【試し読み】斜線堂有紀の恋愛短編「星が人を愛すことなかれ」
既刊「愛じゃないならこれは何」がコミカライズ決定している、斜線堂有紀さんから恋愛小説短編をいただきました。地下アイドルグループ・東京グレーテルの元メンバー・雪里は、人気Vtuberとして転生した。恋人を捨て、将来を捨て、すべてを配信に捧げる雪里が振り絞った”生”。令和の今だから生まれた最強短編、最後の1行までぜひ読んでほしいです。
星が人を愛すことなかれ
羊星(ひつぼし)めいめいになってから、時間は何よりも価値のある資産だ。一時間あればサムネイルが作れる。Shortの作成が出来る。後回しになっている動画の編集が出来る。突発雑談配信が出来る。一時間は無限大だ。
だから、五年付き合った相手との別れ話でも、長谷川雪里(はせがわせつり)はずっと時計を気にしていた。ここから先には何もない。だったらどうしてここにいる?
いっぱい傷つけちゃってごめんね。今までありがとう。龍人(たつと)と過ごした日々は私にとって大切な宝物だよ。ちゃんと反省してる。今までありがとう。うん、これ以上傷つけたくないから。今までありがとう。これからも良い友人でいられたら嬉しい。今までありがとう。……これ、何回言ったら終わるわけ?
別れ話なんだから結論は別れるしかあり得ないんだし、ここから引き下がるつもりも特に無い。龍人だって雪里とこのまま続けていくつもりはないんだろうし、これ以上話し合いを続けていても時間の無駄だ。これ、何かに似てるなぁと雪里はぼんやりと思う。あれだ。何にも心に響かない時の、先生のお説教だ。五年間の末にもたらされるものがこれだと考えると、雪里はそれこそ悲しかった。積み重ねられるもののない、成果の無い時間が苦手だから。
「……それ以上、なんか言うことないわけ」
龍人はまだ不満げに雪里のことを睨んでいる。
正直な話、雪里からしてみればこれ以上何を言えばいいのか分からない。今までありがとうを何回言ったと思ってるんだ。その感謝の気持ちは嘘じゃないのに、別れ話が長引けば長引くほど、その気持ちも薄く伸ばされて消えていきそうだった。差し当たって、雪里はしおらしく言う。
「私には何も言う資格ないよ。散々傷つけちゃったから」
何も言う資格がない、じゃなく、何も言ってやる気がないだけだ。オブラートに包んでしゅんとしてみせて、早くここを乗り切りたかった。すると、龍人は今までで一番傷ついたような顔をして、大きな溜息を吐いた。
「……雪里、変わったよ。本当に。お前、本当に俺の知ってる雪里なの。マジで馬鹿らしい」
それはこっちの台詞だけど、と言ってやりたいけど、時間の無駄だからやらない。とにかくさっさと終わって欲しかった。私の時間はとても貴重なのに、未来の無い相手に対してもう二時間半も使ってしまった。ああ、今夜の配信に向けてSteamの更新もしておきたかったのに。もう時間がない。
「ごめんね。そう思わせちゃって。でも、私は龍人と付き合えて幸せだった」
心にも無いことを笑顔で言うのに慣れた。
何しろ雪里はあの羊星めいめいなのだ。相手の求める言葉や反応くらい手に取るようにわかる。
それでも雪里は「ごめん。変わるから別れるなんて言わないで」という、大正解の言葉を言ってやらない。龍人は雪里にとって大事な人だったけれど、めいめいにとってはそうじゃない。
龍人が帰った後は、急いで配信の準備を始めた。
案の定、今日遊ぶ予定だったオープンワールドゲームは雪里のパソコンではスムーズに動かなかった。ぶっつけ本番だったら事故になるところだった。設定を変えてMODを入れて、どうにか快適に動くようにする。他の配信者達も競争のように遊んでいるゲームだから、ここで出遅れるわけにはいかない。流行のゲームは波に乗れるかで決まる。
ゲームの方が整ったら、あとはLive2Dモデルの調整だ。先週から使っている新衣装はきらびやかで可愛いけれど、その分少し不具合が起きやすい。問題点をまとめてモデラーさんに調整を依頼するべく、まずはこのモデルに慣れなくてはいけない。カメラの前で雪里が首を傾げると、ふわふわした水色の髪の少女も合わせて首を傾げる。金色の角にはリボンと包帯が巻かれている。星を宿したピンク色の目が雪里を見つめる。これで、羊星めいめいの準備も完了だ。
