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半田畔の短編「門野さんを助けたかった。
半田畔さんから短編をいただきました。 気になる同級生が車に目の前で撥ねられた。何もできない僕だったがなぜか門野さんは自分を命の恩人だという。なぜ? 予想困難な結末、最後まで目が離せないミステリ短編です。
門野さんを助けたかった。
1
通学路の先でクラスメイトの門野チサさんが歩いていた。勇気を振り絞って話しかけようか迷っているうちに、彼女が車に撥ねられた。
門野さんは十字路の信号を渡るところだった。信号を無視したシルバーの車が彼女に横から追突し、そのまま吹き飛ばした。彼女の体が宙を舞って、一回転半するのを僕はスローモーションで見た。ちょうど二回転するかどうかというときに、門野さんの体は地面にぶつかり、それきり動かなくなった。
門野さんを助けたかった。無事かどうか確かめたかった。そういう思いを抱いたはずなのに、気づけば反対方向に走り、僕はその場から逃げだしていた。本当はすぐに救急車を呼ぶべきなのに、そうしなかった。近隣住民の家に駆け込むことも、学校に引き返して先生を呼びにいくこともなく、ただそこから夢中になって逃げだした。
門野さんが好きだった。転校してきた初日、少し緊張しながらも、一生懸命笑みを浮かべて挨拶していたその姿を見て、自分はこの子を好きになるという予感がした。すでに好きになっていたのかもしれない。
門野さんはすぐにクラスに馴染んだ。男子からも女子からも話しかけられる人気者だった。教室の隅の席にいて、読書に熱中しているフリをする僕とは大違いだった。狭い教室のなかにも身分があって、僕はきっと彼女に話しかける資格がなかった。タイミングやきっかけ、話題はいくらでも思いついたし、それで盛り上がる光景も想像できたのに、その妄想が現実になったことは一度もなかった。僕は癖っ毛一つない、その長く艶やかな茶色の髪がなびくのを遠くから眺めるだけだった。彼女が笑っているのを僕が見るとき、それはいつだって横顔からだった。あれを正面から見られたらどんなに素敵だろうと思った。僕の話で彼女が笑ったら、どれだけ嬉しくなるだろう。
そんな彼女が死ぬのを見たくなかった。門野さんの遺体なんて見たくなかった。中学二年生にもなれば、ひとの死体の一つや二つ興味も出てくるけど、彼女のものだけはごめんだった。足や腕があり得ない方向に曲がっていて、体のどこかがぐしゃりとつぶれていて、あるはずのものがなくなっていて、そういう無残な姿の彼女を見たくなかった。だから逃げだした。
救急車がすれ違う。サイレンが強く耳に響いて、それから後ろに遠ざかっていく。何かひどく大きな声で、怒られたような気がした。
振り返ると、救急車は別の道を折れていくところだった。違う! と思わず叫んだ。そっちじゃない。門野さんはそっちにいない。どうやら救急車は別の現場に向かって走っていたらしい。
門野さんの笑顔がちらついた。存在しないはずの、僕に向かって正面から笑いかけてくれている顔だった。
それでようやく、引き返した。逃げだしたのと同じか、それ以上の速度で、撥ねられた彼女がいるあの交差点へ戻った。
息が切れる寸前で、交差点が見えてきた。ひとだかりができていて、さっき見かけた救急車とは別の車両がすでに到着していた。パトカーも到着していて、近くの路肩ではシルバーの車が停まっていて、運転手は青ざめた顔でしゃがみこんでいた。
門野さんはタンカで救急車に乗せられていくところだった。救急隊員の一人が怒鳴ると、野次馬がさっと道をあけた。
タンカに寝かされた門野さんがちらりと見えた。頭から血を流し、目を閉じたまま、ぴくりとも動いていなかった。
切れた息が戻らないうちに、救急車は走り出していった。
僕たちの住む田舎町に病院は三つあって、そのうちの二つは眼科と歯科だった。総合病院は一つだけで、そこに彼女が運ばれていったのはすぐにわかった。
一時間かけて町の境にあるその病院につくころには、午後四時になろうとしていた。受付の看護師さんの一人と目が合って、引きよせられるように近づき、用件を伝えた。
「クラスメイトの門野チサさんが事故でここに運ばれてきていませんか? 心配で様子を見に来たのですが」
ここにつく途中、どうすればスムーズに伝えられるかずっと考えていた文言だった。大人だったらもっとシンプルに、スマートに伝えられていたかもしれないけど、僕にはこれが限界だった。
「すみませんが、名前をもう一度」
「門野です。名前はチサ」
「ちょっと待ってね」
看護師さんの手元で、かたかた、とパソコンのキーボードを打つ音が響いて、それからぴたりと動きが止まった。
何かに気づいたように、そっと僕のほうを見上げて、つぶやいた。
「川村くん? きみは川村リョウタくん?」
「え、あ、はい」
「やっぱりそうなのね」
どうしてこのひとが僕の名前を知っているのか、わからなかった。知り合いだっただろうかと顔を見つめなおしてみるが、どうしても思い出せなかった。
最初に用件を伝えたときから、看護師さんの雰囲気はいくらか柔らかくなっているような気がした。こちらを仲間の一人として認めるみたいな顔で、看護師さんが一回だけうなずく。この看護師さんのなかでどんな納得がいったのか、全然わからなかった。
「彼女はちょうどさっき目覚めたの。多少の怪我はあったけど、命に別条はなかった。この先の107号室にいるから、会ってあげて」
看護師さんは受付から少し身を乗り出し、廊下の先を指さす。お礼を言って僕が立ち去ろうとすると、最後に看護師さんは言ってきた。
「偉いわ。勇敢だったわね」
なんのことか、やはりよくわからなかった。クラスメイトの見舞いにくることが、そこまで偉く勇敢なことだとは思わなかった。それどころか、僕はま逆の人間だ。事故に遭った彼女を置き去りにし、自分が怖いからという理由で一度逃げ出した。
そう思うと、どんな顔をして彼女に会ったらいいのかわからなかった。きっと門野さんは僕が逃げ出したことはおろか、いたことすら気づいていない。だから責めてくることはきっとない。けれど、だから余計に辛い。
病室のドアはすでに開いていた。107号室は個室で、奥のベッドから彼女の足だけが見えた。やはり入るのはやめるべきかと、引き返しかけたとき、きゅ、と靴がこすれて床が鳴った。その音にベッドのうえの門野さんが反応したのがわかった。
