足音が重なる。向こうも歩幅を合わせてくれようとしているのがわかる。
公園まで戻ってきて、そこで解散になるかと思った。手を離そうとしたとき、石橋さんが言ってきた。
「もう少しだけ」
断る理由はもちろんない。結局、家の前まで彼女を送ることにした。僕たちは雑談を交わしたり、住宅街のまわりの音に耳を澄ませたりした。訪れる沈黙は、気づけばいつもの心地よい静寂になっていた。早く着いてしまわないよう、ゆっくり歩く。
どこかで一声、猫が鳴いた。
( 『猫の飼い主は?』了 )