全文公開 『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』第7回
友達なんていらない。彼氏も彼女もいらない。ぼくたちは居場所がほしい。
ゾンビがいたってかまわない。
どこか居場所を求めてゾンビのように彷徨う若者たちの、ポップでせつない青春小説。
第4回ジャンプホラー小説大賞、初の金賞受賞作『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』全文公開第7回。
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マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に 第7回
春奈(はるな)ちゃんとのおよそ一年ぶりの正規イベントは、その日の夕方のことだった。
誤解を解こうとは思ったものの、思っただけで行動に移さない僕は、読者モデルのバイトへ白石(しらいし)を送り出してから部室棟の屋上に上がった。
しゃがみながら双眼鏡で見下ろしたのは、講義棟裏にある喫煙所。
そこでは、水口(みずくち)が一人で黄昏ながら煙草を吸っていた。
僕はその姿にしばらく見惚れていた。家を出ていった父さんと同じ銘柄を吸っていたからではなくてさ、煙草を吸う水口は、金閣寺を焼いた後みたいな儚くも力強い眼差しを浮かべていたんだ。あいつもああいう顔をするのかと、初めて知った瞬間だった。
春奈ちゃんに声をかけられたのは、その時だ。
「今日はダンス部、お休みだよ」
青草の香りを孕んだ風が、背後から優しく僕の背中を撫でた。
振り返ると、春奈ちゃんが僅かに首を傾けながら爽やかに笑いかけてきた。
これはチャンスだと思ったよ。誤解を晴らすタイミングは、この瞬間しかないってさ。
でも、あまりに突然の出来事に、僕はすっかりキョドっていた。
「……どうも」
「他人行儀に言わないでよ、藤堂(とうどう)くん。なに見てるの?」
春奈ちゃんは屋上の縁から顔を出し、喫煙所の水口を見つけて「ああ」と悟ったように頷いた。
「双眼鏡使う距離じゃないのに……窃視趣味あるの?」
「FPSにハマってるんだ」
「嘘ばっか」
まるで幼馴染みたいに、春奈ちゃんは僕のパーソナルスペースに自然と入ってきた。
僕は一気に警戒レベルを高めたね。これは下に見られてるなって、僕の矜持が奮い立った。だから、いつでも暴力にものを言わせられるよう、毅然とした態度で臨んでいた。……ゾンビ化進んじゃってるから、喧嘩で勝てる気はしなかったけどさ。
ああ、ちょっとした心理戦の勃発。
春奈ちゃんは僕を見下ろしながら、少し考えるように眉間にしわを寄せていた。久しぶりの二人きりだから、彼女もそれなりに緊張しているのかもしれない。
「えと……ちょっと、時間ある?」
僕はつっけんどんに頷いてみせた。
いや、誤解を解くためにはへりくだるべきだったと思うけどさ、この時の僕は、まだちょっと子供だったんだ。
春奈ちゃんに連れられ、住宅街に紛れた和菓子屋さんへとやって来た。
後で調べたところによると、TVで取り上げられるくらい有名な店だったらしい。
落ち着いた店内の座敷席に座って、春奈ちゃんはかき氷を頼んだ。こういう場所が初めてだって知られたくなかったからさ、僕はあえて抹茶ぜんざいを頼んだね。一応、病人だし、お腹に優しいものを選びましたよアピールしときたかったんだ。
和服の店員が注文を運んでくると、春奈ちゃんはかき氷を一口食べて無邪気に笑った。
