透明になりたい

私は賢いので人より多くのことに気がついたり、ぼんやりとした不快感を言語化することに長けている、と自分では思っている。
別に本当に賢いわけではなく、ただ単に人より多く自分の裡に生まれた感情に言葉を与えようと試行錯誤してきた時間が人より多く、言葉をこねくり回すことが呼吸のように自然になっているだけである。
ツイ廃の弊害ともいう。

ということで子の学校から配られたプリントへの不快感と不信感と非倫理性に言葉を与えて学校とケンカしてきた。
そしたら担任は「これが最善」と押し切ろうとし、問題を共有し相対した学年主任は責任逃れと問題のすり替えばかりに勤しむので話し合いが終わった瞬間市の教育委員会と問題の共有をしてご賛同いただき、校長と教頭とも話し訂正文書と次年度(つまりこの4月)からの学習方法の見直しの言質をいただいてきた。
我ながら強く賢く美しいムーヴだったと自画自賛している。

こういう実際に行った働きかけやこうして書き記している自画自賛から一般的にプロファイルされる人物像とは異なって、私は本当は透明になりたい。
人間の波の中から浮き上がって目立ちたくない。
面倒なことは人一倍嫌いで、人と話すのは本当にストレスで、可能ならば家から出ないで誰にも会わないで暮らしていきたい。

けれど私は本当におかしいと思うことには黙らない。

誰だって嫌だなと思ったら言っていいのだ。
「私はこう思った」
それに根拠があろうがなかろうが口に出していいのだ。
あなたの感覚はあなただけのもので、あなたが発信しなければ人に知られる機会は永遠に失われてしまう。
人間は多様である。
通ってきた道のりが違う。持っているものが違う。今いる場所が違う。
あなたが思ったことはあなただけが思うことかも知れない。
不特定多数の誰かから多くの支持が得られるものかも知れない。
それを発した結果はただの事実で、それ以上でも以下でもない。

透明になりたい。
出る杭として打たれたくない、ということとは少し違う。
言葉を発するまで、余計な属性を与えられたくないのだ。
女であるとか専業主婦であるとか子どもがいるとか子どもを亡くしているだとか離婚家庭育ちであるとか低体重出生児だったとか若いとか若くないとか美人だとかそうでないとか。
それらの情報と属性が私が発した/発しようとしている言葉とは切り離して話してほしいのだ。
そして実際外に出た言葉だけでジャッジしてほしい。
逆に言うと発した言葉に属性で余計なバイアスを与えられたくないということだ。

属性は浮かび上がる。
それは個として存在が認められているからではない。
私から属性だけを切り取って浮かび上がらせるものが居るのだ。

私という個は、ぼんやりとした感情に言葉を与えることができる。
浮かんだ言葉を人に伝えることを躊躇わない強さがある。
正しいと信じたことを実現するための美しい道筋を描き、その通りに動くことができる。
それらは自画自賛ではあるが今回の動きが結果として示しているただの事実だ。

そんな強く賢く美しい私という個を無視して、駅で不埒な輩に後ろから触られ痴漢されてしまうのだ。
それは私が女という属性だからだ。
だから街中で、駅で、社会で透明になれず、属性だけを客体として消費されてしまうのだ。
その瞬間、私の知性と個性は殺されている。
磨いてきた知と個が属性とそれを消費する存在に殺された瞬間だ。

女はそこに在るだけで女として扱われる。
客体として消費され続ける限り透明にはなれない。
それは個として存在しているからではない。
個が個として存在していることを認められていないから属性が浮かび上がって、幻想と理想と何やかんやが織り交ざった視線に晒され続けるのだ。

透明になりたい。
発した言葉だけでジャッジされたい。
不必要に消費されたくない。

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