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中村航の恋愛短編『小野寺くんは覚えている』

中村航さんから新作短編を頂きました。前回掲載した『頼道さんの欲しいもの』の連作になっています。物静かで優しいけど自己主張弱めな青年、小野寺。どこかにいそうな彼には、人とはちょっと変わった癖があり……。鮮烈な印象の1行目からラストまで、目が離せない恋愛小説です。

作者プロフィール

中村航(なかむらこう)

『リレキショ』で第39回文藝賞を受賞しデビュー。代表作に『夏休み』『ぐるぐるまわるすべり台』『100回泣くこと』など。『デビクロくんの恋と魔法』『トリガール!』などメディア化作品も多い。大規模メディアプロジェクト『BanG Dream! バンドリ!』のストーリー原案・作詞など小説以外の活躍も。


   

小野寺くんは覚えている


 好きという気持ちが風に吹かれている、と小野寺修一は思った。
 四月になって初めて晴れた空の下、体の動きを止めた彼は目を細めた。汗を気持ちよく乾かす透き通った風が、季節の始まりを告げているようだ。
 と、ぼんやりしていた小野寺に、岡智美の声が飛んできた。
「修一!」
 次の瞬間、首の下あたりに衝撃を受けた小野寺の前に、てん、てん、てん、とボールが転がった。衝撃でずれたメガネを急いで直し、小野寺は現在に焦点を合わせていった。
「お兄ちゃんアウト!」
 子どもたちの笑い声が聞こえた。コートの外に出る華奢な小野寺の動きを待って、ボールを拾った子がドッジボールを再開させる。
 毎週末にある、児童ボランティアサークル「あすなろ」の活動だった。
 大学に入ってから三年間、小野寺は晴れた週末の多くを、この公園で過ごした。この街の子どもたちと遊ぶことが、このサークルの主な活動だが、もしかしたら遊んでもらっているのは自分たちのほうかもしれない。地域の子どもたちの成長をサポートすると言いつつも、実際には子どもたちの笑顔に元気をもらってばかりだ。
「行くでー!」
 ときどき関西弁になる智美が、相手のリーダー格の男子めがけてボールを放った。
「ハワイエビ!」
 ぴょんと跳ねながら、男子は体をくの字に曲げてボールを避けた。それは彼が得意とするボールのよけ方なのだが、何故ハワイエビと呼ぶのかはわからない。
 ボールを拾った別の男子に、智美は狙われた。「ハワイエビ?」と言いながらボールを避ける智美に、子どもたちはどっと笑う。外野に立った小野寺は、智美を見つめる。好きという気持ちは、風に吹かれ続けている。
「ガリガリお兄ちゃん、またねー」
「はーい、寄り道しないでねー」
 初めて小学生にガリガリ君と呼ばれたとき、これはさすがにナメられすぎではないか、と思った。だけど自分の身体的特徴からあだ名がつくとしたら、ガリガリかメガネのどちらかに関連したもので、実際、中学のときのあだ名は、ガリガリ君メガネ味だった。
 妥協するラインを考えた小野寺は、ガリガリお兄ちゃん、と智美に呼んでもらうことにした。智美はその呼び名に、小学生をうまく誘導してくれた。
「智美ちゃんまたね!」
「またね。気をつけて帰りなよー」
 智美の元気な声が、夕暮れの公園に響いた。
 子どもたちが公園を出ていくのを見届け、小野寺たちは帰り支度をはじめた。車で来ていた後輩たちとは別に、小野寺と智美は最寄りの駅まで歩いた。四月の微風が、少しだけ勢いを増した気がした。
「私たちも次が最後かな、サークル」
「そうだね。モリゾーみたいに、就活に集中しないと」
 大学四年になると引退するのが、児童ボランティアサークル「あすなろ」の慣習だった。四年生には小野寺と岡智美の他にもう一人、モリゾーと呼ばれる森園鉄平がいる。森園はサークルのリーダーだったが、就活で忙しくなってから不参加が続いていた。
「この前、インターンに行ってきたよ」
 電車に乗り込んだとき、智美が言った。
「なんて会社?」
「徳川造園っていう、造園の会社」
「へえー。造園か。智美は植物が好きだもんね」
「うん。めっちゃ好き」
 車内に吹くはずのない風を、小野寺は感じていた。智美の部屋に飾ってある観葉植物や盆栽の話が続くなか、その風は緩やかに吹き続ける。
 関西出身の智美は、感情が伴った言葉を発するときだけ関西弁になる。東京に来た関西出身者は、関西弁を通す者と、そうでない者に分かれるが、智美のようなハイブリッド型が、小野寺にとっては最も好ましく思える。
 僕は就職どうしようかな、と小野寺がつぶやくよりも先に、智美が口を開いた。
「モリゾーは、どんな会社に就職するのかな?」
 そっちのほうが気になるんだな、と小野寺はシンプルに思った。車内に吹く風は、急に止んでしまった。
「どうだろう。モリゾーは大手に行きそうだけど」
「うん。そうだね。……モリゾーって、まだ彼女と付き合ってるのかな?」
「多分。去年からだから、もう一年くらいになるのかな」
「一年か……」
 智美と小野寺は、大学に入ってすぐに知り合った。それから三年、智美にとっての小野寺は、何でも話せる友人、ということなのだろう。智美がまだ何か言いたそうにしているのを小野寺はわかっていたけど、彼女の降りる駅に着いてしまった。
 智美が森園に好意を抱いているのを、小野寺はずっと前からわかっている。わかっていないのは森園だけなのだ。
「じゃあ、また来週ね」
「うん、じゃあ」
 智美が電車から降りると、ゆっくり扉が閉まっていった。
 話したりする機会が多いが故に、小野寺は風をよく感じるのだが、ただそれだけのことだ。智美は風を感じることなどないだろう。
 手を振る智美の姿が、窓の枠から消えていく。
 空いた席に座った小野寺は、すぐにいつものヘッドホンを着けた。

 ――うん、めっちゃ好き……。

 ――うん、めっちゃ好き……。

      ◇

「デスティニーオブザナイト。刻よ、目覚めよ」
 声を合わせた二人が、カードを一枚、卓上に置いた。カードゲーム『目覚めの刻』のファーストテイクだ。深夜一時、小野寺と森園の恒例のバトルがはじまった。
「就職したら、ゲームなんてやってられなくなるな」
 五枚の手札を伏せて並べながら森園が言った。実家住まいの森園が〝小野寺ハウス〟にやってくるのは、二人の共通の趣味のカードゲームをするときだけだ。部屋飲みをしたりするときには、別の友人の部屋が選ばれる。
「ファーストフェイズ〝情熱系アンドロイド〟」
「げ、最初からそれかよ」
 ぶつぶつ言った森園は自陣のカードを横に曲げ、守備表示にした。
「〝合法妄想Freeze me〟」
「あ、そっちね」
 小野寺の部屋は家賃の低さだけで選ばれた。最寄り駅までは遠く、その駅から大学までも遠い。小野寺は実家にいたとき庭のプレハブに住んでいたが、住み心地はそんなに変わっていない。
 何もない部屋で存在感を放っているのは、主に音声ファイルの編集をするためのPCだけだ。来客と言えば森園がカードゲームをしに来るくらいだから、特にインテリアにこだわる気もない。
「モリゾーは就活どうなの?」
「たぶんゼネコンだよ。『S建設』になりそう」
「え!? もう内定出てるの?」
「内定はまだだよ。でも自信はある」
「へえ……」
 森園は何事にもポジティブで、また貪欲でもあるし、決断も行動も早い。カードゲームのなかでしか勇敢に行動できない小野寺とは対照的だ。
「就職ってわくわくするよ。家も出たいし、結婚もしたいし」
「結婚? 誰と?」
「彼女に決まってるだろ。〝疾風シークエンス〟」
「マジか!」
 森園から結婚の言葉が出てきたことに驚いていたのだが、伏せカード〝疾風シークエンス〟への驚きのほうが勝ってしまった。森園の一つ年下の彼女のことは何度も聞いていたが、いつもカードゲームをしながらなので、深い部分まで聞くことはなかった。
「修一はどうなの? 就職、そろそろ本気で考えろよ」
「うん、まあ……」
 小野寺は企業のインターンにも参加していないし、説明会にもまだ行ったことがない。傍からは全く就職活動をしていないように見えるだろう。
「サークルにもまだ行ってるんだろ?」
「うん。あ、でもあと二回で、智美と一緒に卒業するよ。モリゾーはもうサークル来ないの?」
「そうだなー。中途半端に行かなくなっちゃったから……子どもたちにも挨拶しなきゃな」
「じゃあ、来週かその次に来なよ。智美もモリゾーのこと気にしてたし」
「確かに智美とも、しばらく会ってないしな。じゃあ、ボランティアの後、みんなで久々にドライブいこうか。おれんちの車で」
 ナイスアイデアだろ、という感じで、森園が手を打った。
「ドライブ、久しぶりだなあ。〝Shiny Wizard〟」
「えええ!?」
 画面の電源だけ落としてあるPCのファンが、ひゅう、と控えめな音を起てて回った。

