重大な過ち
私が今回ブログを書き始めたのは、最初に書いたように
「人生が終わるときに、今回も良い人生だったな」と思いたいからだった。
しかし、この発想自体がそもそも重大な過ちの一歩だったようだ。
自分にとっての幸せと成功とは何か?を言語化するというミッションを掲げそのために色んなことをこの数日で考えていた。
成功:ある達成が困難な目的を達成した状態。または、社会的に高い地位や役職を得た状態。
これはネットで調べた際に出てきた言葉の定義の一つだ。
前者の定義によると
この目的とは何か?を自分で持っている必要がある。
目的がそもそもなければ成功の状態に辿り着くことはできない。
また後者の社会的に高い地位や役職になったら成功と言えるのか?
これについても、社会的に高い地位につきたいと思っている人(出世したい人)なら成功となるが、目立ちたくない人や、人の上に立つことが嫌な人にとっては成功とは言えないのではないか?むしろ嫌な状態に陥る不幸なことになるのでは?
また、ある人の話の中で、「成功はツールで、幸せは目的」という言葉があった。
確かに上記の推察からしても、成功自体が目的になることはあり得ない。
もしも、私が成功と幸せを手に入れたいなら
まずは私自身の「幸せ」とは何か?を明確にしなければその先に進めないということだ。
なぜなら、さっきの成功の定義が人によって違うように、幸せの感じ方もまた人によって大きく異なる。
これについては昔から思うことがあった。
ある友人の幸せのカタチ
私の仲の良い友人の1人の話。
彼女はしっかりしているし、真面目で、努力家。
争いごとは好まず、楽しい、柔らかい空間をつくるのが上手な人だ。
彼女からハッとさせらることがあった。
大学4回生のとき、就職活動をしていた頃。
私たちは中流大学で、私自身が大学受験を失敗したというコンプレックスのようなものがずっとあり、なんとかして少しでも良い企業に入りたいと思っていた。
そのために世間一般でいう就職戦争に必死に取り組み、業界研究や企業研究、多くの面接練習などすごく活発に活動していた。
そんな私を見て、周りの友人も刺激を受け毎日頑張っていた。彼女も努力家で、自分の志望する業界に就職すべく努力していた。
そんな日々が続いたある日、彼女はプッツリと力を無くしていってしまった。
必死で大手に入ることが自分の幸せなのかに疑問を抱き、それ以上に、現時点で精神面で非常に自分に負荷をかけ心と体があげている悲鳴を聞き、今までの就職活動の取り組み方を変えたのである。
私は彼女の性格を知っているからこそ、もう少し頑張れば、きっと良い企業に入れると思い一緒に頑張ろうと声をかけたが、それは彼女の幸せとはイコールではなく、何よりも彼女は「今」を精一杯生きていたのだ。
その後知り合いのツテもあり、大手の企業に就職した彼女。もちろん業務内容としては本当に望むものではなかったようだけど、希望する業界に就職し、大変ながらも、またその時、その時を必死に生きてきた。
そしてその後の希望異動が通り、また「今」に正直に生きている。
彼女は恋愛に対しても同じように向き合う人だった。
淡い期待を未来にまで抱き続けるのではなく、現実を見て、自分の思いに向き合うから、恋愛における関係性もその時々で自分の意思で決定していった。
彼女に以前、「あなたにとっての幸せってどんなこと?」
と聞いたことがある。その言葉が2つ目のハッとしたこと。
『私にとっての幸せは、お金持ちになるとか、仕事でバリバリ出世するとかじゃないみたい。私にとっての重要なことは、大切な人たち、好きな友達、家族と、一緒に過ごせること。だから、頑張っている人がいたらその人の幸せのために応援したいし支えたりしたい。自分が必死で頑張っていたら、自分のことでいっぱいで、好きな人たちを応援できないから。今自分の心は疲弊している。そうやって入った会社ではきっと自分より優秀な人がたくさんいてもっと頑張らないとと思ってもっと心が疲弊してしまう。それは私に向いている仕事ではないと思うから、自分のペースで頑張ろうと思う。』
彼女の幸せは自分の所謂世間一般でいう社会的な地位の獲得ではなく、人が中心でさらに自分がメインで動くのではなく、活発に動く人を支えることにあるらしかった。
私はこの言葉を聞いて自分の成功と幸せについてなんだったんだろうという気持ちでいっぱいになった。
未来に目がいき、今を置き去りにしていないか?
彼女はしっかり今を生き、現実に向き合っているからこそ、彼女は彼女にとって唯一のしっかりとした幸せの定義を持っていた。
改めて「幸せとは何か?」を考えた時に、彼女の言葉からもそうだが、1人では決してなることができない状態だと確信した。
一緒に楽しい時間を過ごせる友人、家族、尊敬できる人々。楽しい時間だけでなく、苦しい時を共に乗り越える仲間、応援してくれる人たち。そういった存在がなければ人は孤独で、何も幸せなんか感じることはできやしない。
また、未来のことばかり考えて計画して、どうすれば未来が良くなるのかを必死に考えても決して未来は約束してくれない。
明日生きている保証もないし、偶然生きていたとしても思い描いた通りの未来が実現できるなんてことはない。すごく当たり前のことなのに、未来は予測不可能で、不確定のものであることをツイ忘れ、計画が上手くいくようにという今の願いや現在の想いに時間を費やしているだけだった。
仕事をしていても良くわかる。
今月のスケジュールを立てて、1週間ですることをピックアップして、期限を設けて実行しているのにも関わらず、思った以上に時間がかかったり、横槍の仕事がどんどんやってきて、最初に立てたスケジュールなんてめちゃくちゃに乱されている。
それでもタイムマネジメントだ!といって、なんとか効率よく仕事を捌きたい!という思いが毎回、毎回、同じことを繰り返す。
結果、振り返ってみたら計画を立てた時間だけがもったいなく感じる。
ここで冒頭に戻るが、私は初めてのブログに「人生の最後に今回も良い人生だったな」と思って次の人生に行きたいと書いている。でもこれこそが、「良い人生」を決して実現不可能なものにする最大の要因であった。
なぜなら、
ずっと「不確定な未来の私に想いを馳せ、さらにはその不確定な未来の自分に今を振り返えらせる」というなんとも時空を歪めた考え方をしていて、全く今に向き合っていなかったから。
これでは決して幸せを手に入れることはできない。
人生における目的はみんな幸せになること。一人一人の幸せの価値観は違うので、それぞれに価値観を明確にするとより幸せの状態がはっきりしてくる。
それには今と向き合うことが必要不可欠で、不確定な未来にどれだけ想いを馳せても無意味なのだ。
ということは、
良い人生だったと思いたいなら、毎日、いつもどこでも、今を生きることで幸せを感じられることで、幸せの連続が良い人生になっていくのではないだろうか。
私の思う幸せとは、彼女の真似のように思うかもしれないが、きっと人類みんな共通している。
幸せと成功とは
好きな人、尊敬する人、大切に思う人たちと一緒に生き、また自分もその仲間や家族や、友人たちから大切に思われ、相互に良い影響を与えられる関係性であること。
そして、そんな人たちと過ごす時間を最大限に費やし、楽しさや喜び、またはそれぞれの思う人生の使命を達成するために協力し、お互いを本当の意味で応援すること。
それが今思う人生の幸せであり成功である。