『ジョジョの奇妙な冒険 無限の王』試し読み&書店員推薦コメント公開!!
『ジョジョの奇妙な冒険 無限の王』の発売を記念して、本編冒頭の試し読みと、本書を読んでハートがふるえた書店員さんからの推薦コメントを公開します!
あらすじ
書店員コメント
◆喜久屋書店 仙台店 田中忍さん
スタンド時代の幕開けにふさわしい、圧巻のバトルを堪能!
おそらくここでしか見ることの出来ない(!?)リサリサの秘めた力、ジョジョ好きには絶対に確認してほしい!
◆水嶋書房 くずは駅店 興梠さん
波紋からスタンドへ...。まさか令和にてリサリサの冒険譚をお目にかかれるなんて!!!
最高に心が震えました!!!
闇夜を払え!!
波紋疾走!!!!
◆六本松 蔦屋書店 峯多美子さん
さすがに"ジョジョ"は知っているし、"スタンド"という特殊能力を有する人物達の物語というのはうっすら聞いたことがあったけれど『ジョジョの奇妙な冒険』を読んだことはなかった。
そんな人間が読んでもむちゃくちゃ面白かった。熱狂的なファンはそれ以上に興奮するのではないだろうか。オクタビオとホアキンが登場するアンティグアの怪物との死闘でもアルホーンの要塞での闘いでも想像を絶する"驚異の力に"、人の想像力というものは無限なのかもしれないと思った。
作品全体にそこはかとなく漂う妖しげな雰囲気と硬質な文体がこの物語の特異性をより引き立てていて秀逸だった。
◆ジュンク堂書店 秋田店 進藤菜美子さん
ジョジョの二部は他にくらべて短いお話だったのでサイドストーリーの誕生は歓喜です。
二部~三部にあった独特の熱気が真藤さんの文体とまじりあって、たまらない世界観。
とにかく二部に光をあててくれてありがとう!!
そう言わずにはいられません。
◆未来屋書店 姫路大津店 沖川幾美さん
スピードワゴン財団がスタンドの存在を認識しはじめた頃の、手探り状態への畏怖が感じられ、ワクワクしました。
波紋×スタンド使い最強ですね!
◆未来屋書店 有松店 富田晴子さん
悪魔的かつ蠱惑的な文体からつむがれる、めくるめくような新たなる世界の幕開けに瞠目せよッ!
原作を知っていても知らずばとも血湧き肉躍る冒険に必ずや魅了されるッ!
かつてリアルタイムでジョジョを読んでいた。
私には老いて尚輝くリサリサの勇姿にただただ胸アツの一言。
◆紀伊國屋書店 仙台店 齊藤一弥さん
ジョジョの奇妙冒険小説版、久々の新刊キターーーッ!
新しいスタンドたちに興奮しました!
チョークのスタンド(石蹴り遊び)なんてとてもジョジョらしいスタンド!
興奮と言えばやはり悪vs悪、アルホーンvsオクタビオ&ホアキン!!私は第5部が好きなのでドッピオvsリゾットの最強対決を彷彿させるバトルに胸踊りました。
小説でもスタンド対決はハンパない熱さ!
著者略歴
◆真藤順丈(しんどう・じゅんじょう)
1977年東京都生まれ。2008年『地図男』で第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で第15回日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で第15回電撃小説大賞銀賞、『RANK』で第3回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞。2018年に刊行した『宝島』で第9回山田風太郎賞、第160回直木三十五賞、第5回沖縄書店大賞を受賞。その他の著書に『畦と銃』『墓頭』『われらの世紀』などがある。
◆荒木飛呂彦(あらき・ひろひこ)
1960年宮城県生まれ。1980年『武装ポーカー』で第20回手塚賞に準入選し、同作で週刊少年ジャンプにてデビュー。1986年から連載を開始した『ジョジョの奇妙な冒険』は世界的な人気を誇る。その他の作品に『岸辺露伴は動かない』シリーズ、『魔少年ビーティー』『バオー来訪者』などがある。
それでは物語をお楽しみください。
『ジョジョの奇妙な冒険 無限の王』
第1章 アンティグアの怪物と嵐の孤児
Ⅰ
1973年、グアテマラ
おそるべき怪物がのさばっていたころ、グアテマラの古都・アンティグアの市民は、野放しになった殺人者がふるう死の鎌だけにかまけていられなかった。
地元のどこかに人殺しが潜んでいるという事態は、都市そのものがひどい悪疫に侵されるようなものだが、当時のグアテマラでは森や市街のあちこちで軍事政権と反乱勢力が激しい紛争をつづけていた。だから身中に巣食った病魔よりも、故郷の見なれた風景を焼きつくす山火事から逃げまわるのが先決で、自分たちの頭上を飛びかうクロコンドルの群れのような死の影からはつとめて目を背けようとしていた。
宗教の都であるアンティグアでは、初春の復活祭にさきがけて「キリストの体」と呼ばれる祭儀が催される。聖週間――蘇生をはたす前のキリストがエルサレムで味わった受難と死。これらを象った聖像が山車に載せられ、パレードの列をなし、植民地時代に建てられた教会やバロック建築がひしめく市街を経路に沿って行進する。
