【試し読み】ARGONAVIS from BanG Dream! 目醒めの王者
あらすじ
大人気プロジェクトの小説版で、絶対的王者「GYROAXIA」の結成秘話から、アニメ第1話の前までに起こった出来事が明らかに! 札幌で快進撃を続けるGYROAXIAのもとに、大手レコード会社との契約話が舞い込む。しかし、その契約にあたりレコード会社が提示した条件は「あるバンド」の音楽性を真似ることだった。その条件を聞くや否や、突然激怒する那由多! 一旦契約の話は白紙となり、メンバーとも衝突! さらに、那由多はバンド活動に関わる重要な秘密を隠していて...。
それでは物語をお楽しみください。
プロローグ 運命の日
その夜、俺は運命に出会った。
大学一年の春だった。
里塚賢汰(さとづかけんた)はペンキで乱雑に「LIVE」と書き殴られた扉に手をかけた。
すすきのでも外れの方にある小さなライブハウス。ビルとビルの隙間に、まるで隠し通路のようにひっそりと存在する階段を下りた先に、その扉はある。そこにライブハウスがあると知っていなければ通り過ぎるのは確実だ。
義理でもらったチケットで、正直なところ、その日出演する予定のバンドに期待なんか何もしてなかった。だから――
扉を開けた瞬間、聴こえてきた歌声に賢汰は度肝を抜かれた。
(なんだ? この声は……!?)
前座のバンドとも思えないほど、パワフルな歌声だった。
胸どころか、魂までも鷲づかみにしてきそうなほど力強く、攻撃的で、そのくせ……どこか繊細な歌声。歌っているのは、まだ少年と言っていいような年のボーカルだ。癖のある前髪から覗く瞳は、声と同じく獰猛(どうもう)な色に燃えていた。
マイクに嚙みつかんばかりにシャウトし、激しい歌詞を歌い上げる少年に観客全員が魅了され、熱狂している。賢汰も魅入られるように、その熱狂の中へ身を投じた。
(見つけた)
バンドの他のメンバーなんか、目にも入らなかった。ボーカルの少年と、賢汰。世界にはその二人しかいないんじゃないかと錯覚するほどに、賢汰は少年の歌に引きこまれた。胸が熱い。自分の胸がこんなにも熱くなるなんて、知らなかった。自分の中にこんな炎が眠っていたなんて、知らなかった。
ミューズだ。
冗談ではなく、そう感じる。
賢汰は高校生のとき、プロのミュージシャンを目指して、音楽を始めた。しばらくは固定したバンドではなかったが、二年後輩の結人(ゆうと)と礼音(れおん)を見いだしてからは、彼らと共にバンドを結成し、活動していた。二人も賢汰と同じくプロを目指す仲間で、バンド活動は楽しく、順調な音楽生活だった。
だが、それが間違いだったと気づいてしまった。
これまで、自分がやってた音楽はなんだったんだ?
体が勝手に揺れ出す。少年の歌に合わせてリズムを刻み、胸の奥から熱く強い衝動がこみ上げてくる。今ほど楽器を奏でたいと思ったことはなかった。
これだ。この音だ。この音楽を俺はずっと求めていたんだ。
今までの自分はまるで眠っていたみたいだった。自分にも仲間にも音楽の才能はあった。今のバンドだって真剣にやっていたつもりだった。けど、違った。思い知らされた。目の前の少年が、その鋭すぎる音楽が、賢汰の目を覚まさせた。覚醒させてしまった。
ダメだ。もう戻れない。この声を知らない頃には戻ることはできない。
歌声はどこまでも強く、高く、響く。こんなちっぽけなライブハウスには収まらないぞ、という野心を感じる。そうだ。この歌はこんな場所じゃもったいない。もっと広い世界へ羽ばたける、それだけの価値がある歌だ。
だが、演奏が後半になるにつれて、少年の顔に苛立ちが見え始めた。賢汰にはその理由がすぐにわかった。他の楽器が少年のレベルについてこれていない。
ボーカルの少年の歌は翼を広げ、空すら越えて星まで飛びたがっているのに、他の楽器が足枷になる。地上に縫い止められている。それでも少年は太陽を目指すイカロスのように、歌声の翼を大きく広げる。神々しいとすら感じる彼の歌唱に、賢汰は思った。
(こいつの歌がどこまで行けるのか見てみたい)
彼の歌に見合った最高の演奏があれば、きっと果てしない高みを目指せる。賢汰が見ようとも思わなかった場所へ、この少年はたどり着く。世界の頂点へ。
