【試し読み】ラーメン赤猫 本日も接客一番!
『ラーメン赤猫 本日も接客一番!』発売を記念して、冒頭の試し読みを公開させていただきます!
あらすじ
それでは物語をお楽しみください。
プロローグ
男がその通りを歩いたのは、単なる偶然だった。
ちょうど少し前の健康診断で「簡単な運動として、会社帰りに最寄りの一駅前で降りて歩いてみたら」と言われた。気まぐれにそれを実行してみることにしたのである。
この辺りの通りにはこんな店があるのか。
近所なのに知らなかったな。
たまにはこういうのも、新たな発見があるもんだ。
そんな感想を抱きながら、暗い夜道を建物の看板を眺めつつ歩く。
「お?」
ふと男は顔を上げて、ひくひくと鼻を動かした。風に乗って、どこからか微かに良い匂いがしてくる。
カレーや焼き魚の匂いほど強くはない。しかしなんとも美味そうな匂いである。
それに吸い寄せられるように風上へと歩いていった男は、とうとうその出どころを見つけた。
「ラーメン……赤猫?」
店名を読み上げる男の目の前で、青いのれんが風にはためいた。
ちょうど、ガラリと引き戸が開く。
「ありあとやっしたー!」
「ごちそうさまでしたー」
元気のいいスタッフの声と、会計を終えた客の声。
中から出てきた壮年のサラリーマンとぶつかりそうになり、男は一歩後ろに下がった。
「おっと。すみません」
「ああ、すみません。どうぞ」
「あ、いや、俺は……」
店に入ろうとしていたと勘違いされたらしい。出てきたばかりの客に道を譲られて、男は戸惑った。
――でも、せっかくだし、これも何かの縁か。
先ほどから漂ってきている美味そうな匂いは、もう充分に男の胃袋を刺激している。
このまま帰るにしても、途中のコンビニで適当に買ったものを夕食にすることになる。それならばちょっと寄り道をして、ラーメン一杯食べて帰るのもいいではないか。
男は先に出てきた客に会釈をし、開けっぱなしの引き戸から中に入った。
「イラッシャセー!」
威勢のいい挨拶が聞こえて、男はカウンター越しに調理場を見た。
しかしそこに人影はない。
代わりにあったのは、ラーメン屋の大将風に頭にタオルを巻いた一匹の茶トラ猫の背中。
そしてどんぶりを持った黒猫であった。
「え? 猫……?」
入り口に立ち尽くして固まっている男の足元に、今度は白い猫が駆けてくる。
「いらっしゃいませにゃ~ん! お客さま~、お一人さまでよろしいですにゃん?」
「あ、あの、ハイ。そうですね……」
「こちらの席へどうぞ~!」
可愛らしい声と愛くるしい笑顔の白猫に案内されるまま、男は店の中へと歩みを進めた。
一つ空いたカウンター席に腰掛けると、白猫はニッコリ笑う。
「お水お持ちするので、少々お待ちくださいにゃ~ん」
「ありがとうございます……」
ひょっとして夢でも見ているのだろうか――と男は思った。
店内では案内してくれた白猫以外にも、何匹か猫が働いているようだ。顔立ちや模様はさまざまで、皆比較的大きい種類の猫のようだが、どの子も可愛い。
一日の終わりに目にするには本当に癒される空間だ。
ただ、それにしても人間はいないのだろうか。
そう思いつつ前を向いた男は、猫耳のついた黒子が洗い物をしているのを目撃した。
「あ……」
その人は黒い布で顔を隠していたが、なんとなく目が合ってしまった気がしてサッと目を逸らす。
けれどもすぐにその方が失礼な気がして、男は洗い場の黒子に向かって軽く頭を下げた。すると、ぺこりと遠慮がちな会釈が返ってくる。
「お水とおしぼりお持ちしましたにゃ~ん」
先ほどと同じ白猫が、トレーにコップとおしぼりを載せて戻ってくる。器用に前足でトレーを持っているその姿には、安定感があった。
「ありがとうございます。ええと……」
「ハイ。ご注文お決まりですか~?」
「いや、そうではなくて。このお店は……」
「ああ!」
白猫は男の意図を察すると、にこやかに説明した。
「当店は猫のラーメン店ですにゃん。仕入れから仕込み、盛り付けまで、すべて猫がやっておりますにゃ~ん!」
「へええ……」