パレードが始まると、まずは祭服の信者たちが焚いた香を紐つきの缶に入れ、これを列の先頭で振りながら歩いてくる。香煙はもうもうと路上に垂れこめて、細長い階段を這いのぼり、教会や修道院の前にもくまなく行き渡る。次いでブラスバンドが通過して、それから山車がやってくる。キリストや聖母の像をいただいた行列が通るのは、色をつけたおがくず、野菜、花、植物の葉、麵麭などを敷きつめて模様を描いた絨毯の上だ。宗教画あり、カリグラフィーあり、麵麭でつくったオブジェあり。おなじものはひとつとしてなく、街の景観を色あざやかに飾りたてる。アンティグアの風物でもひときわ堪能に値するもので、貧富貴賤を問わずに住民たちは絨毯作りに情熱を注いでいる。一年がかりで絨毯貯金だってするし、優れた絨毯を作れる若者は嫁のなり手に困らない。祭事のあいだも車の上から監視するグアテマラ政府軍の兵士たちですら、住民たちの生の結晶である絨毯だけは軽はずみに踏みつけなかった。
老いも若きも街頭に出てきて、沿道には人だかりができる。爆竹が鳴り、紙吹雪が舞って、通りの屋台では土産物やトルティーヤが売られ、聖体拝領を終えたばかりの娘たちが着飾って踊りまわる。アンティグアがもっとも華やぐそんな祝祭のさなかにあっても、熱に浮かされず、警戒のまなざしを雑踏に配っている数人の男たちがいた。
今年の聖週間には、高い確率で怪物が現われる――
前年の暮れに現地入りして、秘密裏の調査の末にそう結論を出したある組織の調査員だった。莫大な資本をもとに国境を越えて活動し、科学・福祉・医療などの分野にシェアを伸ばし、超自然現象をあつかう部門も有する非政府組織――スピードワゴン財団がこの件に関わるきっかけとなったのは、米国のオピニオン誌に掲載された「グアテマラ内戦下の殺人事件」と題される記事だった。これはメキシコ出身のジャーナリストが執筆したもので、軍事政権の傀儡となった警察がゲリラ兵や左翼政党の追跡と検挙にかまけて殺人者を野放しにしていること、国内では報道規制が敷かれて情報が市民に行き渡っていないこと、二十件を超える連続殺人にある「署名」が見られることを克明に記していた。親米独裁政権のお膳立てをしたアメリカの中央情報局はこれを黙殺したが、グアテマラの古都で起きている出来事はいくつかの人権団体や非政府組織の知るところとなり、とりわけ犯人による「署名」を問題視したスピードワゴン財団が調査員を派遣するにいたった。各分野の専門家からなる調査団は、五ヶ月にわたってすべての事件現場をめぐり、地元の警察官や被害者遺族、監察医、司祭、精神科医、政府軍と反乱勢力のそれぞれの渉外担当にも聞き取りをおこなった。同時期に市内で起きている類似の事件についても調べを進め、熟議を重ねたうえで調査団代表のJ・D・エルナンデスがテキサス州ダラスの財団本部に報告書を送付した。概要は以下の通り。
(ⅰ)被害者はすべて銃殺。二十七人全員に銃創とおぼしき数十ヶ所の外傷があったが、いずれの現場においても弾頭が回収されていない。床や壁にもめりこんでおらず、遺体の体内にも残っていなかった。この共通点こそが一連の事件を連続殺人たらしめている「署名」であり、調査団ではこれを「見えない銃弾」と呼ぶ。
(ⅱ)簡易宿、車、自宅など、現場のいくつかは内側から鍵がかけられた密室状態だった。遠方からの狙撃の可能性も検討したが、銃弾が窓を突き破った形跡はなく、換気扇の隙間しか外部と通じていない現場も見られた。
(ⅲ)男も女も、年寄りも若者も、メスティーソもインディヘナも犠牲になっている。共通項は、すべての者が信心深いクリスチャンであったということだけ。
(ⅳ)(ⅲ)に付随して、殺人が始まったのと時をおなじくして、アンティグア全域の教会や修道院などで聖像や十字架が壊される器物破損事件が多発している。壊された石膏や青銅像の破片を検証したところ、野球のバットなどによる被害ではなく、無数の穴を開けられ、亀裂がひろがることで損壊したものと判明。殺人事件とおなじ「見えない銃弾」による破壊の可能性が高い。
(ⅴ)(ⅰ)~(ⅳ)から類推できるのは、聖なる意匠(聖像や十字架、聖書や聖具、祭壇など)に病的なまでの敵意や憎悪をあおられる「神聖恐怖症」を悪化させた者の犯行ではないかということ。専門書によると神聖恐怖は、利害の反する宗教に対してよりもみずからの信仰する宗教に対して発症することが多い。犯人は聖像や聖具を壊したくなる衝動を、被害者が身につけていた十字架や、十字を切る仕種、あるいはそれぞれの信仰心そのものへ向けたのではないか。
(ⅵ)なお、最大の懸案である「見えない銃弾」に関しては、現時点では詳細不明。物理常識では説明のつかないことが多く、世界でも未観測の現象であるかもしれない。「波紋」との関係については有識者の見解を待ちたい。
アンティグアの市街に出てきたJ・D・エルナンデスは、高まる緊張と警戒心で身を固くしていた。市政や教会にも働きかけたが聖週間そのものを中止にすることはできなかった。そうなると最悪の巡りあわせではないか? こんなときに当地でも最大規模のパレードが、街じゅうに聖なる意匠や図像があふれかえる祝祭が、よりにもよって一週間にわたってつづくなんて。
素性の知れない怪物が、山車の上の聖像に、絨毯に、どの方角を向いても視界に飛びこんでくる十字架におぞましい衝動をあおられるだけあおられて、数えきれない住民や観光客でごった返した往来に「見えない銃弾」を乱射したりしたら――
お前はどこにいる?
