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感情の広がり方

連想ゲームが癖になっているという友人と話していたら自分の中での感情の広がり方と制御についてなんとなくまとまっていたことに気づいた。せっかくなので、noteにまとめておこうと思う。

これは私の経験則に基づいた持論だけど、不安という感情は自分の中の「〜かもしれない」という連想ゲームが制御不能に陥った状態だ。

そしてその連想ゲームはなぜ始まるのかというと、未知の部分が多く見通しがつきづらいので事前にシミュレーションしておいた方が何かあった時に備えてある程度安心できるからだ。
連想ゲームはある程度の範囲まではちゃんとした「シミュレーション」の体を成しているが、情報が不足しすぎて自分に計算できる範囲を超えてくると組合せ爆発が起きて脳がキャパって不安が加速する。結果、シミュレーションして不安にならないために始めた連想ゲームによって不安が増幅されてしまう。そして謎の悪循環に突入。こういう風に書き出して整理してみると、不安って意外と大したことではない。

不安になんて、ならなくていいならできればなりたくない。
では、不安を広げないためにはどうしたらいいのか。
答えは簡単で、連想ゲームによって不安を自分で広げ始めていることに気づくことと不安という感情の広がりにくい体質を作ることである。

広げる自分

まず、不安を広げていることについて。
表面的には「不安になるなんて嫌だ」と意識しているかもしれないけど、不安になり始めた時点でその感情を押し広げて増幅させるかどうかの決定権は実は自分にある。
「そんなこと言ったって自分は不安症だし」とか言う人だって、今までの行動とその結果を振り返ってみれば不安になることによって得られるものがある程度あったからこそ今後も不安になっといた方がいいかなって頭のどこかで意思決定しているのだ。

感情の器というパレットに不安という名の濁った寒色の絵の具が垂らされた時、その絵の具に水を混ぜて筆で塗り広げるのも、放っておいて不安が広がらずカピカピになってから気晴らしになることをして洗濯して綺麗に掃除するのも、実はどっちの選択肢も自分は持っているはずだ。
なのに、今まで筆で絵の具を広げて絵を描き続けてきたからその習慣の一環としてやってしまっている。

私は以前、そんなふうに不安を扱っていた。理由なんてないけど気づけばそういうふうに扱っていた。ということに、ある時気づいてからは不安がパレットに絵の具が垂れてきた時と自分の手で筆を使って広げたりキャンパスにぶちまけて絵を描き始めている時の自分は別々に分けて考えられるようになった。分けるの大事。

感情の広がり

いくら自分の手の動きを把握して筆で塗り広げなくなったところで、パレットに垂れてくる絵の具そのものが心に滲みやすければ結局広がってしまって収集がつかなくなってしまう。
絵の具を塗り広げている自分を認知するのとは違って、どの感情が広がりやすいのかは自分の感受性や体質、健康度合いによるのでなかなかすぐには変えられない。

変えられるところがあるとすれば、経験量だ。
経験してきたことが多ければ多いほど、それを元に予想することがたやすくなる。経験しにくいことなら人から聞いたり本を読んだりしてもいい。いわゆる“想定内”を増やす。これが地味に効いてくると思う。

新たな経験をすることや知らないことを知ることはだいたいそれ自体が不安だが、余裕のある時にそういった小さな不安をプチプチと解消していればいざ大きな不安が降りかかってきた時にきちんと分けて処理できる最小単位がぐっと小さくなる。そうすると「複雑でやばい色の何か」ではなく「同じ色のモノを寄せ集めて消せば良いぷよぷよ」のようなゲームに変わり、不安が心に滲みにくくなる。

心に不安が滲みにくくなるために不安を経験するなんてちょっと難しいんじゃないか、服を買いに行くための服がない人はどうしたらいいんだと言われそうだが、新しく経験するときにも自分の手を誤って動かして不安を広げず、じっとその感情を観察して受け入れさえすればそこまで不安なんて滲みやしない。
余裕のないときはついつい手をバタつかせてしまうので、余裕がある時に不安を楽しむことが大切だ。

かの有名なデカルト先生も「困難は分割せよ」と言っていた。
これは不安にも通ずる話だと思う。小さな不安の滲みを分けて何度も経験し、不安を受ける時と自分で塗り広げる時を分けて認知する。
そうすればかなりすっきりとした世界が開けてくるはずだ。
それでも対処できないことがあれば文字に書き出して俯瞰するなどして対処すればいい。
心を見つめる自分をこれからも育てていきたい。

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