そうしている間に、もう配信の時間が来てしまった。めいめいは毎日の生配信に遅れないことを信条としている。ああ、やっぱり龍人にはもっと早くに帰ってもらうんだった。というか『大事な話がある』ってメッセージが来た時点で、話し合いを別日にすればよかった。そうしたら、今日はもう少し凝ったサムネが作れたのに。ファンアートタグを巡って、使用許可を取って──。
さて、切り替えなくちゃ。わざわざ声に出して呟く。ヘッドセットを付け、雪里は二万人の視聴者に向かってバーチャルな笑顔を作る。
『みなさーん! こんにちめいめい、天然かわいいあなたの守り神。羊星めいめいでーす!』
コメントが流れていく。人々の歓心の渦の中に、めいめいが飛び込んでいく。
羊星 めいめい(ひつぼし めいめい 3月18日~)は、日本のバーチャルYouTuber。所属事務所はきだプロ。頭部に羊の角を持つ。十二支をモチーフにした守り神ユニット・トゥエルヴアクロスターズの一人であり、未年の神。天然でドジだが何もかもに一生懸命。
「Vtuber……ですか」
三年前、雪里はVtuberのことを殆ど何も知らなかった。
社長に渡された名刺を訝しげに見て「私がこれってこと……ですよね?」と呟く。机に置かれた資料には、黄緑色の髪をした羊モチーフの少女──羊星めいめいが星を宿した目で笑っている。
「そうだよ~。今や地下アイドルとか普通の配信者なんか比べものにならないくらい人気なんだから。スパチャの額とか、普通に働いてるのが馬鹿らしくなるくらいだよ」
「アニメの子の声を当てて配信するってことですよね。私、声優でもないのに……」
「大丈夫大丈夫。やったことない素人がどんどん出てきてるんだもん。雪里ちゃん一応プロなんだし、絶対いけるって」
「プロというか……元プロ、みたいなものですけど」
苦笑しながら、雪里が言う。
雪里はかつて、東京グレーテルという地下アイドルグループに所属していた。どこにでもある、特に目立つこともない普通のグループだ。その中でも、雪里は更に目立たない、数合わせのようなメンバーだった。
『雪里が可愛いのは自然の摂理~! マジケミグリーン長谷川雪里です!』
割り当てられたのは緑色で、『せつり』という名前に合わせた口上を言わされた。
緑の衣装を渡された時から、既に雪里は勝負を投げていた。だって、緑色を割り当てられた女の子が一番人気になる未来、無くない? どんなアイドルグループだって、どんなアニメだって、緑色が主役なことはない。でも、雪里は緑がお似合いなレベルだったのだ。自分でも、ピンクや赤ではないことは分かっていた。納得してしまったから、そこに甘んじた。
同期にも後輩にも隅に追いやられながら、雪里は徐々にその位置に順応していった。別に、よくない? 目立たないけど踊れるし。ソロパートは無いけれど歌えるし。地下の冴えないアイドルであっても、アイドルには他ならないし。一応、顔を完全に覚えてしまえるほどのファンはいるし。たとえそれだけであっても、単なるフリーターの二十六歳よりはマシだし、好きになれた。二十代半ばになってもアイドルをやらせてくれるところが、東グレのいいところだ。雪里の長所とは、偏に高望みをしないところだったかもしれない。
そんなぬるま湯に浸ったような生活も、終わりの時が来た。東グレが新編成となることが決まり、一期生はほぼ全員卒業を迎えることになったのだ。東グレにいても意味は無い。沈みゆく泥船に乗っているよりは、新天地へ向かう方舟に乗った方がいい。
一応、雪里は卒業に抵抗した。残りたい人間は残っていいという話だったから、素直にその話を受け取ったのだ。まさか、緑の衣装を握りしめた雪里に「もうそろそろ、ちゃんとした方がいいと思う」なんて言葉が投げかけられるなんて思ってもみなかった。周りのみんなは卒業だったかもしれないけれど、雪里にとっては明確にクビだった。
雪里の数少ないファンは泣いてくれて、それで雪里もふんぎりがついた。正直、今までどうして東グレが存続出来たのかわからない。ここにはアイドルになりたかった女の子がいっぱいいて、彼女達に束の間の夢を見せる為だけに運営されていたんじゃないか──なんて、そんなことまで考えた。そのくらい、東グレは雪里にとって素晴らしく、美しい舞台だった。
