私の呪い
人にはそれぞれ、呪いがかかっていると思う。
ひとつの呪いも持たずに生きてきている人はたぶん居ないのではないか。
"呪い"は誰かに言われた言葉だったり生育環境で接してきた"空気"のような曖昧なものだったりする。
かかっている本人もそれが呪いであることに気がついていないことも多い。
私にとって自覚的な呪いは母の言葉である。
母は離婚をしているのだけど、私と妹の娘2人に「結婚はしなくても良かったけど子どもが居て本当に良かった」と言って育ててきた。
まるで母自身に言い聞かせるように。今は少しそう思う。
私はその言葉を内面化し「結婚は失敗しても良いからとりあえず子どもを得たい」と思って生きてしまった。
向き不向きだとか、自分の人生に本当に必要だろうかとか考える暇もなく、「子を得て本当の私の人生が始まる」と思っていた。
正直私の結婚は離婚こそしていないが"成功"ではない。
子が2人居る。本当にかわいいと思う。
けれども私は、冷静に客観的に考えて子育てには向いていないと思う。
私は常に頭の中がうるさく、読んだり書いたり自分の頭の中を整理整頓する静かな時間が人より多く必要だ。
普遍的事実として、子どもというものはうるさい。目を離した隙に命の危険さえ孕む行為に手を出す。如何に室内を安全に保っていようと。
けれど私はインプットとアウトプットに集中してしまうと周りの音がまったく聞こえなくなる。
かつ、集中のスイッチは自分自身で自由自在ではない。それは天候のように唐突で気まぐれだ。
その私の性質と目を離すと途端に死にに行く生きものの相性はとてつもなく悪い。
私は常にキャパシティを超えていて、頭の中の文字がぐるぐる、ぐるぐると次々にネガティブなフレーズを連れてくる。
静かな場所で頭の中を整理整頓する時間が必要だが、子どもの声で満たされた家の中のどこにも"静かな場所"がない。
本当の本当に向いていないと思う。
もっと子を持つことについて自分を客観的に見て考えるべきだったと頭の中の文字が嵐を吹き荒らしている最中に話しかけてきた子どもに対して声を荒らげてしまうたびに思う。
けれど、将来子どもに「子どもが居て幸せか」と問われてしまったら「幸せだ」と返すだろう。「結婚は必要なかったが子がいることは幸せだ」と。
なぜならもう子どもは居るから。
居るものに対して居なかったら良かったとは言えない。
もう産んでしまったから。もう腹の中から出したから。私とは別の人格と自我を持ち、時に笑い時に荒れ狂う子どもはかわいい。もうそこに居るからかわいい。もうそれ以外考えられない。
ただ、子どもに対して呪いにならないようにそれを伝えなくてはいけない。
どうせ社会からたくさんの呪いを受けるであろう小さな我が子の肩に私ができるだけ呪いをのせないように、私は私の呪いから自らの手で少しずつでも自由にならねばならぬのだ。
もうそこに居るいとしい生きもののために。