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私と恋愛② -恋愛に関して思うこと-

前回の記事に引き続いての恋愛話。今回は巷に蔓延る恋愛にまつわるあれこれに対する私の考えを述べていきます。あちらを見てもこちらを見ても恋愛が付いて回るこの社会において、どんなことを思いながら過ごしているのか。その断片をお伝えします。
※なお今回の記事は、(特非)にじいろ学校さんの主催で5/2にtwitter上で行われた #おうちで交流会Aroの部0502 に参加した際の私のツイートとブログ記事の再編となります。

 

恋愛作品に関して

恋愛を題材としたコンテンツは2次元3次元を問わず非常に多く溢れています。たとえそれが主な内容ではなくても、だいたいどこかしらに恋愛の要素が散りばめられていることも多く、恋愛要素が全く無いコンテンツだけを選んでいくことはほぼ不可能と思われます。なので私もコンテンツとして恋愛描写に触れることはありますが、そこに特別心を踊らされはしませんし、恋愛メインのものを進んで視聴することもしないと思います。あくまでファンタジー。共感というよりは一歩引いて見るような感じでしょうか。作品の中で恋愛(厳密に言えば、異性間のモノアモリー)描写がなされること自体は別に何とも思いませんが、それがメインのいわゆるラブロマンスには全く食指が動きませんでした。例えば高校進学後すぐに中学時代の部活メンバーで映画「世界の中心で、愛をさけぶ」を観に行くことになった時は、自分だけ終始乗り気でなかったことを強く覚えています。他のメンバーが皆すすり泣いている中で自分一人だけ冷めていて。自分に引き寄せて感じるものが何もありませんでした

ただ、ここ数年になって異性間のモノアモリー以外の恋愛が描かれた作品も少しずつ触れる機会が増えました。これは恋愛そのものへの興味というよりは、作中の性的マイノリティ描写への関心によります。セクシュアリティについてじっくり考える前だった学生時代に幾つか百合作品に触れたこともありましたが、今思えばそれは(多くの場合読み手が自己を重ねる存在たる)主人公が男性ではない故に惹かれたのかも知れません。恐らく性違和故に、主人公と重ねて自分が男性であることを意識したくなかったのでしょうね。恋愛シミュレーションゲームはプレイできなくてもそれ原作のアニメを観ることができたのは、放送の都合上主人公にキャラ付けがされている=自分に重ねず完全にフィクションと捉えられるからだと思います。

 

嫌悪感の有無

(広義の)アセクシュアル当事者の中には、恋愛や性への嫌悪感を抱く人もいます。自分の場合か他人の場合かによってもその程度は異なり、一律とは必ずしも言えません。私の場合、嫌悪感の程度は上述の恋愛作品・恋愛描写とも関わってきますが、それは恋愛をすることそのものというよりは世間の規範に対してと言えるかも知れません。

まずは恋愛そのものについて。他人の恋愛に対しては特に何も思いません。あなたが恋愛をしたければご自由にどうぞ、関知しませんので。とは言っても、誰かが交際を始めたり結婚したりすること自体はめでたいと感じますし「おめでとうございます」と相手に表明もします。一般に誤解されがちですが、恋愛に関心が無い=冷血というわけではありませんから。但し私の場合、心からめでたいかと言われるとそれも少し違うような気がしています。「恋愛関係の成立や結婚の成就については別に何も思わないが、世間的にめでたいとされることだからそう思い、それを表明することが良しとされるからそうしている」のが私の在り方としてはより正確かと。こう言ってしまうと、関心が無いだけではありますが冷血な所も少なからずあるのかも。

ここまで他人の恋愛について。さて自分の恋愛についてはどうかというと、今まで全く恋愛と縁の無い人生を送ってきたせいか、自分が恋愛と関わること自体が想像できません。積極的に嫌悪とまではいかずとも、恋愛関係や交際は遠い世界の話で自分には無理だなと考えています。自身の生活スタンスとして一人の時間が大事なことに加え、今までの自分自身の人間関係上のパターンを振り返ってみると相手に対する過度な依存やコントロールに走ってしまう懸念があるのが理由です。恋愛ではなくとも親密な関係性において相手の立場を考えず過度に依存したり頻繁に干渉したりしてしまったことへの反省。親しき中にも礼儀あり。依存やコントロールが実母譲りと言っても、行動を起こしているのは私自身なので。

 