「これ、すっごく美味しい!! 来てみて正解だった!!」
僕はありきたりな笑顔を浮かべて、目の前の抹茶ぜんざいを見下ろした。これ、完全に一之瀬(いちのせ)さんだ。
「大丈夫? いつでも横になっていいからね」
座敷席を選んだ春奈ちゃんの心遣いに、僕は感激して涙が出そうになったね。
「白石から聞いたよ。別れたって」
急に話を展開されきょとんとする春奈ちゃんに、僕は胸をドシンと叩いてみせた。
「OK。任せて。僕の遺言って言えば、あいつも目を覚ますから。まだ死ぬまで時間かかると思うけど、必ず復縁させてみせるよ」
「……それ、本気で言ってる?」
春奈ちゃんはムッと眉間にしわを寄せた。初めて見た彼女のマジギレに、僕は一生懸命言葉を探した。
窒息しそうな息苦しさがどれだけ続いたか……。
「ご、ごめんね」春奈ちゃんは慌てて両手を振る。「理不尽だったよね、今の怒りは。藤堂くんに声かけたのは、修二(しゅうじ)とは全く関係ないの。えと……ほら、これ」
春奈ちゃんはスマホを見せてきた。
そこには、どこかで見たことのある緑色のキャラクターが、ぐでっと自重に押し潰されながら僕へと卑しげな視線を向けていた。
そうだよ、先輩。これが例の──。
「ずんちゃんじゃん!!」
「そう!! ずんちゃん!!」
春奈ちゃんは嬉しそうに笑ってみせて、
「覗くつもりはなかったんだけど、去年、藤堂くんのスマホ画面見ちゃってね。勇気出して声かけてみたんだ。私、オタクの友達欲しかったから。あっ、オタクって言っても、アニメとか漫画とかじゃなくて、純粋にずんちゃんが好きだって人と仲良くなりたかったの。色々、語り合いたかったんだ、ずんちゃんのこと」
ほら、先輩、覚えていてって言ったじゃん。僕のスマホの待ち受けにしてた、高校バスケ部の連中と一緒に仙台へ行った時の画像。そこに映っていた緑色のゆるキャラ──ずんだ餅のずんちゃん。
僕はただ思い出を切り取っていただけだったんだけど、春奈ちゃんは僕がずんちゃんフリークだと勘違いしてるみたい。
いや、僕も初めはさ、ずんちゃんに語り合えるほどの奥行きがあるのか戸惑ったよ。
「だ、だよね。いきなり私オタクですとか、イタすぎるよね。緑色の生き物なんてもっと他にいっぱいいるもん」
「そんなことないよ!! 緑と言ったらずんちゃんしかいないよ!! 青信号とか皆ずんちゃんに見えるし!! むしろずんちゃんになってほしいし!!」
「だよねだよねだよね!!」
春奈ちゃんはスマホ画面を人差し指でさっさっとスライドさせていく。
「見て見て。ほら、ずんちゃんっていろんなストラップが出てるでしょ? こうやって昆虫標本みたいにコルクボードにぶら下げてあげると見やすいんだ。あっ、ほら、これ!! お休みずんちゃんのサードシーズン。この途中から生産工場がタイに移されたでしょ? 初期生産のメイドインベトナムをコンプするの大変だったよね。あっ、ずんちゃんのウォータークッション。私、まだ四つしか潰せてない。藤堂くんはもち米ボタン何個持ってる? 合わせれば黄金ずんちゃんと交換してもらえるかな。そうそう、藤堂くんに絶対訊いておきたいことあったんだ。ずんちゃんと一緒、どこまでいった? 私、まだずんちゃんが笑ったまま動かないんだよね。もう二万回叩いてるのに。一千万回叩くと真顔になるって言うけど、一万円課金して一万回タップするのと同じって、それなら絶対タップするよ」
おまえ、すっげー記憶力いいよな、ってじと目を浮かべる先輩に断りを入れておく。正直、春奈ちゃんがなにを言っていたのか、僕はあまり覚えていない。後からずんちゃんのことをググってみてさ、あっ、こんなこと言ってたんだろうなって推測して書いているだけだ。フィフティ・ジェイズ・オブ・ずんちゃんなんてどうでもいいからね。