雑踏にまぎれているか、パレードの行列に加わっていないともかぎらない。軍の兵士も警官も聖職者たちも、屋台の売り子や浮浪者でさえも警戒対象から外せない。そこにきて自分たちは権限を行使できる捜査官でも情報局の諜報員でもない。挙動の不審な者がいたら端から詮議し、場合によっては越権行為をためらわずに拘束するかまえだったが、もしもこの地の殺人者がなんらかの「驚異の力」を秘めているとしたら。アンティグアの街に配備した財団の調査員に対抗する術をそなえた者はいない。この地の日常と平穏をおびやかす怪物は、本当に自分たちだけで渡りあえる相手なのか。
聖週間の金曜日、すっかり夜が深けてもパレードは終わらない。どこからか爆竹の音がこだまする。財団の調査員は数手に分かれて、五ヶ月間の滞在でつぶさに精通した市内の通りを歩きまわった。路地の角を折れるたび、鼻先に漂う空気が変わる。空気の重さと密度、舌を撫ぜる味が変わる。絨毯から立ちあがるおがくずや草花のにおい、香煙のにおいがからみあって、夜の闇のなかで転がるように混淆する。路上の松明によってパレードの行列は影絵じみて見えた。聖像を運ぶ者たちの動作も二重、三重の輪郭を帯びている。
旧サンタクララ修道院の跡地を通りすぎたところで、J・D・エルナンデスに近づいてくる影があった。振り返らずともJ・D・エルナンデスはその気配を察している。火明かりに照らしだされた人影がひとつ、ふたつ。縦列に重なりあっていた影が分かれて、背後に並びたつ。
左側の体格のよい青年が、J・D・エルナンデスに声をかけた。
「よう旦那、動きがありましたよ」と耳打ちにしては大きすぎる声で言う。「殺人鬼のやつめ、金曜日にもなっていよいよ我慢できなくなったらしい」
おお・あ・おおあお、もう一人の小柄の青年はうめきながら、身ぶり手ぶりでなにかを訴えている。生まれつきなのか、こちらは発語に障害があるようだが、そのぶん琥珀色の瞳は雄弁だった。語らずとも意思が伝わってくる。
「教会だな、聖像がまた壊されたのか」J・D・エルナンデスは言った。
「時計台の先の、メルセー教会です」と大柄な男が答える。
「被害者は」
「聖具係が襲われたって」
地元の男たちに導かれ、J・D・エルナンデスは石畳を鳴らして教会へ走った。この二人、スピードワゴン財団で雇い入れた現地の協力者だった。
その名をオクタビオとホアキン。筋肉質で長身のほうがオクタビオで、小柄なほうがホアキン。二人ともアンティグアの修道院が運営する孤児院の出身で、神学生としての進路を外れてからは路上で活計を立てていた。どちらも十九歳と若いが、オクタビオのほうはその齢で裏通りの顔役のような地位に収まっているらしかった。
密林の奥の獣のように濃い目をしているが、ふとした隙に、取り返しのつかないことをしでかしそうな危うい表情をよぎらせる。人生のなにか重要な決断をとうに下しているふしがあるのがオクタビオだ。かたやホアキンのほうは、こちらもはしっこい動物めいているが、寡黙な瞳には抜き去りがたい知性があった。J・D・エルナンデスは二人にざっとそんな評価を与えていた。汚れ仕事にも手を染めているようだが、J・D・エルナンデスは彼らの正邪聖俗を問わない。少なくとも聖週間のあいだは、問わない。財団の調査員だけではアンティグアの全域に警戒の網を張ることはできない。ゆえにひとつでも多くの呼び笛がなくてはならず、その点においてオクタビオとホアキンは適任だった。
彼らが声をかければ、裏通りのネットワークが稼働する。孤児が、浮浪者が、屋台の売り子が、血や細胞のように路地という路地を流れだす。パレードの動線をつかみ、口から口へと最新の報を伝播させ、軍人や警察の目もたくみに出し抜く。オクタビオのひと声で孤児たちは裏路地の隅ずみまで嗅ぎまわり、バロック建築の屋根から屋根を、走る。飛ぶ。