嫌悪のありか

さていよいよ、上で匂わせていた規範について。自他の恋愛事情への積極的嫌悪は無い私ですが、強い嫌悪感を抱いているのが恋愛至上主義に対して。Love supremacismではなくromantic love ideology、より厳密にはheteronormativityamatonormativityといった規範への嫌悪ですね。「人は皆異性を愛するのが当たり前である」「一人の人と恋愛し結婚し添い遂げるべきで、それが至上の幸福である」と見なす規範。私が受けてきた言葉や接してきた昭和的(ないし日本会議的)価値観に即して私なりに表してみると、「出生時と反対の性別の一人の相手と恋愛をして結婚して子供を設けることが当たり前」でしょうか。より私の個人的事情に近付けて言うならば「(長)男たる者、とっとと彼女を作って子供を作って家を継げ」。かつて"普通"とされた生き方を当然視して、それができないのは人としておかしいと糾弾する風潮(故に規範なのです)、それを私は憎んでいます。愚痴にもなりますが、原家族には以下の言葉を数えきれない程言われてきており、今もやり取りの中で必ず言われます。『早く彼女を作れ/嫁を貰え』『いい女はいないのか』『もっと積極的に』と。学校や楽団の話をしていた時、テレビドラマや映画で恋愛描写が流れていた時、ドキュメンタリーや旅番組で家族団欒の描写がされた時…恋愛・結婚・家庭が絡む内容や描写に結び付けられては毎度責められてばかりでした。以前実家に泊まった折に夕食時にテレビで時代劇をやっていて、そこで吉原(遊郭)の話が出るシーンがあったんですね。そこですかさず実父から『お前も吉原に行ってみたらどうだ』と言われた時は一番腹が立ちました。私としてはできないものはできないのですが、恋愛を誰もが当然する(べき)ものと考えている人を説き伏せるのは困難を極めるわけで。私のアセクシュアル由来の悩みが以前より減ったのは、偏にこの価値観を持つ原家族の元を離れて一人暮らしをするようになったことが大きい。とは言っても完全に別離できていない都合上、原家族と接する際は悩みとして今も付きまとっています。


パートナー願望

将来のことも含めて当事者界隈で必ず話題に挙がるのがパートナーについて。ロマンティックアセクシュアル(日本で言うノンセクシュアル)の場合は既にパートナーがいる方も少なくないようですね。私はというと、恋愛関係としてのパートナーは現状考えていません。ただ、何らかの繋がれる関係性は追い追い築けていけたらなと思います。関係性の形として例えば友情婚や契約婚が挙げられますが、それよりは緩い関係性の方が私は窮屈に感じないのだろうなと想像します。これもまた界隈でよく言われることですが、当事者やその周辺の”事情をわかっている”人によるシェアハウスやアパートのような住居で暮らせれば、お互いに有事の際も安心できるのではないでしょうか。まぁ、このCOVID禍でなくとも老後を見据えた独りよがりな考えだと自覚はありますがね。同じような考えの”戦友”達と一緒であれば、利害も一致しますし不安も減りますし悪い話ではないと思いますが。

あ、これは完全に私個人の希望ですが、居室単位での一人の空間は必ず確保できる形が良いです。アパートで”戦友”だけの階とか良さそうだ。

 

そもそも恋愛感情とは?

最後に、この究極の命題についても現時点での私の考えを述べておくことにします。どれだけこれを何か統一された基準で測れたら、”無い”をもっと容易に証明できたらと思ったことか。

私は恋愛感情について、「友情や尊敬・人として好きという思いの一歩先にあるもの」なんだろうなと想像します。一歩先というのは、思いの強さとして相手に向かう性質がより具体的且つ強い(しかし優劣ではなく)とでも言いましょうか。矢印の太さというよりは長さ・鋭さ。私にも、尊敬とか推しとか誰かを大切に思う気持ちはあります。私自身はそれを私の中では強い感情だと思って抱えているのですが、交際とかいわゆる"その先"には思い至らないので恋愛感情とは別物なのだと考えます。大切だと感じる相手と一緒に出掛けたり食事したりしたいとは私だって思いますが、"その先"が考えや行程に付随しないのが違いですかね。私は私の楽しみ方で人生を過ごすので、恋愛が無いことで人生の半分~殆どを損しているとは思いません(性別関連では9割以上損をしていますが)。これを性愛者各位には強がりだと捉えられてしまうのが本当に不本意でなりません。何でそんなに恋愛中心に考えられるんですかね。心からそう思っているのか、はたまた強い強い規範を内面化する中で自分が思っている/思わされているとの区別がつかなくなっているのか。

恋愛に限らず、思わされて染みついたことっていつしか自分の心からの考えとごっちゃになってしまうんですよね。その二つがたまたま一致していれば良いのですが、そうでないと”解毒”には長い時間を費やすことになる。「当たり前」「そういうもの」の危うさに思いを馳せつつ、多様な性にYESの日である今日の記事を締めくくることにします。

もしよろしければ、ご無理の無い範囲でお願い致しますm(__)m