その光景を見たい。いや、共に見てみせる。
拳を握りしめ、誓う。自分はきっとそのために、今日、ここに来たのだ。
たった一曲の音楽が人生をまるごと変えることだってある。
少年の歌は、賢汰にそんな決意を抱かせるほどに強烈だった。
歌い終わった少年が、マイクから手を離し、そっけなく名乗る。
「ボーカル、旭那由多(あさひなゆた)」
賢汰はその名を耳に刻みつけた。絶対に手に入れる。誰にも渡す気はない。
この希代の天才ボーカルを、星まで羽ばたかせるのは自分だ。
(旭那由多。俺がお前を頂点に連れていってやる)
賢汰は舞台袖に向かう那由多に心の中で呼びかけた。
旭那由多と里塚賢汰。
GYROAXIA(ジャイロアクシア)、その偉大なる軌跡はここから始まる。
「そこまでだ」
前奏を終え、ワンフレーズを歌っただけで、那由多が不機嫌にマイクを置いた。
すすきのの雑居ビルに入った狭い練習スタジオの空気が一気に冷えこむ。とはいえ、こんなことは、このバンドでは珍しくない。
あのライブで那由多の声に惚れこんだ賢汰は、即座に那由多へ声をかけた。ライブをしていたメンバーに不服があった那由多を口説き落とし、礼音と結人に引き合わせ、そして何人もドラムをとっかえひっかえして――ようやく今のメンバーを揃えた。
リズムギターの美園(みその)礼音。まだ荒削りなところはあるが、負けん気の強さで那由多に食らいつく気概がある。何より、音に対する勘が鋭く、はっとするようなアドリブを入れることもある。無駄な音を出すなと那由多が怒ることも多いが。
ドラムの相田信也(あいだしんや)。気の弱さとは裏腹に、正確で力強いドラムを叩く。おもしろみがないのが玉に瑕だが、その分、誠実な人柄が演奏にも出ていた。今日は遅れてくる、とのことでまだスタジオには来ていない。
リードギターの五稜(ごりょう)結人。礼音以上に技術的には未完成なところがある。だが、ギターが好きで好きでたまらないことがよくわかる演奏をする少年だ。
そして、ベースは賢汰。この五人で何度かライブも経験し、今日も次のライブに向けての練習中だった。
しかし、開始早々に那由多の一言で中断。
繰り返すが、それ自体はこのバンドでは珍しいことではない。なぜなら――旭那由多という男は音楽の暴君だからだ。
少しでも気に入らない演奏であれば、即止める。そして、何度でも納得いくまでやり直す。スタジオのレンタル時間が限界まで延長になることもしばしばだった。メンバーが他に予定がある、もういいだろうなどと言えば、「音楽より大事なものなんかないだろう」と怒り、ついてこられないメンバーは次々とやめさせた。それでも残ったのが、今のメンバーだ。那由多の怒りには、みんな慣れていた。
礼音がややうんざりした顔で、肩をすくめる。
「はいはい、今度は何が気に入らないんだよ。また俺か?」
「違う」
怒りが露わになった声で、那由多が吐き捨てる。那由多の答えに、結人がしょうがないと言うように、ため息をついた。
「じゃあ、俺か。初っぱなからミスしてるってことは、なかったはずだけど」
何が悪かったのか、と首を捻る結人を那由多がぎろりと睨む。
「……わからないのか」
「言われないのにわかるわけないだろ。エスパーじゃないんだから」
むっとして言い返す結人に、那由多の眉間の皺(しわ)がますます深くなった。
「そうか」
那由多の声がさらに温度を下げる。
そして、絶対零度の視線が結人を射た。短く、暴君の命令が下される。
「やめろ」
「……やめろ?」
いつもの怒りとは違う那由多の様子に、結人が不安げな顔になった。
「お前は俺に相応しくない。出ていけ」
那由多が傲慢(ごうまん)に、冷徹に言い放った言葉に、結人の頰がかっと紅潮した。今までもいろいろ言われてきたが、ここまではっきり「バンドをやめろ」と言われたのは初めてだった。さすがに耐えきれず、結人が言い返す。
「俺だって一生懸命。だいたい俺たちはお前の要求に応えるために!」
「……そうか。がっかりだ」
「なに?」
「一生懸命を評価してもらいたいなら、趣味で仲良しバンドでもやっていろ」
言い捨てると、那由多はさっさと楽譜を鞄にしまった。結人が那由多の肩を摑んで引き止めようとするが、にべもなく振り払われる。
「おいっ」