あきらめて病室に入り、近づいていく。カーテンでかくれていた彼女の全身があらわになり、想像よりもあまり包帯やらギプスやらが巻かれていないことに気づいた。わかりやすく包帯が巻かれているのは、額と、腕と、それから両手首くらいだった。
そして最後に目が合った。いつも廊下ですれ違ったり、教室で一瞬だけ合ったりしただけの目が、まっすぐ、長く、僕を射貫いていた。
門野さんは少しだけ驚いたように目を見開いていた。誰? と訊かれるのを想像した。クラスメイトの川村だけど、わかる? まずはそう答えようとした。
「川村くん」
彼女がわずかに笑みを浮かべて、言ってくる。僕をみかけて、ほっとしたような声色だった。彼女にしっかり記憶されていたことへの安心と、覚えのない距離感の近さに対する違和感が、半分ずつ体を包んだ。
「門野さん。その、お見舞いにきたんだ。たまたま事故のとき、近くにいたから」
「うん。知ってる」
彼女は答える。
「だって救急車を呼んでくれたの、川村くんでしょ」
「え?」
「あと数分呼ぶのが遅れてたら、危なかったかもって。お医者さんたち、川村くんを褒めてた。クラスメイトに感謝しなさいって言われたよ。だから、本当にありがとう」
呼んでいない。僕は救急車なんか呼んでいない。あそこから逃げ出した。
それなのに僕が通報したことになっている。さっきの看護師から、覚えのない称賛を受けた理由もいまわかった。僕の知らない僕に関する事実が、広まっているからだ。
いったい僕は誰と間違われているのか。どうしてこんな勘違いが起きているのか。いや、そんなこといまはいい。いまは否定をしないと。誤解を解かないと。
「あの、僕は……」
「川村くん。助けてくれて、ありがとう」
門野さんがちょっと泣きそうな顔になって、それから笑みを浮かべる。本当に、心の底から感謝を伝えようとしてくれていた。
初めて見る、正面からの彼女の笑顔だった。
僕はもう何も言えなくなっていた。
2
「とにかく夢中になっていたので、あのときのことを整理したいんです」と看護師さんに伝えると、こんな答えが返ってきた。
川村リョウタです、とその声はまず名乗ったという。救急隊が受けた電話では、その声はまず自分が近くの学校に通う生徒であり、クラスメイトの門野チサが交差点で車に撥ねられたのを目撃したことを伝えてきた。門野さんがどのような状態で倒れているかを説明しつつ、救命処置をほどこしているが目を覚まさないこと、それから現場の住所を的確に伝えてきたそうだ。救急車がかけつけたときには、僕の姿はすでに現場にはなかったという。ちなみに、そのもう一人の川村リョウタはパニックになっていたのか、ひどくかすれた声だったらしい。
「毎日お見舞いなんて、素敵なボーイフレンドね」いつもの看護師さんが言ってくる。
「そんなんじゃないです。友達です」
いまのところは、でしょ。と看護師さんが僕をからかう。門野さんが入院して、四日が経とうとしていた。僕は毎日、放課後にこの病院を訪れている。
門野さんが入院している107号室を訪れると、彼女が逆立ちをしているところだった。病院着がめくれ、お腹のあたりが露出していた。とっさに顔をそらすと、彼女が逆立ちをやめるのはほぼ同時だった。
「なにしてるの?」
「逆立ち。運動はまだダメだっていうから、病室のなかでできるリハビリ」
「安静にしてないとダメだよ」
「はい、川村先生」
僕を医者に見立てて、おどけて笑い、門野さんがベッドに戻っていく。僕はカバンからノートのコピーを取り出し、彼女に渡す。授業に遅れると心配していた彼女のために、とってきたものだった。門野さんに見られると意識してからのここ数日の僕の字は、初めてスーツを着るみたいに、少しぎこちない。
「いつもありがとう」門野さんが言った。
病室のドアがしっかりしまっているのを振り返って確認したあと、僕はカバンからさらに物を取り出す。彼女の視線がすぐに、ノートからそちらに向く。目的のものが出てくると、門野さんの笑顔がぱっと咲く。
「いつもありがとう!」
手のひらサイズのお菓子で、包装紙には『キディ&スナック』と名前がかかれている。塩味のコーンと、丸いチョコが半分ずつ入っていて、彼女のお気に入りだった。入院中は禁止されていて、これが食べられないことを門野さんは授業の遅れよりも悲しんでいた。ここ最近の僕は毎日、これの密輸に加担している。
窓を開けたい、と彼女が言うのでそうした。夏の始まりを告げる、乾いた風が流れ込んでくる。
「退院、明後日だっけ?」
「うん。そう。今日検査して、何事もなければ」
「夏休みの前日だけど、学校はどうする?」
「もちろんいく」
門野さんくらい友達が多ければ、きっと学校も楽しい場所なのだろう。彼女が退院して、この先ももし、教室でこんな風に二人で話ができるなら、僕も学校が好きになるかもしれない。
「いっぱい助けてもらったから、退院したら、いっぱいお礼しないと」門野さんがつぶやいた。
「いいんだよ、そんなの」
僕は助けていないんだから。
君を助けた英雄は、別にいるんだから。
「学校でリョウタ君と会えるの、楽しみ」彼女が言った。うつむきかけた顔を上げると、僕にはもったいない笑顔があった。
「一日だけだけどね。すぐ夏休みになるし」
「それでもいいの。みんなに伝えるんだ。リョウタ君が助けてくれたって。そしたら一瞬でみんなのヒーローだよ。もてはやされて、大変だよ」
「逆立ちしたってありえないよ」
冗談を理解して、門野さんは笑う。病院着が着崩れて、お腹のあたりの肌がまだ少し見えていたのに気づいて、彼女が隠す。
「リョウタ君、楽しいひとだね。もっと早く話せてたらよかった」
病室で二人きりで話すこの時間も、あとわずか。そして学校で彼女と会える、新しい時間がやってくる。そういう嬉しさと寂しさが、半分ずつ。
門野さんは僕に助けてくれたお礼を言う。僕にはその資格がない。罪悪感は隅の暗がりにこびりついて離れないけど、それを明かりでわざわざ照らして、彼女にさらす勇気もない。悪いこととは思いつつ、彼女との時間が楽しくて、手放せそうにない。
この時間を与えてくれたことに、僕もお礼を言わないといけない。救急車を呼んで、彼女を助けた本当の英雄に感謝を伝えないといけない。
でも誰に?