      ◇

「おれ、モリゾーと同じ組がいい!」
「わたしもモリゾーと一緒がいい!」
「お前ら、ちょっと待てよ。順番順番!」
 最後のボランティアでも、森園は子どもたちに大人気だった。
 運動ができて、勉強もできて、顔もいい。子どもはそういうのをすぐに見抜く。サークルに参加し始めた一年の頃から、森園は子どもたちの心をがっちりと掴んでいた。そもそも森園を“モリゾー”と呼び出したのは子どもたちだ。
「さすがモリゾーだね。しばらく来てなかったのに、すぐ溶け込んじゃってる」
 森園が子どもたちと遊ぶ様子を見守りながら、智美が微笑んだ。
「包容力っていうのかな。まさに森の精だよ」
 小野寺が言うと、智美はうんうんと嬉しそうに頷いた。
「先輩、そろそろ終わりなんで、挨拶いいですか?」
「あすなろ」のニューリーダーに指名された後輩が、小野寺たちのところにやって来た。
「森園先輩からお願いします」
「うん」
 森園、小野寺、智美の順で並ぶ正面に、子どもたちが体操座りをした。一歩前に出た森園が話し始めると、一人の女の子が下を向いて泣き始めた。それにつられるように、何人かが洟をすすった。
「みんな、ありがとう。この公園でのボランティアは卒業しますが、またどこかでみんなに会える気がします。その時はでっかい声でモリゾー! って呼んでください。約束だよ!」
「はい!」
 返事と一緒に、子どもたちが拍手を送った。この拍手がやんだら小野寺の番なのだが、頭のなかはまだ何もまとまっていない。
「じゃあ、次は、小野寺先輩」
「は、はい……えーっと……」
 などともぞもぞ声を出していると、森園と智美にばん、と背中を叩かれた。その衝撃でずれたメガネを直すと、ようやく目の前に焦点が合った気がした。
「あの、とにかく、僕はみんなと仲良くなれて、すごく楽しかったんです。僕はこのサークルで夢を見つけたので……みんなも何か夢を見つけてください。夢は大きな力をくれます。たぶん……。ありがとうございました」
 子どもたちはおー、とか言いながら拍手をした。いつもの淡白な小野寺らしくない挨拶に、森園と智美も驚いた顔をする。
「じゃあ最後、智美先輩お願いします」
 智美は笑顔のまま、とん、と前に出て、子どもたち一人ひとりと目線を合わせた。
「うちからは一言だけや。みんなー、おおきに!」
 子どもたちは「おおきに!」と大声で返事し、長い拍手を送った。後輩たちも森園も胸いっぱいの表情で拍手を送っている。小野寺は春の嵐のような風を感じ続ける。
 初めて智美と話したときは、今よりももっと関西弁の頻度が多かった。小野寺は関西出身ではないのだが、関西弁に郷愁のようなものを感じる。好きです、と言われるよりも、好きやで、と言われたい。ありがとうと言われるより、おおきに、と言われたい。
 智美への拍手がやんだところで、お別れのセレモニーは終わった。
 全員が集まった場所から少し離れたところに置いた自分のリュックに、小野寺はこっそり目をやる。
 
 ――みんなー、おおきに!