でも、好きなものを話す春奈ちゃんの活き活きとした表情には見惚れてしまった。ゾンビ患者に対してずんちゃんの話題ってどうなの? なんて思いながらも、この時間が永遠に続けばいいのにと願った。
「わっ、かき氷溶けてる!!」
春奈ちゃんは薄まったシロップをスプーンですくってすすり、照れくさそうに笑った。
「なんか私、自分のことばっか話してるよね。藤堂くんの常食は?」
ずんちゃん界隈では、ハマっているずんちゃんグッズのことを常食と呼ぶみたい。
僕は笑って誤魔化しながら、
「白石にも? ずんちゃんのファンだって?」
「修二には私のこと全部知ってほしかったから。その結果が今。……本当は藤堂くんに言うのも勇気がいったんだ。でも、なんていうか……卑怯だよね、私」
春奈ちゃんの沈んだ顔は新鮮だったし、もうしばらく見ていたかったよ。ひょっとしたら彼女にハンカチを返したあの時、もうすぐ死ぬんで付き合ってください、なんて言っていれば、あのせん妄で見た遊園地での出来事も現実になっていたかもしれない。
でも、やっぱり春奈ちゃんは明るく笑っていたほうが可愛いじゃん。
「よかったら、今から仙台行かない?」
「ホント?」
春奈ちゃんはパッと顔を輝かせたかと思うと、両手の平を合わせて、
「中野じゃダメ? この前、ショーケースにずんちゃん時計置いてあって、唐突に欲しくなっちゃったの。ほら、震災復興のために限定五十個生産された、あれ」
冗談を言ったつもりだったんだけど……なんでも言ってみるもんだね!!
男と女の友情は成立しないなんて言われているけど、僕はその意見に懐疑的だ。僕と春奈ちゃんには、性別を超えた絆が芽生えていたからさ。
新宿駅に出てから、僕らは総武線に乗り換えて中野駅へと向かった。中央線快速に乗らなかったのは、東中野の雰囲気が好きだという春奈ちゃんの一存だった。僕には全く理解できなかったし、これを書いている今でも、その理由はわからない。もし先輩が気になっていたら、春奈ちゃんに直接訊いてみてよ。
中野駅に降り立った僕らは、あのブロードウェイへと続く屋根付き商店街を歩いていった。
いつも思うんだけど、あそこって、なんとなく右側通行になってるよね。そして気のせいか、若干、坂道のようになっている。雑多な店がひしめき合うブロードウェイへの高揚感を演出しているのかな。
人混みに紛れながら、春奈ちゃんはなにかに背中を押されるように足を速めていった。
そんな彼女の後ろを追いかける僕は、自分の足が地面に沈んでいく感覚に陥っていた。
おいおい、またフィッツジェラルドの法則かよ、って先輩は思ってると思う。
違うんだ。そうじゃない。
この時の僕はもう、フィッツジェラルドの法則という呪縛から解き放たれていた。大切なのは結果ではなく過程だ、という白石の言葉が、僕をそのジンクスから解放してくれていた。
春奈ちゃんを追いかけられなかったのはさ、彼女に申し訳なかったからなんだ。
だって、白石がフィッツジェラルドの法則を患ったのは僕のせいなんだもん。
白石のことだから、フィッツジェラルドの小説を読んだ時、あ、俺、こんな感じだわ、とかなんとか言ってすぐに影響されたに違いない。あいつの心って身軽じゃん?
そして白石は高校の時の一件で人間不信に陥っているわけで、異性に対して無駄に警戒心が強い。そんな白石が一度でも好きになったんだから、春奈ちゃんの好意も本物ってことでしょ?