退院した門野さんは宣言通り、夏休みの前日に学校にきた。まだ手首に巻かれた包帯は取れていないけど、日常の生活には問題ないらしい。
教室にやってきた門野さんに、あっという間にクラスメイトたちが群がった。事故のことを聞きつけた彼らの質問に、忙しそうに答える。僕のことを明かすのは恥ずかしいからやめてほしい、と彼女には伝えていた。クラスメイトが誰も僕のほうを向いてこないのを見る限り、彼女は約束をちゃんと守ってくれているようだった。
お昼前、教室で先生がホームルームの終わりを宣言し、チャイムがなると、一斉にクラスメイトたちが沸いた。誰かが持ってきたクラッカーがどこかで鳴った。ほかの教室や、廊下からも生徒たちの歓声が聞こえてくる。真面目な生徒が一人、先生に自由研究のことについて質問していた。僕は歓声をあげるほどの声量もないし、優等生になれるほどの頭もない。
自分の立ち位置について迷っていると、門野さんがやってきた。歩くたびに左右に揺れる、長い茶髪。
「おはようリョウタ君」
「うん、おはよう」
「今日初めて話すね」
「そうだね。門野さん、忙しそうだったから」
「撥ねられて体が浮いた話したら、みんな驚いてた」
彼女は撥ねられてから地面に頭を打って気を失うまでの直前の記憶が、しっかりあるらしかった。
「ねえ、一緒にお昼食べない?」門野さんが誘ってきた。僕が朝から、タイミングを見計らって彼女に言おうとしていた台詞だった。
もちろん、と答えて二人で学食に向かう。余っていたサンドイッチを買って、そのまま中庭のベンチに腰をおろした。ほとんどの生徒たちがまるで逃げ出すみたいに走って下校するなか、僕たちの間で流れる時間は、まわりよりもゆっくりだった。
「リョウタ君の夏休みの予定は?」
「んー、特にない。友達もいないし」
門野さんは? と訊き返す。
「私はさっき、キャンプに誘われた。みんなで行かないかって。話聞いてると、けっこう楽しそう」
「行ってくるの?」
「ううん、断った」
食べるのをやめて、思わず彼女を見る。そこで目が合った。門野さんは僕を見つめてきていた。何かを伝えるみたいに、まっすぐ。心臓の鼓動が速まるのを感じる。
「激しい運動もあまりできないし。リハビリしないと。外出とかは普通にできると思うけど」
彼女の言葉で、止まっていた時間が動き始める。サンドイッチを二口食べ進めてから、僕は訊ねる。
「夏休みはずっとリハビリ?」
「そうなるかも」
それなら、と僕が口を開こうとしたとき、クラスメイトたちが通り過ぎながら彼女に話しかけた。
「じゃあね、チサ」
またね、と彼女は手を振り返す。門野さんは黙ったままだった。何か言おうとしてなかった? と訊き返してくれるのを期待したけど、その様子もなかった。なぜか、彼女はあえてそうしているような気もした。もしも、もしも仮に試されているのだとしたら、サンドイッチに視線を逃がしているわけにはいかなかった。
僕は再び口を開く。
「……もしよかったら、リハビリ、手伝おうか?」
門野さんの静かな横顔が、ぱっとこちらを向いた。
笑顔になっていて、それで正解だったと悟った。
「うん!」
答えて、それから門野さんはあっという間にサンドイッチをたいらげてしまった。僕が食べ終わるまで、そわそわしながらも、彼女は待ってくれた。
口のなかをパンとレタスと卵とハムでいっぱいにしながら、夏休みが始まったのを、ようやく実感した。
僕たちの住む町には、河川を挟んだ向こうに山がいくつかそびえており、そのうちの一つは国立公園として保護され、日々ハイキング客やランナーに親しまれている。山のふもとにはキャンプ場もあり、シーズン通して休日は混み合っている。門野さんが選んだ夏休み最初のリハビリは、その国立公園へのハイキングだった。
初めは舗装された道を、濃い緑の葉をたくわえた周りの木々を眺めながら、軽やかに登ることができていた。途中からは息が切れて、雑談をする余裕さえなくなった。というか、足を引っ張っていたのは主に僕だった。門野さんは途中とちゅうで僕を励ましながら、常に数メートル先を一定のペースで登り進めていく。一時間ほど登ると、さすがに首筋に汗の粒が光っていたが、怪我の影響がありそうな手足は依然として、僕よりもたくましく稼働していた。
休憩中に門野さんが持ってきたお菓子を一緒に食べた。もちろん、彼女のお気に入りの『キディ&スナック』。門野さんはしょっぱいコーンのほうから先に食べると美味しいと教えてくれた。
「この山、よく登るの?」僕が訊いた。
「うん、お母さんと前に登った。引っ越してすぐのとき。リョウタ君は?」
「僕はあまり。親とは海のほうに行くことが多いかな」
「いいよね、この町。海岸もあって」
頂上につくと、展望台から町を見渡せた。その先には海が広がっている。海面が陽光を反射して、波のうねりもよく見えた。
ふもとのスーパーマーケットで買った昼食を済ませて、来た道とは違うハイキングコースを下りる。木枠で舗装された階段を下りるたびに、足が疲労で震えた。彼女のリハビリが終わるよりも前に、しっかりと体力をつけなければならない。この夏が終わるまでの間に、少しは強くなれているだろうか。
ふもとまで下りたところで、近くを流れる川が見えた。ちょっと寄り道していこう、と門野さんがいたずらを思いついたような笑みを見せる。僕たちはハイキングコースをそれて、川沿いに進んでいく。どこにいくのかと訊いたが、彼女は、内緒、とくすくす笑うだけだった。
一五分ほど歩いたところで、彼女の見せたかったものがわかった。あらわれたのは大きな湖だった。近くの桟橋から、子供たちが飛び込んでいるのが見える。僕たちも別の桟橋のほうへ進み、先端まで移動する。透明できれいというわけではないけど、静かな水面が広がっていた。
「ここ、私のお気に入り」
「知らなかった。長く住んでたのに」
門野さんがこの町に引っ越してきたのは一年ほど前だ。この一年で、色々なところを探索したのだろう。
門野さん、と呼ぼうとして横を向くと、彼女がまさに湖に向かって走り出すところだった。気づくと、足元に彼女の服が落ちていた。さっきまで穿いていた短パンのジーンズと、黄色のポロシャツ。
