【試し読み】ジャックジャンヌ ―夏劇―
4月19日に『ジャックジャンヌ ―夏劇―』が発売となります。
こちらに先駆けて本編冒頭の試し読みを公開させていただきます。
あらすじ
石田スイ×歌劇SLG『ジャックジャンヌ』、本編では描かれなかったエピソードが小説化!! カイが後輩達の中に見たかつての自分とは......。スズが大伊達山で見つけた簪の秘密、世長が着ぐるみの中で出会ったもの、白田の家族との葛藤、フミと田中右の相克、そして根地の仕掛けたひそやかな公演......。ユニヴェールでのかけがえのない一瞬が、夏空の下、焼き付けられる――。
それでは、物語をお楽しみください。
only one life
1
自分で自分の限界を作ってはいけないよ。
ユニヴェールは自由な場所なんだから。
アルコールの香りに浸された照明の下、一対の男女が踊っている。
夜の街、隠れるように佇むダンスパブ。
見知らぬ誰かの手をとり踊ることが出来るこの場所で、彼ら二人は店に足を踏み入れた時から形を崩さない。
ただ、他の客に比べると、二人の距離はまだ遠かった。
「……うちは残業がなくて、有休もとりやすい。プライベートな時間がたっぷりとれます。充実した日々、そのものだ」
踊りながらぽつりぽつりと語る男は大手企業に勤めている。
誰もが羨む労働条件。男がどれだけ優れているのか、女性に向かってアピールしているように聞こえるかもしれない。
しかし、実情は違う。
男の言葉には、深いため息が練り込まれている。
「……俺は残業したいし、休みもいらないんですよ」
繫いだ手から、女性の驚きが伝わってきた。男は続ける。
「定時に上がるためにあくせく働くより、残業になってもいいから自分のペースで働きたい。休みが多いと時間をもてあまして虚しくなってしまうから」
人が羨む幸福は、男にとってはプレッシャー。
男は自嘲するように笑う。
そんな自分が評価されるはずもない。
「同期に先を越され、後輩には迷惑をかけ、つまらない男です」
誰かと嚙み合うことも、軋轢を生むこともない、カラカラと空回りするだけの歯車。
「……そんなことはないです!」
「えっ」
しかし、女は男の手を堅く握りしめ、否定した。
驚き見つめた彼女の瞳に、男の姿が映っている。
彼女は微笑んだ。
「私にとってハセクラさんは楽しい人だわ」
まるで花が開くように─
「……はーい、オッケー!!」
満開の花をそのまま押し花にでもしそうな勢いで、パンと大きく手を打つ音が響いた。
夜の気配も、アルコールの香りで浸されたダンスパブも、二人の間に漂っていた濃密な空気さえも、一気にはじけ飛ぶ。
だからここは、空の青と、雲の白が強いコントラストを生む、夏空の下。
男子生徒のみで歌劇の舞台を作るユニヴェール歌劇学校の、クォーツ稽古場へと姿を戻した。
「……ふぅ」
大手企業、グレートガリオンSJBの社員という肩書きを持ちながら、周囲に気後れして自信が持てないハセクラという名の『男』も、ユニヴェール歌劇学校の76期生、三年生の『睦実介(むつみかい)』へと戻る。
カイは全四クラスの中で、クラステーマに”透明”を掲げるクォーツのジャックエース。男役、ジャックのトップだ。
今は年五回ある定期公演の一つ、夏公演に向けた稽古の真っ最中。
今回、ジャックエースであるカイは主役と銘打たれている。
「……ダメだな」
カイは誰にも聞こえない声で呟いた。
これでは、『本当の主役』を際立たせることが出来ない。
「カイ」
呼ばれて振り返った。
涼やかな眼差しとゆったりとした声色から滲む色艶。美しいものをあれもこれもと惜しみなく注ぎ与えられたその人は、カイの同期であり、一年の時から女役であるジャンヌのトップ、アルジャンヌを務める、高科更文(たかしなさらふみ)だ。
76期生の金賞は常にフミの胸で輝き、ユニヴェールの長い歴史の中でも名を残すことになるであろう生徒だ。
そのフミを華として美しく引き立てるのが、ジャックエースであり器でもあるカイの役目。
「すまない、ダンスで足りていないところがある」
フミに歩み寄りながらまずは詫びる。
舞踊の家元に生まれ、小さい頃から舞ってきただけではなく、新しいものをとり入れながら踊り続けるフミのダンスレベルは、一線を画している。
当然、相手役であるジャックエースのカイにも高いレベルが求められるのだが、フミを追うことで手一杯になっていた。
なにせ、夏公演の演目「ウィークエンド・レッスン」は、うだつの上がらない男性会社員、ハセクラが、ダンス教室の講師であるアンドウと出会い、社交ダンスを通じて変化していくストーリー。いたるところにダンスシーンが盛り込まれている。
