凍えるほどにあなたをください
【カクヨムの『同題異話SR』という自主企画のために、指定されたタイトルに沿って書かれた作品です】
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どこでもいいから、ふたりで寒いところへ行こうと思った。
たまたま入った駅前の古い食堂のテレビは、未だにブラウン管で画面の色がところどころおかしかった。そこから流れるニュースは、今年一番の寒波がやってくると告げていた。
幸先がいいと思った。順くんは暑いのが苦手で寒いのが好きだといつも言っていたから、最後のふたりきりの旅にはぴったりだ。
たぬきそばを運んできたおばさんが、私の黒ずくめの姿を不審そうに眺めた。私は急いで熱いそばをかき込むと、うっすら汗をかきながら外に出た。
目の前に駅のプラットホームが、白い電灯に照らされて闇の中に浮かび上がるように見えた。ぽつぽつと冷たい雨が降り始めた。
私は左肩にかけた大きなエコバッグを両腕に抱きしめて、駅に向かった。調べてみると、終点の駅は海に面しているという。ああいいな、それでいい、と思って私はコートのポケットから財布を出し、一番高い切符を買うと電車に乗り込んだ。
「順くん」
エコバッグを叩くと、「むきゅう」という小さな声が聞こえた。私は少し愉快になって、くすくす笑いながら座席に座った。
向い合せになったシートはそのほとんどが空席だった。私は膝の上にエコバッグを置き、そっとジッパーを開けた。真っ白な壺が入っている。今日焼いたばかりの順くんの骨が入っているのだ。
バッグに手を入れて骨壺を揺さぶると、今度は「わうわうわう」というような声がした。一体何を私に伝えたいのかさっぱりわからない。それも仕方ないか、と私はまた笑う。こんな骨になってしまったのだから、うまく話せないのは当然だ。
電車がゆっくりと動き出す。駅のホームと街灯が、民家の灯りが、夜空とシルエットと化した山々がどんどん後ろに流れていく。一度は私たちを都会に連れていってくれた電車が、今日は全速力で反対の方向へと向かう。うまくいかないことばっかりだったね、と骨壺をゆすると、順くんは中で「さわさわ」と言った。私は彼の頼りない笑顔を思い出した。
順くんは私の幼馴染みで、高校一年生からは彼氏になった。その頼りない笑顔そのままのような人だったけれど、私は順くんのことが好きだった。こじんまりと整った優しそうな顔で、猫みたいにほっそりした体つきで、初対面の人とは話せるけれど、誰とも友達にはなれない人。そういう彼のことが何もかも好きだった。
だから都会にだってついていったし、仕事を見つけて働いて家事も全部やった。何をやってもすぐにヘトヘトになって、愚痴をこぼしてばっかりになる弱っちい彼と一緒に暮らすためなら、なんだってやろうと決めていた。
だけど、私ひとりが頑張っていてもどうにもならないことということはあるもので、結局働けなくなった順くんが、ある日突然私を捨てて何も言わずに故郷に帰り、仕事から帰った私はアパートが空っぽに、文字通り空っぽになっていることに気付いた。冷蔵庫も洗濯機も、私の服や化粧品すらもなかった。彼が何もかも売り払って処分してしまったのだなということに気付くのに、たっぷり一時間はかかった。
カーテンすらなくなった窓から西日が差し込んでいた。ああ順くんは明るいのが苦手だったな、と思って、私は唇を血が出るまで噛んだ。
床の上にくちゃくちゃになったレシートが落ちていた。裏に「りっちゃんごめんね」と書かれていた。ごめんねじゃないよ、何がごめんねなんだよ。幸い私の財布も携帯もカードも手元にあったし、一抹の良心なのか通帳と印鑑は押入れの隅っこにまとめて残されていたけれど、私には何もかも失ってしまったという気持ちしかなかった。
電車が聞いたこともない駅に到着し、元々少なかった乗客が降りて、同じ車両にいるのは私と順くんだけになった。
私は窓を大きく開けた。冬の夜の、肌を切るように冷たい空気が流れ込んできて、私は首をすくめた。順くんは壺の中で「ぐにゅー」と言った。きっと寒いのが嬉しいんだなと私は思った。
コートの襟を立てると、寒さは少しだけマシになった。赤ちゃんをゆするように骨壺をゆらゆらすると、壺の中からは「きいきいきいきい」と声がした。今度は何となく不満げだった。この旅が楽しいのは私だけなのかもしれない、と思った。
一人だと広すぎる部屋を引き払い、引っ越して新しい生活を始めるのに、何だかんだ十万円以上が飛んで行った。すべてを失った私にとってそれは結構大きな金額で、そしてそもそもそんなお金を払ってまで順くんがいないこの街にとどまっている必要がない、と気づくまでにまる一年かかった。一年間。その間何をしていたかというと、ただただ何も考えないように過ごしていた。