桟橋から彼女が勢いよく飛ぶ。空中で彼女の体が、一瞬だけ、静止する。車に撥ね飛ばされて宙に浮いた彼女の、あのときの姿がよぎって、水しぶきにかき消された。顔をそむけたが遅く、飛んできたしずくが、僕の髪や頬に当たった。
水面から濡れた彼女が浮上して、頭をぴょん、と海の生き物みたいに出してくる。
「気持ちいいよ」
「水着穿いてないよ」
「私もだよ」
彼女の体は湖につかっていて、すべては見えない。露出した肌と、白い下着がわずかに透けて確認できるくらいだった。
羞恥心を地上に置いて、僕もズボンとTシャツを脱ぎ、そこから飛び込んだ。汗ばんでいた体が一気に冷やされて、水に包まれる。水中のなかで、先に潜っていた彼女と目があった。彼女の笑顔。意味もなくそのまま水中でじゃんけんをして遊んで、負けた。息ができるなら、いつまでも潜っていたかった。
ひとしきり遊んで、先に門野さんが湖から上がった。僕が目をそらすと、彼女は見ていいよ、と言う。
「だって水着だし」
え、と確認すると確かに着ていた。どうやら最初からここに遊びにきて、泳ぐつもりだったらしい。
「ずるい。僕は下着なのに。嘘ついたんだ」
「嘘じゃないよ。水着は穿いてないって言っただけ。女子は水着を着るんだよ」
「詭弁だ」
「日本語って難しいね」
ずぶ濡れで上がる僕の腕を引きながら、くすくすと門野さんは笑い続ける。
次の週には海にいった。隣町のショッピングモールで新しい水着とうきわとビーチボールを買って、思う存分、遊び倒した。門野さんの手首の包帯が取れて、そこだけ日焼けに取り残されていた。その数日後に町のプールで会ったころには、島みたいに浮かんでいた包帯の跡はすっかり消えて、まわりの肌となじんでいた。
遊びの理由に、リハビリという枕詞がいつの間にか使われなくなったころ、門野さんが家にこないかと誘ってくれた。特に暑い一日で、テレビのアナウンサーが今日は涼しい部屋で過ごした方がいいといっていたのだという。
特に暑い一日にも拘わらず、僕は町で一番速く自転車を飛ばして、教えてもらった彼女の家の住所に向かった。赤い屋根とポーチが特徴的な、彼女らしい平屋だった。
気配を察したのか、門野さんが家から出てくる。氷入りのジュースがなみなみとそそがれたガラスのコップを、両手に持っていた。
「自転車、適当にその辺に置いていいよ」
言われたとおりに自転車を止めて、ポーチまで上がる。ジュースのコップを受け取り、その場で飲み干した。張り合うみたいに、門野さんも飲み干す。
お邪魔します、と声をかけて家に入る。
「お母さん、お父さんと食事にいってるから。夕方まで帰ってこないよ」
「……そっか」
小さな違和感。何か妙に、意味がありげな空気をまとった言葉だった。
そのまま玄関口と廊下をぬけて、リビングを横切り、彼女の部屋まで通される。壁には映画やバンドのポスターが数枚、貼られていた。すっきりと片付いていたが、クローゼットの床下から服の袖がはみだしているのが見えて、気づかないフリをした。
近くの棚には両親と写った彼女の写真がかざられていた。最近のものではなく、いまよりもだいぶ幼い。小学校に入る前だろうか。
「昔住んでた家の近くの公園で撮ったやつ」
「これってどこ?」
「神奈川県の川崎。リョウタ君は?」
「生まれは兵庫らしいけど、物心ついたときからこの町にいるよ」
「兵庫は何があるんだろう」
門野さんは、最近買ってもらったというスマートフォンで兵庫を調べ始めた。それが飽きると今度は川崎を調べて見せてくれた。スマートフォンは僕もいま、親に買ってもらえないか交渉している最中だ。ここのところ、毎日のように家の電話が鳴っているのを親も知っている。それが同じ相手で、クラスメイトの女の子であることもとっくに把握されている。親は、どうしようかなぁ、と僕をからかうように毎日悩んだフリをする。ひとしきり僕の反応を見て楽しんだあと、たぶん、買ってくれるはずだ。
部屋のルームツアーも済ませてやることがなくなると、リビングに移動してテレビゲームをした。未知の海洋惑星から脱出するアドベンチャーゲームで、残機が一つ減るごとに交替でプレイしていった。門野さんはすぐに死ぬので、自然と僕のほうがプレイする時間が長くなっていった。見ている方が好きだ、と彼女が言うので、僕はコントローラーを握り続けた。
そうやってゲームを進めながら、何気ない雑談を交わしていたときだった。
「リョウタ君はさ」
「うん」
「私が事故に遭って、救急車を呼んでくれたとき、救命処置もしてくれたんだよね」
「…………どうだったかな」
「人工呼吸とかも、してくれたの?」
「……覚えてないや。必死だったから」
「そうなんだ」
「うん」
会話がそれで止まった。僕は嘘をついてしまった。いや、ぎりぎりそうではないと、解釈できなくもないか。考えるたびに、どこまでもズルくなっていく。
黙ったままゲームを進めていると、ことん、とやがて肩に重さがかかった。見ると彼女がもたれかかってきていた。目をつぶっていて、寝ているのかもしれなかった。声をかけようと思ったが、やめてそのままにした。やがて本当に寝息が聞こえてきた。
コントローラーを置いて、門野さんの寝顔を見つめる。彼女は起きない。薄く開いたその唇に、意識が吸い寄せられる。彼女が言っていた単語が浮かぶ。人工呼吸。
手がそうっと、門野さんの頬に伸びかける。だけどすぐに止めて、コントローラーに戻す。僕は彼女を助けていない。ただ、助けたかっただけだ。実際にそうしなかった。できなかった。
門野さんはこの夏休みを僕と過ごしてくれている。そうしたいと、思ってくれている。ほかのクラスメイトよりも長い時間を過ごし、そして少なからず、特別な関係を築こうとしてくれている。ほかのひとよりも、気を許してくれている。自意識過剰といわれるかもしれないけど、たぶん、勘違いではないと思う。
彼女からの信頼を受け取れる資格は、本当の僕にはない。だけどそれを手放すにはもう、あまりにも好きになりすぎている。
3
年に一度の夏祭りは、商店がひしめく町の中心地の、噴水広場で行われる。夕方頃からだいたい始まって、夜には広場から少し移動した河川で有志の花火が打ち上げられる。小さな田舎町なので、この花火の音は町のほとんどの場所を包み込む。