      ◇

 公園の入り口前に停まったハスラーが、夕日を浴びて赤く光った。
 車の後部シートに、小野寺は黙って乗り込んだ。智美は一瞬、どうしようと迷うそぶりを見せてから、すぐに助手席に乗り込んだ。
 小さくて愛嬌のあるこの車の助手席は、智美が乗るのが一番いい。以前、三人でこの車に乗ったときとも、同じ配置だ。
「みんなで行くのは、軽井沢に行ったとき以来だな」
「そうだね。あの時はすっごく怖かったけどね」
「今日はもう大丈夫だよ」
 二年くらい前に、三人で軽井沢に行ったことがあった。森園がまだ免許取り立てで、智美も小野寺もひやひやしながらのドライブだったけど、ひとけのない高台から見上げた星空は絶景だった。今夜もう一度、あそこへ行くのだ。
 運転は森園に任せていたのだがが、なかなか幹線道路に入らなかった。むしろ人気の多いほうへ、車は進んでいる気がする。変だな、と思っていたら、車は何の説明もなく、なじみのない駅の前で停車した。
 スマホを操る森園を、後部座席からぼんやりめていた。いきなり電話を始めた森園は、ああ、とか、こっち、そう、とか声をだす。
 どういうことかと思っていると、こんこん、と後部ドアの窓が叩かれた。
「はじめましてー、綾乃です」
 ドアを開けた女子は綾乃と名乗った。戸惑う小野寺だったが、どうやら森園と彼女の間では話がついているようだ。彼女は小野寺の隣に、失礼しまーす、と乗り込んできた。
「えーっと、付き合ってる畑山綾乃。歳は一個下」
 と、森園が言うと、
「よろしくお願いします」
 と、綾乃が続けた。
 意表を突かれた小野寺は、はじめまして、と棒のように答えた。車内にはもちろん、一切の風は吹いていない。
「何かの機会に、二人に紹介したかったんだよ」
 突然すぎて頭がうまくついてこなかった。というより、森園はさらっと爆弾のようなことを言っているが、大丈夫なのだろうか……。誰か怒ったり傷ついたりすることが、起こってしまうんじゃないだろうか……。
「智美さんと、小野寺さんですね。いつもお話うかがってます」
 物怖じせずハキハキと喋る彼女は、いかにも森園と相性がよさそうだった。
「……私、席代わるよ」
 ようやく声をだした智美がシートベルトを外そうとした。
「お気遣いなく! 今日はみなさんのドライブがメインで、私はおまけで付いてきただけなんで」
 大きな声で言った綾乃を、智美がバックミラー越しにちらと見た。その危うい表情に、小野寺の緊張感は高まっていく。
「よっし、じゃあ行こうか!」
 しゃあしゃあと言う森園に〝戦慄の羞恥交換〟カードを突きつけてやりたかった。サイドブレーキを解除しギアをDに入れた森園は、四人の乗った軽自動車を、のんびり前に動かす。
 考えてみれば森園は、よくこういうことをするのだ。周りの人間を試すような気持ちがあるのか、サプライズ的なことが好きなのか、それとも無意識なのかわからない。小野寺がボランティアを始めたのも、何の説明もなく森園に公園に連れていかれたのがきっかけだ。
「それで、みなさん、どこに行くんですか?」
「軽井沢だよ」
 綾乃に対しても、何もかも説明しているわけではないようだ。
 走り出したハスラーの車内で、森園による今から向かう場所についての説明が始まった。二年前に三人で見た星が忘れられないくらいきれいで、今日の天気ならもっときれいに見えるかもしれないな。あのときは夏の大三角形が見えたけど、今日はもっと見えるかもしれないよ。
 ――あれはデネブとベガと、あとひとつ何だっけ……?
 一つ、二つ、三つ、とウィンカーを瞬かせ、車はようやく幹線道路に入った。少しずつ馴染んできた車内の空気のなかで、自己紹介タイムのようなものが始まろうとした。
 自己紹介と言っても小野寺は名前を言っただけで、あとは森園が流れるように説明をしてくれた。智美が話しているときにも、気の利いたことを質問して、会話を盛り上げている。
「綾乃とはバイト先で知り合って、付き合いだしたのは半年くらい前」
 森園は自分たちのことは、それ以上説明する気がないようだった。だけど綾乃が説明を引き継ぐように、活き活きと喋りだした。
「それで私たち、どっちから告白したと思いますか?」
「……それは、やっぱり……モリゾーかな」
 智美の小さなつぶやきに、ん? という感じに首を捻った綾乃は、小野寺にも返事を促した。
「んー……、やっぱモリゾーかなあ」
「モリゾー!」
 声を上げた綾乃が、あははは、と笑った。
「可愛い! え、モリゾーって呼ばれてるの、全然知らなかった」
 小野寺にとってはモリゾーはモリゾー以外のナニゾーでもなかったが、綾乃には新鮮だったようだ。
「じゃあ、綾乃さんは何て呼んでるの?」
「ゾノ」
「ゾノ!? 脚速そう」
「綾乃は機嫌いいときだけ、ゾノくんって呼ぶんだよな。あれ? 何が面白いの?」
「面白いよ、ゾノ。ゾノくん」
「私もこれからゾノのことゾノって呼ぼうかな」
「私もモリゾーくんのことモリゾーって呼びたい!」
 呼称を入れ替えただけなのだが、車内が一気になごんだ。高速道路に入ってからも、綾乃は次々と質問を飛ばしてくる。
「みなさん、就活忙しいんですか? ゾノは最近、その話ばっか」
「そういえば智美、インターンどうだった? 徳川造園だっけ?」
 森園がちら、と助手席のほうを見た。
「うん。何もかも理想通りってわけじゃないけど、今のところ第一志望だよ。モリゾーのほうは?」
「俺は今のところS建設しか眼中にないかな」
「すごいね。入社したら造園の仕事ちょうだいよ」
「おー、お互い入社できたらな」
 二人のやりとりに集中していると、綾乃がくるりとこちらを向いた。
「小野寺さんはどんな企業を志望してるんですか?」
 顔を近づけて屈託なく聞いてくるので、小野寺は少し赤面した。答えに窮していると、智美まで振り向いてきた。
「そういえば修一、夢を見つけた、って言ってなかった?」
「おお、そうだ。子どもたちに、夢を見つけたって言ってたよな。お前、何になろうとしてるの?」
「うん……」
 いつまでもまごまごしていられないので、小野寺は覚悟を決めて言った。
「……公務員になりたくて」
「公務員?」と、森園と智美が同時に声をあげた。
「公務員って言っても、いろいろありますよね」
 隣に座っている綾乃はこちらを向いたままだ。
「……やりたいのは、……緑政土木とか、都市整備とか」
「緑政土木とか都市整備ってことは、アレか」
「……うん、……公園を造りたいなって」
「おー!」
 ステアリングを握る森園が顔を上にあげた。
「それエモいよ。修一が行政で、おれがゼネコンで、智美が造園ってことは、三人で公園が造れちゃうわけだ。お前なんで黙ってたの? めっちゃアガるよ、その話。なあ智美」
「ほんま、最高やん」
 智美の関西弁に風が吹いた気がした。
 森園と智美が公園を造る側に進むなら、自分は造ってもらう側を目指そうかな……。そんなふうに思ったのは、大学三年の半ばあたりからだ。それから密かに公務員になるための勉強を始めたけど、二人に話したり、相談したりしたことはなかった。難関な公務員試験を目指すなんて恥ずかしくて言えなかったし、そもそも自分の進路なんて二人とも気にしてないんじゃないかと思っていた。
「小野寺さん、応援してます!」
「ありがとう……」
「頑張ってね、修一」
「……うん」
 小野寺は何かひとつ、仕事を終えたような気がしていた。
 目指してもそうなれるかどうかはわからない。なったとしても将来がどうなるかはわからない。だけど今は、自分がきっかけを見つけたことが嬉しかったし、地道に努力ができていることも嬉しかった。
 しょうもない自分が見つけた小さな〝きっかけ〟は、やがて大きな〝意味〟に変わるかもしれない。
「修一がそんなことを考えてるなんて、全然知らなかったな」
「どうして言わなかったんですか? 小野寺さん」
 女子二人にあれこれ訊かれて、小野寺はまた返答にまごついていた。その間、森園は何も喋らず、じっとステアリングを握っていた。何か変だな、と、小野寺は少し思った。やがて小野寺の無言が異変によるものだと気付いていった。
「……どうしたの? 大丈夫?」
「うん……、前の車が……ちょっとやな感じで」
 高速道路は空いていて、前後を走る車は、ほとんどいなかった。ハスラーはずっとマイペースに走っていたのだが、今は違う。前を走るSUV車が蛇行したり、ブレーキを踏んだりと、おかしな走りを繰り返し、それに付き合わされている。
「抜いちゃおうか」
 アクセルを踏み込む森園を、他の三人は黙って見守った。四人の乗った軽自動車は、高いエンジン音を立てながら、追い越し車線を進んだ。SUV車を引き離して、左車線に戻る。
「……あ、来ちゃったよ」
 バックミラーを見た森園がつぶやいた。SUV車が爆発的なエンジン音を響かせながら、ハスラーに近付いてくる。
「……まじかよ」
 SUV車に追い抜かれ、再び前に張り付かれた。右に避けようとすると右を塞がれ、左に避けようとすると左を塞ぐ。進路を塞いだうえで急に減速し、その度に森園はブレーキを踏んだ。減速を繰り返すSUV車に、やがてハスラーは停車させられてしまった。
「……あ、降りてきた」
「ゾノ、絶対、開けちゃだめだよ」
 SUV車から降りてきた二人の男が、ハスラーのボンネットをばんばん、と叩いた。ひ、と短く智美が悲鳴をあげる。彼らは何か腹をたてているようで、意味のわからないことをわめき散らしている。
 一人の男が運転席の隣のウィンドウを叩きながら、空けろよ、コラ、と、やっと聞き取れることを叫んだ。反応しない森園に業を煮やしたのか、金属のライターか何かでサイドミラーを叩く。
 鏡面に蜘蛛の巣のような亀裂が走った。小野寺たちは声も出ない。
 器物破損で我に返ったのか、それともそれで満足したのか、 二人組はSUV車に戻っていった。そのままけたたましいエンジン音とともに走り去っていく。
「まじかよ……」
 森園はウィンドウを開け、傷の入ったサイドミラーに触れた。
「……煽り運転なんて、ほんとにあるんだ」
 と、智美が言った。平静を装っているが、声が震えている。
「……あー、ドライブレコーダー付けておけばよかったな。……誰かナンバー覚えてない?」
「……撮っておいたから、大丈夫」
 と小野寺は言った。手元のスマホを確認し、二人が暴れ走り去る様子や、智美の怯える横顔が映っていることを確認する。画面を拡大すればナンバーも判別できる。
「うん、ナンバーもわかるよ。後で送る」
「まじか! 撮影なんてしてたんだ。全然気付かなかったよ」
 小野寺は確かに、誰にもにもわからないようにこっそり録画をしていた。だけど考えてみれば、隠れてする必要はなかったかもしれない。
「相手に見えるように撮ればよかったじゃん。全部撮ってるぞって」
「ああ……、まあそうだったかも」
「でも、それだと、かえって相手が逆上したかもしれないよ」
 智美は小野寺をかばうようなことを言った。
「確かに。修一ありがとな。ぼーっとしてるようで、いざってとき頼りがいがあるな」
「いや……別に」
 こっそり録るのなんて、別に勇気や決断力がなくてもできる。本当は誰にだって、簡単にできることだ。
「とりあえずゾノ、ここで停まってないほうがいいんじゃない?」
 綾乃が急に冷静な指摘をした。高速道路は空いていたが、ときどき後続車が不審な物でも見るように減速しながら通り過ぎていく。
「……そうだな」
 サイドブレーキを解除した森園がアクセルを踏み込んだ。
 深夜の高速道路で、ドアミラーに映るのは後続車のヘッドライトくらいだ。割れたドアミラーでも、何とか役割を果たすことができそうだ。
 トラブルの余韻はまだ車内に残っていて、このまま引き返そうか、という話になった。だけど、このまま帰るとあの連中に負けたみたいな感じになる、と森園は言った。それに目的地まで、あと少しだし。
 高速を下り、ハスラーは進んだ。
 誰も、目的地への道順をはっきり覚えているわけではなかった。運転する森園の薄い記憶に従って進むのだが、全く覚えてないと断言する分かれ道もあった。だけどそういうところで、意外と小野寺が覚えていたりした。
「あのときは智美が、軽井沢にも温泉があるんだ、って驚いてたんだよ」
「……よく覚えてるね、そんなこと」
「修一って、ときどき変なこと覚えてるよな」
 確かこっちだ、ここだ、いやこっちだ、と、探り当てるようなドライブが楽しかった。いつしかさっきのトラブルのことは、四人の頭から消えていたように思う。
「ほんとにここ?」
「そうだよ」
 綾乃は首を捻っているが、確かにここだった。小高い山の山頂近くで、周りに人口の灯りがなくて、視界をさえぎる木もなくて空がひらけている。道沿いの車が数台停まれるようなただのスペースだが、三人でドライブしたときに偶然、辿り着いた。
「じゃあ、ライト消すよ」
 森園がハスラーのライトを消すと、一切の光や音が消えた気がした。
「わあ!」
 やがて綾乃が無邪気な声をあげた。車の外に出ると、真っ暗闇に目が慣れなかった。だけど見上げれば、無数の光が網膜に飛び込んでくる。
「きれいだねー」
 小野寺の隣、伸びをするようなトーンで智美が言った。
 前に来たときには、めっちゃきれいやね、と関西弁で森園に話しかけていた。その姿を小野寺は、後ろから見守っていた。自分たちの立ち位置を、夏の大三角形みたいだな、と思っていた。
「来てよかっただろ」
「うん」
 仲良さげに綾乃と森園が話すのを、今は小野寺と智美が見守る格好だった。
「……きれいだね」
 二年ぶりの満天の星空に、小野寺は凡庸なことを言った。
「うん」
 と言っただけの智美の言葉を、小野寺は美しいと思う。多分、この星空と同じくらい、智美の言葉は美しい。
「なあ、夏の大三角形って、もう見える?」
「見えるんじゃない? 知らんけど」
「ねえ、あの三つかな。ほら、アルパカだっけ?」
「アルタイルだろ」
 自分たちはもう、三角形ではなかった。三角形を作るとしたら、今わいわいと騒いでいる森園と綾乃と智美で、自分はただの傍観者だ。でもそれでよかった。
 覚えておこう、と小野寺は優秀な採譜者(トランスクライバー)のように思った。自分は彼らの息づかいや声を、覚えておけばいい。彼らがそれを忘れてしまっても、自分はずっと覚えている。
 夜空の三角形を追う三人を、小野寺はハスラーにもたれながら静かに見守った。