フミの隣で遜色なく踊る、そこに到達するまでがまず難しいというのに、これでは器の役目を果たせない。
「んー……。俺はさ、カイ。ダンスレベルがどうのこうの言うよりも、もっと気になることがあるんだわ」
「気になること?」
フミがああ、と頷き、少し間を開ける。よっぽど大事なことなのだろう。じっと待つカイを見て、フミが「あのさ」と切り出す。
「俺が前に出すぎてねーか?」
「……もっと前に出てもいいくらいじゃないか?」
フミのことを信頼しているが、これに関しては同意しがたかった。
フミは舞台の華。フミが輝ければ輝けるほど公演の質は上がる。そのためにカイがいる。
だがフミも引こうとしない。それどころか、真逆の提案をしてきた。
「なぁ、カイ。お前もちっとは前に出たらどうだ? 迫力あってよさそうじゃん」
カイは、久しぶりに始まったな、と思った。体から、いくらか力が抜ける。
「フミ。器の役目は華を立たせることだ。その器が前に出てどうする」
「面白そうじゃん」
「お前自身がそう思うことについて否定はしないが、舞台はどうなる? 二人揃って前に出れば焦点がブレるだろう。特に今回の舞台は、お前が引き立つように作られている」
話の軸はハセクラにあっても、それはあくまでフミの演じるアンドウをより魅力的に見せるため。
フミが自分の首に手を添え「まぁ、そうだけどよ」と返す。
フミもそれぞれの立ち位置をわかっているのだ。
「魅せ方については俺のほうでも考えてみる。少し時間をもらっていいか?」
フミの要望は飲めないが、まだお互い納得出来るレベルに達していないのは確かだ。問題には真摯に向き合うべきだとも思う。
そんな真面目なカイの言葉に、フミは苦笑した。
「フミ?」
「いや。じゃあ、よろしく頼むわ」
フミは背を向けると自分が元いた場所へと戻っていく。
(……もっと前に出たらどうだ、か)
カイは自然と俯いていた。
(継希(つき)先輩と並んでいた時のことを思い出したのかもしれないな)
立花(たちばな)継希。
カイ達の二期上の先輩であり、ユニヴェールの至宝と呼ばれたクォーツのジャックエース。
フミは一年の時、彼と組んでいた。
舞台に立つ二人の姿を今でも鮮烈に覚えている。舞台の上で咲き誇る、二つの大輪の花。
だからこそ─
(器の中で一人咲くのが窮屈になる日もあるんだろう)
世代交代は困難だ。天才が生まれ、それを失えばなおさら。
クォーツは未だに継希の影を払拭することが出来ずにいる。
「おはようございます! おはようございます! 宇宙開発から飲料水の販売まで、グレートガリオンSJBです!」
ちょうどその時、ハリのある声が稽古場に響き渡った。
78期生、一年生の織巻寿々(おりまきすず)だ。
初めて見たのは彼がこのユニヴェールを受験した日。荒削りで他の受験生に比べると拙い部分も多かったが、遠目に見ても眩しく印象に残り、声を聞けば振り返らずにはいられない、そんな強さがあった。
タイプで言えば、ダンスを強みとするジャック中心のクラス、オニキスが向いていただろう。
だが、あの良く通る声で歌えば劇場に響くだろうし、素直に感情が出るあの体で芝居をすれば、多くの人を感動させることが出来るかもしれない。
そのためには、舞台未経験者が多いクォーツで総合的に鍛えていったほうが伸びる。
カイは、クォーツのクラス担任である江西録朗(えにしろくろう)に進言した。
彼なら、クォーツのジャックエースになれるかもしれない、と。
カイの言葉が効いたのかどうかはわからないが、スズはクォーツに入り、新人公演では主役のジャックエースに抜擢された。
選ばれた当初は、不釣り合いだと同期達に批判されることも多かったようだが、彼のひたむきな姿勢と成長はそんな同期達の心にも強く響き、本番では、彼以外主役はあり得ないと思わせるほどの熱演をやってのけた。
その結果、夏公演ではジャックとして、カイに次ぐポジションについている。役名はルイス。カイ演じるハセクラの同期で、陽気なエリート社員。ハセクラのライバル役だ。
次期ジャックエースの育成は、カイにとって使命の一つだ。
誰からも望まれ、喜ばれ、愛されて、真ん中に立つジャックエースを育てたい。
立花継希卒業後、カイが一期上の先輩を飛び越し、混迷するクォーツのジャックエースになったことで、多くの苦労があったからこそ。
クォーツにとって最もふさわしいジャックエースが現れれば、即座にそのポジションを託す覚悟もあった。
大事なのは、クラスがより良い形になること。カイはその歯車の一つでしかない。
(……ん?)