協力を要請したのはJ・D・エルナンデスの判断だった。調査員の経験則による選択だった。切れ者の読みだった。彼らにも愛郷心はある。むしろ強い。地元の街に殺人者がのさばるのを喜ぶあんぽんたんがいるもんか、聖週間でそいつをあぶり出せるなら願ったりだとオクタビオは請けあっていた。
「殺人鬼の気配があったら、そこで退け。君たちの仕事は終わりだ」とJ・D・エルナンデスは走りながら言った。
「だけどおれ、即戦力になれるんだけど」オクタビオは腕を関節ごと旋回させている。
「だめだ、いいな?」
「このホアキンもやるときはやるし、なあ?」
ホアキンが肯いた。二人の主張をJ・D・エルナンデスは容れない。
「だめだ」
路地から路地へ、最短距離を抜けて、目的地の教会に着いた。
聖典の一節を記したタペストリーが石壁に飾られている。木製の扉のすぐ上に格子状の高窓があり、そこから灯りがこぼれていた。扉を叩くと、戸口の掛け金が内側から外されて、司祭が一行を招き入れた。襲撃を受けた聖具係は担架に横たわって病院に運ばれるのを待っていた。紫色の祭服が血に染まっていて、肩と腹に応急処置を受けている。銃弾とおぼしきものに撃ち抜かれたらしいが、しかし銃声はなかった。拳銃の閃光も見えなかったと聖具係は苦しげに証言した。
教区の記録をつけるために残っていた聖具係は、十時すぎから居眠りをしていて、石膏像が砕ける音で目を覚ました。たしかに戸締まりはしたはずなのに、噂で聞いた冒瀆者が侵入したのか? 様子を見にいくと祭壇近くの床で聖フランシスコ像が粉々になっていたが、窓は割られていなかった。錠前も壊されていなかった。聖具係は燭台をつかんで教会の外に出た。物音がしたので、教会の裏手にまわった。暗がりに見知らぬ男が立っていた。体重を一方の足に載せてはすぐにもう片方の足に移し、体をゆらゆらと左右に揺らしていた。胡桃色の肌にがっしりした体つきのどこにでもいるインディヘナに見えた。濃い髭を生やした顔を両手で覆って、泣いているかのように、あるいは泣こうとしているかのように、弱々しいうめき声を漏らしていた。ところが顔から手をどけると、笑っていた。涙の跡も残っていなかった。聖具係の目には麻薬の中毒者のように映った。教会になにか用ですかと訊ねかけたところで、相手が右の掌を頭上にかざし、手首を返した。次の瞬間、焼けつくような痛みが右肩に走り、遅れて左脇腹にも灼熱の痛みがつづいた。倒れこんだ聖具係はあまりの痛みと恐怖に歯を鳴らしながら、みずからの魂のために主に祈った。聖母マリアに祈った。撃たれたらしいと見当がついたが、相手は銃の類いをかまえていなかった。なのにどうして? 肉眼でとらえられない弾丸が右肩を射貫き、瞬時にUターンして、戻ってきて左腹を貫通したように聖具係には感じられたという。間違いないとJ・D・エルナンデスは告げた。怪物だ。
銃弾が戻ってきたと? それが事実なら、見えない銃弾どころではない。
魔法の銃弾だ。
あるいは怪物はみずからの晩餐の前に、気付けの酒のように聖像を壊すのかもしれない。そこで悔悟をふりきって、いよいよ主菜に手をつけるべく市街に繰りだすのではないか。
真鍮製のカーバイドランタンを借りて、護身用の拳銃を抜くと、逃げた怪物を追いかけた。教会の周辺をくまなく捜索する。現地協力者の二人も付き随おうとしたが、地区に散らばった他の調査員への連絡を頼み、しぶっているオクタビオも引き揚げさせた。
夜の街路のいたるところで絨毯が荒らされ、聖人の像や碑が壊されている。ここにきて歯止めを失ったか――冒瀆の跡をたどるかたちでJ・D・エルナンデスは、急に倒れた者、原因不明の外傷を負った者はいないかを聞いてまわった。十字架の丘を見上げるアンチャ・デ・ロス・エレロス通りから左手に折れたところで、土産物の売り子がよろめきながら歩いてきた。警察、警察、と連呼している。聞けばつい数分前、路地の先の修道院の中庭に一人の男が屈みこんでいるのを見たという。それとなく近づいてみると、吐くのをこらえているようなうめき声が二度、三度と聞こえ、すぐに嘔吐の音がつづいた。うずくまった男の前には修道女が倒れているのが見えた。売り子が悲鳴を上げると、男はアーチをくぐって修道院の内部へ駆けこんでいった。
