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泣くは理性の決壊

目の前のコップにもう水が入っていないとしよう。

私自身自分の持ち物であるコップから水がなくなってしまったことに悲しんでいる。

その状態で1分おきに子らから「お母さん水ちょうだい」と声を掛けられ続ける。

子らが腹を満たし喉を潤し眠りにつくまでずっとそれは続く。

私にとっての育児のつらさはそういうものだ。



人間は疲れると感情のコントロールが自分の手元にはない状態になる。

人間は、と主語を大きくしてしまったが少なくとも私はそうだ。

理性も気力なのである。

入ってきた情報を噛み砕き、理性による制御に沿って相手にも理解しやすいようにと返答する。

人間は無意識にそうやって理性に従って他人とコミュニケーションを図っている。

けれど、本当に疲れていて、理性を働かせる気力がカラカラに切れてしまっている状態のときに何かイレギュラーな、手に負えない、キャパシティを超えた情報が入ってくるとパニックになる。

どうするのが最善かわかっていても、最善を尽くすための道のりを歩くための気力がない。

だから感情は最短で出口を探す。

つまり、叫び、怒鳴り、泣く。


私は子どもを産むまでずっと自分を理性的な人間だと思っていた。

それが自分の美点だとすら思っていた。

けれど理性は性質ではないと子どもを産んで知った。

理性は気力で、気力を生み出すのは余裕だ。

子を産み育てるまでの私が理性的な人間だったのは私が環境に恵まれ、時間に恵まれ、生活に適切な気力を保持していただけに過ぎなかった。


子どもの声は聞こえているだけで気力を奪う。

今は笑っていても、いつ状況が変わるか分からないから聞こえているだけで状況を判断し続ける部分の脳を使っている。

部屋に子どもが居る状態で何か作業をするとき、それはすべてマルチタスクとして私の気力をとてつもなく削ぐ。

子らは仲良く遊んでいると思った3秒後に叩いたりつねったり投げたり追い回したり危険が伴う喧嘩を始める。

すると途端に包丁で切っていた人参のことは諦め、仲裁することが私の仕事になる。

夕飯のメニューは一汁一菜の簡単なものだとしよう。

そうだとしても喧嘩のたびに仲裁し、泣いている方を慰め、手を出した方に手を出す前に口で言うのだと伝え、ため息のひとつでもつき自分の作業に意識を戻す、を繰り返すと1時間でも2時間でもいつの間にか時間は消えている。

夕飯のあとは子らをお風呂にも入れなくてはいけない。その後は20時までに布団に寝かせ、21時までには眠らせなくてはいけない。

21時に漸く身体が空いて自分のために時間が使えるようになる。

しかしもう、自分のために何かする気力はない。

延々とTwitterをスクロールし、情報で感情を押し流し、明日のためにMPを回復させようとしてしまう。

それを続けているうちに煌々と明るいスマホの画面にやられ眠れなくなり、HPを回復する時間が減る。

そうやって完全に回復しない時間が子どもを産んでこの方5年半続いている。

自分が声を荒らげるような人間だとは思わなかった。

自分が自分の子に冷たい目を向けるような人間だとは思わなかった。

けれど人間は気力を失い理性のコントロールを失えば、自分でも思ってもない行動にいつでも踏み出してしまう生きものなのだ。

子を育てるなかでそれを知った。


常日頃の状態として低気力で生活を回している私は常に泣きたい。

そして叫びたいし怒りたいし、というかもう怒っている。

社会に対して、政治に対して、全宇宙の事象に対して、怒っている。

私を家に閉じ込め口を塞ぎ、夫を朝から晩まで会社に拘束されていることに、そうやって働かねば生きいけないこの国の在り方に、女を抑圧してきた歴史から完全には解放されていないことに、そういった事象に連なる全ての営みに怒っている。

そして泣きたい。叫びたい。

泣いている私の肩を抱いて、目を見つめ誰かに言って欲しいのだ。

「悪いのはあなたではない」と。

私が今良い人間で居られないのは私の努力が足りないからではなく仕方がないことなのだと、社会が、世界が、全宇宙が、とにかく私のようなちっぽけな人間ただ1人にどうにか出来ることではないのだと誰かに言ってもらいたい。

そう言いながら泣きじゃくる私を抱きしめていて欲しい。

そう思いながらも私は、僅かに残った気力で声を荒らげそうになるのを抑えリビングから一番遠い暗い部屋に閉じこもり、今この文章をしたためているのだ。

今日も明日も、私が泣いても抱きしめてくれる人がいないので。

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