そんな店があるのか、と男は今初めて認識した。
「よく知らないのに入ってしまってすみません」
「いえいえ! 当店にお越しいただけて嬉しいにゃん!」
白猫は目を細めて笑う。
その姿がなんとも愛らしくて、男は思わず「かわいい……」とこぼしていた。
すると、キランと白猫の目が輝く。
「にゃ?」
きゅるきゅるしたつぶらな瞳をこちらに向けてくる白猫。
あざとい。実にあざといのだが、己の可愛らしさを存分に引き出しているその姿に釘付けになってしまう。完敗だ。
男はそれをごまかすように、咳払いを一つした。
「こ、コホン。あの、一番人気のラーメンってどれですか」
「は~い。一番人気はこちら、赤猫しょうゆラーメンですね~」
しょうゆラーメンと聞いた男は最初、シンプルなメニューを思い浮かべた。
しかし白猫に見せられたスマホの画面に映し出されていたのは、男の想像よりもさらに魅力的な見た目のラーメンだった。
澄んだしょうゆベースのスープは予想通りだが、その上に載せられているトッピングが目を引く。
炒める一手間を加えた野菜と鴨肉のチャーシューは充分に食べ応えがありそうだし、肉球の柄のついた海苔はいかにも『猫のラーメン屋』らしい。
「じゃあ、それを一つ」
「かしこまりました~」
男が注文すると、白猫は調理場へ向け大きな声でオーダーを通した。
「しょうゆ1でーす!」
「にゃー!」
すぐに厨房の猫たちから応じるような鳴き声が返る。
何もかもが初めて見る世界で、男は呆気に取られた。
「猫ちゃ~ん!」
小さな子どものはしゃぐ声がして、男は思わずそちらを見た。
テーブル席に座る家族連れ。まだ小学校に上がるか上がらないかぐらいの幼い女の子が、他の席にラーメンを運んでいるハチワレ猫に手を伸ばしている。
「猫ちゃん、おいでー!」
「こら、猫さんたちはお仕事中なんだから。邪魔しちゃダメでしょ」
「えーっ」
母親に叱られて、女の子は口を尖らせる。
子どもからすれば好奇心で触りたくなるよな、と男は思った。しかし接客する側からすれば、きっとたまったものじゃないだろう。大変だな、と――。
すると、注文のラーメンを届け終えたハチワレ猫が、くるりと引き返しざまに女の子に穏やかに声をかけた。
「もうすぐラーメンできるから、待っててね~」
反応をもらえた女の子の瞳が、きらきらと輝く。
声をかけたハチワレ猫の方も、まったく気分を害した風ではなく、むしろニコニコしているように見えた。
感心する男の目に、壁に書かれた大きな文字が映る。
接客一番。
店のモットーだろうか。
確かに先ほどの白猫も、今のハチワレ猫も、その標語の通りの見事な接客だ。
見渡せば客たちは皆笑顔で、和やかな空気が店内に満ちている。
「赤猫しょうゆ、おまちどー!」
黒猫が男の前にラーメンを運んできた。実物は、写真よりもさらに美味そうに見えた。
「いただきます」
まずはそのまま麺を啜り、男は驚いた。
トッピングもユニークだったが、麺に絡むスープも想像したしょうゆラーメンとは違う。独特だが優しい味わいだ。
もちろんトッピング自体も、見た目を賑わせるだけではない。
つややかな鴨肉に箸を伸ばし口に運べば、つけダレだけではない肉の旨みが嚙むたび染み出してくる。
メンマと煮卵も自家製だろうか、味が染みて弾力も良い。
ぴりっと花椒の効いた炒め野菜も、よいアクセントになっている。
「うまい……」
これはいい店を見つけた、と男は確信した。
間違いなくいい店だ。こんなにも和やかな雰囲気で、こんなにも穏やかな気持ちで食事ができ、なおかつラーメンはとても美味い。
また来よう。
今度は周りの誰かを誘ってくるのもいいだろう。この素敵な店を独り占めしておくのはもったいない。
食べ進めながら男は、そんなことを考えた。
一杯目 猫になりたい
猫が営むラーメン店こと、『ラーメン赤猫』は現在宣伝を一切行っていない。
一番初めに店を開けた際、事前の宣伝によって大勢の客が集まり、やむなく休業せざるを得なくなるほどの混乱が引き起こされたからだ。