様々な感情が入り交じった眼差しをスズに向けていたのだが、同じように彼を見つめる瞳があった。
ジャンヌ組からほんの少し距離をとり、両手の指先は堅く組んで、目立たないように顔を伏している彼。
スズの同期、一年生の世長創司郎(よながそうしろう)が、前髪の奥から視線だけは持ち上げ、そっとスズを見ている。
まるで遠くかすむ美しい景色を眺めるかのように。
ずくりとカイの心臓が鈍く痛んだ。
思い出したのだ。古い記憶。場所はここ、クォーツの稽古場。
一年生だったカイは、我がもの顔で踊るフミを見ていた。
見るなというほうが難しい、暴力的な華を。
そのフミの視線の先にいたのは、いつだって─
「立花!」
スズが声をあげる。
たいした距離でもないのに大きく右手を挙げて、スズが駆け寄った先にいるのは─78期生、一年の立花希佐(きさ)。
新人公演ではアルジャンヌ。
本来であればジャンヌ生として育成するところなのだが。
そこは、最高の舞台を作るためならどんな手段もいとわないクォーツの組長であり、脚本家であり、演出家でもある天才、根地黒門(ねじこくと)。
彼はこの夏公演で希佐をジャックに起用した。
演じるのは大手企業の男性会社員。カイ演じるハセクラの後輩にあたる。
今回の公演、カイにとってフミがパートナーなら、希佐はコンビのような存在だ。
その采配についてはカイも驚いたが、理解出来る部分も多くあった。
男子生徒だけで歌劇の舞台を作るユニヴェールは、同性で演じるからこそ、男女差がはっきり出るようにジャックならばより男を、ジャンヌなら女性以上に女を表現するのが習わしだ。
しかし希佐の芝居には性別に囚われない独特な自由さを感じることがある。
根地はそれを希佐固有の才能ととらえ、活かし伸ばすために、あえて多くの選択肢を持たせようとしているのではないだろうか。
(それが、他クラス組長の不評を買い、転科騒動に発展してしまったが……)
初めてのジャックで大変な中、そのジャックで個人賞がとれなければ転科という条件までついてしまったのだ。
気丈にふるまっているが、人知れず思い悩んでいるのだろう。
そんな希佐を、カイは支えるつもりでいるし、スズもきっと同じだ。
「なぁなぁ、さっきのシーン、もっかい合わせようぜ!」
屈託のない笑顔を向けるスズ。希佐も表情をやわらげる。
新人公演でパートナーを組んだからこそ芽生えた、澄んだ絆がそこにはあった。
(……あ)
世長の表情が、濁った。
世長はスズに向けていた視線を落とし、床の木目をなぞる。
組んでいた手がほどかれ、指先が唇を搔いた。
ただ、ついと顔を上げた彼はいつも通りで、なにごともなかったかのようにジャンヌの稽古に戻っていく。
「カイさん、どうしました?」
そこで、一期後輩である77期生、二年の白田美ツ騎が声をかけてきた。端正に作られた人形のような面立ちのジャンヌで、クラスの歌唱を担う歌姫、トレゾールでもある。
「いや……。……美ツ騎、ジャンヌの進捗はどうだ」
「相変わらずフミさんが突っ走ってますよ。ついていくのが大変」
ふぅ、と愚痴るように息をつく。
「まぁ、僕は歌があるから、そっちに集中してますけど。ああ、でも、世長は……」
白田がすっと世長に視線を向ける。
「かなり『厳しい』ですね」
カイも再び世長へと視線を送った。
その背に滲む憂愁がカイには見えた。
2
忙しなく日々は過ぎ去り、今日は休日の土曜日。
カイは早朝から稽古場に足を向け、フミとのシーンを繰り返し稽古していた。
(……呼吸が合っていない、ということなのかもしれない)
これまで、稽古中に、あるいは舞台の上で、二人の息がぴったりと合う瞬間があった。だが、夏公演が始まってからはまだ、その感触が薄い。
カイのダンスが満足のいくレベルに達していないからこそ生じた問題なのではないかとつい思いそうになるが、それならフミがはっきり言ってくれるはずだ。では、問題はどこにあるのか。
(視点を変えて、根本的な部分から洗い直していくか……)
見落としているなにかが、そこにあるかもしれない。
「カイさん、ちょっといいスか!」
明るい声が響いた。
振り返ると、同じく朝から稽古していたスズが立っている。
「ああ、どうした」
「あの、もしよかったら、でいいんスけど……」
気遣うようにそう前置きして、