「俺は出ていく。ここは俺の居場所じゃない」
鞄を肩にかけると、那由多はさっさとスタジオを出ていった。結人が呆然とした様子で、乾いた笑いをこぼす。
「……出ていっちまった」
それまで二人のやりとりを黙ってみていた賢汰が、荷物をまとめ始める。
「賢汰さん?」
怪訝そうな顔をする結人に目もくれず、賢汰が歩き始める。
「俺は、あいつを手放すつもりはない」
「ちょっと」
スタジオを出ていこうとする賢汰に、礼音が呼びかける。だが足を止めることなく、出ていってしまった賢汰に、礼音も慌てて後を追う。
「…………」
残された結人は、うつむいて拳を握りしめることしかできなかった。ようやくやってきた信也が、結人だけ残されたスタジオに目を丸くする。「何があった」と問いかける彼に答える余裕もなく、結人はただ爪が食いこむほどに拳を握り続けていた――。
「待て」
スタジオの扉を開けると、居酒屋の裏口が並ぶ路地に出た。狸小路(たぬきこうじ)のアーケードへと進み始めていた那由多を賢汰は呼び止めた。
「引き止めても無駄だ」
不機嫌な声のまま那由多が立ち止まり、振り返る。
「おまっ……」
文句を言おうとした礼音を手で制し、賢汰は不敵に笑った。
「そんなことはしない」
「だったら、何の用だ」
「俺はお前について行く」
那由多が片眉を上げる。獰猛な肉食獣のようにギラつく那由多の目を、賢汰はまっすぐに見つめた。
「お前の音こそが俺の全てだ」
きっぱりと言い切る賢汰。那由多の目が、さらに鋭さを増した。
「仲良しバンドはどうする?」
「必要ない。お前の音だけがあればいい」
賢汰の瞳には那由多だけが映っていた。結人がどうなろうと知ったことではない。信也だって、礼音だってついてくる気がないのなら、そのまま置いていくつもりだった。
「俺はお前を頂点に連れていく。だから、また作ろう。お前の音楽を実現するバンドを」
那由多はわずかに目を細めると、礼音に目を向けた。
「お前はどうするつもりだ?」
那由多が礼音に声をかけたことに、賢汰は驚いた。礼音自身も面食らった顔をして、気まずそうに目をそらす。
「結人のことは、気にしてやらないのかよ」
「関係ない。俺はお前に聞いている」
那由多に重ねて問われ、礼音は顔を上げるといつもの調子で言い返した。
「お前はいつかプロになって頂点に立つんだろ。俺だけ置いていかれるなんて、ごめんだ」
礼音の宣言を聞いた那由多が鼻を鳴らし、きびすを返す。
「勝手にしろ。ついてこられないなら、お前も置いていくだけだ」
そう言って、さっさと歩き出す。その背中を賢汰は眩しいものを見る目で見つめた。礼音が那由多を追いかける。
「おい、どこ行くつもりだよ」
「他のスタジオだ。歌い足りない」
「あてはあるのかよ」
ちらりと那由多が賢汰を見る。賢汰は力強く頷いた。
「あてはある。すぐに押さえよう」
「ったく、結局、賢汰さん頼りかよ!」
文句を言う礼音を無視して、那由多はどんどん歩いていく。礼音が早足でそれを追う。賢汰は薄く笑うと、那由多の影になるように彼の後をついていった。
那由多の行く先に、求める音楽があるのだと信じて――
第一話 新生GYROAXIA
ついに来た。
すすきの駅からほど近い場所にある小さな地下スタジオ。その重い金属製の扉を前に、界川深幸(さかいがわみゆき)は何度も深呼吸をした。甘く整った顔が、緊張に引き締まる。まるで、道場破りの心境だな、と深幸は心の中でつぶやいた。あながち、間違ってもいない。
今日は、自分の力と才能を試しに来たのだから。
この扉の向こうで、札幌で最近名を上げつつあるバンド、GYROAXIA(ジャイロアクシア)が練習していると思うと、それだけで胸が熱くなる。今日から自分もその一員になれると思えばなおさらだ。
友人に誘われて行ったライブ。深幸は一発でジャイロアクシアが奏でる音楽の虜になった。ボーカルの旭那由多が作るメロディ、紡ぐ歌詞、それらが形成する激しく支配的な世界感を思い切りぶつけてくる演奏に、自分もその中に入りたいと思ってしまったのだ。
深幸にとって幸いだったのは、ジャイロアクシアのメンバーが固定されていなかったことだ。とくにここのところ、ドラムはかなり入れ替わりが激しかったらしく、人づてにメンバー募集の話を聞いた深幸は、内心ガッツポーズした。