そうだよ、先輩。白石と春奈ちゃんって、これ以上ないくらいお似合いなんだ。
「どうしたの、藤堂くん。具合悪い?」
春奈ちゃんは立ち止まった僕に気付き、心配そうに駆け寄ってきた。
辛酸を飲み込む思いで、僕は言う。
「……ごめん。吐きそう…………」
正直、今、一番、なにを後悔しているかって訊かれたら、僕はこの時のことを思い出すと思う。人生で最大の幸せを、僕は自分から投げ捨てたんだから。
家に帰った僕は、夕食どうする、って母さんの言葉を無視し、部屋に閉じこもり春奈ちゃんが貸してくれたハンカチを握りしめていた。これくらいはいいだろって思ったんだ。女子との人並の青春は、僕にとってこれっきりだったからさ。失ったものの大きさに気付いて、僕は嗚咽を止められなかった。母さんがスタンガンをバチバチ鳴らしながらノックしてきたほどだ。
まあ、書いていても虚しくなるからやめよう。
あっ、先輩が気になっていることを教えておかないとね。
春奈ちゃんのハンカチはさ、やっぱり恋の青草の香りがしたよ。
◇
僕がフィッツジェラルドが好きだからって、先輩はよく僕を蝶にたとえていたよね。おまえは風に攫われた蝶だとか言って、からかうように笑っていた。僕もそう言われることを否定しなかった。むしろ、フィッツジェラルドに似ていると言われたことを勲章に、胸を張って大学生活を送っているところもあった。自分でも白石に言ってたしね。
でもさ、見えない風に翻弄されながらも、僕には辿り着きたい場所みたいなものがあったんだ。そんな情熱が僕にもたしかにあった。
ただ、情熱ってさ、その言葉の響き自体は最高に気持ちいいけど、それがくすぶってしまえば身体を蝕む毒にもなりえるじゃん? 中途半端な意志は、なにも生み出さないどころか、なにかを確実に奪っていく。
きっと、僕が先輩と最悪な別れ方をした理由は、スマホの待ち受け画面を変えなかったからだと思う。ありのままに生きたい。本当の自分を見てくれる誰かが欲しい。そんな想いを抱きながらも、僕は結局、偽物の思い出にすがっていたんだよ。
おまえの人生観はどうでもいいって? さっさとストーリーを転がすんだって?
いや、ほら、春奈ちゃんとの淡い青春から先輩との最後へ繋がる部分だからさ、映画だとなんらかの風景が挟まれるし、小説だとこんな感じかなって思ったんだよ。この小説を書くきっかけとなるところでもあるし、その予感も感じてほしくってさ。……うん、ちょっと気取ったことを言ってみたかったっていうのは大きいよ。
ともかく。
続きを書いていこうと思う。
あれは先輩が部室を片づけていた時──。
オレンジ色の光の中に沈む部室棟を、僕は儚げに見上げていた。
僕はもう講義に出るのをやめていた。っていうか、家から出ることをやめていた。白石や水口、春奈ちゃんと顔を合わせたくなかったし、余計なことに気を紛らわせたくなかったからね。
欲しいのは心の平穏。ほら、よく安楽椅子に座る老人がさ、午睡に誘われるようにしながら息を引き取るシーンがあるじゃん? この夕焼けに一点の曇りなし、って感じで風景の一部となってしまえば自然と安楽死を選べると思ったんだ。
でも、最後に、先輩と話しておきたかった。さっき言った、中途半端な情熱のせいだ。
校庭から野球部の掛け声。講義棟に反響する軽音部の途切れた音楽。そしていたるところから聞こえてくる学生たちの談笑──どこか遠くから聞こえるそんな音の中、僕はしばらく部室棟の前でぼんやりしていた。
懐かしさを噛みしめながら階段を上がった僕を待っていたのは、あの無数の部活のチラシが剥がされた後の、まっさらなドアだった。
僕が中に入ると、窓を背にパイプ椅子に腰かけ本を読んでいた先輩が顔を上げた。
「おお、藤堂か」
いつもと変わらない先輩の声に、僕は周りを見回した。
雑多な備品が詰め込まれていた棚は空っぽになっていた。長テーブルとパイプ椅子が置かれているだけで、ワシミミズクやミュシャの絵画のポスターも剥がされていた。