 ――きれいだねー

      ◇

 帰りの車は綾乃が助手席に座り、後部シートに智美と小野寺が並んで座った。
 それがとても普通で、とても自然で、小野寺はしゅん、とした気持ちになってしまった。それは何も始まらない、何かの終わりだ。智美がどんな気持ちでいるのかは、横顔からは読み取れない。
 高速道路を走り、夜が明ける手前には、綾乃の家の前に着いた。
「綾乃、おやすみ」
「ゾノ、おやすみ。みなさん、またご一緒しましょうね」
「うん、ぜひ」
「じゃあね」
 手を振って別れ、車はまた走りだした。智美はずっと自然な態度だったが、車内が三人になると、やっぱりこれがいつもの顔と声だな、とわかった。
「彼女、かわいいね」
 智美が言うと、森園の雰囲気がわかりやすく緩んだ。
「まあ、気分屋だから、大変なときもあるけどね」
 そんなことを言いつつも、何か揺るぎないものを感じさせる。そんな森園の揺るぎなさや健全さから生まれる頼もしさを、智美は好いているのだろう。
「でも、めっちゃ好きなんでしょ?」
「まあ、そうなんだけどね」
 揺るぎなさも健全さも結構なことだが、智美の気持ちを思うといたたまれなかった。どこにも届かないその気持ちは、悲しくて切ない。小野寺自身の届かない気持ちと一緒になって、その悲しみはただ輪郭を失っていく。
「結婚するときには呼んでくれる?」
「ああ、もちろんだよ。修一も一緒に来てくれよ」
 小野寺は以前から、おれは早く結婚したい、などと発言していた。だから智美もそんなことを訊いてしまうのだろう。本当はそんなこと訊きたくないに決まってるけど、訊いてしまうのだろう。
 智美の家が近付いてきた。何も始まらなかった何かの終わりも、もうすぐ終わる。
「じゃあ、ここでいい?」
「うん、ありがとう」
 微笑みとも無表情ともとれる表情で、智美がドアを開けた。
「おやすみ」
 そのまま振り返らず歩く智美を、小野寺は見送った。
 泣いているのかもしれないな、と無力に思いながら。おやすみ、智美、よく眠れるといいんだけど、などと思いながら。
 再び走りだしたハスラーは、小野寺ハウスに向かった。夜は白々と明け始めている。
 駅からも大学からも遠い小野寺ハウスまで、二、三十分はかかるだろうか。後部座席の小野寺に向かって、森園は前を向いたまま言葉を投げてきた。
「ところで、お前さ」
「……なに?」
「智美のこと、どう思ってるの?」
「え?」
「二人が付き合ったら、俺は祝福するけどね」
「……付き合うって……どうして?」
「好きなんだろ? 智美のこと」
「いや……」
「今まではしょっちゅう会えたかもだけど、これからはそうもいかないわけだし」
 小野寺は否定したつもりなのだが、伏せカード〝季節の穂〟のように無視された。
「それとなくこっちから告白すれば、向こうだって意識すると思うよ」
「……だから、そんな気はないんだって」
「まあ、無理にってことじゃないんだけど……」
 ふう、と息をついた森園が黙ると、魔法防御カード〝沈黙の刻〟が発動したようだった。長かったドライブはもう、終わりに近付いている。
「だけど、お前ってさ、なんかいろいろあきらめてない?」
 まっすぐ前を向いたまま、森園は核心を突くように言った。
「欲しいものは欲しいって言ったほうがいいよ」
「………」
 そうだよな、と思いながら、小野寺もまっすぐ前を見た。そんなことはわかっている。わかっているけれども――、
 誰もがお前のように生きられるわけじゃないんだよ、と小野寺は思った。
 自分を守ってくれるのは、勇気や行動力ではない。今までだってこれからだって、小野寺を守ってくれるのは、諦めの心だ。
 諦念だけは自分を裏切らず、自分を守り続けてくれる。期待しなければ傷つくことはないし、諦めていれば失うことはない。僕のことだけじゃないんだぞ、と、小野寺は思った。
 智美だってきっと、その道を選ぶしかないのだ。だから、
「……あきらめなきゃならないことだって、あるよ」
 小野寺は智美のために、そう言った。前だけを見つめる者には、永遠にわからない世界がある。
「……ああ、まあそうか。それにお前、夢があるんだったな。何でもあきらめてるわけじゃないな。ごめんな」
「いや、別に……」
 小野寺がそう答えると、森園が突いた核心はもやもやと霧散していった。気付けばすっかり朝の光が夜を追いやり、小野寺のアパートまであと交差点二つだった。