運命だ、と思った。
女の子にモテたくて始めたドラムで、大学の先輩たちと組んだバンドは楽しかった。だけど、同時に物足りなさも感じていた。
何かが足りない――そう感じていた深幸の心に空いた穴に、ジャイロアクシアの音楽はすっぽりとハマった。足りなかったのは、これだ。どこまでも高みを目指そうとする野心と熱情に満ちた音。深幸も彼らと同じように、自分の技量が、音楽が、どこまで行けるのかを試したくてたまらない人間だったのだと気づかされた。
そして、今日、本当に自分がジャイロアクシアの一員になれるかが試される。
大丈夫だ、練習は積んできた。
もう一度大きく深呼吸し、覚悟を決める。深幸はぐっと強くドアノブを握った。
「よし!」
そして、界川深幸は運命の扉を開いた。
扉を開くと、ちょうど休憩中のようだった。
マイクの前で眉間に皺を寄せ、楽譜に何か書きこんでいるのは那由多だ。圧倒的な歌唱力とカリスマ性で観客を魅了する天才ボーカリスト。
その奥でギターのチューニングをしているのが、リズムギターの礼音だ。ライブでの熱いアドリブには何度も魅せられた。
ノートパソコンとスマホを同時に操っているのは、リードギターでリーダーの賢汰。礼音ほどの派手さはないが、正確無比な演奏はメロディの要と言える。
指折り何かを数えながら、ぼんやり天井を見つめているのはベースの曙涼(あけぼのりょう)だ。天性のベーシストだと評判で、深みのある音がジャイロアクシアの骨太な演奏を支えていた。
ライブとは違う、素のメンバーの顔に深幸はゾクゾクした。今、目の前にジャイロアクシアのメンバーが確かにいる。
扉を開き、入ってきた深幸にメンバーたちの視線が集まった。
「誰だ、お前は?」
ボーカルの旭那由多が、全てを切り裂く刃のような瞳を深幸に向ける。深幸は内心の緊張を押し隠し、フレンドリーに笑ってみせた。
「界川深幸だ。ドラム募集の話を聞いてきた。リーダーの里塚くんには話を通してたと思うんだけど」
「……ふん」
那由多はにこりともせずに、どっかりと足を組んで椅子に座る。代わって前に出てきた賢汰が口を開いた。
「ああ、界川くんか。よく来てくれたな」
「いや、遅れてすまない。聞いた時間に来たつもりだったんだけど」
「界川くんは悪くない。直前で練習時間が前倒しになっただけだ」
礼音が口をとがらせる。
「ったく、朝、いきなりたたき起こされたかと思ったら、五分で来いとかめちゃくちゃなんだよ……」
ぶつぶつ言う礼音を那由多が睨む。
「文句があるならいつでも出ていけ」
「こんなことくらいで出ていかねえよ!」
「だったら黙ってろ」
礼音と那由多、二人の間に剣吞(けんのん)な空気が漂う。礼音の方が一歩引き、黙って目をそらした。ライブでの一体感ある演奏とは裏腹に、普段はあまり仲が良くないのかもしれない。
ギスギスしている二人を放って、賢汰が深幸に話しかける。
「界川くんは大学でバンドやってたよな? 何度か演奏を聴いたことがある。パワーのあるいいドラムだった」
「ジャイロのリーダーにそう言われるとは光栄だな」
礼音が首をかしげる。
「大学のサークル……ってそっちのバンドはどうしたんですか?」
「メンバーのほとんどが三年生でさ。就活を機に解散。まあ、もともとモテたくてバンド始めた連中の集まりだったし。そこは俺も同じだけど……俺はもうちょっと真剣に音楽続けたかったし、何より思ったんだ」
にっと人好きのする笑みを見せながら、深幸は言い放った。
「このバンドなら、絶対モテるって」
瞬間、スタジオの温度が一気に下がった。
「帰れ」
「いやいやいや、那由多! そりゃ早すぎだろ!」
絶対零度の声で即座に切り捨てた那由多に、思わず礼音がつっこむ。とはいえ、礼音も不愉快そうな視線を深幸に向けた。
「そういう動機ならうちはやめておいた方がいいですよ」
「初めて聞いた。そんな理由でジャイロに入りたがるの」
日頃、あまり感情を露わにしない涼の声にさえ、やや呆れたような色が混じる。それでも深幸はめげることなく、手に持ったスティックを軽く振った。
「下手くそじゃモテないからな。腕には自信があるつもりだ」
とはいうものの、礼音も涼も半信半疑の様子だった。那由多にいたってはすでに関心すら失った様子で、楽譜を弄っている。賢汰がそんなメンバーの態度を見て、肩をすくめた。