「ジャックの基礎、もっかい教えてもらえませんか!」
「基礎を?」
「新人公演で舞台に立って、夏公演で新しい役もらって……出来ることがどんどん増えてる感覚はあるんスけど、その分、基礎が崩れてるような気もして」
スズが自分の感じた違和感を一生懸命伝えてくる。
「どうしてそう思ったんだ?」
「立花と稽古してたら、あれ、立花、すげー格好いいなって思う瞬間があるんです。ジャック初めてで、まだ慣れてないはずなのに、ええー、なんだ今の超いいじゃん! みたいな。そんで、なんでそう見えるんだろうって考えたんですけど……基礎が出来てるからじゃないかって」
スズがうんうん、と自分の意見に頷きながら話を続ける。
「ルイスはオレに似てるところがあってスゲーやりやすいから、色々作り込んでるんですけど、そのせいで、基礎が抜けちゃってんのかなぁって」
なるほど、と合点がいった。
新人公演期間中、マンツーマンでジャックの稽古をつけていた時もそうだったのだが、スズは基礎自体は頭に入っているものの、いざ表現しようとすると、織巻寿々風のアレンジが加わることが多い。なにをやっても彼の個性が滲み出るのだ。
ただそれが他の人との違いを生み、彼をより輝かせるだろうと、あまり形を押しつけなかった。根地も今はそれでいいと言っていた。
対する希佐は、教えられたことをそのまま教本通りに演じることが出来る。新人公演期間中、希佐にジャンヌ稽古をつけていたフミ曰く『視るのが上手い』そうだ。
どちらが良いということではなく、それぞれの特性なのだが、相反するからこそ目につきそれがより美しく見えるのかもしれない。
ただ、こうやって定期的に基礎に立ち返る瞬間を作るのは、スズにとって良いことだ。
カイ自身も根本的な部分を見直そうと考えていたところである。人に教えることで自分自身も学べるかもしれない。
「わかった、やろう」
「やった! ありがとうございます!!」
喜びがそのまま声に体に現れ、感謝が伝わってくる。
スズはただ自分らしく生きるだけで、多くの人達から信頼を得て愛される人になっていくのかもしれない。
(……ん?)
ふと視線を感じた。
(……世長か)
カイ達と同じように稽古していた世長が、こちらを見ている。視線の先はスズにあるようで、カイの目には気づかない。
「あっ、そうだ!」
そこでスズが振り返り、世長を見た。
目が合い、世長が「あっ」と驚きの声をあげる。
「世長! 世長世長!」
「えっ、なになに、どうしたの……!?」
スズの大声に慌てて、引っ張られるように世長が駆け寄ってくる。
「今からカイさんにジャックの稽古つけてもらうんだけどよ、世長も一緒に勉強させてもらおうぜ!」
「ええっ!?」
急すぎる提案に世長の戸惑いの声が稽古場に響く。
なにせ世長は新人公演も、夏公演もジャンヌ。
それがジャック稽古だなんてと狼狽える世長をおいて、スズが「いいッスか、カイさん? 世長もジャック稽古!」と聞いてくる。世長がぶんぶんと首を横に振った。
「だ、ダメだって! 僕ジャンヌだよ!」
「基礎だから大丈夫、世長も出来る!」
「そういうことを言いたいわけじゃないから……! スズくんだって、マンツーマンで稽古つけてもらったほうがいいよ!」
説得しようと必死な世長に対して、スズも折れない。
「人いたほうがやれること増えるって!」
「だったら他のジャック生を! 僕なんかがカイさんに稽古をつけてもらうなんて……」
世長の声が、自分を痛めつけるように尖った。
それに、思い出したことがあった。
「……物見ついでにやってみたらどうだ、世長」
「えっ」
カイはスルリと会話に混ざる。
「織巻が今言った通り、ジャックの基礎練をするつもりだったんだ。世長も入りやすい」
世長はジャック志望だったそうだ。
本当はジャック稽古をやってみたいのではないだろうか。
ただ、その想いを口にするのは、彼自身の性格的にも、彼をとりまく環境的にも難しいだろう。
「嫌か?」
だから少しだけずるい言い方をする。
世長が「そんなことはないです!」と首を横に振った。必死さが彼の中にある想いを伝えてきた。
「じゃあ始めるか」
カイはやや強引に話をまとめる。
「えっ、あ……」
「ジャックをやることで、幅広い視野を持てるようになるかもしれないぞ」