僕と門野さんが自転車で広場近くに到着するころには、止めようと思っていた公民館の駐輪場はすでに満杯寸前だった。ぎりぎりでよかったね、とほっとしながら自転車を止めて、噴水広場に向かっていく。
「リョウタ君は去年もきた?」
「いや、僕はきてない。家族で旅行に行っていて」
「私も、この夏祭りが終わった直後に引っ越してきたから」
実をいえば、去年は夏祭りのために旅行の日程をずらそうかと提案されていたのだが、僕はそれを断ったのだった。一緒にいく友達がいないと思われたくなかったし、無理して広場にいっても、誰かと歩く誰かの姿を、少し離れたベンチや木陰で見つめることになるだけだった。ひととはぐれたようなフリをして歩いても、一時間少しで限界になる。
かき氷の列に並びながら、僕は時間をおいて、去年の夏祭りに行けなかった本当の理由を話した。彼女への嘘をこれ以上、重ねたくなかった。門野さんは笑って、それから手をつないできた。
「ここでの初めての夏祭りが、リョウタ君と一緒でよかった」
答えに窮していると、門野さんがクラスメイトたちに気づかれ、声をかけられた。つないだ手が離れて、その手をぶんぶんと振る。クラスメイトたちは僕にもいつも一応、声をかけてくれた。
「僕もここにこられて、よかった」
かき氷を食べ終えると、シロップに染まった舌をお互いに見せ合った。それから広場から通りを一本挟んだ別の公園に設置された、移動遊園地に向かった。簡単なメリーゴーラウンドに乗って、射的をした。
近くのベンチが一つ空いたので、二人で座った。休憩すると、祭りの賑やかさが、ほんの少し遠くに感じられる。自分たちは確かにこの場にいるけど、どこか映画を観ているような気持ちになる。
ほかのベンチにも僕たちより大人の男女が数組座っていて、身を寄せ合っていた。ある男性は女性の腰に手をまわし、別の方向のカップルは唇を重ねている。ここはそういう種類の人たちのためのベンチなのだと、僕たちは遅れて気づいた。けれどどちらも立ち上がらなかった。ベンチを探していたカップルの一組が、僕たちを見て、ほほえましそうに笑みを向けて去っていく。
「そういえば知ってる? 告白の文化ってね、日本にしかないらしいよ」
門野さんがカップルから目をそらしながら、言う。
「ほかの国とか行くとね、『付き合ってください』とか、あんまり言わないんだって。自然といつも一緒にいて、デートの期間があって、それで距離を縮めていくんだって」
「知らなかった。告白の言葉なんて、言うまでもないって感じなのかな」
「でも、そのひとの想いは知りたいよね。何か別の形でもいいから。ちゃんと、あなたはほかのひととは違うんだっていうことを、確認し合いたい。言うまでもないっていうことを、ちゃんと形で。リョウタ君はどう思う?」
「……告白が許されないなら、僕もそう思うかな。何か別の形で」
そのとき、歓声がわく。射的のほうからだった。誰かが大きな景品を獲得したらしい。祝福するように、大きな鐘が鳴る。
何を捕ったんだろうね、と話題にしようとした瞬間、ベンチに置いていた手のうえに、ふと、彼女が自分の手を重ねてきた。祭りの騒がしさも、蒸し暑さも、何もかもが自分から切り離される。
目は合わさない。同じ方向を見続ける。
僕は手をひっくり返して、そのまま彼女と握り合う。僕たちはしばらくそうしていた。言葉も交わさず。さっきのかき氷の店で並んでいたときとは、違った。強さとでもいえばいいのか、何か彼女の想いが流れ込んでくるような気さえしている。たとえばいま、クラスメイトの誰かに気づかれて、門野さんに向かって手を振っても、きっと握っていない別のほうの手で、彼女は振り返すのだ。
「門野さん」
「リョウタ君」
お互いに呼びあって、それで動けなくなっていた体がほどける。同時に動く。身を寄せる。彼女の顔が、唇が近づいてくる。
そして、夏に浮かされて――
『川村くん。助けてくれて、ありがとう』
だめだ。
「……できない」
手をふりほどいて、彼女の肩に置く。彼女が近づいてくるのを止める。門野さんの顔が、ショックで曇る。僕は一度目をそらしたけど、この痛みも義務だと思って、ちゃんと彼女の顔を見返した。
「ごめん、突然。変なことして……」門野さんの声が、しぼんでいく。
「違うんだ、門野さん。そうじゃない」
ついにこのときがきた。いつかくると思っていた日。
誰かがくれた、この幸せに、自分から幕を下ろすときがきた。せめてそれが自分のタイミングで、自分の口から明かせることを、僕は幸運だと思うべきだろう。
「僕には君に、好きになってもらえる資格なんて、ないんだよ」
「……どういうこと?」
僕は自分を裁く。そして彼女に裁いてもらう。
僕は喋り続けた。ときどき、呼吸を整えるために息継ぎをした以外、ほぼ休みなくすべてを明かした。門野さんは黙って聞いていた。
「本当はもっと早く明かしたかった。でも、門野さんと過ごす時間があまりにも楽し過ぎて。一緒にいられるのが、うれしくて、できなかった。僕は君に嘘をついて、君から信頼してもらってた」
「……でも、じゃあ誰が私を助けてくれたの?」
「わからない」
「そのひとはどうして、リョウタ君のフリをしたの? リョウタ君の知り合いか誰かなの?」
「それも、わからない」
調べてない。調べようとすらしていない。せめてそうしたほうが、良かったかもしれない。ぜんぶ明らかになって、本物の英雄を見つけてから、彼女に告げるべきだったかもしれない。けれどもう遅い。これ以上、門野さんを騙すことはできなかった。隠していたら、もっと酷いことになっていた。ああ、まただ。そんな風に表現して僕はまた逃げている。隠せなかったのは、単純に、僕が怖くて抱えきれなかったからだ。
広場のスピーカーからアナウンスが流れる。二〇分後に河川のほうで花火が打ちあがるという内容だった。ぞろぞろと地元客たちが移動しはじめる。
少し遅れて、門野さんがベンチを立った。花火を観に行くわけではないことは、僕にも想像できた。
「ごめん。少し一人で考えたい」門野さんが短く言った。
「わかった」