「とりあえず、音だけでも聴こう。売りこんできたからには、相応のものを聴かせてくれるんだろう?」
「当然」
賢汰の問いに、深幸は自信満々に頷いた。それを聞いて、賢汰が那由多に声をかける。
「いいだろう、那由多? ドラムがいないと、次のライブの予定が立たない」
「……一度だけだ。二度はない」
ばさり、と乱暴にスコアが投げつけられる。
それがテストの合図だった。
ジャイロアクシアがドラムを募集していると聞いてから、練習にはいっそう熱を入れた。合コンは断り、デートも減らした。
ライブで聴いた曲。
ドラムだけが惜しいと思っていたその曲を、テストとはいえ叩ける。深幸はライブで聴いた音を思い出しながら、スティックを振るい続けた。
ラスト一打を力強く叩ききって、深幸は腕を下ろす。汗だくだった。こんなにも緊張した演奏は初めてだ。前のバンドでの初ライブより、緊張した。自信はあるつもりだし、全力を出し切ったつもりでもある。後は他のメンバーがどう思うかだ。
スタジオはしん、と静まりかえっていた。誰も言葉を発しない。そのまま……無言の時間が続き、だんだん深幸に焦りが出てきた。
ダメだったのか。
そう思いかけたとき、礼音がおずおずと口を開いた。
「あのさ……」
「お前は黙ってろ」
しかし、すぐに那由多が礼音を睨んだ。礼音は不服そうな顔をしながらも、口をつぐむ。二人は同い年だと聞いていたが、力関係はずいぶんと那由多の方が上のようだった。
那由多が鋭い目を深幸に向ける。深幸は思わず姿勢を正していた。那由多が怒ったような口調で吐き捨てる。
「……その楽譜はくれてやる。全員、位置に着け」
「だったら、早く言えよ! ダメなのかと思っただろ!」
「うるさい。怒鳴るな」
キャンキャンと子犬のように嚙みつく礼音を、那由多が冷たくあしらう。涼が唐突にベースの弦を弾いて、低い音が一瞬、スタジオに響いた。
「また星に帰る日が近づきそうだ」
星? ランダムに音を鳴らしながら、そんなことを言う涼に深幸はあっけにとられた。天才ベーシストとは聞いていたが、ちょっとやばいヤツかもしれない。
「だいたい、お前はいつもそうじゃないか。もっとちゃんとだな……」
「さっさと準備しろ」
「人の話聞いてるのか!?」
礼音と那由多はまだ言い合っている。いや、礼音が一方的につっかかっているだけか。
「えっと……」
結局、自分のテストはどうなったのか。状況を摑みきれず困惑する深幸の肩を、賢汰がぽんと叩いた。
「合格ってことだよ。これからよろしくな」
人の良さそうな笑みで言われた言葉を、一瞬、理解できなかった。だが、マイクの前に立った那由多が深幸の方を向きもせずに言った台詞で我に返った。
「わかったらさっさと練習するぞ。さっきの曲だ」
『合格』したのだ、とようやく腑に落ちる。
「よしっっ!」
深幸は盛大にガッツポーズを取り、スティックを高々と突き上げた。
だが、やはりジャイロアクシアは一筋縄ではいかなかった。
「……ドラム、もっと強くしろ」
「あ、ああ」
参加して二週間経っても、那由多が自分のことをドラムとしか呼ばないのには慣れた。しかし、那由多の要求する音はまだ出せない。
「今度は強すぎる! 力任せにやればいいってもんじゃねえ!」
「わ、悪い」
深幸だって未経験者なわけではない。むしろ、技術には自信があった。やれると思ったからこそ、ジャイロアクシアの門を叩いたのだ。それでも、実際に那由多と合わせてみると、自分の未熟さを思い知らされる。
礼音がフォローするように口を挟む。
「俺はさっきのでいいと思うけど。あれっくらい強い方が響くだろ」
「お前の耳は節穴か?」
「なんだと!?」
しかし那由多が礼音の意見を聞くわけもなく、今度は二人が睨み合いを始めた。自分が原因だと思うと、申し訳なさもあって深幸は二人の間に割って入る。
「まあまあ、落ち着けって、二人とも。次は少し抑えるから、もう一度頼む」
「いいだろう。さっさと始めるぞ」
那由多がマイクを握る。次こそは……と強く思いながら、深幸はカウントを取り始めた。
演奏を終え、深幸は疲労と緊張で汗ばんだ腕を下ろす。
そして、那由多の審判を待った。