      ◇

 冴えない日々、公務員試験というものが、小野寺にとって唯一の光だった。
 彼は今すべきことに集中していた。一人の部屋でひたすら勉強し、ときどき森園や智美のことを思う。特に智美のことを思う頻度は、少なくなかった。

 ――頑張ってね、修一
 ――……うん

 一人の部屋で、あの日の会話をリフレインした。そしてその先を空想する。
 空想の会話のなかでは、小野寺は返答にまごつくことなんてなかった。風はゆるやかに、いつも小野寺の頬を撫で続ける。
 勤勉なもぐらになった気分で、小野寺は公務員試験の準備を続けた。その日が来ると、小野寺は誰にも告げずに試験を受け、またその後、面接などもこなした。
 八月末の今は、試験や面接の結果を待っているところだ。一般企業への就活は全くしていないから、公務員がダメだったら就職浪人も覚悟している。だけどこれだけ勉強したのだから、何とかなるんじゃないか、とも思っている。
 軽井沢へのドライブから、三ヶ月以上が経っていた。その間、森園や智美とは一度も会わなかった。
 ひょっとしたら二人との縁は、サークル活動の終わりとともに切れてしまったのだろうか……。あのドライブは、僕らのお別れ会みたいなものだったのだろうか……。
 そのことを自分が受け入れているのか、いないのかもわからなかった。もやもやした諦念のようなものは、思春期の終わり頃から、ずっと小野寺の周りを取り巻いている。
 あるとき部屋のPCでプレイリストOKAを編集していると、森園からいきなりメッセージが届いた。

 ――日曜日、久しぶりに三人で会わない?

 こちらの意見を聞かずに行動しがちな森園は、すでに店を予約したようで、日時も場所も指定してきた。こういうときは流されるように参加してしまいがちな小野寺だったが、面接が控えているから、と断ることにした。本当は既に面接を終えていたけど、結果がでるまでは、彼らと面と向かって話したくなかったから。
 結局、森園と智美は二人で会うことにしたようだ。
 二人が会う日曜日が過ぎ、その翌日、小野寺のスマートフォンに驚きのメッセージが届いた。

 ――小野寺さん、会えませんか?

 驚いたのは内容よりも送り主で、森園の彼女の綾乃からのメッセージだった。
 ドライブした日にLINE交換したのを、うっすらと覚えていた。しかし、実際にメッセージをやりとりする日が来るとは思ってなかった。

 ――ゾノには内緒でおねがいします。
 
 その後続いたメッセージに、あまり良い予感はしなかった。
 ――早いほうが助かります。――今日でも大丈夫です、そんな矢継ぎ早のメッセージに押し切られ、小野寺は次の日の夕方に、指定されたスポーツバーに向かった。
 スポーツバーなんて行くのは初めてだった。店内はまだ夕方だというのに賑やかで、たくさんのグループがサッカーだかラグビーだかの試合映像を観ながら、ドリンク片手に盛りあがっている。
 騒がしい店内を見渡すと、綾乃がカウンターで手招きしていた。綾乃と会うのはあの日以来で、顔もはっきり覚えていないが、見ればすぐに彼女だとわかった。多分、向こうも同じ感じだろう。
「公務員試験、どうでした?」
 小野寺がビールを頼むと同時に、綾乃が訊いてきた。彼女はすでに飲み始めていたようで、手元のグラスのビールは半分も残っていない。
「……思ったよりは良かったと思うけど、でも、どうかな」
「そうなんですね。それで本題なんですけど」
 小野寺の就職には興味がないようで、綾乃はあっさり話題を切り替えた。
「ゾノと智美さん、こっそり会ってますよね?」
「え?」
 射るような視線が、小野寺のぼんやりした意識をまっすぐに刺した。これは間違えてはいけないやつだ、と、緊張が一瞬で高まる。
「……二人のことは、僕には、わからないけど」
「そんなことないですよね?」
 そのとき刹那の助け舟のように、カウンター越しにビールが差しだされた。
 ああ、とか、どうも、とか声を出して受けとっていると、突き刺すような綾乃の視線が、一旦、という感じに外れた。
「……じゃあ、ひとまず乾杯しましょうか?」
 一旦、という感じに綾乃が言った。
「はい」
「公務員試験、思ったよりは良かったみたいで、なによりですね。おめでとうございます」
 彼女の頭はくるくるよく回るようで、さっきのやりとりも別にスルーしたわけではないらしい。
「……ありがとう」
 緊張で喉が渇いた小野寺は、一気に半分くらいのビールを飲んだ。ぐびと残りのビールを飲み干した綾乃は、カウンターに向かってお代わりを頼む。
「ゾノと智美さんが会ってるのは、わかってるんですよ。メッセージしてるの、ちらっとスマホで見えたし、こそこそ通話してるのも知ってるし」
 その話は終わったわけではないようだ。
「……でも、二人は友だちなんだから、それなりに、やりとりすると思うけど」
「軽井沢に行ったときもそうだったけど、智美さんがゾノのことを好きなのは、まるわかりなんですよ」
「……いや、僕にはわからないけど」
 じっとり小野寺を見る綾乃の視線の向こうから、二度目の助け舟のように、ビールが差しだされた。受けとる間だけ、綾乃は視線を外してくれる。
 再び舟の来訪を望む小野寺は、手元のビールを飲み干してお代わりを頼んだ。
「とにかく、二人は最近にも会ってるんですよ」
「……そうなのかな」
 その話はやはり、舟が来たからといって終わるわけではないらしい。
「小野寺さん、本当は知ってますよね? 例えばこの前の日曜日に、二人は会ってますよね? 嘘言ってもわかりますよ」
「……いや」
 彼女が当てずっぽうで言っているのか、それともかなりの確信を持っているのか、小野寺には計り知れなかった。どっちにしても何て答えれば良いのかわからず、のらりくらりと時間をかせぐばかりだ。
「……会っていたとしても、二人の間に何かあるとか、そういうのは誤解だよ」
「じゃあ、やっぱり会ってたんですね」
「いや、そうは言ってないけど」
 追求は続き、ときどき助け舟がやってきて、また追求が始まる。助け舟のせいで、小野寺の酔いは回り始めている。
「ゾノにやましい気持ちがあるなら、それは私に対する裏切りじゃないですか?」
 正気なんだろうか、と、小野寺は酔った頭で思った。
 ゾノにやましい気持ちがあるなら、それは私に対する裏切り……だなんて、そんなことを、正気で言っているのだろうか。
 やましいとかやましくないとか、裏切るとか裏切らないとか、どうしてそんな安っぽい台詞を吐けるのだろう。許すとか傷つくとか、どこからが浮気でどこまでは浮気じゃないとか、人類は一体いつになったら、こういうことから卒業するのだろう……。
「誤解だよ。絶対に」
 と、小野寺は安っぽい台詞を吐いた。
「モリゾーは……、僕のことを、心配してくれてるんだよ」
「は? どういうことですか?」
 小野寺は口に泡をつけながら、ビールをぐびぐびりと飲んだ。
 たん、とジョッキを置いたとき、頭上の画面で誰かがゴールだかトライだかを決めたようだった。わっと盛りあがった店内で、小野寺は口についた泡を拭う。
「……モリゾーは、……僕が智美のことを好きだって、思ってるんだよ。それで……、ちょっとしたきっかけがあれば、智美も僕のことを好きになるんじゃないか、とも思ってるんだよ」
「そうなんですか?」
「そんなわけないでしょ。智美は僕のことなんか好きにならないし」
「小野寺さんは? 小野寺さんは、智美さんのことが好きなんですか?」
「……いや、それは別に……、そういうアレじゃないし」
「好きなんですね。でもどっちにしても、そのこととゾノが智美さんと会うのは、関係ないですよね?」
「だからさ、あいつは、おれと智美をくっつけようとして、余計なお節介をやこうとしてるんだよ。二人は、その相談で会ったんだよ。それだけ」
 真偽を見定めようとするかのような鋭い目つきを、綾乃は小野寺に向けた。視線はじっとりねっとりと小野寺の顔面を這い、やがてふっと宙に流れた。
「そんなの全然信用できないんですけど」
 綾乃はカウンターに向けてビールのお代わりを頼んだ。
「っていうか、それって単なる小野寺さんの予想ですよね? 予想ってより願望なんじゃないですか?」
「違うってば」
「何でですか? 証拠でもあるんですか?」
 証拠はあると言えばあるけれど、それを見せろと言われても困る。
「小野寺さんが智美さんのことを好きなのはいいですよ。誰が誰を好きでも自由だし。でも、智美さんが小野寺さんを好きになるって、そんなわけないし」
 失礼なことを堂々と言う綾乃の前に、ビールが届いた。
「だって、小野寺さんも、さっき自分で言ってたじゃないですか」
 返事をする代わりに、小野寺はビールを飲む。
「わたしもそう思います。二人が付き合うなんて、とても思えないし」
 大きなお世話なんだよな、と、小野寺は思った。そんなことは綾乃が気にすることではないし、もちろんゾノにしてもそうだ。
「だから、もしそれが本当だとしても、単なる口実じゃないですか? 二人で会うために小野寺さんを口実にしてるんじゃないですか?」
 そんなのどっちだっていいよ、と小野寺はビールを飲んだ。口実だろうが工事中だろうが、そんなのはどっちだっていい。店内は相変わらずやかましくて、点が入っただの入ってないだのと若い男女が騒いでいる。
「そもそも内緒にしてるって時点で、おかしくないですか? やましいことがないなら、堂々と私に言えばいいじゃないですか」
 酔った意識のなかで、店内の喧噪や綾乃の言葉が遠ざかっていった。ここにはどんな風も吹かない。ここだけじゃなくて、自分にはもう、風は吹かないのかもしれない。