もう門野さんとは会えないかもしれない。二人で過ごすのは、これきりになるだろう。今日、僕は買ってもらったばかりのスマートフォンを持ってきていた。ジーンズの右ポケットにしまってある。連絡先を交換することも、もうない。
僕たちは交差点で別れた。門野さんは花火の見物客たちが向こう方向とは、逆に歩きだして、去っていった。僕も別方向に歩きだす。途中、さっき挨拶を交わしたクラスメイトたちとすれ違い、「チサとはぐれたの?」と訊かれた。どう答えたかは覚えていない。帰り道もよく覚えていない。花火の音が背中から聞こえたのだけは、かろうじて記憶にあった。
気づけば家に帰っていて、自分の部屋のベッドで顔をうずめていた。それから自転車を忘れたことを思いだし、日本語にならない何かを叫んで、うるさいと母に怒られて、静かに泣いた。
それから三日ほど僕は家を出なかった。母は僕の失恋にすぐに気づき、リビングに下りるたびに僕をからかってきた。部屋に引きこもっていると、今度は父が心配そうに何度もドアをノックするので、それもうっとうしかった。もうこの夏はどこかに家出してしまおうか。お小遣いの全部を使ってホームセンターに行って、テントとキャンプセットをそろえて、国立公園のふもとのキャンプ場で過ごしてやろうか。卑怯な自分を見つめなおす、良い機会にもなるかもしれない。
財布と貯金箱のなかの預金を数えはじめ、家出計画がいよいよ現実味を帯びだしたその日、階下から母の声が響いた。
「リョウタ! お客さん」
初めは騙そうとしているのだと思った。僕に客などくるはずがない。心当たりが唯一あるとすれば門野さんだが、それを期待して下りたら誰もいなくて、結局、部屋に引きこもる僕を無理やり引きずりだすための方便だったと気づく。そういうオチだと思っていた。だから返事をしなかった。
続いてドアのノックがあった。今度の母はしつこかった。
「いいから少しは放っておいてよ!」
ベッドから起き上がり、振り返ると、そこに門野さんがいた。幻かと思った。ごめん、と申し訳なさそうにその幻がドアを閉めようとするので、あわてて弁解した。いまのは母さんに言ったのであって、きみにじゃない。良ければ部屋に入ってほしい。幻がぎい、とドアを開けて、それから足音をならして、入ってくる。本物の門野さんだった。
「どうして」僕はつぶやく。
「リョウタ君のお母さんが、あがっていいって」
「そ、そうじゃなくて。……もう会ってくれないかと」
「え。なんで?」
きょとん、と門野さんは目を丸くする。僕こそ同じ表情を返してあげたかった。あんな風に別れて、あんな風に返事されたら、誰だってそう思う。
「一人でじっくり考えてみたんだけどね、やっぱりわからなかったの」
門野さんが言う。
「私を助けてくれたのが誰なのか、私も知りたい。ちゃんとお礼を言いたい。もしよかったら、リョウタ君も手伝ってほしい」
「……一人で考えたいって、本当に考えるって意味だったの?」
「それ以外にある?」
脱力するように、溜息をついてしまう。僕は夏祭りのあの日、あれを決別の言葉と受け取ってしまった。いつか前に、彼女が言っていた通りだ。日本語って難しい。
「僕は、門野さんが僕に失望して、もう会わないのかと思ってた」
「そりゃあ、びっくりしなかったわけじゃないけど、怒りはしないよ」
さらに溜息。
それから彼女が、こう続ける。
「まあでも、ちょっと残念だったかな」
「結局どっちなの。許してくれるの?」
「一緒に考えてくれたら、許してあげる」
からかうように、門野さんが笑みを向けてくる。英雄ではない、偽者の僕を、彼女はまっすぐと見つめてくる。笑って、あきれて、それから泣きそうになった。
「わかった。一緒に探そう。君を助けた本物の英雄を」
「よろしく、偽者さん」
こうして僕は、一度きりの挽回のチャンスを得た。これが上手くいかなかったら、今度こそホームセンターにいってテントを買いに行こう。
門野さんはクラスメイト全員と何人かの学校関係者に連絡を取り、順番に聞いて回っていたらしい。事故の日、救急車を呼んだのは自分だと答えたものは、一人もいなかったそうだ。
「リョウタ君のことを知ってるひとって、近いのはまずはクラスメイトかなって思ったから。全員聞くのに、三日もかかっちゃった」
「確かに。この町で僕を知ってるひとなんて、限られてる。あとは学校の先生とか」
「うん。授業で関わってる先生にそれとなく訊いてみたけど、なんのことか分からない様子だった」
そもそも、問題の救世主はどうして自分だと名乗らないのか。どうして偽る相手を僕に選んだのか。僕のことを知っているであろうそのひとに、僕は心当たりがない。つまり相手は、一方的に僕のことをどこかから知っていることになる。
「シンプルに考えれば、そのひとには名乗れない事情があるのかも」僕は言った。
「それか、名乗りたくない事情があるのかのどちらか」
「名乗りたくない事情って?」
「うーん、恥ずかしがりとか」
彼女の答えを受けて、思考をさらに深めてみる。
「名乗るとまずい事情があるとかは? 厳密にいえば、そこにいるのがバレたくないひと。そこにいるのが、自分であってはいけない場合」
「なにそれ。脱獄犯とか?」
どこかの脱獄犯が僕を名乗る理由も分からない。
常識的に考えれば、確かに門野さんのアプローチ通り、近くにいるクラスメイトあたりが候補としては妥当な気がする。もっとも可能性のある候補者たちをしらみつぶしに確認していったわけだ。そして誰も自分ではないという。もちろん、隠して嘘をついている可能性もある。
「リョウタ君が初めてこのことを知ったのはいつだったの? 自分じゃない誰かが、自分を名乗ってるって知ったのって、私と会う前?」
「会ってすぐ。看護師さんに教えてもらった。僕の顔を見て、看護師さんと最初に会ったとき、僕のことを知っている風だったから」
「その看護師さんはほかに何か言っていた?」
「通報した声は少しかすれていたって」
そう、かすれていた。
言い方を正しくすれば、かすれさせたわけだ。救急車に通報したその人物が、川村リョウタではないと怪しまれないために。つまり通常の声は、中学生男子の声とはあまり似ていない人物。
「女性。もしくは大人のひとかもしれない」
「それから脱獄犯の女性か、脱獄犯の大人」