その後は口コミのみの営業となった『ラーメン赤猫』だが、少しずつその評判が広まり、今では行列ができる日も多い繁盛店となっている。
それでいて、そこにオープン当時のような混乱はない。
訪れるのはこの店を心から愛する客たちばかりであり、その紹介で新たに訪れるのも、ほとんどがマナーの良い者たちだった。
の、はずだが――。
「わぁぁーっ!! すっげー、ホントに猫が接客してんだ!!」
店に入るなり大きな歓声を上げ、高校の制服姿の青年がスマホを構える。
入り口には大きく「No photo 店内撮影禁止」の文字が書いてあったのだが、どうやら彼の目には入らなかったようだ。
彼が今しがた勢いよく開けた引き戸の音は、結構な音量で店内に響き渡っていた。猫たちは思わず毛を逆立て、先客たちの「なにごと?」という視線を集めている。が、こちらも彼の知ったことではないらしい。
こういう少し困った客も、たまにいる。
「いらっしゃいませにゃ~ん」
真っ先に我に返り、接客スイッチをONにして対応したのは白猫のハナだ。
「お客さま、当店は撮影禁止となっておりますにゃん」
「入り口の文字読めないの?」でも「引き戸は静かに開け閉めしてよ」でもなく、愛らしい声とスマイルで角を立てないよう対応できるのは、彼女のプロ意識の為せる技である。
「あ、そうなの? ごめん」
青年はシャッターを切りかけていたスマホを下ろして、後ろを振り返る。どうやら連れがいるらしかった。
「おい、撮影禁止だってよ。せっかくSNSに上げようと思ってたのに」
「それがダメなんじゃね。知る人ぞ知る名店なんだろ、ここ」
連れの一人、制服を着崩した青年が青いのれんをくぐる。
先に入っていた青年はスマホを制服の胸ポケットにしまって、顎をしゃくった。
「あーね。そういうイメージ作り?」
「とか? 俺も姉ちゃんが友達と話してんの聞いて知ったし。絶対バズるし、もったいないと思うけどな~」
「亮くん、颯斗くん、もうやめようよ……入り口塞いでるし、お店の人困っちゃうよ」
さらにもう一人、大人しそうな青年もやってきた。
そのやんわりとした制止を聞いて、ようやく最初の青年がハッとする。
「やべっ。スンマセン、三人入れます?」
指を三本立てて彼は言った。最初に入ってきたその青年がリーダーのようだった。
「三人……」
ハナがサッと店内を見回す。
夕方の店内は早くも混み始めていて、テーブル席はすでに埋まっていた。
先ほど二人連れの客が帰ったため、カウンターに空きが二つ。
「あ、僕もう食べ終わるんですぐ出ますよ」
ちょうど空席の隣に座っていた男性客がそう申し出る。
ハナは「ありがとにゃ~ん」と忘れずお礼を言ってから、入り口の高校生たちに向けて可愛らしく小首を傾げてみせた。
「三名様、カウンター席でも大丈夫にゃん?」
「全然オッケーっす。大歓迎! ラーメン作ってる猫見れるとか最高!」
彼らの視線はもう調理場の猫たちに向けられている。
「つーか広樹お前、さっきお店の人とか言ってたけど、猫だろ」
「あ……ごめん」
「いやよく見ろ。あっちに黒子さんいるぞ」
「え? ホントだ」
好奇の目は洗い場にも向いた。
話題に乗せられた黒子姿のにんげん――『ラーメン赤猫』の唯一の人間の従業員である珠子は、つい反射的にぺこりと会釈をした。
カウンターテーブルを拭くふきんを取りに奥へ下がりながら、ハナはもう一匹のホール担当である長毛の猫に小声でささやく。
「あの三人組、一応撮影警戒ね」
「わかりましたっ」
長毛の猫、ジュエルがビシッと片方の前足を上げて敬礼する。
ハナはもう一度、カウンター席の方を心配げに見遣った。
「マジメそうな子もいるし、このまま何事もないといいんだけど……」
これから午後営業のピークになる。
厄介ごとはなるべくご遠慮願いたかった。
三人組の新規客は、カウンター席に着いても落ち着かなかった。
より正確に言うのであれば、三人組のうちの二人。初めに店に入ってきた声の大きい生徒と、制服を着崩したおしゃれな生徒。クラスで一番活発なやつと、クラスで一番スタイリッシュなやつ、といった雰囲気の二人。