 ――あのさ、智美は修一のことどう思ってるの?

 ――どうって……、めっちゃ良いやつだと思うし、信頼してるけど……。

 ――修一は智美のことが好きなんだよ。でも、ああいうやつだし、自分からは動かないんだよな。
 
 ――………。
 
 ――だけど智美から誘ってやれば、そのうち修一も男を見せると思うんだよ。

 ――……でも、……私、好きな人がいるんだよね。

 ――え、そうなの?

 あの日曜日、小野寺はいつもの店のいつもの席の死角にレコーダーを仕掛けた。録音できていなくても構わなかったけど、後で回収したらちゃんと録音できていた。
 スポーツバーの喧噪のなか、小野寺は顔をあげた。いつの間にかビールジョッキは空になっているし、綾乃は相変わらず安っぽい台詞を吐いている。
「……じゃあ、そのままを言うよ」
 まだ何かを喋っていた綾乃を、小野寺は遮った。知っていることはもう、全部喋ってしまえばいい。
「黙ってたのは悪かったけど、二人が日曜に会ったことは知ってたよ」
 綾乃はじっとりした目で小野寺を見る。
「……最初は三人で会おうって、僕も誘われたんだよ。だけど僕は断ったから、ゾノと智美だけで行くことになったんだよ。だから店も知ってる。三人でよく行ってた新宿の店だよ。ゾノは僕と智美をくっつけようとしてるんだけど、智美にはそんな気は全然ないんだよ」
「だからそれは、智美さんがゾノのことを好きだからでしょ?」
「――」
 勇気をだした告白に間髪入れずに返されて、小野寺は絶句した。
「最初からそう言ってるじゃん。智美さんがゾノのことを好きなのは、誰が見ても丸わかりなのに、ゾノがのこのこ彼女に会いに行ってるのに腹をたててるんでしょ? そのことに気付いてないなら、それはそれで問題でしょ?」
 問い詰められるように言われ、小野寺の酔いは急激に覚めていった。
「もしゾノが何にも気付いてなくて、のんきに小野寺さんと智美さんをくっつけようとしてるなら、わたしもっと許せないよ。そんなの大きなお世話だし、何より智美さんが可哀想すぎる。小野寺さんにも腹が立つよ。だって小野寺さんが煮え切らない態度を取ってるから、こんなことになっちゃってるんでしょ?」
「………」
 確かにその通りだった。
 何年も前から好きな相手に、他の人間との仲を取り持たれる智美は可哀想だ。そしてゾノだけではなく、自分も悪いのかもしれない。
「わたしは今日、小野寺さんと浮気してもいいって、思って来てるんだよ」
 ぎょっとして首を捻ると、綾乃はまっすぐにこちらを見ていた。
「だけど小野寺さん、何を考えてるのか全然わかんない。どうして目の前にいる人に向き合わないの? ぼんやり佇んでれば、誰かが何とかしてくれると思ってるの?」
 言い終わった綾乃は、ゆっくりと視線を外し、カウンターの向こうに目をやった。
「ねえ、」
 綾乃の横顔が、小野寺に話しかけた。
「……わたしのこと、ちょっとでも好き?」
「………」
 綾乃は小野寺が答えるのを待っているようだった。十秒か二十秒か、あるいは一分くらい待っていたかもしれない。
「わたしは全然好きじゃない」
 綾乃はカウンターの下からバッグを出し、その中の財布から三千円を取りだしてビールジョッキの脇に置いた。そのまま小野寺のほうを見ることなく、それじゃあ、と言って店を出ていってしまった。
「……待って、よ」
 小野寺は呆然としながらつぶやいた。追いかけたほうがいいのか、と思ったけれど、立ちあがる気力はなかった。
 カウンターに残された三千円を回収し、小野寺は水を頼んだ。
 自分が悪いのだろうか……。
 諦めてしまえば傷つかないと思っていた。深く諦めていれば、自分が傷つくことはない。だけどそのことが他人を怒らせたり、傷つけたりすることがある……。
 だけどそれは、自分が悪いのだろうか……。
 いろいろ真面目にやってきて、波乱に巻き込まれることなどなかった。大きな驚きや喜びもない代わりに、深い悩みや失望もなかった。それでもいいと思っていた。
 酔い覚ましの水を飲み、小野寺は呆然とし続けた。目の前の画面では、さっきとは違うスポーツの試合が映っている。
 今日のことは全て忘れてしまおう、と、小野寺はポケットに手を入れた。
 はあ、とため息をつき、会計をするために立ちあがった。