吹き抜けのホールに立ったJ・D・エルナンデスは、修道院の天井を見上げた。壁龕に置かれた蠟燭の煙がゆっくりと天井に立ちのぼり、黄土色の濃密な雲が垂れこめている。背後の側廊を走り抜ける足音がして、重たいものが倒れる音も聞こえた。身をすくませている数人の修道女へ部屋に戻るように言ってから、物音の響いたほうに向かった。大天使ガブリエルの木彫を飾った柱が倒れている。その奥に地下へとつらなる石の階段があって、上げ蓋の蝶番が壊されていた。
顔の高さにカーバイドランタンをかざす。石造りの通路は奥へ奥へ伸びている。それは植民地時代の司祭たちが石工に造らせた秘密の抜け道らしかった。
地下の静寂はJ・D・エルナンデスを圧倒した。
冥界に降っていくような心地だった。
この地下道は生きた時間をからめとる。
呼吸の止まるような静けさと緩慢さが通路に満ちている。J・D・エルナンデスは刺すような身震いをおぼえる。私はそこに迷いこんだ非力な異物か――
暗闇の祭壇に捧げられた生け贄の気分だった。夜陰にうごめく殺人者には、地下の闇はあるいは居心地のよい寝床になるのかもしれない。こころなしか酸素が薄かった。丹念かつ正確に切りだされた石積みの壁がJ・D・エルナンデスの体温を奪っていく。まっすぐに地下通路を進み、気配と足音を追って右手に折れる。ふたたび曲がり、直進する。分岐こそほとんどないが、驚くほど広域にわたって地下の空間は拡がっている。どこかで地上に出られるはずだが、もしもこのまま出られなかったら――
汚泥や下水はない。足元をよぎる鼠もいないが、だしぬけに犬の死骸と出くわした。別の出口から迷いこんだのか、死後三日は経過している。死んだ犬の眸や口吻、浮いた肋骨に蛆が湧き、皮膚の下からも体毛を波打たせている。
ブゥン、と鋭い音がした。
次の瞬間、礫のようなものがランタンを直撃した。
硝子が割れ、カーバイドの皿が割れ、手からランタンが落ちる。
燃焼していた火が消えて、たちまち視界が闇に吞みこまれた。
――なんだ、いまのは?
再点灯しようとしても点かない。火が点かない。いったいなにが起きたのか、もしかして「見えない銃弾」に襲われたのか。これでは追えない。暗闇に阻まれてしまっては分岐に気づけない。石壁に手を添えたうえでゆっくり進むしかなく、大きく距離を離されてしまえば最悪の惨事にもつながりかねない。地下の闇に落とされてJ・D・エルナンデスは窒息しかける。生きたままアンティグアの地中に埋葬されてしまったようだった。
それにしてもどうしてランタンを狙ったのか、こちらの頭や心臓を撃ち抜けばそれまでなのに――もしかしてなぶっているのか、追っ手をもてあそんでいるのか。悪寒がJ・D・エルナンデスの背筋を這いあがり、腹部になにかが重たく溜まっていく。脈拍が乱れ、体温がますます低下する。瞼を閉じても開けても変わらない闇のなかで一歩一歩、崖ぞいに綱渡りをするように進んでいたところで、ふいに上着の裾が引っぱられた。だれかいる。おおあ・お・ああと声が聞こえた。戻るように言ったはずなのに、現地の協力者がここまで追いかけてきたらしい。
「ホアキン、君か」J・D・エルナンデスは言った。「ここまで灯りもなしで来たのか」
オクタビオは来ていない。無口な相棒だけだった。ホアキンはJ・D・エルナンデスの手首をつかむと、座礁した船を曳航するように走りだした。自分についてこいということか? ホアキンはまったく迷いのない足取りで、少しも速度を落とさない。遅れを取り戻さなくてはならないことも理解している。障害物にぶつかるようなこともなく、視えているのか、と訊きたくなるほどの適確な先導だった。
視えている?