「……! …………」
この言葉が、自分自身を納得させる理由になったのだろう。
世長が「じゃあ、よろしくお願いします」と頭を下げた。
少しホッとした。
さて、ここから責任重大だ。
ジャックの基礎練習で入りやすいとはいえ、ジャック経験者のスズと未経験者の世長とでは、そのレベルに大きな差がある。
どうせやるなら、二人が楽しく同等に学べる時間にしたかった。
(それから……)
あえて世長の強みが出やすいものを選んでもいいのかもしれない。
「『ワン・ライフ・ジャック』をやるか」
「おわっ、いいスね!」
スズが即座に反応する。
初めて聞いた世長は、不安そうに「『ワン・ライフ・ジャック』……?」と聞き返した。
「なんてことのないジェスチャーゲームだ。『或るジャック』の人生をジェスチャーで表現するだけ。『或るジャック』は自分でもいいし、別の誰かでもいい」
入学したてのジャックが自己表現のトレーニングとしてやっているゲームだ。
「条件は、お題として出された年齢を、即座に演じること。……見たほうが早いだろうな。織巻」
「うッス!」
「最初は……『5』」
「『5』……よし!」
数字を投げかけるとスズが誰かに向かって大きく手を振って走り出した。無邪気にはしゃぎながら。
落ち着きなく何度も振り返り、笑って駆ける姿は明らかに幼い。
「これ……鬼ごっこ? 子ども……?」
「あれは五歳児だ」
「えっ、五歳児!? そうか、『お題として出された年齢を演じる』……あっ、スズくんがこけた!」
頭から転んだスズが慌てて立ち上がろうとする。しかし、背中が不自然にビクンと跳ねた。
「織巻、友達と鬼ごっこをしている『5』だな。友達にタッチされた」
「当たりッス! 保育園時代のオレでもあります!」
スズの明るく元気な子ども時代がそのまま見えてくるようだ。こういった自身の体験を表現することに関してスズはめっぽう上手い。
それじゃあ、とカイは世長を見る。世長の顔に緊張が走った。
数字は決めていた。
「世長は『7』」
「『7』……」
ここで失敗すれば、きっと世長は自信をなくしてしまうだろう。
でも、大丈夫だ。彼の優れた想像力を、新入生歓迎会の即興劇で見ている。
世長は少し考えた後、床に手を伸ばし、『なにか』を拾い上げた。意外と大きく、重そうだ。
それをゆっくり背負うような仕草をする。嬉しそうに、その場でぐるりと一周回る。
スズが「あっ」と声をあげた。
「ランドセルを背負う『7』!」
「あっ、うん、あたり!」
七歳といえば、小学校に入学したての年頃。ネタに出来ることも多くある。
「やり方はわかったか? 繰り返すが、『或るジャック』は、自分でも、別の誰かでもいい。自由にやってくれ」
世長が「はい」と頷く。
「じゃあ、次だ。織巻、『10』」
それから、スズと世長が交互に『或るジャック』を演じていった。
スズの『或るジャック』は、彼の思い出をそのまま見ているようだ。
明るく元気な少年。見ているだけで楽しい気持ちにさせてくれる。
対する世長は、世長自身の思い出なのか、他人を演じているかが、不明瞭だった。
慣れていないのもあって模索しながらやっているのだろう。芝居も平坦な動きが多く、動きをつけることに苦戦しているようだ。
ただ、ところどころで思考に深く沈む瞬間があり、その直後、ふわりと浮き上がるような良い演技を見せる。
カイは二人を観察しながら、数字を増やしていった。
「織巻、『18』」
「『18』! 『18』、『18』……」
スズがぎゅっと右手を握ると、弾ませるように上下に振る。しかし、なにをしているのかわからない。こちらの反応を見て、スズが今度は左手をクルクルと回し始める。
なにかをかき混ぜるような仕草だ。
「……料理、かな?」
「ああ~、そうなんだけど! 厨房のバイトしてるイメージだったんだわ!」
上手く伝わらず、スズが肩を落とす。
即興劇自体は得意なスズだが、経験のない未来や想像の世界になると、表現の幅が狭まる。自分で上手く設定を作れないようだ。
「じゃあ、次は世長も同じ数字でやってみるか」
「えっ、あ、わかりました。えっと……」
世長が少し考えて、スッと顔を上げる。
そうかと思えば、また視線を落とすように俯いた。
世長の目が、自身の手のひらを見つめている。
(なにかのメモ、か?)