一年間、私は順くんに連絡ひとつ入れなかった。その代わり、ホームセンターで小さなサボテンの鉢をひとつ買って、その子に、まるで彼にするように話しかけながら毎日を過ごした。自分のことを「おかしい」と疑うためのスイッチが壊れて入らなくなっていた。でも冬のある日、サボテンが腐って死んでいることに気付いて、私はようやく我に返った。サボテンの死因は水をあげすぎたことだった。
アパートを引き払って地元に戻ると、何事もなかったみたいな顔をして生活している順くんがいた。「りっちゃんごめん」と彼は言い、私はただ彼に会えたことが嬉しくて「いいよ」と答えた。私の何がいけなかったのかわからないけど、きっとそれがきっかけだったのだと思う。その晩、順くんは庭の木にロープをかけて首を吊った。
葬儀の夜、彼のお母さんは赤っぽく染めたばさばさの髪をしきりに抓りながら、「迷惑ばっかりかけて」とそっけなく言った。
形ばかりのお葬式にはほとんど参列者がいなかった。何でひとりで死んだりしたの、と思いながら私は読経を聞いていた。死にたいならふたりで暮らしていたときにそう言ってくれたらよかったのに。そしたら私が一緒に死んであげたのに。私たちは世界でたったふたりぼっちで、私は順くんのもの、そして順くんは私のものなんだから、そうするのが一番自然で心地よかったはずなのだ。でも、もしかしたら私がそう思っていただけで、順くんは私のものではなかったのかもしれない。気がつくと私の頬には涙が次から次へと流れて、なかなか止めることができなかった。
家族でも親族でもないのに火葬場についていって骨を拾わせてもらった。現実感がなかった。壺の中に納められているあれは本当に順くんなのかな、と思った途端、閉じられた壺の中から「むきゅう」と声がした。
気が付くと私は喪服のまま、息を切らして駅前の食堂に駆け込んでいた。腕の中には骨壺の入ったエコバッグがあった。
そして今私たちは海へいく電車に揺られている。骨壺は私の胸の中にあるのだから、もう、順くんは私のものだ。
電車を降りると、身を切るような突風が私たちに吹きつけてきた。私は首をすくめ、ぶるぶると震えた。みぞれまじりの雨が降っていた。
駅前は暗かった。自動販売機で温かいお茶を一本買って、一口飲みながら辺りを見回すと、色の剥げたタクシー会社の看板が駐車場のフェンスにくくりつけられているのを見つけた。電話をかけると面倒くさそうな声の女性が出て、一台こちらに向かわせると約束してくれた。
やってきたタクシーのドライバーは、初老の男の人だった。痩せていて顔色が悪かった。「海までお願いします」と言うと、「海のどの辺ですか」と返ってきた。「とにかく海岸ならいいんです」と答えると、ドライバーは私をじろじろ眺めて「何もありませんよ」と言った。それでいいんですと押し切って、私は後部座席に乗り込んだ。タクシーのドアが閉まった。
車の中で私は時々骨壺を揺すりながら窓の外を眺めた。やがてガードレールの向こうに見え始めた海岸は真っ暗だった。ああ本当に何もないな、と思った。骨壺の中から「いいいいぃぃぃ」と甘えるような声が聞こえた。今のはドライバーにも聞こえただろうか、と思ったが、彼は無言で、こちらを振り返りもしなかった。料金を払って車を下りる刹那、ドライバーはしゃがれた声で「バカなことしちゃ駄目だよ」と言った。私は何も言わずに外に出た。
雨はもう完全にみぞれに変わって、びちょびちょと地上に降り注いでいた。露出した両手が真っ赤だった。私はがたがた震えながら海岸へと降りていった。私が震えるのに合わせて、順くんは「むうん」と言ったり「ぎゅいー」と言ったり、なかなか賑やかにしゃべった。
打ち寄せられた流木らしきものに腰かけて、私たちは波打ち際を眺めた。目を凝らしても、ほとんど真っ暗な中に、わずかな光を反射した波がちらちらと光って見えるだけだった。私は夢中で両手をこすりあわせた。死んでしまう、と思うほど寒かった。
エコバッグの中から骨壺を取り出して、砂の上に置いた。蓋をとる。
「順くん」
順くんは何も言わなかった。それもそうか、と私は思った。今まで聞こえていた声はきっと私の錯覚だったんだろう。ただ彼がそこにいるような感じがほしくって、ひとりぼっちのアパートでサボテンに話しかけていたときみたいに、私はひとり芝居をしていただけなんだろう。
「ねぇ順くん、順くんは私のものだよねぇ」
波の打ち寄せる音だけが響いた。
私は冷たい壺の中に手を入れると、さらさらとこぼれる灰をひとつかみ取り出して口に含んだ。灰は喉の奥に貼りつき、私は激しくむせながらさっき買ったお茶を取り出して、もう冷えてしまった苦い液体で、順くんを私の中に流し込んだ。彼の頼りない笑顔を思い出した。
順くん。
とうとう私のものにならないままお骨になってしまった順くん。
今更こんなことをしたって、もうどうにもならないとわかっているのに、それでもこうしなければならない私のことを、どう思うだろう。
もうひとつかみ灰を口に詰め込んで、お茶で流し込んだ。冷たい塊が食道を通って胃に落ちていく、その動きがはっきりとわかった。凍える体を励ますように、私は骨壺を胸に抱いた。
それからゆっくりと立ち上がって、真っ暗な波打ち際へと歩いて行った。