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遺伝子の乗りもの

母親と顔が似ている。
父親にも顔が似ている。
妹とは昔は似ていなかったけれど加齢と肉がディティールの差をどんどん埋めてきて、今では道行く人に「双子かな……?」と言われるほど似ている。
そして娘とも顔が似ている。

以前書いた髪を11ヶ月ぶりに切ったという日記で「髪が短くなるとどんどん母に似ていってしまうのでアイデンティティの境界についてバグを抱える私はどんどん落ち込んでいってしまった(ニュアンス)」みたいなことを書いた。
アイデンティティの境界。
遺伝の仕組みを考えると両親に形質が似るのは当たり前だ。
メンデルの豆の研究をぼんやりとしか思い出せない地学選択、大学では文系の私でもなんとなくわかる。

私と母は顔はそっくりだが性質はあまり似ていない。
両親が若いときに生まれた長子であるところの私は小学校の時分から「親は親というだけでただの人間だ」「あの人たちもまだ若いただの他人だ」「もしも同学年で同じクラスに存在していたとしても仲良くなかったタイプ」などと親に対して一線を引き、どうでもいいクラスメイトにするように適当にやり過ごしていた。
「ああ、相容れないな」と思っても衝突を避け、ぶつかって来なかった。
小学校高学年以降親の離婚騒動でそれどころではなかったのこともあるかも知れない。
衝突を避け、自分が"何も言わない"選択肢を取っているにも関わらず、私は時々自らの家庭での異質さに、私の発する言葉の届かなさに泣いた。
こんなにも顔が似ていて性別も同じで同じ家に暮らす1番近くにいる人間とこんなに分かり合えないなんて、私が分かり合える人間などこの世のどこにもいないのかもしれないと泣いていた。
若く、多感な時期のその気持ちが心に澱となって溜まり、それが母と自分のアイデンティティの境界についてのバグになったまま生きてきた。


さて、今。
1人の独立する他であるところの娘の親になっていざ今。
母に顔が似ていることだけがアイデンティティの恐慌であった私に新たな嵐が忍び寄ってきた。
私はあまり自分と娘が似ている自覚がなかった。
これまで娘が"赤ちゃん"で"幼児"だったからもあるかもしれない。
娘は顔を形成するパーツの一つ一つの形自体は夫によく似ている。そしてそのパーツの配置が私に似ている。
人間の遺伝子というものはよくできている。娘は私が母にも父にも似ていたように、私にも夫にも似ている。不思議なことだ。

先日学校へ娘を迎えに行った。いつ終わるかわからないものが終わるのを待つために少し早めに出て30分だろうか、1時間だろうか、私は昇降口で待っていた。
早く終わる日もあれば時間が掛かる日もある。
私は性質的に待つことが苦ではない。昇降口で極力周りの邪魔にならないように待っていた。
途中で学童の担当者に「どなたかお待ちですか?」と聞かれた。言外に長い間そこに居る人間を怪しむような響きと呼んでこようかという提案が見て取れた。
「待ってますが大丈夫です」と私は答えた。待つのが私の仕事ですので放っておいてほしいという念を込めた。
訊いた相手はその後何度か通りかかっても私のことを居ないものと扱ってくれたので念が通じたのであろう。
けれどその後娘がバタバタとカバンについた鈴を鳴らしながら慌てて出てきた。
「今日は遅かったね。難しかったの?終わった?」
私が訊くと娘が「終わってないけど隣のクラスの先生(前述の問い掛けて来た人とは別人。新しい登場人物)がお母さん待ってるよと呼びに来た」と答えた。
ここで私のはらわたは煮えくり返った。
私は!私が顔も知らん奴に!顔だけで!!!娘の親だと認識されている!!!!!

許可なく確認なく勝手に娘に指示を出されるのは待つと決めた私にもやると決めた娘にも失礼じゃないですか???
私と娘の意思と選択と行動を蔑ろにしてませんか???
という真っ当な怒りよりも先に「私は!私が顔も知らん奴に!顔だけで!!!娘の親だと認識されている!!!!!」という衝撃と遺伝子とアイデンティティと生物としての運命に腹を立て、丹田の辺りから熱が生まれていた。
もう嫌だ。

私たちは所詮遺伝子の乗りものなのか?
個は生物としての、生命としての運命には抗えないのか??
どれだけ分かり合えなくても継いできた形質が私と母とそして娘の連続性を否定させてくれないのか!?
もう嫌だ……

どんなに似ていても、母は母だし、私は私だし、娘は娘だ。
けれど形質があまりにも似通っていることが、血の近さが、距離の近さがアイデンティティの境界をバグらせる。
人間と人間同士は隣にいても、宇宙にひしめく恒星同士のように遠いところにいる。
分かり合えなくて当然だし、違って当然だし、近いように見えても遠く、同じように見えても別物だ。
そう思って、言い聞かせて生きている私が、母といると形質が似ていることと属性の共通点の多さにバグってしまう。
本当は私たちは分かり合えるのかもしれない、と。
期待してしまう。
分かり合えないのに。
どうやったって分かり合えるはずがないのに。
似ているから期待してしまう。そして勝手に裏切られたような気持ちになったり、自分がおかしいんじゃないかと思ったり、思わなくていいことを無駄に思ってしまう。
それを私はアイデンティティの境界のバグと呼んでいる。

どうやら私は、私のことを知らないが娘のことを知っている人が一目見ただけで娘の親だと分かるくらいに娘と似ているらしい。
私はそれが怖い。形質の近さと、距離の近さと、属性の近さと、性質の遠さが、考え方の違いが、分かり合えなさが怖い。
親子には適切な距離がある。
私と母の場合、その距離は1000kmだった。
大学進学で移り住んだ縁もゆかりもない場所と実家の距離が私のアイデンティティの境界のバグを癒してくれた。
その距離があって初めて私は「母の娘」ではなく私になれた。
けれど私と娘の距離の近さはあと10年は続く。もしかしたらもっと長いかもしれない。
私は怖い。
私が娘を自分と同一視してしまうことが。娘がかつての私のようにアイデンティティの境界に迷うことが。
怖い。

私たちは遺伝子の乗りものだろうか。
私たちは異なる個として生きられるだろうか。
私たちはアイデンティティの境界に、正しく線が引けるだろうか。
怖がりながら慎重に、異なる個としての生活を積み上げていきたい。少なくとも私は。

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