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詩人は遍在する 本の話7番目

 谷川俊太郎さんが、2024年11月13日になくなって、ぼんやりしています。詩集は実家に置いてあって、あれこれと読み返したりできなくて、「とまれ喜びが今日にすむ」と、冒頭1行を思い出す詩のタイトルや詩集の名前をネットの海の波なみに探したりしています。たくさんのインタヴュー記事などがあり、たくさんの短歌が寄せられているのも、読むことができました。私の覚えている1行で始まる詩のタイトルは「木陰」。詩集は『六十二のソネット』。「若い陽のこころのままに」「食卓や銃や」「神さえも知らぬ間に」と続きます(すみません、縦書にできなくて)。この詩を引用して記述されている人も思ったより多くいらして、同じものが心に残っている人に遠くからそっと、「私も、わたしも好きです」と言いたい気持ちです(届かないけど)。
 最後の連の「私の忘れ」「私の限りなく憶えているものを」「陽もみつめ」「樹もみつめる」まで来て、詩の中で木陰で空を見上げていた私の視線も、陽射し(木洩れ日?)と木陰を作っている樹とに戻ってくるようで、光あふれるなかで空と地上を往還する喜び、一人でいるけど世界に肯定されている幸せ、「二十億光年」の遠さをを知りながら淋しくない、そんな気持ちを思いだして、それは谷川俊太郎の世界のエッセンスの一滴ではないか、と思ったりするのです。
 谷川俊太郎さんの詩の話がなんで7番目の本の話になるかというと、『散文』(晶文社、1972年)がなぜか、遠い昔に実家から持ってきた引っ越し荷物の思い出箱の中からでてきたのですね。つい読み返し始めてしまったのですね。詩を読んで純粋に追悼する、という行いと違って、なんだか申し訳ない。でも、私は、堀内誠一さんの挿絵の『マザー・グースのうた』(草思社、1988年)の翻訳も、ピーナッツのコミックの翻訳も大変好きで、『散文』を読んで、若いころの谷川俊太郎さんの身の回りのことも読むのが好きです。追悼の文章の「三好さん」は、三好達治のことだろうか。「はるかなるものみな青し」「海の青はた空の青」とうたったこの詩人と、似ているところがあるなあ、と思ったりしました。そうだ、この二人の詩を読んでいると、「憧憬」(ここは、しょうけい、と読んで)という言葉がぴったりな、なにか飛びたつような心持がしたんだ(若かったので・・・)。
 谷川俊太郎さんはたくさんの詩や翻訳を残して去ってしまわれたけど、好きな人の心に時を超えて遍在し、人の世の現身を脱ぎ捨てて不死になったような気さえする。谷川俊太郎さんが、三好さんがいなくなったあとに「この世から、三好さんは消失したのでもないし、脱落したのでもない、むしろ亡くなってはじめて本当に所を得て、三好さんはこの人間の世界にいるのです」(『散文』p.97)と書いたその言葉は、そのまま谷川さんご自身に贈られる言葉でもあるように思います。(ライフクリエイト工房様からお借りしました、空の画像です。飛行機の翼が映っているのが、素敵です)。
 
 

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