まさか、そんなはずはない。
わずかな光源もなしで、暗闇でものが見える人間はいない。これも地元住人のアドヴァンテージなのか、路上に精通した彼らはこの地下道のことも知っていて、あるいは目隠しをしても走り抜けられるほどに往き来しているのかもしれない。
お・おお・おお! ホアキンがそこで声を張りあげた。うなりながらJ・D・エルナンデスの体を引いて重心を落とさせようとする。おびただしい翅虫の群がる音が聞こえ、硬くて鋭いものがJ・D・エルナンデスの目尻に直撃した。頰を裂かれ、額は切れ、唇や目に血が流れこむ。これはたまらない――うながされるままに腰を低く落とし、両腕を交差させて顔を守りながら走った。雲霞のように集いた飛礫のなかを抜けていく。走りながらJ・D・エルナンデスは「見えない銃弾」の輪郭をつかんだような気がしていた。これこそが聖像を破壊し、多くの市民を葬ったものの正体ではないのか。だとすればこれは「波紋」とも異なるまったく未知の現象だ――
ホアキンの誘導は正しかった。視界の闇がほどなくして薄まった。
通路の前方に、斜光が落ちている。地上へのしるべを描いている。
細い階段を上がると、そこは大聖堂の広場だった。
ここにいたって聖週間のパレードは、最大の山場を迎えようとしていた。
ゴルゴタの丘へ十字架を運ぶキリスト。もっとも巨大な聖像がパレードの終点にたどりつき、数えきれない見物客たちが山車を囲んでいる。照明を当てられて夜に浮かびあがる大聖堂は、聖なる祝福の垂れ幕を落とし、紙吹雪を舞わせ、色あざやかな衣裳をまとった住民を幾重にもひしめかせている。最後にイエスの像を拝もうとだれもが押しあいへしあいして、ブラスバンドが楽器の音を高鳴らせ、典礼の音楽が風にちぎれてこだまする。アンティグアという生き物が悦びに打ち震えているかのようだった。地上に出てきたJ・D・エルナンデスは焦燥をあおられる。あの男はどこだ、どこにまぎれこんでいる――喧騒のさなかにその衝動を解き放ってしまったら。せっかく尻尾をつかみかけたのに、追跡に手間どってふたたび見失ってしまったのか。
「おう、こっちこっち!」そこでよく通る声が聞こえた。「こいつで間違いねえ、地下道から飛びだしてきやがった!」
路上でオクタビオが何者かと取っ組みあっている。石畳を割り、砂塵を立てながら暴れまわる男の首根っこを押さえようとしている。相手は顔半分に髭を生やした浅黒い肌のインディヘナ。聖具係の証言とも一致している。ホアキンと同様にオクタビオも地下通路の存在を知っていたようだ。J・D・エルナンデスが下りていくのを確認し、ホアキンにあとを追わせ、自分は先回りして待ち伏せしていたということか。すでに期待以上の働きを見せてくれていたが、しかしどれだけ喧嘩に自信があろうとも、危険だ。あの男がアンティグアの怪物だとしたら――
「お前はここで終いだッ、じたばたするんじゃあねえ!」
オクタビオが咆えた。その男から離れろ、と叫びながらJ・D・エルナンデスは駆けよった。二人の周りにはすでに人だかりができていて、財団の調査員たちも、大聖堂を衛っていた軍の兵士たちも警笛を吹きながら向かってくる。カートを押す浮浪者の老女が、物売りの子どもが集まってくる。だめだ、今すぐ家に帰るんだ、広場にいる群衆にJ・D・エルナンデスは叫びたかった。オクタビオに組み敷かれた男は、腕をもたげて、手旗信号のように忙しなく指先を動かしはじめた。
ザッ、と空気が鳴った。
ザ、ザザザ、ザザザザザザと揺り動いた。
ザ、ザザザ、ザザザザザザザザザ。四方の空から、建物のあいだから、地下道からも湧きかえって飛来する。
強風に吹きすさばれる葉叢のようなどよめき。そこに重なる人々の叫喚。蠅だ。おびただしい数が蝟集している。群雲のように上空を埋めつくす蠅の大群は、その数だけで夜の暗闇の重さを増幅させていた。
あるいはこれが白昼なら、疑似日蝕となって一帯を搔き曇らせていただろう。ザワァァァァアア、ザワァァァアアア、ザワァァァァァアアアア、夜の底が翅音で震えている。目の前の風景が顫動している。蠅の天幕を仰いだアンティグアの市民には、この変事がなにを意味するのかすぐにはわからない。それでも宗教の都に生きる者たちの本能が、およそ黙示録じみた凶兆の顕現であることを直感していた。
ザ!
毛針釣りでもするように髭のインディヘナが手首を返した。
たちまち蠅の一群が、地上めがけてけたたましく降下する。
ただの蠅ではないとJ・D・エルナンデスにはわかった。それは怪物による聖餐の道具だった。その一匹一匹が、凶弾だった。爆撃だった。
ザ!
ザザ! ザザザ!
ザザ! ザザザ! ザザザ!
ザザ! ザザザザ! ザザザザ!
