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好きな理由は語るべからず

好きな理由は語ってはならない。

好きな理由を語れば語るほど別のものを好んでもいい理由になってしまう。

例えば、『不思議の国のアリス』のどこが好きなのかと訊かれて、

「大人の女(蝶)として羽ばたく以前の少女(蛹)の話で共感できるから」

と理由を述べれば、別に『不思議の国のアリス』ではなく堤中納言物語の「虫を愛づる姫君」が好きでもよくなってしまう。

「女王が記憶力は過去と未来の2方向に働いていなければならないといい、アリスがまだ起こらないことを思い出すことはできないと答えるシーンが好き。時空が歪んでいてSF感があって好き」と理由を語れば

『あなたの人生の物語』が好きでもよくなってしまう。

他にも、彼氏の好きなところを述べれば述べるほど、別の男でもよくなってしまう。

そう、我々はウィトゲンシュタインが言うように語り得ぬものについては、沈黙せねばならないのだ。

そもそも好きという個人的主観に理由などという客観的論理を持ち込んではならない。

好きに理由はいらないとはよく言ったもので、好きな理由を尋ねるなんてのは野暮である。

しかし、逆に人から好かれる、愛されるためには、好きな理由を語られる時に別の同等なものが出てこない存在になればいいのではないか。

例えば、私は澁澤龍彦が大好きである。

なぜ好きかと訊かれたら、

彼の古今東西の様々な知識に基づく豊富な引用や密度の濃い文体、退廃芸術などの当時異端とされていたものにスポットライトを当てた好事家精神に惚れたからである。

では、上記の理由により描かれる他の人物を想像してみてほしい。

私の知る限りかくなる人物は澁澤龍彦しかいない。

このような唯一性、

これこそ、我々がひとから好かれるために本当に必要なものなのではないか。

これは人に限った話ではない。

芸術作品と呼ばれるものが常に独自のスタイルを作ろうとしていることを踏まえれば、物についても同様である。

物、特に商品などは代替品となるものが多く、唯一性の獲得に向けて日々絶え間ない商品開発の努力が行われている。

では我々ヒトが唯一性を獲得するためにはどうすればいいのか。

あなたらしく生きなさい

と陳腐な言葉で締めるしかないのか。

いや、あなたらしく生きたところで唯一性が見つかる保証もないし、やはり沈黙するしかないのだ。

好きな理由を述べてならない。

好きな理由を訊かれたら、沈黙せよ。







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