那由多がゆっくりと振り向く。その目は氷のように冷たかった。
「これ以上、足を引っ張るならやめろ」
「っっ!」
またダメだった。
ライブまで、もうあまり日数はない。自信があると言って入った以上、甘えが許されないことはわかっている。けれど、どうすれば那由多の求める音が出せるのか、わからなくなりかけていた。
那由多が賢汰の方を見る。
「里塚、中途半端な音楽をやる気はない。中止も考えておけ」
「待てよ!」
もちろん、そんな横暴に礼音が黙っているわけがない。
「中止って……そんなの無責任だろ! だいたい、界川さんは十分上手いじゃねえか!」
「何度も言わせるな。俺は中途半端は嫌いだ」
那由多が冷たく礼音を睨(にら)む。
「俺に文句があるなら出ていけ。お前のギターも褒められたもんじゃねえ」
「なっ……」
「他人のことを気にしてる余裕があるのか? そんなお遊び気分で、俺の曲のギターを弾くんじゃねえ。邪魔だ」
にべもなく那由多に切り捨てられ、礼音が目を剝いた。一触即発の空気に、深幸の肝が冷える。
まずい。自分のせいで――。
「よし、今日はもう解散にしよう」
礼音が再び那由多につっかかる前に、賢汰が手をパンパンと鳴らした。
「会場との折衝もあるし、中止にするかどうかは後日で。今日のところは個人練習に切り替えよう」
「でも、賢汰さん。ライブはもうすぐなんですよ? みんなでやらなきゃ合わせられないじゃないですか」
「礼音、Bメロの入り、何度かミスってただろ。次までに完璧に仕上げてこい」
「それは、那由多が走りすぎるから……」
「今のアレンジに変えるのは、礼音も了承してのことだろう? それともやっぱりできないのか?」
「できますよ! 次までに仕上げてくればいいんでしょうが!」
ぶつくさ言いながらも、礼音が楽譜の指摘された箇所にチェックを入れ、ギターを下ろした。涼と那由多にいたっては、すでに後片付けを始めている。
申し訳なさを感じながら、深幸は賢汰に話しかけた。
「ごめん、次までには絶対仕上げてくる」
「ああ、頼む。ライブを中止するとなると、いろいろ大変だからな」
賢汰が励ますように深幸の背中を軽く叩く。しかし、深幸にはその手がやけに重たく感じられた。
スタジオから出ると、那由多と賢汰とはすぐに別れた。
「じゃ、俺は那由多のボイトレに付き合うから」
「里塚、さっさと行くぞ。時間を無駄にするな」
「はいはい。いつものスタジオ予約しておいたから、行こうか」
早足で歩き始める那由多を賢汰が追う。その姿はさながら、主に付き従う忠実な執事のようだった。
礼音がやや気まずそうに深幸を見た。
「とりあえず、さつ駅まで歩きます?」
「あ、ああ、そうだな」
すすきのにある、いつもの練習スタジオから、札幌駅までは歩いて二十分ほどだ。練習が終わってからは、涼と礼音と深幸の三人で札幌駅まで歩いて帰ることが多い。この三人は札幌駅のバスターミナルからバスに乗って帰るためだ。すすきのから札幌までは地下鉄も通っているが、わざわざ二駅のために電車に乗るのも面倒なのだ。深幸は元々運動がてら歩くことが多かったが、礼音と涼もそれぞれの理由で電車より徒歩を選択していた。
そして、涼が空が見える方がいい、とたいてい地下空間よりは地上をてくてく歩いていくことになるのだった。
ときたま、那由多と賢汰が加わることもあるが、今日のように那由多が別のスタジオに移動し、賢汰がついていくため、三人だけで帰ることがほとんどだ。
「涼さん、行くよ」
「わかった」
しゃがんで野良猫にちょっかいをかけていた涼に礼音が声をかける。涼が立ち上がり、三人は狭い路地を並んで歩き出した。会話はない。北海道とはいえ、七月の夜は少し暑いこともある。しかし、三人の間には冷たい風が吹いているようだった。
いつもなら気を遣って深幸があれこれと話しかけ、礼音がそれに応える形で会話が成り立つのだが、今日はそれどころではなかった。
深幸の頭の中で、ずっと那由多の言葉がぐるぐると回っている。
『これ以上、足を引っ張るならやめろ』
那由多は本気だった。短い付き合いだが、それがわかる程度には旭那由多という男について、理解できているつもりだ。
那由多は、誰よりも音楽に対して真摯だった。