先輩は腿の上に本を開いたまま、
「新しくできる部活が部室として申請したらしくてさ。鉄道研究会。なにを研究するんだろうな、一体」
「備品は?」
「全部、売ったよ。俺は中退するし、おまえは死ぬだろ? 知りもしないやつらに使われるくらいだったら、金にしたほうがいい」
「そのお金は?」
「就活に交通費は出ないんだよ。まっ、スーツ代にもならなかったけどな」
僕も薄々気付いていた。これはまだ就活していないなって。だって先輩、髪切ってなかったしさ、相変わらず時代遅れなストリートファッションに身を包んでいたからね。
「ここには、もう、なにもねーよ」
先輩は口元のピアス穴を無精髭で隠したまま、いつものように、にやにや笑った。
「この匂いをよく覚えておくんだ」
部室棟屋上。線香の煙が上がっている。
先輩は両手を蝶のように広げ、線香の煙に揺蕩うようにそれを空へと羽ばたかせた。
「──じゃないと、行ったきり帰ってこれねーだろ。おまえの母親を悲しませないよう、迎え火と送り火の合図だけは忘れちゃいけない。……あれ、輪廻転生があるのは仏教だよな? 行ったり来たりしてたら、いつまで経ってもおまえはおまえのままじゃねーか。ハハハ、面白いな。改宗って手もあるぞ」
先輩はいつもより多めに笑っていた。あれって、僕を安心させるため? だったらこの場を借りて謝るよ。
「生きてて楽しいですか?」
軽く訊き返そうとする先輩に、僕は「やっぱりいいです」と言った。
「なんだよ、藤堂。死ぬんだろ? 言いたいことも言えないままで、おまえは満足なの?」
「言わなくてもいいことを言ったって、そんなの無意味じゃないですか」
「そんなんだから真実が見えねーんだよ」
先輩は呆れたように首を振り、
「人っていうのはさ、限りなく物質的な存在なんだ。感情や想いなんてものは、生きるために脳みそが作り出した分泌物の作用に他ならない。ドーパミンとか、アドレナリンとか、セロトニン? 理性っていうのもそう。自分を抑制するための生体反応に他ならない。ただ、やっぱり人には他の生き物とは違う非物質的なもの、あらゆる化学物質に作用されない情熱や意志っていうのがあるんだよ。それこそが、その人をその人たらしめる真実だ。おまえはまだ、物質的なものと非物質的なものの混ざり合った曖昧な領域しか見えていない。見ていない」
「悟りでも開けって言うんですか? 山中湖の時みたいに?」
「簡単なことだよ。全部、吐き出してしまえばいいんだ。最後に残ったのがおまえだよ」
先輩はいつもと変わらない顔でそう言った。
僕は一呼吸置いた。
「真実真実真実……先輩っていつもヘミングウェイを真似してそう言ってますよね。強く憧れてるのはわかりますよ。僕だってフィッツジェラルドが好きだから。でも、結局、先輩はそれっぽい言葉を並べているだけで、現実を直視しようとはしてないじゃないですか。放蕩癖を気取ったり、ラッパーみたいな格好して周りとは違いますアピールしてますけど、それって実際は現実から逃げてる自分を誤魔化しているだけでしょ? ……はい、いざ自分が死ぬってわかった僕には、先輩が小説を書いているのも一種の逃避行だって、そう見抜けるようになったんです。小説家になるって夢を免罪符に掲げて、目の前の現実から逃げているだけだって。先輩には、なにかを成し遂げたいという意志がありますか? なにかを成し遂げようとする情熱がありますか? そんなやつの言葉に、真実はおろか、誰かを動かす力はありませんよ。僕の中にあるのは、こいつはなにも成しえないんだなっていう憐憫です。他にはなにもない。ただ、それだけです」
先輩はなにも言わず、黙って僕の瞳を覗き込んでいた。
僕も先輩から目を離さなかった。離したら負けだと思った。
そうしているうちに、僕は大きな勘違いをしていることに気付いた。
先輩が見つめているのは僕ではなく、僕の中にあるなにかだった。