      ◇

 その後、綾乃からの連絡は何もなかった。
 何週間か経ち、小野寺は公務員試験の合格通知を受けとり、森園と智美から祝ってもらった。新宿のいつもの店で会ったのだが、二人の様子は以前と何も変わらなかった。
 あの嵐のような騒ぎは何だったのだろう。
 交錯したそれぞれの思いを無理に整理することはできないし、したとしてもまた新しい捻れを生む。時間の経過と一緒に、ものごとは落ち着くべきところに落ち着くものだし、秋が終われば冬になり、やがて新しい春が始まる。
 恋や夢は風に吹かれ続ける。
 輝きも情けなさも、同じように色あせていく。ずっと残るものなんて、この世にはないのだろう。
 小野寺は大学を卒業し、公務員になった。

 報告、連絡、相談――。
 公務員としてそれを繰り返しているうちに、曖昧だった小野寺の輪郭は、だんだんとくっきりとしていった。特別なことを覚悟したり、大きな気付きがあったりしたわけではない。仕事というのは不思議なもので、繰り返しているうちに、次第にそれらしくなる。いつまでも夢みる小野寺じゃいられないのだ。
 気付けば三年以上の時間が過ぎ、今は後輩に指導するようなこともあった。森園のそんな姿なら大学時代にも想像できたが、小野寺の今の姿は、本人にだって想像できなかった。
「久しぶりだな、修一」
「そうだね、一年ぶりくらい?」
 S建設に就職した森園と会うのは一年ぶりくらいだった。かつてのようにカードゲームをすることはなくなったけれど、ときどき連絡はとっていた。その日、かつてよく行った新宿の店に、久しぶりに三人で集まる予定だった。
「修一はすっかりスーツ姿がサマになってるな。痩せてるとスーツ似合っていいな」
「そう? モリゾーはスーツ着ないの?」
「毎日作業着にヘルメットだよ」
 森園は前の年まで東北の現場で施工管理の仕事をしていた。今年からは地元に戻り、豊洲にある橋の整備工事に携わっている。
「お先に乾杯しちゃうか」
「うん、じゃあ」
 智美がまだ着かないようなので、先にビールを頼んだ。届いたビールに手を伸ばし、二人は乾杯しようとした。
「あ、そうだ。結婚おめでとうね」
「おう、ありがとう」
 二人は一年ぶりにジョッキを合わせた。
 森園と綾乃はその後、喧嘩をしつつも、順調に付き合いを続けたらしい。二年間続いた遠距離恋愛が良いほうに作用したんだよ、と森園は笑った。早く結婚したい、と大学生の頃から言っていた森園だが、来週の大安に結婚式をあげる。同期ではやはり早いほうだから、有言実行といったところだ。
「来週、挨拶よろしくな」
「……それ、……それが、今の最大の悩みなんだよね」
 友人の多い森園が、どうして自分なんかにスピーチを頼むのかわからなかった。自分は主にカードゲーム用の友人だと思うのだが、挨拶が上手いと思われているのだろうか。
「スピーチ……、誰か別の人と代わってもらうわけには……いかないよね?」
「当たり前だろ? 頼むぞ、新郎友人代表。俺のことも綾乃のことも知ってるのは、修一だけなんだから」
 森園のことはともかく、綾乃とは二度会ったことがあるだけだ。一度目のことは詳細に思い出せるけれど、二度目のことは殆ど忘れてしまった。
「式は親戚とか会社の人ばっかりで、友人関係は殆ど招待していないんだよ」
「だから余計、緊張しちゃうんだよ」
 友人は二次会に集合、というコンセプトらしく、式のほうは智美も招待されていない。
「僕がスピーチとか下手なのはわかってるでしょ?」
「そんなことないだろ。サークルの卒業のとき、何か良いこと言ってた気がするぞ」
「……言ってないよ」
「いや、言ったって。覚えてはないけど」
 ビールをぐびり、と飲み、小野寺はメガネの位置をくいっと直した。
「……あのときはさ、『僕はこのサークルで夢を見つけたから、みんなも夢を見つけてください』って言ったんだよ。確かにみんなちょっと感心してたけど、あの挨拶は、モリゾーの挨拶が立派だったから、それにつられてできたんだよ」
「……へえー」
 森園は感心したように声をだした。
「おれは何て言ったの?」
「んーっと……。『この公園でのボランティアは卒業するけど、またどこかでみんなに会える気がする。その時は大きな声でモリゾー! って呼んでください。約束だよ!』って感じかな」
「……まじか」
「そうだよ。子供たち、大喜びだったよ」
 またビールを飲んだ小野寺は、そのときのことを思い出した。何を話せばいいのかわからなかった小野寺の背を、森園と智美がばん、と押した。智美の挨拶も、もちろん覚えている。
 ――うちからは一言だけや。みんなー、おおきに!
「修一ってさ、」
 と、森園は言った。
「前からときどき思ってたけど、昔のことよく覚えてるよな。おれが何言ったとか、智美が何言ったとか。めっちゃ記憶力良いよな」
「そうでもないよ。覚えてないこともたくさんあるし」
 例えば君の結婚相手から言われたヒドいこととかは覚えていないよ、などと小野寺は思った。
「いやー、けど感心するよ。あ、おれ、〝蒼燕の休息〟」
 急に立ちあがった森園は、小野寺に背を向けた。トイレに向かってすたすた歩く彼の後ろ姿に、架空の〝ボナム・ノクテム〟カードを伏せ表示する。その効果は二ターン続く。
 小野寺は実際、記憶力が良いわけではなかった。
 覚えていることは何度も反芻したから覚えているだけのことだし、反芻しないことは時間の経過とともに、普通に忘れていく。
 ネクタイを緩めシャツの第一ボタンを外すと、良く知った新宿のこの店に、爽やかな風が吹いた気がした。
「お疲れー、遅れてごめんね」
 振り向けばバッグを肩からかけた智美が笑っていた。少しだけ酔った小野寺の気分を、風がゆるやかに弛緩させる。
「元気?」
 と、小野寺は訊いた。
「何言ってるの? 一昨日も会ったじゃんか」
 ふふ、と笑った智美は、小野寺の隣の席に座った。
「モリゾーはトイレ行ったとこだよ」
「そう。えーっと、じゃあ私もビール頼もうかな」
 店員を呼んでビールを頼む智美の姿を見ながら、小野寺はさらにネクタイを緩めた。
 智美が昨日言ったことも、先週に言ったことも、よく覚えている。今日、これからする会話だってきっと、ずっと忘れない。
「おー、智美久しぶり!」
「あーモリゾー、日焼けしたねー」
 裏返ったような声で智美は言った。
「いつ以来だっけ? 卒業してから会ったの二回目だよね」
「そう、だから二年ぶりくらい?」
 やいのやいのと旧交を温める二人を、小野寺は横からそっと見守った。心地よい風は今も、小野寺の頬を撫でている。
 頼んだビールが届くと、三人はあらためて乾杯した。
「それより、結婚おめでとうな」
 と、智美が言った。
「おお、ありがとう。おかげさまで、ここまで来れたよ」
 結婚おめでとうな――。
 その言葉に、小野寺は震えるように感動していた。智美とは大学を卒業してから何度も会っているが、彼女の関西弁を聞くのは久しぶりだった。具体的に言うと、三年前の八月十三日の、よかったやん、以来だ。
 かつて誰にも何も告げず、黙って恋を終わらせた智美……。かつて感情のこもった言葉を発するときだけ関西弁だった智美……。
 感傷に浸っていた小野寺を、気付けば森園が見ていた。
「だけど、それよりさ、」
 彼は真面目な表情で、小野寺と智美を交互に見た。
「おめでとうって言えば、お前らもそろそろだろ? 驚いたよ」
「ありがとー、年が明けてからだから、来年の話だけどね」
「それこそ、モリゾーのおかげだよ。ありがとな」
 実際、森園には心から感謝していた。智美と自分のことがあるのは、やっぱり森園がいたからこそだ。
 小野寺は今、緑政土木局が発注した『Y公園整備工事』の担当をしている。今日も仮設事務所に行ってきたが、歴史のある広い公園の大がかりな整備工事だ。子どもたちがバスケやドッジボールのできる多目的コートもできる。
 智美の就職した徳川造園という会社が、この現場に芝を納入することが決まった。打合せに現れたのは、担当者に立候補した智美だった。
「けどほんとめでたいよ。おれもうれしい」
 微笑みあった三人は、それぞれのビールに口をつけた。
「みんなで公園を作るってのは、夢といえは夢だったもんな」
「そう。早くも第一弾だからね」
 もやもやした青春に晴れ間が見え、やがて青空は広がっていった。小野寺は今、幸せのピークにいるかもしれない。
 奇跡のような邂逅だとも思うけれど、大学生の頃から、こんな日が来るんじゃないかと予想してもいた。小野寺が担当する事業は多岐に渡るし、地元が同じだから、こんなことが起こるのも不思議ではない。ただそんなに何度も起こることではないだろう。
「二人ともありがとう。今、すごく嬉しい」
「何言ってんだよ、修一」
「そうだよー。泣くことないじゃん。お代わり頼む?」
 涙ぐんでしまった小野寺に、二人は口々に言い笑った。
 緑政土木局の事業の一般競争入札で、森園のいるS建設の名前を見ることも多い。いつか本当に、このトライアングルで公園を作るような奇跡が起こるかもしれない。
「智美は仕事も充実してるし、彼氏とも順調なんだろ?」
「うん。結婚の話なんて、全然出てないけどね」
「ふーん。修一はどうなの? 結婚とか考えたりするの?」
「僕は全然かな。でも最近、もし結婚したら、あれしようってのは決めたけど」
「……なに?」
「犬を飼いたいんだよね」
「犬? 何でそれが先に決まるんだよ?」
 犬の名前は何がいいか、などというたわいもない話題で、その夜は更けていった。小野寺は智美と森園の名前から一字取って、などと考えていたのだが、何故だかイヌマルに決まってしまった。
「修一は何か、変わったよな。良い意味で変わったよ」
「そう?」
「私もそう思う。三人のなかで一番成長したのは修一だよ」
 緩やかな風は、今も吹き続けていだ。