顔を上げ、また視線を落とす。顔を上げ、落とす。合間に体をぎゅっと縮める。
その動作を繰り返しながら少しずつ横に移動していった。表情は、焦りが増していく。
(そうか)
大学の合格発表、自分の受験番号を必死で探す受験生だ。
緊張と不安に襲われながら。
受験生の足がピタリと止まる。視線が高い場所をとらえる。彼は微動だにしない。動かない。そのまま数秒。
受験生の手がだらりと垂れる。
手にあった受験票が、ひらりと落ちたような気がした。
カイも、スズも、黙ってそれを見ていた。いや─見入っていた。
「……あの」
世長が怖々こちらを向く。
「わかりづらかった、でしょうか……?」
カイがいや、と否定し、遅れてスズが、
「大学落ちた受験生の『18』!」
と叫ぶ。
「うん、そう! ありきたりではあるんだけど……」
自信のなさゆえか、言い訳するようにそう言う世長。スズが「違う違う!」と大きな声をあげる。
「スゲー伝わってきた! 伝わってきたから、なんかもう、見てるオレも暗くなってなんも言えなくなった!」
「えっ、それっていいのかな……?」
「いいんだよ! だからそのえっと……」
「世長」
しどろもどろになるスズを制してカイが呼びかける。
「続けて『19』で」
世長が目を丸くする。
スズも「えっ」と、ニワトリが左右を見るように世長とカイを交互に見た。
「……いけいけ、世長!」
しかしすぐに後押しする。
世長が頷き、「それじゃあ……」と一つ呼吸を整えた。それが思考の時間。
「……」
世長が動き出す。手の位置が先ほどと同じ、受験票を持つ手。視線は高く、合格者が張り出された掲示板を見ている。
「あいつ、浪人してまた大学受け直したのかな……」
スズが世長には聞こえないように小さく呟く。
「だいぶ余裕ある感じはするけど……」
スズが言う通り、忙しなく受験票と合格発表を見比べていた『18』とは違い、『19』はゆるく合格発表を見上げている。
そんな『19』の足が止まった。
彼の目が、受験票を見る。『19』はもう一度掲示板を見上げて、ポケットに手を入れた。その顔に、喜びも悲しみもなかった。
そして終わった。
「……えっ、えっ、どっちだ!?」
スズが戸惑いの声をあげる。
「あっ、わからなかった!? ごめん、これはえっと……」
「世長、次は『20』で」
「えっ」
カイはその一年後を求めた。
「は、はい」
『20』
彼は宅配のバイトをしていた。仕事終わりの寒空の下、ふてくされるように家路を辿る。途中で缶コーヒーを買い、立ちのぼる湯気の中、混ぜて隠すようにため息をついた。
『21』。
恋人が出来たようだ。事務系の仕事に就職したらしく、少し明るくなった。
『22』。
恋人と別れた。
(……これは……)
カイが一つずつ数を増やす。
世長は求められるまま、『或るジャック』を演じていく。
一人の人間が確かに存在していた。
「カイさん、根地さんが呼んでますよ」
根地に使われ、不満げな顔をした白田がカイを呼びに来た時には、数字が『49』まで進んでいた。
「ああ、そうか、すまない。……ん? もうこんな時間か」
既に昼食時を過ぎている。
「うわ、ホントだ!」
「な、なんだかすみません……」
申し訳なさそうにしている世長に、カイが「いや」と首を横に振る。
「世長のジャック、面白かった。またやろう」
「……!」
世長の表情がいつになく明るくなった。
彼らと別れたカイは、稽古場を出てユニヴェール校舎にある根地の作業部屋へ向かう。
「……」
途中、足を止めた。
世長の才能を垣間見た。
だが、カイの表情は曇っていた。
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