じわっ、と手に汗が滲んだ。でも、そんな恥ずかしさとか焦りとかよりも、もっとハッキリとしたものに僕は胸を締めつけられていた。
先輩は静かに笑う。
「それがおまえだよ」
僕は悔しかった。
池袋駅の北口から出て少し歩いたところにクラブがある。レコードが奏でる熱を持ったキック音が外へと漏れている。集まっているのは、九十年代のアメリカを意識したファッションが好みの、田舎のヤンキーみたいな連中だ。
陽が沈み動き始めた繁華街の中、僕はその路地を何度も行き来していた。
やっとのことクラブに足を踏み入れる男グループを見つけた僕は、タイミングを計って中へと入っていった。前の人を真似して入場料とドリンク代を払い、鳩みたいに首でリズムを取っている男たちの合間を縫って、一番端っこ、目立たない場所を定位置とする。
ああ。僕は卑しい人間だ。先輩が書いた小説を貶めていたように、今度は先輩の憧れるものを鼻で笑ってやろうと考えていた。
へー、先輩、ヒップホップとか好きなんですね。そういえばこの前、池袋のクラブ行きましたよ。えっ、行ったことないんですか? じゃ、今度一緒に行きます? でも、べつに楽しくはないですよ。──こんな感じにね。
EDM系のクラブとは違って、このクラブは結構音が途切れるみたい。ラッパーのライブがメインで、お客さんのことをあまり考えていない様子。名前も売りもわからない、ただイキっただけの怖い人たちが、大したことでもないことに大袈裟に腹を立て、マイクを握って自分勝手な主張を繰り広げていった。
正直、冷めたね。どこかで聞いたフレーズに、自分の技量の無さを歌い方や格好で誤魔化していくスタイル。韻も踏めていないし、結局、この人たちも、先輩みたいにラッパーとして見られたいだけなんだなってわかった。
「ヨーヨーヨーッ!! かましていくぜビートッ!! 俺の日常ッ!! 熱情ッ!! 要領ッ!! よく伝えていきますんで、皆さん一緒にヒアウィーゴーッ!!」
リズムに合わせた聞き覚えのある声に、僕は帰ろうとする足を止めた。
ステージに上がった先輩は、左右をせわしなく動き回りながら、観客の気を引こうと必死の身振り手振りでラップしていた。
……うん。もしかしたらな、とは思ってた。入り口の階段を下りている途中に、壁にチラシが張ってあったんだ。そこに写る〈まっつん〉って人がさ、どこかで見たことのある顔をしていたからね。
その時、先輩と目が合った。ステージ上から僕の表情が見えていたのかはわからないけど、先輩の声が一瞬だけ止まった。
再び歌い始める先輩に、僕は帰ってあげようと思った。誰だって見せたくない自分ってあるじゃん? ご機嫌を取ってウケを狙う先輩を観客の皆は面白がって笑っていたけど、僕は呆れて見ていられなかった。先輩が偉そうに繰り返していた真実って、こういうものなのってさ。
それでも僕が帰らなかったのは、先輩を徹底的に否定してやろうと思ったからだ。くだらない世迷い言を二度と口にさせないようにね。
やがて一曲目が終わると、先輩はDJに指示を出した。時間的にはあと二曲。急に暗くなったクラブ内に、この時間を早めに切り上げるつもりなんだなって、僕は思った。
流れてきたのはピアノの音だった。どこか淡い、心を抜ける音色。
照らし出されるステージの上で、先輩は僕を見据えながらマイクを握った。
……悔しいから、この先は書かないことにしておく。おいおい、藤堂、俺の一番の見せどころじゃねーか、なんて先輩は思っているはずだ。先輩が大好きなフリースタイルってやつだったしね。
でも、無理だ。あの時の僕は涙をこらえるのに必死だったんだ。目の前に見せつけられた先輩の真実ってやつに、悔しくて、悔しくて、悔しくて、立っているのもやっとなくらいだった。
先輩が歌い終えると、消え入りそうなピアノが糸を引く中、ステージ上の光が徐々に弱まっていった。
スポットライトの白い光を纏ったスモークが、先輩の背中からゆっくりと離れていく。
