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天穂のサクナヒメ ココロワ稲作日誌【試し読み】

10月4日に『天穂のサクナヒメ ココロワ稲作日誌』が発売となります。
こちらを記念して、本編冒頭の試し読みを公開させていただきます。

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あらすじ

ヒノエ島――神と人が手を携え鬼を払い、稲の実りで満たした地。 サクナヒメは、先の戦いの後も、いまだこの地で米作りに励んでいる。そんな彼女を見つめるひとりの影――車輪と発明を司る神でありサクナの親友、ココロワヒメ。 ココロワはとある事情によって、親友と同じくこの地で不慣れな稲作に取り組むことになったのだが――?  『天穂のサクナヒメ』本編の後日談を公式小説化!!


それでは、物語をお楽しみください。

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 夕陽により蜜柑色に染まった緩やかな峠道を、一足の深沓(ふかぐつ)が登っていた。艶やかな黒髪を美豆良(みずら)に結った、凜々しい顔つきの少女──この島を司(つかさど)る一柱の豊穣神、サクナヒメである。菅(すげ)の笠を被り、竹の狩猟着を着込んでおり、肩には一羽の真っ白な兎を担いでいた。麓で仕留めた獲物である。

 峠道の脇には去年の雪が残っている。サクナはその付近を見やり、顔を明るくした。

「おお、見よタマ爺。蕗(ふき)の薹(とう)が出ておるぞ。採っておこう」

 肩口から、翡翠色をした剣霊のタマ爺も覗き込んだ。

「蕗味噌などにすれば酒の肴にもよいでしょうな」

「うむ、ミルテに作ってもらおう。楽しみじゃのう!」

「おひいさま、まだ涎を垂らすには早いですぞ」

 サクナは屈み、雪の下から芽を出している蕗の薹を摘み採った。ほろ苦さと青臭い風味が漂う蕗の薹は好物の一つだ。都から仕入れた味噌とはよく合うだろう。

「サクナ様! 爺殿!」

 背後から野太い声が聞こえた。振り向けば、朗らかな顔をした大男──田右衛門(たうえもん)が歩いてくる。釣り竿を担いでおり、傍らには犬も一緒だ。

「おお、どうじゃった釣果は?」

「はっはっは、ご覧ください!」

 田右衛門が腰に括り付けた魚籠(びく)から取り出したのは、三尺はあろうか、でっぷりと太った鯉である。口をぱくぱくと動かしている。

「なんと! 珍しいこともあるもんじゃの」

 驚くサクナを前にして、田右衛門は天を仰いで大笑する。

「いやあ、某も初めは鯉の前に糸を垂らしておいたのですがな。待てども待てども一向に食いつきませぬ。そこで某、しびれをきらし、川に飛び込んで手で捕らえました」

「何を考えとるんじゃおぬし!?」

 立春を過ぎたとはいえ、まだまだ寒い。とても遊泳できる水温とは思えない。

「早う帰って囲炉裏で温まった方がよいな」

「いや、ご心配は無用です。阿呆は風邪を引かぬと申しますからなあ」

「おぬし、自ら申すことではないぞ」

 稽古場を越え、ゆいの機織り場が見えてきた。その前で腹掛けを着けた稚児──かいまるが二頭の犬とじゃれ合っている。サクナたちに気付くと、かいまるは飛び跳ねた。

「あーあ! サクナ!」

「待たせたな。田右衛門が立派な鯉を捕まえてきたぞ」

「泥抜きをするのがよいかと思いまする。盥(たらい)に水を張り、表へ出しておきましょう」

「それじゃあ今日はわしの獲ってきた兎じゃのう。さ、夕餉(ゆうげ)にしよう」

 都から船に乗ること数日、遠く離れた大海原。古くより多くの鬼が巣食い、主神カムヒツキの威光すら届かぬこの地は、長らく鬼島(おにじま)と呼ばれていた。しかしそれも今は昔の話。悪神である大龍(オオミズチ)は討ち果たされ、獣鬼(けものおに)は消えた。名産米、天穂(あまほほ)を誇るその島はヒノエという。頂の世と麓の世──二つ世を繋ぐ天浮橋(あめのうきはし)はいまだに架かっていない。

 その日の夕餉は白飯、兎肉の炙り焼き、土筆(つくし)の味噌汁、蕗味噌、根菜の糠漬けであった。サクナが捌いた兎の肉を、ミルテが焼いて味付けしたものだ。皆で囲炉裏を囲み、感謝を込め「いただきます」と発する。サクナは肉を摘まみ、舌鼓を打つ。

「なんじゃこの兎肉、甘辛くて旨いのう!」

 白い頭巾で頭を包んだ異国の女性、ミルテは笑って答える。

「ミヤコのリョウリ書をモトにして、ヤき方をカえてみました!」

「おぬし、また腕を上げたのう」

 田右衛門が白飯と蕗味噌を掻き込みながら言う。

「この蕗も絶品にございます。麓には白梅が咲いておりましたし、日脚も伸びてきましたなあ」

「ほいじゃ、またすぐ忙しくなんねえ」

 物腰の柔らかな少女、ゆいの言う通りだった。春の訪れは稲作の始まりを意味する。サクナたちがヒノエ島で育てている天穂は都でも需要が高い。他の地でも栽培されているが、土地や育て方により米の味は様変わりする。ヒノエ産天穂の人気はことさら高かった。普段きんたは刀を打ち、ゆいは布を織っているが、稲作は一家総出の仕事である。