東グレを辞めて『普通の女の子』になった雪里は、ただぼんやりと過ごしていた。東グレ時代は単発バイトばかりをやっていたから、いざ一から働き始めるとなっても何をしていいか分からない。もう一度どこかの地下アイドルグループに加入しようかと思ったが、雪里は既に二十七歳になっていた。古株ならまだしも新規メンバーでその年齢の女を入れてくれるところはほぼ無いだろう。雪里は自分が実年齢よりも若く見えることを知っていたけれど、それでも。
コンビニのバイトも事務の仕事も続かなかったので、雪里はコンセプトカフェとガールズバーの間にあるような店で働くことにした。こういう店では、一応雪里の『元アイドル』の肩書きが生きる。エクセルも扱えない雪里が持っている、唯一の資格だ。人と話すのは好きだったし、人前に立つのも好きだ。バータイムに歌を披露している時は、それこそ東グレに戻ったようで楽しかった。
その時、雪里はどうしようもなくあの舞台が好きだったことに気がついた。
長谷川雪里は、東グレでいたかった。アイドルでいたかった。失ったものの輝きを前に、雪里はなんだか泣きそうになった。
そんな雪里の心を埋めてくれたのが、細谷(ほそや)龍人だった。
彼はバーの常連客で、ゲームを作る会社でプログラマーをしていた、これまた普通の男の人だった。けれど、龍人は優しかった。歳も雪里と同じだったし、趣味が近かったので話が弾んだ。
東グレに所属していた頃は、恋愛なんか興味が無かった。表向きの恋愛禁止なんて殆ど誰も守っていなかったけれど、雪里は恋人を作る気にはなれなかった。なんだかツキが落ちるような気がしたし、楽しめもしない。ステージの上でファンに愛されることの方が、絶対に満たされるだろうに。ファンを失うリスクを背負ってまで恋人を作ったって、その愛情は結局一でしかない。大切な一人がいるより、雪里は一億人に愛されたい。
結局、恋人を作らずに真面目にやっていた雪里より、裏でメン地下と繋がっているメンバーの方がよっぽど人気なのが世知辛かった。そんなものだよな、とも思う。
ある意味で、龍人と付き合うことは雪里にとってのイニシエーションだった。いつまでも東グレにこだわって動けない自分を、強引に前に進める為の手段。龍人にぐいぐいとアプローチされること自体も悪くなかったし、休日にやることが出来るのも良かった。ライブやら練習やらで埋まっていたカレンダーが、ごく普通の一人としての予定で埋まっていく。龍人のお陰で、雪里は人生の最も虚無な時期を乗り越えることが出来たのだ。
そうして安定していた雪里を呼び出したのが、とあるプロダクションを経営している木田社長だった。
てっきりアイドルとして活動しないかとスカウトされると思っていたのに、木田は全く予想だにしないものを持って来た。アニメ調の美少女『羊星めいめい』の資料である。最近はアイドルよりも人気で、みんなが夢中になっている、企業案件もどんどん増えているバーチャルなアイドル。その中の人──魂に、雪里はスカウトされたのだった。
「雪里ちゃんの東グレ時代のライブ映像とか色々観させてもらったんだけどね、雪里ちゃんは声がいいよ。ちょっと見た目に合ってないところがあったから、アイドル時代は苦戦したと思うけど」
木田社長の言う通りだった。雪里の声は高くて甘い、いわゆるアニメ声に近いものだ。けれど、雪里の外見は童顔よりも大人びた顔立ちに寄っていて、しかも他のメンバーよりやや歳上だった。声と外見のギャップも、長谷川雪里が人気を得られない理由だった。
その点、このめいめいとの相性はどうだろう。まだ声も当てたことがないのに、似合う、と思った。長谷川雪里に合わなかった声は、羊星めいめいに合う。くりくりとした目、背の低い身体。今にも弾けそうな元気たっぷりの外見。冴えないと思っていた緑色の髪も、めいめいにかかれば輝かんばかりだ。きっととても可愛くなる。
「デザインいいでしょ。十二支モチーフでやってこうと思ってさ。この子はひつじの神様なんだ。リスナーを守護する守護神って設定で、天然でドジっ子なんだ。だから、元気に可愛く演じてほしい。基本は雪里ちゃんの好きにやってくれて構わないから」
「そうなんですね。その……すごく、可愛いと思います」
「でしょう!」
木田社長が顔を綻ばせる。
話を聞いている内に、雪里の胸はどんどん高鳴っていった。雪里は既に二十九歳になっていた。自分でも、新しくアイドルをやるのを諦めてしまっている。でも、Vtuberなら? MCをやる機会には殆ど恵まれなかったけれど、いつ振られてもいいようにトークスキルは磨いてきた。歌だって、人並み以上には歌える。この声だって、特徴的で可愛いはずだ。めいめいだったら、雪里はもう一度夢を追える。それだけじゃない。東京グレーテルの長谷川雪里が届かなかった場所まで行けるかもしれない。