真っ先にスタジオに現れ、出す音は完璧だった。その上で、自分が少しでも足りないと思えば、何度でもやり直すことを厭(いと)わない。たとえ、那由多以外の全メンバーが認めた音であっても、那由多自身が納得いかなければ、満足することはなかった。「妥協」という文字を辞書から削ぎ落とした音楽の皇帝。それが旭那由多だ。
一方自分はと言えば、自信満々でジャイロアクシアに入ったものの、ただの一度も那由多に認められたことがない。正直、なぜ入れてもらえたのかがわからなくなりそうだった。あれは、気まぐれだったのだろうか。
いや、那由多に限ってそんなことはない。つまり、あのとき那由多は確かに深幸の演奏を認めてくれたのだ。かろうじて、であったとしても合格は合格。その期待を裏切り続けているようで、胸が苦しかった。
「……あの、界川さん。メシとか、食っていきます?」
いつの間にか、狸小路のアーケード街に出ていたようで、居酒屋の看板が大量に目に入ってきた。適当な店を指差し、遠慮がちに礼音が深幸を見ている。
「あー……遠慮しとくよ。あんまり食欲なくてさ」
「……そっすか」
どうすれば那由多に認めてもらえる音が出せるのかで頭がいっぱいで、とても食事をして帰るような気にはなれなかった。だが、礼音が気まずそうに目をそらすのを見て、慌ててフォローを入れる。
「あ、でも、俺のことは気にせず、美園くんと曙くんはメシ食ってってくれてもいいよ。それならここで解散で」
「いや、俺も別に……。っつか、いいかげんその呼び方やめません? 礼音でいいですよ。界川さんの方が年上なんだし」
「今、高三だっけ。二つしか違わないじゃん。それにバンドじゃそっちが先輩なんだしさ。俺のことも深幸でいいよ」
「じゃあ……深幸さんで」
深幸と礼音が話していると、涼がひょこっと間に入ってきた。
「……俺も、涼でいいよ。深幸くんより年下だし」
「お、おう。涼……は大学一年なんだっけ?」
涼の独特の間合いに戸惑いつつ、深幸は話を振った。
「そう。地球に来てから十九年」
「地球?」
「俺は罪人だから。償いのために、ジャイロにいるんだ」
「へ、へー……」
軽い雑談のつもりだったのに、なんだかえらいことを聞いてしまった気がする。礼音が気にするな、と言うように深幸の肩を叩いた。
「涼さんに付き合えるのは賢汰さんくらいなんで、気にしなくていいですよ」
「ケンケン……マイフレンド」
「お、おう」
那由多といい、涼といい、ジャイロアクシアにはなかなか癖の強いメンバーが多い。その中でリーダーを務めている賢汰には素直に感心する。
(ちょっと那由多ばっかり贔屓しすぎてる気がするんだけどな……)
賢汰は那由多の言うことだけは否定しない。今日のライブを中止にする、と言う発言に対しても「後日で」とは言ったものの、反対していたわけではない。おそらく深幸が那由多の眼鏡にかなう演奏ができなければ、賢汰はライブを中止にするだろう。叩かれた背中に感じた重さの正体は、きっとプレッシャーだ。
ジャイロアクシアというバンドに関する、人間関係のバランスの悪さ。練習で那由多に怒鳴られ続けるうちに、深幸はそれを感じ始めていた。ある程度わかってはいたことだが、このバンドはやはり那由多が全ての中心だ。
となると、やはり那由多の認める音を出さなければ、ジャイロアクシアにはいられない。いてもたってもいられなくなった。無理だとわかっていても、今すぐスタジオに駆け戻って、練習を再開したくなる。
「あの……気にすることないっすよ」
「え?」
かけられた声に顔を上げれば、礼音が気遣うような目で深幸を見ていた。
「那由多、いつもあんな感じですし。っつか、ちょっと言い過ぎでしょ。せっかく来てくれたドラムなのに、感じ悪すぎ」
相当、那由多への鬱憤(うっぷん)が溜まっているのか、地面を蹴りながら礼音が愚痴る。
「いや、新参の俺がジャイロに合わせられてないのが問題だからさ。こっちこそ、空気悪くして、練習中断させちゃってごめん」
「あ、いえ……よくあることですから」
「よくあるんだ」
「だから、那由多が我(わ)が儘(まま)過ぎるんですよ! あの曲、本当はサビに俺のギターリフががっつり入ってたのに、カットされたし! その前だって……」
礼音の眉間の皺がどんどん深くなる。
二人の少し先を歩いていた涼がぽつりとつぶやいた。