 サクナは椀を置いて、皆に語り掛ける。

「おお、そうじゃった。わしじゃが、近いうちに都へ行こうと思っておってのう」

 サクナの対面で肉にがっついていた浅黒い少年、きんたは、「あ?」と声を上げる。

「正月に帰(け)したばっかでねか」

「稲作が始まれば都へはなかなか行けなくなるからのう。年始にはココロワも忙しくて会えんかったしな。それに都で探したいものもあるんじゃ」

「何(なぬ)しゃ、ほいは?」ゆいが首を傾げる。

「それはもちろん!」サクナは顔を綻ばせた。「朧月香子(おぼろづきこうし)の本じゃ! 正月に帰ったとき、新作が出るやもしれぬと噂を耳にしてな。もしかしたらもう店先に並んでおるやもしれん! くう、いてもたってもいられん! 早く読みたいのう」

「朧月……? ああ、お前(め)が好きな物っ書きか。ミルテに読ませられた。他人の色恋さ眺めて何が楽しんだ? まっだく分がんね。おいらは刀打ってた方がいい」

「ふん、ゆいはどうじゃった?」

 サクナの問いかけに、ゆいは箸を止め「ううん」と首を傾げる。

「おらにも……ちょっと難しかった。男さあっちこちへ目移りしてばかりで、なすてあんなに手ば出すのかや? 初めは一人ば愛してたのに」

「そこがまたよいんじゃ。心の移り変わりや機微が、香子の繊細な筆致で鮮やかに、深々と描かれておる。……ま、おぬしら童(わっぱ)には少し早かったかもしれんのう。あれは大人の読み物じゃからな。いずれ分かるときもこよう」

「何いってんだ。お前も童(わらす)みてえなもんでねか」

「あん? おいおぬし、なんと申した!」

「おひいさま! 箸で人の子を指すのはお行儀が悪うございますぞ!」

 タマ爺の忠告を無視し、サクナは囲炉裏へぐいっと身体を突き出す。

「きんたよ、わしはもう酒も飲める歳なんじゃ。何度も言わせるでない!」

「前にも言ったっぺ。酒なんておいらの村じゃ童でも飲んでた。大体だ、お前、恋愛の機微だとか深みだとかいってんが、色恋ばしたことあんのかや?」

「ぬ、ぬあっ!? 色恋とな!?」

 きんたの言葉に、サクナは一気に及び腰となった。

「神様の恋すかや? おらも気になる」

「あい! きくー!」

 ゆいとかいまるが期待のこもった目を向ける。

「は……はん!」サクナは腕を組み、どっしりと構えた。「と、当然であろう。わしを誰だと思っとるんじゃ。わしともなれば色恋のひゃ、百や二百、経験済みよ。それはもう都中がその噂で持ちきりだったわ!」

「O!」

「それは……」

 ミルテと田右衛門が顔を見合わせた。

「本当(ほん)だってや! ぜひ語って聞かせてほしいっちゃ!」

 ゆいとかいまるは期待して、きんたは疑わしそうに、じっとサクナを見つめている。サクナが横をちらりと見ると、タマ爺が呆れた表情を浮かべている。

 サクナは黙って味噌汁を飲むと、空の椀を置いた。

「皆の者、もう食い終わったか。うむ、今日も旨かったのう。さ、手を合わせよ」

 サクナへの感謝を示すために手を合わせながらも、ゆいは首を傾げた。

「ええ? 神様の話はどうすんべ?」

「ま、またの機会じゃ。それに、おぬしら童には早いかもしれんしのう」

「はん、本当はどうせ……」

「ごちそうさまー!」

 夕餉を終えたサクナは軒下に座った。外気は冷たく、火照った身体を冷ましてくれる。

「やれやれ、えらい目にあったわ……」

「おひいさま、また適当なことを申されますから……」

「し、仕方ないじゃろ。大体、きんたもきんたじゃ。わしの恋愛経験の有無と『片恋物語』のよさとは何も関わりがないわ! むしろ『片恋物語』からその面白さを教わったんじゃ」

 都でうずまく男女の愛憎、悲哀、歓楽──自分とはまるで無縁だったものをサクナは知った。その深遠な物語にサクナはずっと惹かれ続けてきた。

「……しかし、朧月香子」

 サクナは夜空に目をやった。雲一つない寒空に白い月が煌々と輝いている。

「あのような深遠な物語を描くとは、一体どのような女性(にょしょう)なのかのう。きっと今もこの夜空の下、その流麗な言の葉で素晴らしい物語を紡いでおるのじゃろう……」



読んでいただきありがとうございました。

続きは本編でお楽しみください。

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