ザザ! ザザザザ! ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ――
降りそそぐ蠅の凶弾はまっさきにオクタビオを狙った。ただの蠅ではない。皮膚をつらぬき、肉や骨を断つほどに硬化し、灯りや体温に向かって猛進する殺傷兵器だ。肩や背中に被弾したオクタビオはたまらずに男から離れ、身をこごめて頭部をかばいながら這い進み、障害物の陰にほうほうの体で隠れた。つづけてイエスが背負った十字架に亀裂が入り、黒く濁った渦に巻かれてたちまち砕け散る。破裂するように崩れ落ちる。大聖堂の前は戦場もさながらの騒ぎになった。降ってわいた蠅の群れは受難と死をもたらす霹靂だった。聖週間のすべての色が蠅の色に侵蝕され、冥い終末の色彩に染められる。混乱のなかを逃げまどい、山車の下に避難し、屋台を押し倒して右往左往する人びとの動線がさらに混乱をあおりたてる。喧騒の中心に立った怪物は、蠅にふりつけをするように両手を乱舞させ、スペイン語ではない言語でなにかを唱えている。嘆きに暮れているのか、感動に震えているのか、その面差しに悲嘆と恍惚、悔悟と法悦をよぎらせながら、落涙していた。
あごに溜まった大粒の涙をぽたぽたと滴らせている。いったいなにに押しだされてそんなに出るのか、他人に見せてはならない排泄物めいたものを無理やり絞りだしているかのようだ。近づきたくても近づけずに、J・D・エルナンデスの視界がぶれる。十メートルほど先にいる怪物の立ち姿がゆがみ、蜃気楼のように背後の空気が揺れている。集まった政府軍はこぞって自動小銃を発砲して蠅の群れとゲリラ戦を始めたが、ありていの弾幕では蠅の集中爆撃を押し返せない。迎撃できない。
想定された最悪の惨劇、悪夢の出来ともいえる事態だった。蠅の大群はあきらかに男の意思に従って動いている。J・D・エルナンデスの手にはこの暴虐にあらがえる剣も楯もない。アンティグアの怪物が吹いているのは、もはやまぎれもなく虐殺の笛だった。
政府軍の指揮系統は乱れて、警察の装備では物の数にもならない。せめて市民を避難させなくてはならないが、しかし露天の広場に駆けこめる屋根はない。死を媒介する蠅は、たとえ大聖堂に駆けこんでも高窓や換気孔から侵入してくるだろう。地面に落ちたブラスバンドの管楽器に風穴が開けられ、絨毯は荒らされ、軍のジープの屋根まで蜂の巣になっている。逃げおくれた子どもが腰を抜かしてへたりこみ、浮浪者の老女がよろめいて転んで、群衆がわれがちに広場の噴水に飛びこんで小競りあう。蠅の爆撃はそれでも止まず、逃げ場がないアンティグアの市民に――そのなかのただ一人にすらも――J・D・エルナンデスは救援の手を差しのべることができなかった。
救いはないのか?
この古都でも、あくまで主は沈黙するのか。
混沌のなかでも信者たちの祈りは、天に届かないのか。
鼻先でふと、花びらのようなものが舞い揺れた。
J・D・エルナンデスは足元を見下ろした。割れた硝子の粒が、数限りない聖像の破片が散らばっている。
飛散した硝子片が、角灯や松明の灯りを乱反射させて、かすかに瞬いている。
そのひとつひとつの小さな光に呼応するように、花や葉が、頭上へと立ちのぼっている。
これは――まっすぐに、あるいは螺旋を描くように舞い上がっていくのは、絨毯を織りなす素材だった。
植物の葉や生花、そして彩色されたおがくずが、帯電し、生命を吹きこまれたように天上へ昇っていくではないか。天ではなくて地上の側から奇蹟の風が吹きあげたように――
これは、これこそは自分たちが知っている特異な力の発露だとJ・D・エルナンデスにはわかった。チベットを発祥とする仙術、強大なエネルギーの奔流を生みだす秘法。舞いあがった草花やおがくずは「波紋」の媒介となって、重なりあい、層をなして、広場の全域を覆うほどの巨大なドームを形成していった。電流が流れる蚊帳のように機能して、隙間なく結びついて蠅のさらなる爆撃を許さない。太陽光とおなじ生命の力で押しだし、ことごとく撥ねのけて、侵入させない。
群集のどこかに来ている。あの人が間に合ったのだ。このような応用の仕方があると聞いたことはなかったが、J・D・エルナンデスが知るかぎり、四半世紀以上も前に「波紋」の使い手たちが撃破した存在は、アンティグアに降りかかったこの災禍よりも、もしかしたら地球そのものよりも大きかった。あの人たちにならできるし、あの人たちにしかできない。
大聖堂前のこの混沌に、名前はまだついていない。居合わせた市民が目の当たりにしたエネルギーの発露についてもそれは同様で、しかし後日になって、スピードワゴン財団の内部資料にこの応用術の呼称が冠され、記録される。
千紫万紅の波紋疾走、と――
倒れていた浮浪者の老女が、絨毯の上でゆらりと体を起こした。
額ずくように、祈るように、聖なる模様にふたつの掌を密着させていたその人が――
彼女は浮浪者ではない、それは人目を欺く扮装だ。しかし老女ではある。被っていた頭巾を下ろすと、白銀の色に染まった長髪が滝のように宙に流れる。顔の半分をマフラーで覆っていたが、あらわになった目元だけでも驚くほど高貴な雰囲気があった。
