「物語」という表現では、本当に伝えたい人には届かないのではないか
初投稿です。
突然なのですが、朝ドラ『エール』みてますか?
僕は毎日見ているのですが今日のエールの最後に、
主人公・古山裕一が、通行人が自分の噂話をしているのを聞いてしまう、というシーンがありました。
その噂話の内容は概ね以下のような内容でした。
・(裕一の)家は戦争で焼けてないのか〜
・作詞家は捕らえられているが作曲家は無罪放免らしい
・戦争でたんまり稼いでも何のお咎めもない。
・(戦争賛美の曲を多く作っておいて)よくのうのうといきていられるな〜
噂話をしていた当人たちは何の気なしに話しているかもしれませんが、
裕一の心には深く突き刺さっている言葉だと思います。
このシーンを見て多くの人は、
「裕一がかわいそうだな」
「ひどいこと言う奴らだな」
などと思ったのではないでしょうか。
実際僕もそう思いました、ひどいですよねほんと。
実際には言っていませんでしたが、一緒に観ていた僕の父なら
「最低な奴らやな〜(関西弁)」みたいに言いそうだな、
などとぼんやり考えていました。
彼らはなぜそのような心ないことを言えたのだろうか、と
また僕はぼんやり思考してみました。(このnoteの本筋とは逸れます)
1. 裕一が家にいると思っていなかった(いたとしても自分たちの話が聞こえていないと思っていた)
自分たちの発言が本人に届くことを想定をしていないパターンです。
聞こえてしまっていたと知ったら謝るなり何なりのアクションを起こしそうですね。時すでに遅し、とは思います。。。
2. 自分たちの話を聞いていても、傷つくとは思っていなかった
自分たちの発言の加害性に無自覚なパターンです。
傷ついたとわかったら謝るなり何なりのアクションを起こしそうですね。
3. 自分の好き勝手言って人を傷つけることを厭わない人だった
そもそも人を傷つけてもいい、仕方がないと思っているパターンです。
個人的にはあまり関わりたくないですね。
僕は以上の3つを考えました。もうちょっと掘り下げるといろいろありそうですが、冗長になってしまうのでまたの機会に考えたいと思います。
どのパターンにせよ、3の「自分の好き勝手言っている」のは変わらないのですが、段階的な違いがあるのかなと思います。
このようなことは現実世界でもよくあることですよね。
友達の噂話に付き合ったり、芸能人のゴシップに対してあーだこーだと想像(妄想)を膨らませたり・・・
昨今のSNSではこんなことばかりTLに流れているような気さえしてしまいます。
この描写はそうした日常の中にある些細なトゲを、観ている人たちに伝え、自らがそのトゲを持ちうることを自覚させるための問題提起なのではないかと僕は思います。
似たような描写は他の作品でもあるかもしれません。それらに共通して、言えることだと思います。
しかし、仮にそうだとするならば残念ながらこのメッセージは本当に伝わってほしい人たちには伝わらないんじゃないかな、と思うのです。
なぜかというと、理由はこうです。(いろいろあるとは思いますが、あえて一つ取り上げます)
本当に伝えたい人は自分が言われていると思っていない人だから
は?と言われるかもしれません。いい言葉が見つからず。。。
何が言いたいかと言うと、このメッセージは「自覚しようね」ということなのですが、自覚している人にこのメッセージを伝える必要はなく、「自覚していない人」に伝える必要があるが、「自覚していない人」は自分が「伝えられている人」だという自覚がないので、メッセージが伝わっていない、ということです。
このメッセージが刺さるメインターゲットは「自覚がまだ少し足りていない人」なのです。
【仮説】この表現が誰か1人に対して書かれているものではない
先に述べた「自覚していない人」が自分が「伝えられている人」だと言う自覚がない、ということについて、一つの仮説を立ててみました。
例えば、先ほどのエールの中の噂話をしていた通行人に直接「あなたの噂話は人を傷つけています。よくないのでやめて、傷ついた古山先生に謝りなさい。」と伝えたら、謝るかどうかは分かりませんが、通行人は自分が「伝えられている人」だという自覚ができるはずです。
これと同じで、物語も「自分1人に対して」作られていれば、より多くの人にとっての「自分1人に対して」のメッセージを伝えることができるのではないかと思うのです。
とはいえ、「自分1人に対して」の物語じゃあ、多くの人に伝えられるわけないじゃん・・・となります。当たり前です。1000人いたら1000個の物語が必要なんて、現実的ではありません。1個の物語を1人に届けるのすら至難の技です。
ですから現状、本当に伝えたい人へ伝えることは諦め、それでも「自覚はできる人」へのアプローチを続けていかねばならないのかなあ、と思う次第です。
※ここからは完全に僕の趣味と妄想の話になります。
※ごく一部「東京クロノス」のネタバレを含みます。
タイトルにもあるように、「物語」が何かを伝えるときに有効な手段たりえるために、「本当に伝えたい人」に届けるために、先述した仮説をどう検証していくかのイメージを書いていきたいと思います。
物語を伝えるインターフェースとしてのVRという解
『東京クロノス』というVRゲームがこの可能性を示してくれていると僕は断言します。このゲームは国産のVRミステリーアドベンチャーノベルゲーム(ジャンル的にはあってるはず)で、主人公視点になって物語が進んでいきます。
ここで最も注目したいのが「自分がキャラの視点になること」です。言葉にすると簡単ですが、実際の体験は言葉にできないです。是非体験してみてほしい。先ほど述べた、自分が「伝えられている人」という自覚をさせると言う意味では、従来の手法と比べると段違いに効果があると思います。
1000人に1000個の物語をオーダーメイドで作るのはかなり難しいですが、1個の物語を1000人に「自分が伝えられている人だと自覚させる」ことが可能になるかもしれない、そんな可能性があると確信しています。
さらに「東京クロノス」は登場人物が9人いることにより、同じ時間軸の9つの違う視点から物語を体験することができます。
つまり、登場人物の数だけ同じ物語の中でバリエーションが生まれるということです。同じ物語の中でも違う人の視点を体験することができれば、違うメッセージを感じ取れたり、同じメッセージでもより深く理解できたりすることもあるのではないでしょうか。
兎にも角にも、この体験は現時点で他ではおそらく体験できないとおもいますので、ここまで読んでいただいた方は必ずOculus Quest2を買って東京クロノスをプレイしてみてください。(今facebookのバグのせいでいろいろきつそうなので、アカウントBANされないように細心の注意を払うことをお忘れなきよう)
そして体験した後で、思ったこと、疑問、話が違うぞ!などの感想を是非聞かせていただきたいです。
将来的には、ノベルゲームだけでなくアニメや映画もこのような手法で作られると、もっと「物語」の価値が上がっていくのではないでしょうか。演劇をやっている自分としては、アニメや映画が演劇に寄ってくる、ほぼイコールになる未来にワクワクします。。。できたらそんな世界の一立役者になりたいものです。
P.S. 最後に・・・・
エールと東京クロノスはいいぞ。
以上!
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