門野さんの仮説も一応残しつつ、看護師のことを思い出してみる。いや、あのひとは違う気がする。そういう雰囲気はなかった。それにあのひとが救世主なら、僕にわざわざああして教えることもないはずだ。
情報を整理する。救世主は門野チサと僕のことを知っている。僕たちが同じ中学校に通い、同じクラスにいることを知っている。門野チサとクラスが同じ生徒はほかにも大勢いるが、救世主はなぜか僕を選んだ。たぶん、救世主は、僕が門野さんのことを前から少なからず想っていたことも、知っている。どこかで見ていたのかもしれない。脱獄犯ではなくても、門野チサのストーカーであるとか、そういう犯罪者気質の地元民である可能性も捨てきれない。
「僕のことを、たとえばほかの誰かに話したことはない?」僕は訊いた。
「親にはあるよ。クラスメイトの話はするもん。リョウタ君の話ももちろんした」
「親戚か、お祖父ちゃんかお祖母ちゃんには?」
「いや、そのあたりには話してない。お祖母ちゃんにはあったかも」
「…………」
アプローチを変えて、何気なくはなった質問のつもりだった。ここまで話してきたなかで、感じたことのない違和感を、そのとき抱いた。
この違和感を、僕は前にも抱いている。
いつだ。いつだったか。
彼女の家に遊びにいったときだ。何気なく話していた雑談のなかで、ふと、気になる瞬間があった。そのときは質問しなかったことがある。あえて深く、追求しなかったことがある。
「ねえ、門野さん。答えづらかったら、答えなくてもいいんだけど」
「うん?」
僕は質問を一つだけ投げた。門野さんは少しだけ目を見開いたあと、特に抵抗もなくそれに答えてくれた。僕は自分のなかに膨らみかけた仮説が、どんどん大きくなっていくのを実感した。聞けば聞くほど、その仮説にしか意識が向かなくなっていた。答えていくうち、やがて彼女も僕の顔を見て、その仮説に気づいたようだった。
「まさか……」と、一度彼女がつぶやいて、それきり喋らなくなった。彼女の代わりに僕が続ける。
「少し突拍子はないけど、でも可能性はあると思う」
僕たちは、とうとう答えを導き出した。
4
隣町に入ってすぐ、門野さんに教えてもらった住所の家が見えてきた。厳密にいえば門野さんがお母さんのスマートフォンを勝手にいじり、探しだした住所だ。たどりついた住所には、ポーチの形がどことなく門野さんの家に似ている、小さな平屋があった。
門野さんは隣にいない。僕は一人でここにきていた。そうしなければならない理由があった。門野さんはここにいてはいけないし、いられると都合が悪い。
通りを渡って近づこうとしたとき、ちょうど玄関のドアが開いて、そのひとがでてくるところだった。僕に気づくことなく、そのひとは通りを歩きだす。しばらくついていくことにした。
そのひとはガソリンスタンドに併設されていたコンビニで買い物をしてから、隣にある公園に入っていった。ベンチに腰をおろしてサンドイッチを食べ始めたところで、僕はいよいよそのひとに接触することにした。そのひとはちぎったパンを近くの池に住んでいるらしいカモにあげていた。先に察知したカモが逃げて、遅れてそのひとが、ようやく僕に気づいた。
最初に驚いたように目を見開いて、それから観念したように、息を吐いたのがわかった。このひとと会うのは初めてだった。だけどやはり、このひとは僕を知っている。
「こんにちは」お辞儀しながら話しかけた。僕の動作に懐かしむような目をして、そのひとは笑う。
「……来るんじゃないかとは思ってた。けど、早かったな」
「門野チサさんの、お父さんですね」
「違うと言ってとぼけるつもりも、きみが誰かと怪しむつもりもない」
門野さんのお父さんは、かぶっていたキャップを取る。彼女とよく似ている茶色の髪だった。何より目元がそっくりだった。
「波風立てるつもりはないです。ただ、確認をしておきたくて」
「おれが救急車を呼んだと?」
「口に出せなかったら、かまいません。代わりに何か答え方があれば、それでも」
門野さんのお父さんはスマートフォンを出して、数秒操作したあと、画面を見せてくる。それは通話履歴の画面だった。門野さんが事故に遭ったあの日、あの時刻に、救急にかけている証がそこにあった。
「口に出せなかったら、と配慮してくれるってことは、理由ももうわかってるわけだ」
「接近禁止命令があるんですね」
近くにまたカモが寄ってくる。門野さんのお父さんは、パンをちぎりはじめる。カモはまだ僕に警戒しているのか、一定の距離を保ったまま近づこうとしない。
「チサから聞いたのか?」
「確かめるために質問はしました。最近、一緒に過ごしてきたなかで、小さな違和感があったので」
門野さんの家に遊びにいったとき。彼女は両親が留守にしていることについて、こう表現していた。『お母さん、お父さんと食事にいってるから』。なぜ、わざわざお母さんとお父さんを切り離すのだろうと思った。どうして、両親、とひとくくりに言わなかったのか。それから彼女の部屋にかざってあった写真。両親と写る、幼いときの写真。大切そうに飾っているけど、最近のものではない写真。それで離婚しているのだとわかった。
「あの子の母親とは定期的に会って食事をしている。薬物プログラムの一環で、認められたんだ。無事に終われば、あの半年であの子とも会えるようになる」
離婚の理由と、彼女の父だけが離れた場所でいまも暮らしている理由が、暗に語られた。
「治療が終わったら元に戻ろう、と去年から提案してくれている。本当にありがたいことだ。でも、あいつから娘の話を聞くたびに、どうしても姿が見たくなった」
「それで門野さんを見ていたんですね。近くから」
「ダメだとはわかっていた。一度きりにしようと思っていた。けど、会うたびに恋しくなっていったんだ」
門野さんのお父さんは、時間ができると、できるかぎり彼女を見守っていた。そしてあの日の事故が起こる。自分はそばにいてはいけない存在だが、救急車は呼ばなくてはならない。
「救急車を呼んだとき、どうして匿名で通報しなかったんですか?」
「そうしてもよかった。けど、確実におれではないと印象づけたくて、そのとき浮かんだのが君の存在だった。クラスメイトの君の存在」