       ◇

 翌日に響かないよう、二十二時には解散しようと決めていた。二人と手を振って別れた後、小野寺は一人、電車に揺られた。
「みんなで公園を作るってのは、夢といえは夢だったもんな」
 恋や夢は風に吹かれ続ける。
 輝きも情けなさも、同じように色あせていく。ずっと残るものなんて、この世にはないけど、残そうとするものはある。
「修一はどうなの? 結婚とか考えたりするの?」
「僕は全然かな。でも最近、もし結婚したら、あれしようってのは決めたけど」
「……なに?」
「犬を飼いたいんだよね」
「犬? 何でそれが先に決まるんだよ?」
 窓の外の景色が流れるのを見つめながら、小野寺はヘッドフォンに手をあてた。
「修一は何か、変わったよな。良い意味で変わったよ」
「そう?」
「私もそう思う。三人のなかで一番成長したのは修一だよ」
 小野寺はスマホをいじり、再生を停止した。そして、こういうのも最後にしようか、と急に思ってしまった。
 今日は三人で久しぶりに集まって、近況を話しただけだ。昔話もしたし、変わらないことや変わったことについても話した。でもあの頃、ぼんやり夢として話したことに、自分たちは近付いたのだ。
 これは何かの契機なのかもしれない。
 小野寺はスマホを操作し、今日録音した音声をデリートしてみた。物事を始めるのも辞めるのも、以外とあっさりとしたものだ。車窓の光は流れ続ける。
 小野寺は人と会ったりするとき、ICレコーダーやスマホで、全ての会話を録音する。家のPCで編集して不要なところを削除したりし、プレイリストを作る。特に目的なく、通勤時間や寝る前にぼんやりそれを聴くだけだが、好きな人の声を聴くときには風を感じた。
「あんな、うち、好きな人がおんねん!」
 初めて録音をしたのは、高校二年になる前の春だった。一人でマックに入って、えびフィレオを食べていると、女子二人の声が聞こえてきた。
 関西弁の子と、標準語の子で、たぶんまだ中学生の女子だ。二人ともある共通の先輩に恋をして、どっちがその先輩を好きかを言い合っているようだった。
 そのとき何となくスマホの録音アプリをダウンロードして、彼女たちの声を録ってみた。家に帰って聞き返してみると、思ったよりしっかり録音されている。細い方がいいとか、メガネがイカすとか、まるで自分が二人に告白されているように聞こえた。
「絶対、好きやわ。ほんま好きなんやで」
 特に関西弁の子の声が、すごくかわいかった。声も可愛いが、関西弁そのものが小野寺にとって好ましかった。
 Love――。何となく英語の辞書をめくってみたら、何故だかその言葉に蛍光ペンで印が付いていた。ハートマークも付いていたので、驚いてしまった。それまであまり異性に興味がなかった小野寺だが、そのとき急に色づいたのかもしれない。
 それからしばらくして、同じ高校の後輩から付き合ってほしいと言われた。話したこともない子だったけど、最初は友だちとして会ってくれればいいということだったので、会ったりすることにした。
「小野寺先輩、もういいです。今までありがとうございました」
 三回目に会ったとき、あっさり言われて、その子とはそれきりだった。だけど彼女と交わした会話は全て録音した。それを聞き返すのは、とても楽しかった。
 大学に入ってからも、公務員になってからも同じだ。人と話しているときはレコーダーを回す。不要と判断したものは、その日のうちに消す。そういう習慣がいつの間にかルーティーンになっていた。
 だけどこんなのは良くないことだし、バレたらまずい、ということもわかっていた。だからいつか辞めなきゃ、とも思っている。
 劇的なことの起こらない小野寺の人生だが、今日の飲み会は楽しかった。これは小さな契機だ。もうこんなことはやめて、仕事に集中しよう。三人の夢を叶えるために。
 景色は流れ、小野寺の降りる駅が近付いてきた。智美は彼氏の話をしていたけど、小野寺にもきっと新しい風が吹くことがある。明日の昼は、久しぶりにえびフィレオを食べよう、と彼は思う。
 ドアの前に立った彼の背中ごしに、女性二人の喋り声が聞こえてきた。
「ねえ見たでしょ? レンレン、熱愛発覚だって」
「せやねん……。ショックすぎるわ」
「今度のはちょっとキツいね。本気っぽいし」
「せやな……」
 その声に郷愁に似たものを感じた彼は、反射的にレコーダーの録音ボタンを押していた。


(了)