より良く、もっと良く
登場人物が全員いい人のやさしい世界の物語が好きだ、と思った瞬間に思った、「いい人」って何?
いやー、自分のことをとにかく考えるのが好きなんだな、とは常々思っていたけど、考えるのが好きなのではなく考えてしまう人間なんだろうなと思うようになってきた。
頭が勝手に話題を拾ってずっとバックグラウンドでくるくる動いてる。
さて、話を元に戻して「いい人」とは何か。
私がパッと浮かんだのは「悪意のない人」だった。
悪意のない人、をもっと掘り下げると行動原理に「積極的に他人を害しよう」がない人、かな。
私は自分の頭の中に常に忙しく、あまり他人に興味がないし、面倒くさがりなので人に積極的に嫌われたいわけでもないので「積極的に他人を害しよう」と思ったことは、夫婦喧嘩のときくらいしかない。(あるんかい)
相手を害しようとすることにはとてもエネルギーを使う。
言葉はナイフなんて言うけれど(ちなみに私は小学校4年生のころ、小学校2年生の他人と本気の喧嘩をしたときに「言葉はナイフなんだよ!先生言ってた!」と言われたことがある)、言葉で他人を傷つけよう、痛みを与えようと思ってもそれは中々難しいことなのではないかなと少し思っている。
それは多分私自身に他人の言葉がそれほど響かないからだ。そして自分の言葉が他人に届いている実感が少ないから。
けれどたぶん私が思っている以上に人は他人に言われたふとした言葉が棘のように刺さって抜けないことがある。
そして言葉を使った方も「ああ、今私この人のこと傷つけたな」とわかった瞬間は忘れられなかったりする。まあ、大抵は気が付かないけれど。
悪意がないのは良いことなのか。悪意さえなければ何を言っても良いのか。事実だったら言葉を選ぶ必要はないのか。
すべて否だと思う。「悪意がない」は免罪符ではない。
むしろ自分の悪意に自覚的で言葉を選ぼうと試行錯誤する人の方が「いい人」だろう。
私はわりと自分の悪意に無頓着だな、と思う。
無頓着に先に自分の手持ちのカードを提示して見せて、悪意はないんですよという保険を掛けた上で言葉を発している。
自分が「積極的に他人を害しようとする人間ではない」ことに自覚的であるが故に、思ったことをスルッと言ってしまう。言葉の持つ力にも無頓着だから、スルッと。
そしてそれを「悪意ある言い方するね」と笑われて、悪意なんてないのにと驚く。本当に他人を害する意図はまるでないからだ。
人は結構、言葉の裏を読もうとしている。言葉の裏の意味を深読みして想像して、1に対して10も20も100も勝手に読みとる。
過不足なく受け取ることは難しい。過不足なく伝える言葉を紡ぐことも難しい。
こんな世界の「いい人」は誰?どういう人?
「自分の悪意に自覚的で言葉を選べて、相手の言葉は言葉通りに受け止められる人」なのかな?
いや、むっちゃハードル高くない???
相手は自分の言葉を文字通り受け取らない可能性に留意しながら、相手の言葉は文字通りにしか受け取らないって無理でしょ?
自分の言葉を深読みされる可能性を考えている人は相手の言葉を深読みしすぎる人じゃない??
私はそんな人になれる気はまったくしないので、自分の悪意に自覚的になることから始めよう。チクリと届くことを言わなきゃ気が済まない自分をやめよう。
その上で過不足なく伝えて過不足なく読みとることを頑張ろう。
過分に想像してやるものか!深読みはしない!!今まで通り文字通りにしか受け取らない!!
私は高校生くらいのときから人生の指針が「より良く生きる」である。
高校生くらいのときに市立図書館のヤングアダルトの棚の前で立ち読みした、外国の高僧が日本の中高生にした講演の本を読んだときからだ。
その本の中で高僧は中高生に「妻帯もせず子もなく資産も持たず、何のために生きるのか」と問われていた。
そして答えたのが「より良く生きるために生きている」だった。
それを読んだときから私の指針は「より良く生きる」になった。
今日の私よりも明日の私はもっと良いものにする、と思って生きている。
「より良い自分」になるためには現状を知り、評価し、改善していく必要がある。
今日の私の、現状の自分への気づきは「自分の中の悪意に自覚的でない」だった。
だからこの瞬間からは自覚的に、そして自分の悪意を自分の中でどう処理するのか考えながら生きるのである。
明日の私はきっともっと良い私だと信じているからずっとそれを繰り返して生きる。
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