通学路も途中までは同じ。僕が門野さんに向ける視線に、さらに遠くから見守っていたこのひとは、気づいていたのかもしれない。
カモがお父さんの落としたパンくずを拾いにくる。僕への警戒心をようやく解き、その場で食べ始めた。僕はもう一つ、確かめておきたかったことを思い出す。
「接近禁止命令は、去年から?」
「そうだ」
「日本だと、接近禁止命令は子供に対して単独では行使できないそうですね」
「よく調べたな。その通りだ」
買ってもらったばかりのスマートフォンで調べた記事には、こうあった。接近禁止命令は、配偶者間の痴情のもつれや、恋愛感情に起因したものとして想定されている。子供への接近禁止命令は、配偶者間の禁止命令がまずあり、それに付随する形で施行される。日本では、単独ではまず発令されない。
「おれは幸運だった」
お父さんの言葉を代弁するように、僕はそのあとをこう続けた。
「ここがアメリカのオレゴン州で、よかったですね」
アメリカのオレゴン州にある小さな田舎町。僕はここで幼少期からずっと過ごしている。生まれたのは兵庫らしいけど、そのときの記憶はない。祖父母は日本にいて、年に一度だけ旅行にいく。日本にいる時間よりも、ここにいる時間のほうが、ずっとずっと長い。
転校初日、彼女を一目見て、恋をするのと同時に、僕は自分の孤独が和らいだのを感じた。それは同じ日本人だったから。ここに住んでからずっと抱いていた永遠の孤独が、温かく解かれていく気持ちだった。
救急車を呼ぶとき、お父さんがとっさに僕のことを思い出したのも理解はできる。アメリカの小さな田舎町に、日本人はほかにそういない。僕を見て、彼女の母から聞いていた同じクラスの日本人であるとわかっていたのだろう。
病院の受付で、顔を見るなり僕の名前がわかった看護師のことも、理解できる。この田舎町に日本人は僕と門野さんだけだから。
門野さんと話す間、僕たちは常に日本語を使っていた。家族としかないことだから、そういう交流が嬉しかった。日本語は難しいね、なんて笑える同級生がいることに、どれだけ救われたか。彼女の部屋で、生まれ育った町の話もした。門野さんが僕に気を許してくれたのは、もしかしたら同じ日本人同士、というのもあったのかもしれない。
「日本の法律じゃ、ここまでの自由はなかった。まあそれを言ったら、この国にきてなかったら、薬物にも手を染めていなかったかもしれないけどな」
言ったあと、すぐに思いなおしたのか、お父さんはこう続けた。
「いまのは訂正する、やっぱり悪いのはおれだ」
「……ここに来る前に、門野さんから伝言を預かってます」
「伝言?」
「手紙だと、万が一のときに不利な証拠になってしまうかもしれないからと。伝えてもいいですか?」
パンくずを食べ終えたカモが、満足して去っていく。
僕たち二人だけになり、風が一つ吹いて、お父さんはうなずいた。
彼女から預かってきた言葉を、僕は声に乗せて届ける。
「『見守ってくれてありがとう。直接、お礼を言って抱きしめられる日を楽しみにしてます。あと少しだけ、我慢してるね』」
伝え終えて、ちゃんと届けられただろうかと不安になった。やはり多少のリスクを負ってでも、手紙を用意するべきだったかもしれない。
そっとお父さんの顔をのぞいて、その不安が風に運ばれて消えた。僕はここにきてよかったのだと、ようやく少し思えた。
お父さんは口元を手で押さえ、こらえるように身をかがめる。一言の声も発さないように、ぐっと力を入れて、ただ静かに体を震わせていた。
誰にも気づかれないように。その存在が、暴かれないように。
町境にかかる橋のところで、門野さんは僕を待ってくれていた。向こうが手を振ってきて、振り返す。僕の好きな女の子は、夏の日差しの濃さに負けない、派手な赤いワンピースを着ている。
「お父さんに会えた?」
「うん。伝言も届けてきたよ」
「ありがとう」
「お父さんからさらに伝言を預かってるけど、どうする?」
門野さんは首を横に振る。
「直接会ったとき、聞くからいい」
「お父さんが、君はそう言うだろうって言ってた」
笑い合う。
それから僕たちは自分たちの町の、自分たちの家に向かって歩いていく。途中で彼女が手を握ってきた。
「もう一回、ありがとう。リョウタ君のおかげで、お父さんにちゃんと伝えられた。知るべきことも知れた」
「こちらこそだよ。偽者に挽回のチャンスをくれた」
でもまだ終わりじゃない。
僕は彼女の手を、握り続けるためにしなくちゃいけないことがある。正直、ここに戻ってくるまでの間、そのことだけをずっと考えていた。今日しかないと。
「前に門野さんが話してたよね。告白の文化って日本にしかないんだって」
「噂だけどね」
僕は立ち止まる。一歩遅れて、彼女も止まる。一度手が離れる。
「告白の言葉なんて、言うまでもないってことなのかもしれない。でも僕はやっぱり日本人だから、日本式でちゃんと伝えるよ」
向かい合って、彼女を見つめる。
「チサ。この町にきてくれて、ありがとう。僕は君の事が好きです」
僕の呼び方に彼女はすぐに気づく。
その瞳が、水気を帯びたように輝いて、震える。
彼女が笑みを浮かべる。その口角がどんどん上がっていく。僕は返事を待った。どんなにじらされても、どんな答えでも、耐える覚悟だった。
「じゃあ、言うまでもなくここはアメリカだから、アメリカ式の答え方でシンプルに」彼女が言った。
そうして身を寄せてくる。
顔が、瞳が、唇が近づく。
僕は思わずのけぞる。それで彼女が、む、と一瞬だけ不機嫌な顔になる。
「なに。外じゃ恥ずかしいの?」
「いや、その、誰かに見られてるかもしれないし」
「別にいいじゃん」
「その誰かといつか会ったとき、怒られないか心配だ。殴られるかも」
「そんなことしないよ。その誰かは私が幸せだと、きっと喜んでくれるよ。ちゃんと幸せだって、楽しく過ごしてるって、しっかり見せないと」
彼女が言う。
「ねえ、だから手伝ってよ。私を助けてくれない?」
断れるわけがなかった。ずっと前から、思っていたから。僕は門野さんを助けたかった。だから答えは決まっている。このあとの景色も、唇に触れる感触も、僕にはもうわかっている。そしてそれを彼女だけが知っている。
言うまでもなく。
( 了 )