それに比べると、その横の青年はいささか影が薄いように思える。
肩身が狭そうな彼をよそに、同席の二人は物珍しそうに店内を眺めていた。
「見ろよ、あのポスター。虎が麺打ってるんだって!」
壁に張られた『赤猫スペシャルラーメン』のポスターを見つけて、声の大きい青年が言う。
この店の製麺師である虎のクリシュナの写真が使われたこのポスターは、好奇心旺盛な彼らの興味を惹くのに充分なインパクトを持っていた。
「虎いる? いなくね? 今日休みとか?」
「どっか別のところにいるんじゃねーの」
「あー」
その推測は正しい。
製麺担当のクリシュナは基本的に奥の製麺室にいるため、店内をいくらきょろきょろ見回したところで、彼女の姿を見ることはできないのだ。
クリシュナがその姿を現すとしたら、彼女が出ざるを得ないような緊急事態――並みの注意では話にならないようなトラブルに発展するなど――の時だけである。
ただし、虎を含むネコ科の獣は耳が非常に良い。
「じゃ、仕方ないか。ちょい見てみたかったけど」
自分たちなりに納得して諦める青年たちの会話を聞いて、ホッと胸を撫でおろした虎が壁一枚向こう側にいたことを、当の彼らは知らなかった。
過去にはクリシュナを表に出そうとして、わざと悪さを企んだ客もいたのである。
「たださー、一八〇〇円はちょい高いよな」
虎を見るのは諦めた青年たちだったが、次は値段に引っかかったようだ。
「分ける?」
「分けられんなら。んで、それじゃ絶対足りないから、ギョーザか唐揚げも頼むわ」
「猫さーん、ラーメンのシェアってできる? シェア」
おしゃれな青年がカウンターの中にいる黒猫に声をかける。
他の席の注文したラーメンにトッピングを盛り付けていた黒猫のサブは、煮卵を器用にトングで摑みながらそれに答えた。
「赤猫スペシャルならハーフサイズもあるっスよ」
「あっそうなの。なら俺はそれとギョーザ」
「広樹は?」
「うーん。僕はしょうゆラーメンか、チャーシューメンかな」
ここまで会話に加わっていなかった大人しい青年が答えると、残り二人が微妙な顔をした。
「いやマイペースか?」
「今完全にスペシャル試す流れだったろ」
「えっ……ごめん」
反射的に謝って、大人しい彼は「じゃあ僕もスペシャルのハーフで」と言い直す。
こうして注文は決まり、注文時に調理場から返される「にゃー」の掛け声に、青年たちはまた少し沸いた。
赤猫スペシャルラーメンが特別なのは、手打ちの麺を使っていることだけではない。
チャーシューは通常のラーメンよりも厚切りで、ワンタンやそぼろなど食べ応えのあるトッピングもさまざま載っている。
必然、数が出たときには盛り付け係のサブの手際が試される。
しかしそこは慣れた手際。サブは三人前の餃子を焼きながら、手早くどんぶりとタレとトッピングの準備をした。
あとはそこに店長である文蔵のゆでた麺と赤猫自慢のスープが加わり、用意されたトッピングが規定の位置に整列すれば、とっておきの赤猫スペシャルが完成する。
「んでさ~、これがさ」
盛り付けを終えたサブが顔を上げると、高校生たちはいつの間にか三人で一台のスマホを見ていた。
面白半分で来店しておきながら、もう飽きたということか。
その可能性は高くとも、スマホがいつでもワンタッチで撮影ができる機械であり、バックグラウンドで録音もできる機械である以上、警戒は必要である。
「赤猫スペシャルのハーフ、おまたせしました~」
ラーメンのどんぶりを持ちながら、サブはそれとなく彼らのスマホが見える位置に近づく。
「おー! きたきた!」
「一つずつ順番にお渡しするっスね。ギョーザももう焼けるんで」
「あざーっす!」
スープをこぼさないように、器用に体を伸ばしてカウンターにラーメンを置く。
そしてそれとなくスマホの画面を視界に入れ、サブはぽっかり口を開けた。
「あ」
そこにはサブにとって大いに見覚えのある映像があったのだ。
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