実年齢は? J・D・エルナンデスも正確なところは知らない。容姿は? 波紋の呼吸法には身体能力を向上させ、外見を二十歳も三十歳も若返らせる効果があるそうだが、彼女はいつからかアンチ・エイジングに意識を傾けるのをやめたという。それでも自然に美しく齢を重ねて、蒸留された混じり気のないエネルギーを満々とみなぎらせている。芳醇なアルコールが歳月に濃縮され、甘みと強度をいや増していくように。背中から腰にかけてストラディバリウスの名器のような曲線を描き、吸血鬼に打ちこむ杭のように踵の高いヒールを履いている。ちょうど視線がぶつかったJ・D・エルナンデスに目配せをしたその女は、残りの蠅を手にした紫檀の杖で追い散らしながら、事態の急変を吞みこめずに動転しているアンティグアの怪物に向かって歩いていく。しなやかなその一歩ごとに、一夜をまたぎ越すように。
近づいてくる老女に、怪物も気がついた。おそらくインディヘナの民族の言葉でしきりに叫んでいる。生唾のように怨嗟の言葉が湧いてきてとめどもないというふうに。かたや彼女が口にするのは流麗なイギリス英語だった。
「祭りはおしまい。この古都の夜は、沈黙を欲しています」
他の調査員に指示を送りながら、J・D・エルナンデスも老女と男のもとに駆けつけた。残存するなかでも指折りの「波紋」の使い手がみずから現場に出張ってきたのだ。最大の研究対象を、世界でも観測されていない能力の所有者をみすみす逃すわけにいかない。他の者とともに、銃をかまえて包囲網をせばめる。
「わたしが手助けしましょうか」
彼女は、凜とした柔らかい声音で告げる。
「あなたが自分で黙れないのなら、わたしが黙らせますか?」
この老いぼれがなにかしたのだ、だから蠅どもの自由が利かなくなった――事実を察したらしい怪物が、断末魔の叫びをあげるように大きく口を開いた。
喉の奥からブゥン、と舞いあがった一匹の蠅に先導されて、噴きこぼれるように吐きだされた大量の蠅が彼女を襲った。しかし後退はない。動揺もない。特にすばやいわけではなかったが、彼女はあらかじめ決められた場所へ、自分のいるべき場所へとあやまたずに移動することができた。手並を見せつけるようなことも、過剰な力の示威もない。蚕の糸のような光輝を束ねたマフラーで蠅の群れを左に流し、自身の体もたくみに運んで間合いを詰め、怪物の首筋に手をからめる。おやすみ。カーペットを汚した仔犬を叱るように、薔薇色ほっぺの男の子を寝かしつけるようにささやくと、「波紋」のエネルギーを流しこんで、電流ロッドをあてがったように怪物を痺れさせて卒倒させた。
驚嘆せざるをえなかった。J・Dエルナンデスたちの出る幕はなかった。あれだけ途方もないドームを実現させておきながら、大の男一人を失神させるだけの呼吸も練れている。「波紋」の肺活量が並外れている。特別顧問として長らくスピードワゴン財団に関わり、数年前に超常現象部門のトップに就任したばかりだった。司令塔として本部で指示を送るだけのはずが、現場の一線に出張ってきても、調査員が束になってもかなわない働きぶり。彼女はいまなお、現役なのだ。
「遅くなってしまって苦労をかけました。ペルーの件が長引いてしまって」
拘束した怪物を、彼女とともに現地入りしていた財団の医療班に受け渡す。うるわしき上司は調査員たちへの慰労も忘れなかった。
「この蠅を見てごらん」と掌に載せた一匹をあらためながら言った。「鋼か鋳鉄のように硬質化し、凶暴化していたものが、ただの虫に戻っている。おそらく能力の発動者が人事不省に陥ったからでしょう。エルナンデス、あなたの報告書にあったクエスチョンは解かれなくてはなりません」
「ミセス、やはりこれは波紋ではないのですか」
抱きつづけてきたJ・D・エルナンデスの疑念は、上司の肯きによっていよいよ現実のものとなった。
「波紋とはすなわち太陽の力。生命の力の奔流。だけどこれはもっと……薄暗くて奥深いところにある、人の精神の暗部すらも具現化させるもの……おかげで確信は深まりました。この世界は変質しようとしているか、あるいはとうに変質している。わたしたちはその実態を解明しなくてはなりません。変化の渦はこの中南米から世界へ拡大している」
この年、この地で、過去と未来とが邂逅をはたしていた。スピードワゴン財団の運命をも左右する巨大な時間の波。歴史の変節点。記録によれば「アンティグアの怪物」は、後年になって財団があらゆる資源を投じて調査の対象とするある特異な能力群の、観測リストの第一号に記される発現者だった。地中のどこかでおなじ根につながってはいても、波紋とは似て非なるもの。一九七三年の四月にはまだ命名されていない新たな驚異の正体を、世界はいずれ知ることになる。引き返せない分水嶺を見届けにきたその女は、J・D・エルナンデスに、すべての財団の使者たちに自覚をうながそうとしている。内側からの覚醒を、目覚めを――玲瓏と澄みわたった碧い眼は、みずからの子孫の戦いの宿命すらも見つめている。
今夜のこの男にも能力発現のきっかけがあったはずです、スピードワゴン財団の調査員と向き合ってその女は言った。
「つらぬかれたはずです、あの弓と矢に」と、リサリサは告げた。
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