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喪に服すときに人種差別はいらないーー #志村けん さんや大勢の人々の訃報にかこつけた人種差別に抗いながらゆっくり悼むために

忘備録です。

志村けんさんの訃報にかこつけて、差別扇動が行われているらしい。というか、僕もSNSで何度も見ました。特定の地域や人々を名指しながら、差別をしても、それは的外れな指摘にしかならない。

国内でも感染者が増えてきた、いまのところ「コロナ」と呼ばれがちなそれは、すでにグローバルな感染病。特定の地域や人々のことをどうこう言っても、どうにもならない。むしろ「自分が感染させてしまうかも」と思いながら、対策を粛々ととることがベターだと思います。

あるいは、今日に至るまで「きちんとした額で一律現金給付」「自粛とセットなはずの補償」すら十全になされない状況でやるべきことは、特定の地域や人々のことをあげつらうことでもないはずです。

それに、そもそも…

差別扇動に加担せずとも、志村けんさんの訃報に涙することはできるのに。

僕は、誰かの死にかこつけて、人種差別をする側になりたくない。そんな人でありたくない。流されたくない。哀しみを差別に流し込んで、さらに誰かが傷つくような言動を振りまきたくない。

喪に服す方法はほかにある。


というか、感染病や著名人やポピュラーカルチャーのことを取り上げるときに、スッと「◯◯人」って枠組みを絶対視しちゃうの、いつまでやってるんですか。。何重にも驚きが隠せません。

あと、僕が目撃したあるYOUTUBERの方は、「差別かもしれませんが」と前置きをした上で差別発言をしていた。
それ「かも」じゃなくて、差別です。

死者と感染病への不安を巻き込んだ、直球の差別。

繰り返しますが、喪に服す方法はほかにある。

僕はそう思います。

あと「差別かもしれませんが」ってわざわざ書かれてるので、差別だってわかった上で扇動してるわけです。

「あえて」やってようが、「素朴に」「本音で」だろうが、人種差別に流されたことは一緒。志村けんさんの死と感染病への不安を巻き込んで、直球の差別するなんて…。

ゆっくりと悼むこと。

そのときに、人種差別はいらない。


同時に。

気をつけなくちゃいけないのは、栢木清吾さんが「差別感情にふれる」論考で書いているように(後述)、差別あかんって言うてる人も、たえず自己点検しないと差別に巻き込まれてしまうこと。

(論点ズレますが、たとえば人種差別あかん言うてる人が他者の問題/成果を顔立ちや「血統」やルーツに還元する姿を何度見たことか…)

そして、志村けんさんに限らないし、今回の感染病にも限らないけれども、(顕在的・潜在的)な死者との関係性から、どのようにこの社会の問題含みの状況に介入していけるのか(ゆくゆくはどんな風にまだマシな社会を構想していけるのか)自分の持ち場から考えたいと思います。

というか、いっしょにやりませんか。
「あえて」でも「うっかり」でもなく、差別に流されてしまう前に。

よく聞く「奇貨として…」という言い方、僕はとても苦手なのだけども。

まずは稲津さんの「魂にふれる」論考を読み直す。

「差別感情にふれる」も、「魂にふれる」もちょうど、大学の講義のオンライン対応で『ふれる社会学』を読み直しているところだったのです(http://www.hokuju.jp/books/view.cgi?cmd=dp&num=1124&Tfile=Data)

こういう非日常だったり、危機的なときのためにも、本はあるんだと思う。

新しい状態で混乱が起こっているなかで、意外とそれが「いままでの問題」が変化球で噴出しているのかも…ということに気づかせてくれるから。

今回は自分たちの本だったけれども、今度はまたちがう本かもしれない。時間があるようでないような毎日だけど、本を読むなら、今だと思う。

ということで、最近流行のあのハッシュタグで、この忘備録をいったんおわります。

#こういうときこそ本を読もう

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おわります、と言っておいて、書き加えます。

本筋から少し離れますが、感染者(とその身の回りの人)をdisることで「感染したことを隠す」社会になっていくことのほうがマズい以上、感染者disをやめることと、ただちに生活保障することが大事ですよね。

著名人の罹患や訃報への「悲しみ」と、そうでない大勢の人々への「怒り」がセットになっているのも、やっぱり少し、どうなのかなぁと思います。アンバランスという意味だけでなく、「パンデミックに抗する社会になる」ためには、あまり好ましくない状況だと思います。

ではでは。

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