僕は光を求めるように、人をかき分けて通路へのドアを開けた。
◇
先輩も知ってると思うけど、フィッツジェラルドの人生は幸福に包まれたものではなかった。代表作である『グレート・ギャツビー』が売れたのも死後のことだし、晩年は借金返済のために自虐しながら映画のシナリオを書き、アルコールを手放せず、心臓麻痺でその生涯を閉じた。ヘミングウェイに蝶だと言っちゃうくらい、どこか傍観するように世間を見ていた彼は、おそらく自分の最期にあまり期待を抱いていなかったと思う。それでも、もっとましな死を頭の中で描いていたはずだ。
人生なんて予測不可能だ。僕がこれを書いているようにね。
死ぬ前になにかやりたいと思っていても、なにもできなかったようにね。
せめて皆と一緒にいたい──白石、水口、エナさん、そして先輩──ありのままの僕を見せた四人と一緒にいたいと思っても、僕ら五人が集まる理由も、集まる場所もなくなったように……。
僕が望み、欲した青春は、もう絶対に手に入らないものなんだって、僕は悟った。
でも、それは運命のせいなのかって自問したら、上手に首を縦に振れない自分がいた。
……ああ。ゾンビになるずっと前から、僕はとっくに腐りきっていたんだ。
その夜、僕は自室のベッドに横になり、手錠をはめた。……いや、こう書いても、先輩は母さんが生きていることを知っているわけだから、ドキドキさせたりはできないか。わかってる、わかってる。事実をありのまま、脚色しないで書いていくって。
とにかく、寝ようと思った僕だったけど、尿意にかられてトイレに行ったんだ。
洋式便所の水たまりめがけて放尿したら、濃緑の液体がそこに溜まっていった。青汁を想像してもらえば充分だ。僕の身体から漏れ出した、粘性のないさらさらした体液。
トイレから出た僕は、洗面所の鏡で自分を覗き込んだ。
口を開けると、舌に黒い菌糸が走り始めているのがわかった。ゾンビ化が進み、毛細血管は変色と硬化を一層強めていた。歯茎も黒紫色に膿んでいて、傾いた歯を人差し指と親指でつまんでみると、ぷしゅっと音を立てて抜けた。その穴に溜まった緑色の膿が臭くって、ぶくぶくうがいをしたら、頬の内側に固いものが当たった。やべっ、と思った時には遅かった。吐き出した水と一緒に、洗面台にはバラバラと何本もの歯が落ちていった。慌てて排水溝を手で押さえ、パイプを詰まらせないように一本一本拾い上げていた時にはさ、惨めで惨めで泣きたくなったよ。
台所の生ごみに拾い集めた歯を捨てた僕は、そのまま自分の部屋に戻ろうとし、廊下で足を止めた。ダイニングでノートパソコンをかたかた叩いていた母さんの指も、それと同時に止まった。
振り返った僕と目が合うと、母さんはギョッと顔を引きつらせた。すぐになんでもない顔をしてみせていたけどさ、僕はべつになんとも思わなかった。
「……お、お腹減った? なにか食べる?」
「もう、十時過ぎてるじゃん」
「お母さんは夜食にラーメン作るけど? 一緒に食べない?」
無理してるのはわかってたよ。母さんも、僕に食欲なんてものがないことに気付き、ちょっと気まずそうにしていた。
僕は恥ずかしいのを誤魔化すように、意味もなく壁紙に手を触れた。ざらざらした感触が、意外と心地良かった。
「医師が言ってた二つの約束、覚えてる? 僕は忘れてないよ」
母さんはしばらく僕を見つめていた。
そして彼女は両手で顔を隠し、背中を丸めて嗚咽を漏らした。
僕は肩をすくめてみせた。
「お願いだから、もう謝らないで」
母さんがなにを言ったのかは、覚えていない。顔を両手で覆ったままだったし、もしかしたらなにも言っていないのかもしれない。
でも、顔を上げた母さんは笑っていた。涙に目蓋を腫らしていたけどさ、僕にはそれだけで充分だった。
◇
読んでいただきありがとうございました。
第8回はこちら
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