「すごく……すごく、やってみたいです!」
「そう言ってもらえると嬉しいな。話をしに来た甲斐があった」
「でも、どうして私なんですか?」
既に地下アイドルから卒業して二年近く経っていて、当時だって特に目立たないアイドルだったのに。すると木田社長は困ったような、面白がっているような、微妙な笑みを浮かべた。
「いやね、最近……東グレが熱いでしょ」
それを聞いて腑に落ちた。──なるほど、そういうことなのか。
殆ど花開くことなく散っていく地下アイドル業界で、東京グレーテルはなんと飛躍的に伸びたのだ。今や、あそこで雪里を追い出していて正解だったと思うような人気ぶりである。この間は地上波のテレビにまで進出していて、悪い冗談みたいだと思った。
その躍進の立役者となったのが、センターの赤羽瑠璃(あかばねるり)という女の子だった。
赤羽瑠璃は、雪里が所属していた時からいるメンバーの一人だ。雪里と同じくらい東グレに熱心だったけれど、雪里と同じくらい影が薄くて人気の無かった子だ。冴えないピンク色を着せられてバックダンサーのように扱われている瑠璃を見て、雪里は密かにシンパシーを覚えていた。
今の赤羽瑠璃は、アイドル衣装としては珍しい黒を身に纏って堂々と歌い踊っている。周りの色を食ってしまいそうな黒色を見事に着こなし、しかも悪目立ちしていない。華やかで美しく、見るものの印象に強く残る子になっていた。
アイドルグループの躍進に必要なのは、一人のカリスマである──なんて言われていたけれど、赤羽瑠璃はまさにそれを体現していた。ストイックで真面目で、美しい孤高の黒。
それを見て、雪里は更に強く憧れを募らせた。あそこでもう少し粘っていたら。もう少しわがままを言っていたら、自分もあの輝きのおこぼれをもらえたかもしれない。地上波に出られたかもしれない。それを思うと、同じ立ち位置にいたはずの赤羽瑠璃が眩しくて仕方なかった。赤羽瑠璃は、雪里のなりたかったアイドルそのものだった。
「正直な話、あの東グレブームに乗っかりたいところがあるんだよね」
なるほど、そういうことか。と思う。今になって東京グレーテルの価値が上がったから、引っぱられるように雪里の価値も上がったわけだ。たとえ人気の無い端役のメンバーであっても、元東グレには違いない。
「えっと……でもこれ、長谷川雪里って名前じゃなくて、この子の……羊星めいめいって名前で配信するんですよね? だとしたら、私が元東グレであっても関係無いんじゃないですか?」
「あー、まあそうなんだけど。前世は絶対にどこかでバレるから。今回の場合はさりげなく分かるようにしちゃおうかなって感じもしてるし」
「前世?」
「Vtuberがどこで何をやってたかってこと。元々が有名な配信者だったら箔がつくし、売れてなくても現役声優が中身だからってことで人気の子だっているし。元東グレで引っぱってこれる層はあると思うよ」
次から次へと新しい情報と価値観が流し込まれて、雪里はびっくりしっぱなしだった。未年の守護神を演じながら、元地下アイドルを売りにする矛盾。でも、これから配信をしていくなら、視聴者が見るのは多分『羊星めいめい』の奥に透けている長谷川雪里なのだ。そちらの方が、多分ファンはつきやすい。
「……私、東グレであんまり人気無かったですよ? 大丈夫かな」
「それも大丈夫。あの頃の東京グレーテルを追いかけてた層なんかいないし、東グレの名前が重要なんだよ。ばねるりと一緒に歌ってたってだけで、十分なハッタリが効くんだから」
それを聞いて、不思議な気持ちになる。あれだけ羨んで妬んでいた赤羽瑠璃のお陰で、雪里は新しい舞台を貰えたのだ。今まで瑠璃を妬んでいたことが恥ずかしくなるくらいだった。彼女が売れてくれたから、雪里がめいめいをやれるのだ。そう思うと、いよいよ雪里はこの仕事を運命だと感じた。
「やらせてください。私は必ず、めいめいを人気者にします。誰からも愛される──本物のアイドルに」
こうして、長谷川雪里は羊星めいめいになったのだった。
読んでいただきありがとうございました!
この続きは8月26日発売の『星が人を愛すことなかれ』でお楽しみください。
以下のリンクより購入が可能です。