「那由多は一等星だから」
「那由多は一等星……か」
そのつぶやきは、やけにしっくりきた。アーケード街の屋根が途切れ、夜空が見える。明るい札幌の街中ではほとんど星は見えないが……それでも、街の灯りに負けずに輝いている星はあった。那由多のように強く光る星。
「それはわかるな。俺は那由多の歌を聴いてジャイロに入りたいって思ったからね」
「モテたいからじゃなかったんですか?」
「あの歌に合わせられる演奏ができれば、そりゃモテるでしょ」
空を見上げる。
一際明るく輝いている星に、深幸は手を伸ばした。自分もあの星のようになりたい。
「だからさ、頑張って那由多に認めてもらえる演奏をしないとな」
「うっわ、やべえ初めてまともな人間がジャイロに来てくれた……」
礼音が口元を押さえて、感動に震える。そのまま礼音が深幸の手をがっと握った。
「深幸さん! 絶対ジャイロやめないでくださいね! 俺、応援してますから」
「あ、ああ。ありがとう」
その勢いに、今までのジャイロアクシアでの礼音の立ち位置が見えた気がした。さぞかし苦労してきたのだろう。
しかし、どうすれば那由多の納得いく演奏ができるのか……。わからないが、ジャイロアクシアのメンバーでいるためには努力するしかない。
「次の練習まで、頑張って自主練するよ。まだ、やりこみきれてないしな」
「頑張る必要、ないと思うけど」
いつの間にか、隣に立っていた涼がそう言った。
「は? どういう意味だよ」
「ただ、那由多の音を聴けばいいだけだよ」
こともなげに言う涼に深幸が苛立(いらだ)った。涼が那由多に怒鳴られることはほぼないと言っていい。いつも涼しげな顔で、さらりと正確無比な演奏をする。摑み所のない涼だが、那由多とは違った意味でまぎれもなく天才だった。汗を流して、手にマメを作って、努力しても那由多に認められない自分が否定されたように感じる。
「ちゃんと聴いてるつもりだぜ」
それとも、涼にはわかっていて、深幸にはわからないことがあるんだろうか。
「だったら、それで十分」
涼は興味を失ったように、すたすたと空を見上げたまま、歩きだした。
「星座は、一等星だけでできてないからね」
謎かけのような独り言に深幸は苛立ちながら、首をかしげた。
「だから、何が言いたいんだよ!!」
追いかけ、問い詰めようとしたところで、涼が盛大につまずいた。慌てて、深幸は涼の腕を摑む。
「ありがとう」
「涼さん、いつも言ってるけど、空ばっか見て歩くと危ないよ。この間は電柱に向かって歩いていったでしょ」
礼音が呆れたようにため息をつく。涼はしれっとした顔でまた空を見て、そして足下に視線を移した。
「そうだね。……星ばかり見てると、足下がおろそかになる」
とらえどころのない瞳で、じっと見つめてくる涼に、もしかして今の言葉は助言なのかと深幸は思った。その意味を知りたくて、深幸は涼に尋ねる。
「足下……もっと基礎的なことを見直せってことか?」
しかし、涼は軽く首をかしげて、駅を指差した。
「ところで、駅に着いたけど……」
話しているうちに札幌駅に着いてしまっていた。
「あ、バス来てる。それじゃ、また! 頑張ってください!」
「俺も。……またね」
二人ともバスターミナルの方へ走っていってしまった。一人、置いていかれた深幸は足下を見つめる。
「足下ねえ……?」
賢汰に聞けば、涼の助言めいた台詞の意味もわかるのかもしれないが、那由多のボイトレに付き合っているところを邪魔するわけにはいかない。
答えはまだ見えない。
だが何もせずに次の練習を待つようでは、ますます那由多に失望されるだけだ。
「とりあえず、帰って自主トレするか」
家で派手にドラムを叩くわけにはいかないが、ドラムパッドを使った練習はできる。今は少しずつでも、できる努力を積み重ねていくしかない。今までだって、そうして欲しいものを摑みとってきたのだから。女の子にモテる話術も、見た目も、筋肉も、ドラムの技術も全て努力の積み重ねだ。なら、同じことをするだけ。
全ては那由多に認めてもらうために。
拳を握って歩き出す深幸の背中を応援するように、星が瞬いた。
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